栃木市木野地町の東善光寺に戻った「奇跡の梵鐘」 [梵鐘]
栃木市の市街地中心から北北西に直線距離で約4.5キロメートル。吹上地区の吉野工業所の展望台が建つ鴻巣山の東麓。南流する赤津川に架かる「如来橋」の上から西方に目を向けると、石段を登った小丘の上に朱塗りの山門が望まれます。目的の東善光寺の仁王門です。
車で行くと、赤津川の右岸の土手上の道を北上、途中道路左手に「下野二十三番札所・伊吹山観音堂」。その前を抜けると「如来橋」。その西橋詰から左折して土手から少し下って行く細い道路を進みますと、東善光寺仁王門へ向かう石段の前に出ます。車はそのまま仁王門に向かって左脇を迂回する急な上り坂を進み境内に入ることが出来ます。参道を進み本堂の手前で右折。本堂北側に広い駐車スペースが有りますのでそこに車を止め、鐘楼へ向かいます。
上の鐘楼の写真は、私が2013年に初めて訪れた時に撮影をしたものですが、現在は少し様子が変わっています。最近の写真も載せてみます。
これまでの鐘楼の直ぐ脇に、ひとまわり以上小さな建屋が建てられ、以前鐘楼に吊られていた緑青で変色した梵鐘が移動して、現在鐘楼には新しい梵鐘が設置されています。
ここはまず、緑青により全体が青緑色の古い梵鐘の確認をしていきます。前回定願寺に有る「平等庵の鐘」の時と同様に、平面展開図を作成してそれに基づいて見ていきたいと思います。
前回の「平等庵の鐘」は周囲が五等分される珍しい鐘でしたが、この鐘は縦帯が4本で十字に4等分されたよく見る梵鐘の形です。「池の間」に梵鐘の銘が刻まれています。
4等分された「池の間」に、撞座から時計回りに「第一区」「第二区」「第三区」「第四区」と番号付をして、「第一区」から表示内容を見ていきます。
まず「池の間、第一区」です。
冒頭の「下之野刕」の刀3つの漢字は調べてみると、「州」の意味で使われたもので、「下野国」を表した言葉の様です。続く「都賀郡木野地村」そして「天神山東善光寺」はそのままです。
次に「池の間、第二区」を見てみます。
どのように読んで良いのか分かりませんが、字面から何となく意味を推測することが出来ます。
文末の日付け「元禄三稔庚午」とは、西暦1690年と成りますから、前回の「平等庵の鐘」の100年前に造られた鐘と言う事になります。
「池の間、第三区」を見てみます。
ここには、この鐘を寄進した施主。武蔵国江戸牛込の住民「内木氏重兵衛富吉」をはじめ、この鐘を作った天命鋳物師三名の名前等が記されています。
ちなみに「池の間、第四区」には、何も刻されていません。
この東善光寺の鐘も、先の戦争の「金属回収令」により、当然ですが供出されています。こうして改めてこの梵鐘を見てみると、造られてから330年もの歳月が経っているにしても、相当形状がいびつになっています。おそらく供出の後、ぞんざいに扱われていたことを物語っている様に思われます。それでも奇跡的に生き延びていたのです。
鐘楼の石段の右脇に、古い苔むした石碑が建てられています。何とか碑文を読むと、冒頭に鐘に刻まれた銘と同じ内容の文字が石碑にも刻まれています。石碑が建立されたのは、「昭和十七年十一月三日」と記されています。この梵鐘を供出したのは1年前の昭和十六年十二月一日、「鐘音離郷の挙式」を行っています。
この内容については、「目で見る栃木市史」の「とちぎの仏閣・東善光寺」の中に記されています。その説明文は次のように結んでいます。
≪ふるさとより江戸に出て苦心の末成功したであろう人物のこの記念物が失われたことは残念である。≫と。
ところが、残念では無かったのです。今こうしてその梵鐘が、今から330年も昔に造られた天明鋳物師による梵鐘が、目の前に吊り下げられているのですから。
鐘楼の石段の左脇に、平成4年3月吉日に建立された、新しい石碑が建てられています。
