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タチアオイが咲いた道で [草花]

先日、梅雨の中休みで、青空が広がった日に、栃木市の郊外を散策した。
その時、川辺の小路の両側に、タチアオイの色とりどりに咲いている風景に、暫し立ち止まって、その鮮やかな花の姿をカメラに収めてきた。
タチアオイの咲く風景1.jpg
私が子供の頃には、家の周りでも良く見られたタチアオイの花も、殆ど見なくなっている。
私の住む箱森町辺りも、どんどん田んぼが宅地化され、住宅地に変わって来ている為かもしれない。
タチアオイの咲く風景2.jpgタチアオイの咲く風景3.jpg
タチアオイが咲き出すと、「ああ、夏だな」と、感じる。その季節感が失ってきたような。
タチアオイ赤.jpgタチアオイ白.jpgタチアオイピンク.jpg
今、目の前には色とりどりのタチアオイ。
田園風景.jpg
周囲の田んぼは、田植えが終わている。夏本番までもう少しです。
太平連山.jpg
太平山と田園風景、何時まで見られるのか。
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栃木の街中で目に留まる巨木を探してみた [歩く]

一人でただブラブラと街中を歩いても疲ればかり感じてしまうので、歩く動機付けで、目に留まる巨木を探して見る事にしました。
大きな木が有る所と言えば、先ず考えられる場所は「公園」。
そこで早速向かったのは、旭町神明宮の南隣の「第二公園」、この公園の真ん中辺りに1本の巨木が立っています。高さはそれほどでは有りませんが、枝を四方に広げてボリューム感が有ります。
私は植物の名前を殆知りませんが、幸い脇に名前が表示されています。「くすのき」です。
第二公園のくすのき.jpg楠木の案内板.jpg

この「くすのき」は、いつごろここに植えられたものでしょうか。
私がまだ小さいころは、この場所で夏には盆踊りが行われていました。サーカスが来てここに大きなテントを張っていました。あの頃はこの「くすのき」有ったのだろうか。ここは小学生の私も良く遊びに来た所ですが、ひょうたん池や、その東側の築山の木に登ったり、神明宮裏の公園に有ったお店でもんじゃ焼きを食べたり、ともかく神社の周りを走り回っていました。忘れられないのは神社の北西側に有った遊園地、4・5種類の乗り物が有った。でもこの「くすのき」の記憶は全く無いのです。
 
次に、市街地に有る公園と言えば、巴波川左岸に平成3年2月に完成した室町の「うずま公園」。この公園にも大きな木が複数植えられていますが、目に留まるのは川の直ぐそばでスラット真直ぐに天に向かて伸びる1本の木です。残念ですが周辺にこの木の名前を記したものが見当たりません。「杉」でしょうか。この木、以前年末にLED電球によりクリスマスツリーの様なイルミネーションになってもいました。
うずま公園1.jpgうずま公園2.jpg
<LED電球で飾った写真は、平成24年12月に撮影したものです。>
この公園には他にも大きな木が目に留まりました。噴水池もあり、遊具やベンチも整備されていて、市民の憩いの場になっています。

外に大きな木が見られる街中の公園としては、少し市街地から離れますが、城内町にある「栃木城址公園」が有ります。栃木第四小学校の東側に残る館城の跡に整備された公園で、現在土塁と堀の一部が整備されて残っており、その脇に大きな木が、目に留まりました。
栃木城址公園.jpg

他に大きな目立つ木と言えば、入舟町の栃木市立文学館(元栃木町役場庁舎)の脇に聳える「ヒマラヤ杉」でしょうか。
市立文学館脇のヒマラヤ杉.jpg

街の中を歩いていると、「え! こんな所に」と思うのが、室町の若松理容所の脇の路地を西に少し入った道路脇に1本のイチョウの木が有ります。
若松理髪店裏.jpg室町のイチョウの木.jpg

そしてもう一ヶ所、倭町の大通りに面した「LA PORETビル」の裏手に立つ木。
倭町の木.jpg

更に、本町の個人のお屋敷の敷地中に、ボリューム満々の巨木が、目に留まります。
本町の巨木.jpg
住宅地の中にこれは目を引きます。欅の木でしょうか。

最後は嘉右衛門町に有る欅の巨木になります。代官屋敷で知られる岡田嘉右衛門邸の庭の北東隅に聳える巨木です。
岡田嘉右衛門邸内の欅.jpg樹齢500年の欅.jpg
この欅は、栃木の街中に有って唯一、市の天然記念物として指定された木に成ります。
その全景をなかなか写す事が出来ません。幹の根元に「欅・樹齢500年」と記したプレートが有りました。写真は以前見学した際に、撮影したものです。今回は裏手の道から確認してきました。

この日歩いた歩数は、14,261歩になりました。





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懐炉灰の思い出 [懐かしい写真]

