懐炉灰の思い出 [懐かしい写真]
少し前の事です。「歴史と文化を歩く会ー栃木ー」の会長さんから一つの情報が入りました。
「栃木市新井町の赤津川近くに、かつて懐炉灰の原灰を製造していた跡が残っているから、見に行きませんか。」と。
新井町は私の母方の祖母の生まれた所で、私も子供の頃から母に連れられて、良く行っていました。
私が中学生の頃に撮影した、新井町の風景写真がアルバムに残っています。
この写真は1965年12月頃に撮ったもので、手前に広がる収穫を終えた田んぼの先に、藁ぶき屋根と思われる農家が見えます。写真右手に懐炉灰の原料となる「オガラ」が高く積まれています。
撮影した頃の私は、それが何であるか知ることは有りませんでした。
「オガラ」を広辞苑で引いてみると、「苧殻」や「麻幹」の漢字で表されています。「オガラ」は、麻の皮を剥いだ茎の部分になります。現在「オガラ」の現物を見られるのは、盂蘭盆の際に迎え火や、送り火として焚く為、スーパーマーケットなどで、盆前に店頭に並ぶ「お盆セット」の中に入っている、軽い木質の棒のようなものです。
私のアルバムの中に再びその「オガラ」の山が写っている写真が見えるのは、1977年12月です。新井町の瓦製造の写真を撮影した時の事、近くに見えた「オガラ」の山をカメラに収めたものです。
その時も、なぜここに「オガラ」が積まれているのか分かっていませんでした。
今回、それらの写真の謎が解けたのでした。そこには、この「オガラ」を焼いて、懐炉灰の原灰を製造する作業場が有ったのでした。
その現地を見学に行くと、作業場は既に廃業されていて、その原灰を製造する為、オガラを焼いた窯跡(窯と言っても地面に直径90cmほどのコンクリート製円筒管を埋めて作られた穴)が、コンクリートの土間に12か所残されていました。その穴も既に土に埋まっていましたが、2列に6か所並んでいるのが確認できます。
かつて、この場所で、どのような製造工程で、どのような作業が行われて、「オガラ」が「原灰」に変わるのか、もう見る事は出来ません。
私の懐炉灰の思い出は、更に遡り小学校低学年の頃に有りました。我が家の近くに「懐炉灰屋さん」と呼ばれる家が有りました。開け放たれた工場の窓の中に、何やら機械が並び、おばさんたちがそこで作業をしていました。細長い紙筒に黒い粉末を詰めていました。
私は近所の仲間たちと連れだって、というか、まだ私は小さかったので、上級生らに連れられて、その工場の隅で、懐炉灰を詰めた紙の筒を化粧箱に並べて入れる作業をしてました。そして帰りにお小遣いの5円玉を手にして帰りました。その作業はそれほど長い期間では無く、一時の記憶として残っているだけです。
もう、60年以上も昔の記憶です。が、今もその時の光景が甦ってきました。
栃木市史によると、栃木市のカイロ灰工業は、昭和20年まで全国生産の95パーセントをほこっていたと言います。しかし、「使いすてカイロ」が出てきた事で、カイロ灰式の懐炉はすっかり姿を消しました。
「栃木市新井町の赤津川近くに、かつて懐炉灰の原灰を製造していた跡が残っているから、見に行きませんか。」と。
新井町は私の母方の祖母の生まれた所で、私も子供の頃から母に連れられて、良く行っていました。
私が中学生の頃に撮影した、新井町の風景写真がアルバムに残っています。
この写真は1965年12月頃に撮ったもので、手前に広がる収穫を終えた田んぼの先に、藁ぶき屋根と思われる農家が見えます。写真右手に懐炉灰の原料となる「オガラ」が高く積まれています。
撮影した頃の私は、それが何であるか知ることは有りませんでした。
「オガラ」を広辞苑で引いてみると、「苧殻」や「麻幹」の漢字で表されています。「オガラ」は、麻の皮を剥いだ茎の部分になります。現在「オガラ」の現物を見られるのは、盂蘭盆の際に迎え火や、送り火として焚く為、スーパーマーケットなどで、盆前に店頭に並ぶ「お盆セット」の中に入っている、軽い木質の棒のようなものです。
私のアルバムの中に再びその「オガラ」の山が写っている写真が見えるのは、1977年12月です。新井町の瓦製造の写真を撮影した時の事、近くに見えた「オガラ」の山をカメラに収めたものです。
その時も、なぜここに「オガラ」が積まれているのか分かっていませんでした。
今回、それらの写真の謎が解けたのでした。そこには、この「オガラ」を焼いて、懐炉灰の原灰を製造する作業場が有ったのでした。
その現地を見学に行くと、作業場は既に廃業されていて、その原灰を製造する為、オガラを焼いた窯跡(窯と言っても地面に直径90cmほどのコンクリート製円筒管を埋めて作られた穴)が、コンクリートの土間に12か所残されていました。その穴も既に土に埋まっていましたが、2列に6か所並んでいるのが確認できます。
かつて、この場所で、どのような製造工程で、どのような作業が行われて、「オガラ」が「原灰」に変わるのか、もう見る事は出来ません。
私の懐炉灰の思い出は、更に遡り小学校低学年の頃に有りました。我が家の近くに「懐炉灰屋さん」と呼ばれる家が有りました。開け放たれた工場の窓の中に、何やら機械が並び、おばさんたちがそこで作業をしていました。細長い紙筒に黒い粉末を詰めていました。
私は近所の仲間たちと連れだって、というか、まだ私は小さかったので、上級生らに連れられて、その工場の隅で、懐炉灰を詰めた紙の筒を化粧箱に並べて入れる作業をしてました。そして帰りにお小遣いの5円玉を手にして帰りました。その作業はそれほど長い期間では無く、一時の記憶として残っているだけです。
もう、60年以上も昔の記憶です。が、今もその時の光景が甦ってきました。
栃木市史によると、栃木市のカイロ灰工業は、昭和20年まで全国生産の95パーセントをほこっていたと言います。しかし、「使いすてカイロ」が出てきた事で、カイロ灰式の懐炉はすっかり姿を消しました。