石碑の題名は「梵鐘帰郷・鐘楼建立記念之碑」と有ります。戦争中に供出して、すでに溶かされて無くなってしまったと思われていた梵鐘が、故郷に帰って来たいきさつが、碑文に記されています。
発見をした人は、佐野市犬伏下町在住の郷土史研究家、高橋久敬さん。発見された場所は、遠く離れた北陸の地、石川県富来町の浄土真宗恵光寺。昭和63年3月10日と記されています。
先の「目で見る栃木市史」が発行されたのは昭和53年3月の発行ですから、まだ発見される前の事でした。
まさに、奇跡の梵鐘と言えるでしょう。
元禄三年(1690年)に産声を上げたこの梵鐘は、その後明治・大正・昭和・平成の激動の時代に、翻弄されつつも、令和の今、安寧の土地に戻り、鐘楼には新しい梵鐘が後を継ぎ、その脇で静かに余生を送っています。
平成二十七年二月二十七日、栃木県指定有形文化財と成って、後世にその姿を残す事と成りました。
車で行くと、赤津川の右岸の土手上の道を北上、途中道路左手に「下野二十三番札所・伊吹山観音堂」。その前を抜けると「如来橋」。その西橋詰から左折して土手から少し下って行く細い道路を進みますと、東善光寺仁王門へ向かう石段の前に出ます。車はそのまま仁王門に向かって左脇を迂回する急な上り坂を進み境内に入ることが出来ます。参道を進み本堂の手前で右折。本堂北側に広い駐車スペースが有りますのでそこに車を止め、鐘楼へ向かいます。
上の鐘楼の写真は、私が2013年に初めて訪れた時に撮影をしたものですが、現在は少し様子が変わっています。最近の写真も載せてみます。
これまでの鐘楼の直ぐ脇に、ひとまわり以上小さな建屋が建てられ、以前鐘楼に吊られていた緑青で変色した梵鐘が移動して、現在鐘楼には新しい梵鐘が設置されています。
ここはまず、緑青により全体が青緑色の古い梵鐘の確認をしていきます。前回定願寺に有る「平等庵の鐘」の時と同様に、平面展開図を作成してそれに基づいて見ていきたいと思います。
前回の「平等庵の鐘」は周囲が五等分される珍しい鐘でしたが、この鐘は縦帯が4本で十字に4等分されたよく見る梵鐘の形です。「池の間」に梵鐘の銘が刻まれています。
4等分された「池の間」に、撞座から時計回りに「第一区」「第二区」「第三区」「第四区」と番号付をして、「第一区」から表示内容を見ていきます。
まず「池の間、第一区」です。
冒頭の「下之野刕」の刀3つの漢字は調べてみると、「州」の意味で使われたもので、「下野国」を表した言葉の様です。続く「都賀郡木野地村」そして「天神山東善光寺」はそのままです。
次に「池の間、第二区」を見てみます。
どのように読んで良いのか分かりませんが、字面から何となく意味を推測することが出来ます。
文末の日付け「元禄三稔庚午」とは、西暦1690年と成りますから、前回の「平等庵の鐘」の100年前に造られた鐘と言う事になります。
「池の間、第三区」を見てみます。
ここには、この鐘を寄進した施主。武蔵国江戸牛込の住民「内木氏重兵衛富吉」をはじめ、この鐘を作った天命鋳物師三名の名前等が記されています。
ちなみに「池の間、第四区」には、何も刻されていません。
この東善光寺の鐘も、先の戦争の「金属回収令」により、当然ですが供出されています。こうして改めてこの梵鐘を見てみると、造られてから330年もの歳月が経っているにしても、相当形状がいびつになっています。おそらく供出の後、ぞんざいに扱われていたことを物語っている様に思われます。それでも奇跡的に生き延びていたのです。
鐘楼の石段の右脇に、古い苔むした石碑が建てられています。何とか碑文を読むと、冒頭に鐘に刻まれた銘と同じ内容の文字が石碑にも刻まれています。石碑が建立されたのは、「昭和十七年十一月三日」と記されています。この梵鐘を供出したのは1年前の昭和十六年十二月一日、「鐘音離郷の挙式」を行っています。