少し前の事です。「歴史と文化を歩く会ー栃木ー」の会長さんから一つの情報が入りました。
「栃木市新井町の赤津川近くに、かつて懐炉灰の原灰を製造していた跡が残っているから、見に行きませんか。」と。

新井町は私の母方の祖母の生まれた所で、私も子供の頃から母に連れられて、良く行っていました。
私が中学生の頃に撮影した、新井町の風景写真がアルバムに残っています。
1965年12月撮影新井町.jpg
この写真は1965年12月頃に撮ったもので、手前に広がる収穫を終えた田んぼの先に、藁ぶき屋根と思われる農家が見えます。写真右手に懐炉灰の原料となる「オガラ」が高く積まれています。
撮影した頃の私は、それが何であるか知ることは有りませんでした。

「オガラ」を広辞苑で引いてみると、「苧殻」や「麻幹」の漢字で表されています。「オガラ」は、麻の皮を剥いだ茎の部分になります。現在「オガラ」の現物を見られるのは、盂蘭盆の際に迎え火や、送り火として焚く為、スーパーマーケットなどで、盆前に店頭に並ぶ「お盆セット」の中に入っている、軽い木質の棒のようなものです。

私のアルバムの中に再びその「オガラ」の山が写っている写真が見えるのは、1977年12月です。新井町の瓦製造の写真を撮影した時の事、近くに見えた「オガラ」の山をカメラに収めたものです。
1977年1月撮影新井町 (1).jpg1977年1月撮影新井町 (3).jpg
その時も、なぜここに「オガラ」が積まれているのか分かっていませんでした。

今回、それらの写真の謎が解けたのでした。そこには、この「オガラ」を焼いて、懐炉灰の原灰を製造する作業場が有ったのでした。
その現地を見学に行くと、作業場は既に廃業されていて、その原灰を製造する為、オガラを焼いた窯跡(窯と言っても地面に直径90cmほどのコンクリート製円筒管を埋めて作られた穴)が、コンクリートの土間に12か所残されていました。その穴も既に土に埋まっていましたが、2列に6か所並んでいるのが確認できます。
2023年4月21日撮影懐炉灰の原灰製造跡.jpg

かつて、この場所で、どのような製造工程で、どのような作業が行われて、「オガラ」が「原灰」に変わるのか、もう見る事は出来ません。

私の懐炉灰の思い出は、更に遡り小学校低学年の頃に有りました。我が家の近くに「懐炉灰屋さん」と呼ばれる家が有りました。開け放たれた工場の窓の中に、何やら機械が並び、おばさんたちがそこで作業をしていました。細長い紙筒に黒い粉末を詰めていました。
私は近所の仲間たちと連れだって、というか、まだ私は小さかったので、上級生らに連れられて、その工場の隅で、懐炉灰を詰めた紙の筒を化粧箱に並べて入れる作業をしてました。そして帰りにお小遣いの5円玉を手にして帰りました。その作業はそれほど長い期間では無く、一時の記憶として残っているだけです。

もう、60年以上も昔の記憶です。が、今もその時の光景が甦ってきました。
栃木市史によると、栃木市のカイロ灰工業は、昭和20年まで全国生産の95パーセントをほこっていたと言います。しかし、「使いすてカイロ」が出てきた事で、カイロ灰式の懐炉はすっかり姿を消しました。



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栃木市薗部浄水場を見学してきました。 [建物]

先日、栃木市の市街地家庭に生活用水を供給している、薗部浄水場を見学してきました。普段はなかなか見る事が出来ない施設の為、とても良い経験でした。
旧栃木市の水道事業が創設されたのは、今から丁度60年前、昭和38年12月28日との事。
栃木市内では、その前の年に平井町簡易水道事業により、太平山に水道が引かれています。が、市内では「少し掘ると美味しい水を得ることが出来る。」と言われていました。
しかし実態は、その当時市内を流れる巴波川などは、生活排水等が流入し、汚染が進行して周辺の井戸水は飲料に適さない水質になって来ていた時期でした。
巴波川(1967年撮影).jpg
<1967年巴波川の川面に出来た模様。汚れた川が作ったアートとして撮影しました。>

実際に上水道工事が開始されたのは昭和39年度からで、四ヵ年継続、総工費は2億4,100万円となっていました。
私は丁度その頃、永野川に架かる上人橋を渡って、栃木工業高校に通学をしていました。その当時は私の通学路の直ぐ脇で、このような浄水場の建設が始まっていたのは、全く知りませんでした。
昭和41年(1966)頃に錦着山の山頂から永野川の上人橋を撮影した写真を見ると、浄水場の姿は有りません。が、細かく見ていくと、現在の浄水場の建つ場所付近に、何やら工事をしている様子が写っていました。
1966年永野川・上人橋(錦着山頂より撮影).jpg
<1966年に撮影しました。現在住宅地となっている巴波川右岸も、水道山も、まだ何も無い状態でした。>