この内容については、「目で見る栃木市史」の「とちぎの仏閣・東善光寺」の中に記されています。その説明文は次のように結んでいます。
≪ふるさとより江戸に出て苦心の末成功したであろう人物のこの記念物が失われたことは残念である。≫と。
ところが、残念では無かったのです。今こうしてその梵鐘が、今から330年も昔に造られた天明鋳物師による梵鐘が、目の前に吊り下げられているのですから。
鐘楼の石段の左脇に、平成4年3月吉日に建立された、新しい石碑が建てられています。
石碑の題名は「梵鐘帰郷・鐘楼建立記念之碑」と有ります。戦争中に供出して、すでに溶かされて無くなってしまったと思われていた梵鐘が、故郷に帰って来たいきさつが、碑文に記されています。
発見をした人は、佐野市犬伏下町在住の郷土史研究家、高橋久敬さん。発見された場所は、遠く離れた北陸の地、石川県富来町の浄土真宗恵光寺。昭和63年3月10日と記されています。
先の「目で見る栃木市史」が発行されたのは昭和53年3月の発行ですから、まだ発見される前の事でした。
まさに、奇跡の梵鐘と言えるでしょう。
元禄三年(1690年)に産声を上げたこの梵鐘は、その後明治・大正・昭和・平成の激動の時代に、翻弄されつつも、令和の今、安寧の土地に戻り、鐘楼には新しい梵鐘が後を継ぎ、その脇で静かに余生を送っています。
平成二十七年二月二十七日、栃木県指定有形文化財と成って、後世にその姿を残す事と成りました。
栃木市定願寺の梵鐘 [梵鐘]
今回は、久々に「お寺の鐘」の話題です。
栃木市旭町に有る天台宗の古刹「順禮山 修徳院 定願寺」。
この山門を潜り境内に入り、正面の本堂に向かって左手側に鐘楼が建っています。
鐘楼の前に栃木市教育委員会に依る、説明文が掲示されています。文字がかすれて来ていますが、何とか内容を読み取ることが出来ました。説明文に依ると、ここに吊られている梵鐘は、「平等庵の鐘」と称して、栃木市の指定有形文化財と成っているようです。
(定願寺鐘楼堂) (「平等庵の鐘」説明板)
≪鐘の作者は佐野の丸山善太郎、彫工師は栃木町の志鳥源助・平田幸助。製作年代は寛政四年(1792年)十一月である。栃木町の円説、三説、渡辺三左ヱ門、田村弥四郎、高山市兵衛、早乙女源太郎等が施主となって造ったもので天命鋳物の逸品である≫と記されています。
この釣り鐘、外観形状的には他の寺院の物と同じ様ですが、一つ大きく違うところが有ります。
鐘身の外面には縦横に帯状の線が付けられ、その線に依って大きさや長短の異なる方形の区画が形成さえています。この区画構成されたものを、袈裟襷と称しますが、現在市内で見る多くの梵鐘は、円周上を4本の縦帯によって4等分されたものがほとんどです。
それが、この定願寺に有る「平等庵の鐘」は、縦帯が5本になっています。即ち円周上を5等分してあるのです。
写真では5等分されている状態が確認できない為、鐘を真上から見た平面展開図を描いてみました。
円形の中心部に「竜頭」、これは鐘の上部に設けられた半環状の懸吊構造部の事で、「竜頭」は俗称で、蒲牢(ほろう)と言うのが正しい名称だそうです。その竜頭が付いている鐘の上部部分を「笠形」、その部分から放射状に5本の帯が伸びています。これが袈裟襷の縦帯になります。展開図には分かりやすいように①から⑤の番号を付しています。
鐘身はこの5本の縦帯によって5等分されています。縦帯に区画された部分で、上部(笠形の下)は「乳の間」と称する部分で、多くの梵鐘はこの部分に「乳」と称する規則正しく配列された突起物が付いています。
しかしこの「平等庵の鐘」の乳の間には、乳では無く分割された5つの区画にそれぞれ異なった梵字が1字づつ蓮台に乗った形で陽鋳されています。
(乳の間A) (乳の間B) (乳の間C) (乳の間D) (乳の間E)
これら5つの梵字、どう読むのか、どのような意味が有るのか、私には分かりません。
その「乳の間」の下(展開図では外側)の、ほぼ方形の区画は「池の間」と称されていますが、この区画に銘文が陰刻されています。展開図のAからEの区画です。
このうちAからCの3つの区画にはビッシリと梵字が陰刻されています。刻されているのは「不動明王陀羅尼経」になります。
(池の間C) (池の間B) (池の間A)
「池の間B」の一部を拡大してみましょう。
まるで象形文字の様な梵字が並んでいます。全く読み解くことは叶いません。
「池の間」の残り2区画、DとEには陀羅尼経功徳文が、漢文体にて陰刻されています。
(池の間E) (池の間D)
漢文体の文章を読解する事は苦手ですが、一文字一文字と漢字を拾っていくことは私にも出来ます。その結果を次に添付致します。
(縦帯②) (池の間E) (縦帯①) (池の間D) (縦帯⑤)
「池の間」Eの文末に、≪武州江府宝林山霊雲寺第七世 芯芻霊驎欽■≫と見えますが、ここに有る「武州」とは、かつての武蔵国の別称。現在の東京都埼玉県のほとんどの地域、及び神奈川県の川崎市・横浜市の大部分を含みます。次の「江府」とは、江戸の異称になります。
「宝林山霊雲寺」は、現在の東京都文京区湯島に有る、真言宗霊雲寺派総本山の寺院で、元禄4年(1691)、浄厳律師覚彦により創建されたお寺。この第七世の芯芻霊驎(しんすうれいりん)が撰文した「陀羅尼経功徳文」。書いた人物は、「野州元吉田黄梅」(河内郡南河内村吉田の黄梅寺)の第四世見龍(けんりゅう)で、梵鐘の縦帯②部分に、その名が刻まれています。
又、縦帯⑤の部分に「當庵施主」として、圓説・渡邊三左衛門・渡邊甚右衛門・三説・田村弥四郎・小林源太郎・高山市兵衛・上原忠兵衛・早乙女源太郎の名前が、認められます。
この「平等庵」、明治4年の廃仏毀釈によって取り壊された、本町に有った寺院です。現在も杢冷川に架かる「本橋」の近くに、「平等寺」と書かれた扁額を掲げた堂宇が建っています。
この「平等庵の鐘」には、「この鐘銘をすべて読むと死ぬ」とか、「この鐘のまわりを三回まわると死ぬ」という恐ろしい伝承が残っています。
私もこの伝承を気にして、調査の時の鐘楼のまわりを3回まわる事の無い様注意をしていました。
この梵鐘も戦争中に供出されそうになったそうですが、足利市の丸山瓦全や栃木市の高田安平らの運動によって、供出を免れたと言います。貴重な栃木市の文化財です。
参考資料:目で見る栃木市史・フリー百科事典「ウィキペディア」霊雲寺及び梵鐘・
新訂梵鐘と古文化(坪井良平著)・(株)老子製作所ホームページ
栃木市旭町に有る天台宗の古刹「順禮山 修徳院 定願寺」。
この山門を潜り境内に入り、正面の本堂に向かって左手側に鐘楼が建っています。
鐘楼の前に栃木市教育委員会に依る、説明文が掲示されています。文字がかすれて来ていますが、何とか内容を読み取ることが出来ました。説明文に依ると、ここに吊られている梵鐘は、「平等庵の鐘」と称して、栃木市の指定有形文化財と成っているようです。
(定願寺鐘楼堂) (「平等庵の鐘」説明板)
≪鐘の作者は佐野の丸山善太郎、彫工師は栃木町の志鳥源助・平田幸助。製作年代は寛政四年(1792年)十一月である。栃木町の円説、三説、渡辺三左ヱ門、田村弥四郎、高山市兵衛、早乙女源太郎等が施主となって造ったもので天命鋳物の逸品である≫と記されています。
この釣り鐘、外観形状的には他の寺院の物と同じ様ですが、一つ大きく違うところが有ります。
鐘身の外面には縦横に帯状の線が付けられ、その線に依って大きさや長短の異なる方形の区画が形成さえています。この区画構成されたものを、袈裟襷と称しますが、現在市内で見る多くの梵鐘は、円周上を4本の縦帯によって4等分されたものがほとんどです。
それが、この定願寺に有る「平等庵の鐘」は、縦帯が5本になっています。即ち円周上を5等分してあるのです。