別の角度から撮影した写真には、その当時の浄水場の建物や、何と今回見学で見る事が出来た、第一水源の取水ポンプ配管が、露出して写っている写真も有りました。もちろんこれらの写真を撮影した時は、何を建てているのか、知るわけも有りませんでしたが、偶然です。
1966年4月撮影1.jpg
<同じく1966年撮影。錦着山をバックに浄水場の建物が手前に写っていました。>

1966年4月撮影.jpg
<上と同じ日に撮影。上人橋の左岸橋詰より、浄水場の建物を写す。建物の手前に取水ポンプの配管が見えます。>
取水ポンプ.jpg第一水源建屋.jpg
<今回見学会で案内された、薗部浄水場の第一水源の室内と建屋外観>
薗部浄水場の水源は、現在5ヶ所有るそうで、浄水場敷地内の第一水源の建屋内の取水ポンプ配管を見る事が出来ました。直径5m厚さ50cm、高さ12mの鉄筋コンクリート管を地中に埋め、2台の取水ポンプで自動取水しています。薗部浄水場の水源は10mという浅井戸方式との事。
周辺には、他の水源施設が見られます。
第4水源.jpg第5水源.jpg
<錦着山の北側、田んぼの中の第4水源と、赤津川左岸皆川街道脇の第5水源施設。>

2018年10月に、錦着山上から同様に、永野川の上人橋を撮影した写真が有りました。1966年の写真と同一場所からでは無いので、少しアングルが異なりますが、周辺の状況を見ると、大きく様変わりしている事が分かります。約50年間の時代の変化を改めて実感できます。
永野川・上人橋(2018年10月撮影).jpg
<上人橋は広く新しくなっています。1974年に架けられ、その後下流側に有った旧橋も撤去されました。>
永野川右岸に有った栃木市営の流水プールも、とうに閉鎖して今は住宅地となっています。その西側の山の上に大きな円筒のタンクが2基写っています。薗部浄水場の「配水池」です。
浄水場にて殺菌消毒をされた水は、送水ポンプにてこの配水池に送られます。その送水管は浄水場の「浄水池」から永野川の河床下を通って送られているそうです。
次亜塩素酸ナトリウム槽.jpg浄水池(側面より).jpg
<原水を殺菌消毒する為の「薬品タンク」、殺菌消毒された水道水を貯水する「浄水池」>

送水ポンプ(陸上型).jpg
<浄水池の北隣、浄水場管理棟内で、防水扉の有る室内に設置されている「陸上型送水ポンプ」>
送水ポンプと配水池.jpg
<浄水池の水中に設置された、「水中型送水ポンプ」。写真奥の山上に「配水池」が見えます。>

写真の様に、薗部浄水場には地上に設置して、配水池まで水道水を送り出す「陸上型送水ポンプ」と、水中に設置して送水する「水中型送水ポンプ」をそれぞれ2基設置されています。
これは、万一の場合でも、支障が出ない様にしている為で、それは水源の「取水ポンプ」も先程の「薬品タンク」も「浄化池」も、そのほとんどの施設が、並列運転をされているそうです。

なんとその送水管の口径は70cm、送水能力は毎時400トン。配水池には7,000トンの水道水が配水前に貯水され、標高の高い山上に設置された配水池により、自然流下方式で、その重力によりポンプを使用しないで配水しています。ただし、自然流下方式では配水できない標高の高い地域には、「増圧ポンプ」で圧力を加えて送り出す施設を、それらの地域には設置されています。
配水池.jpg
<「配水池」を近くで見ると、その大きさを実感できます。>
ここに蓄えられた水道水が、私たちの家庭に送られています。

平成の大合併により、1市5町が一緒になった新生栃木市では、平成26年12月1日に、新しい「栃木市水道事業」を創設(計画給水人口:145,500人。計画一日最大給水量:70,700㎥)しています。
現在、栃木市内の水道施設は、下記の状況になっています。
   ①水源(取水施設)・・・・・・・・・・・56箇所
   ②浄水場(浄水施設)・・・・・・・・・・18箇所
   ③配水場(配水施設)・・・・・・・・・・・9箇所
   ④増圧ポンプ場(配水施設)・・・・・・・14箇所
   ⑤水道管路(配水施設)・・・・1,196.7km
そして、栃木市上下水道局庁舎本館にある、中央監視室に置いて、市内18箇所の浄水場全ての情報を確認出来る様になっているそうです。
中央監視室.jpg
<中央監視室内には、多くのモニター画面が切り替えて確認出来る様になっているそうです。>

私達も、もっと水を大切に利用して行かなければと、感じました。
水を大切にしよう。.jpg

※今回の参考資料:見学会に際して配布された、栃木市上下水道局作成の資料になります。
         添付写真は全て私自身の撮影によるものです。

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