写真では5等分されている状態が確認できない為、鐘を真上から見た平面展開図を描いてみました。
円形の中心部に「竜頭」、これは鐘の上部に設けられた半環状の懸吊構造部の事で、「竜頭」は俗称で、蒲牢(ほろう)と言うのが正しい名称だそうです。その竜頭が付いている鐘の上部部分を「笠形」、その部分から放射状に5本の帯が伸びています。これが袈裟襷の縦帯になります。展開図には分かりやすいように①から⑤の番号を付しています。
鐘身はこの5本の縦帯によって5等分されています。縦帯に区画された部分で、上部(笠形の下)は「乳の間」と称する部分で、多くの梵鐘はこの部分に「乳」と称する規則正しく配列された突起物が付いています。
しかしこの「平等庵の鐘」の乳の間には、乳では無く分割された5つの区画にそれぞれ異なった梵字が1字づつ蓮台に乗った形で陽鋳されています。
(乳の間A) (乳の間B) (乳の間C) (乳の間D) (乳の間E)
これら5つの梵字、どう読むのか、どのような意味が有るのか、私には分かりません。
その「乳の間」の下(展開図では外側)の、ほぼ方形の区画は「池の間」と称されていますが、この区画に銘文が陰刻されています。展開図のAからEの区画です。
このうちAからCの3つの区画にはビッシリと梵字が陰刻されています。刻されているのは「不動明王陀羅尼経」になります。
(池の間C) (池の間B) (池の間A)
「池の間B」の一部を拡大してみましょう。
まるで象形文字の様な梵字が並んでいます。全く読み解くことは叶いません。
「池の間」の残り2区画、DとEには陀羅尼経功徳文が、漢文体にて陰刻されています。
(池の間E) (池の間D)
漢文体の文章を読解する事は苦手ですが、一文字一文字と漢字を拾っていくことは私にも出来ます。その結果を次に添付致します。
(縦帯②) (池の間E) (縦帯①) (池の間D) (縦帯⑤)
「池の間」Eの文末に、≪武州江府宝林山霊雲寺第七世 芯芻霊驎欽■≫と見えますが、ここに有る「武州」とは、かつての武蔵国の別称。現在の東京都埼玉県のほとんどの地域、及び神奈川県の川崎市・横浜市の大部分を含みます。次の「江府」とは、江戸の異称になります。
「宝林山霊雲寺」は、現在の東京都文京区湯島に有る、真言宗霊雲寺派総本山の寺院で、元禄4年(1691)、浄厳律師覚彦により創建されたお寺。この第七世の芯芻霊驎(しんすうれいりん)が撰文した「陀羅尼経功徳文」。書いた人物は、「野州元吉田黄梅」(河内郡南河内村吉田の黄梅寺)の第四世見龍(けんりゅう)で、梵鐘の縦帯②部分に、その名が刻まれています。
又、縦帯⑤の部分に「當庵施主」として、圓説・渡邊三左衛門・渡邊甚右衛門・三説・田村弥四郎・小林源太郎・高山市兵衛・上原忠兵衛・早乙女源太郎の名前が、認められます。
この「平等庵」、明治4年の廃仏毀釈によって取り壊された、本町に有った寺院です。現在も杢冷川に架かる「本橋」の近くに、「平等寺」と書かれた扁額を掲げた堂宇が建っています。
この「平等庵の鐘」には、「この鐘銘をすべて読むと死ぬ」とか、「この鐘のまわりを三回まわると死ぬ」という恐ろしい伝承が残っています。
私もこの伝承を気にして、調査の時の鐘楼のまわりを3回まわる事の無い様注意をしていました。
この梵鐘も戦争中に供出されそうになったそうですが、足利市の丸山瓦全や栃木市の高田安平らの運動によって、供出を免れたと言います。貴重な栃木市の文化財です。
参考資料:目で見る栃木市史・フリー百科事典「ウィキペディア」霊雲寺及び梵鐘・
新訂梵鐘と古文化(坪井良平著)・(株)老子製作所ホームページ
白旗山勝泉院の梵鐘 [梵鐘]
栃木市湊町の天台宗の寺院、白旗山勝泉院は我家の菩提寺です。このブログ「巴波川日記」の最初の出だしは、「堂々巡り」と称して、都賀三十三薬師霊場や近隣の寺院仏閣をテーマに書き始めました。そしてその第一回目がここ「白旗山勝泉院」を取り上げました。それから早いもので5年以上経ってしまいました。
今回、久しぶりにこちら「白旗山」の梵鐘を取り上げてみたいと思います。
私が昭和43年(1968)に撮影した写真を、現在と比較してみると、本堂の佇まいは今も昔も変わっていません。
(現在の本堂の写真と比較すると、以前は向拝部に鰐口が有りませんね)
鐘楼も昔のままです。
(山門・本堂の屋根・鐘楼そして白旗八幡宮の伽藍配置は変わっていません、唯手前の畑が駐車場に変わり、周囲に垣根がもうけられています。手前の松の木が大きくなってきて、鐘楼が隠れて来ています。)
実は今回梵鐘を調べて分かったのですが、この鐘楼は私が写真を撮った4年前の、昭和39年8月に梵鐘と合わせて新装なったばかりだったのです。
梵鐘に刻まれた銘によると、それ以前は太平洋戦争の際に梵鐘は供出されて無かったのでした。それを当院開祖慈覚大師の一千百年御遠忌を迎えるのに合わせ、当時のご住職の発願と檀信徒の皆さんの力添えで、鐘楼の新築と梵鐘の鋳造を成し遂げたと有ります。
梵鐘を見ていきます。近くに見る事が出来ませんので、カメラの望遠機能を利用して確認しました。
(手前に撞木、梵鐘中央に仏様の姿)(撞木の反対側、撞座上方に南無阿弥陀佛の文字)
撞木を受ける撞座の上方に、阿弥陀来迎図でしょうか、後光を背に仏様が浮き彫りされ、左右には紫雲がたなびき、天女でしょうか飛んでいます。又、その180度反対側の撞座上部に南無阿弥陀佛の文字が確認出来ます。
前回ブログに書いた「近龍寺の石造りの梵鐘」では、梵鐘周囲を縦横十字に分割をする「袈裟襷」や「乳の間」「乳」「縦帯」など、今回の梵鐘には有りません。ただ「乳の間」に相当する、梵鐘上部周囲四か所に、それぞれ縦横3列に「輪宝」9個を配したデザインになっています。
「南無阿弥陀佛」の文字の両側には、梵鐘銘が施されています。
(梵鐘銘の前半部分)
(梵鐘銘の後半部分)
手前の手摺りで隠れてしまう文字も有りましたが、見る位置を変えて何とか全体を確認することが出来ました。ただ一部、ハッキリとしない文字が有り、推量で判断しましたので、間違っているかも知れません。そこはご容赦願います。読み取った「梵鐘銘」を書き写しました。
この梵鐘銘そして中央の「南無阿弥陀佛」の文字も、第251世天台座主大僧正周湛さんの揮毫になります。
そして、この梵鐘の制作者(鋳匠)は、香取正彦さんです。この人物は、日本の鋳金工芸作家で、昭和52年(1977)、梵鐘の分野で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されています。
この、香取正彦さんが制作した梵鐘は、栃木市周辺では鹿沼市北半田の医王寺(昭和53年制作)や、佐野市金井上町の惣宗寺(通称、佐野厄よけ大師)の金銅大梵鐘(昭和59年制作)などが有ります。
(鹿沼市北半田、医王寺の梵鐘) (佐野市金井上町、惣宗寺の金銅大梵鐘)
広島平和記念公園にある「平和の鐘」も香取正彦さんが昭和39年9月に制作したものです。実に白旗山の梵鐘と同じ年に制作されています。
今年の1月に私もこの「平和の鐘」を撞いて来ました。
(広島市平和公園の「平和の鐘」鐘堂)(「平和の鐘」、鐘の表面に国境のない世界地図が)
白旗山の梵鐘の音色、まだ聞いた事が有りません。今度機会が有ったら是非聞いてみたいと思います。
今回、久しぶりにこちら「白旗山」の梵鐘を取り上げてみたいと思います。
私が昭和43年(1968)に撮影した写真を、現在と比較してみると、本堂の佇まいは今も昔も変わっていません。
(現在の本堂の写真と比較すると、以前は向拝部に鰐口が有りませんね)
鐘楼も昔のままです。
(山門・本堂の屋根・鐘楼そして白旗八幡宮の伽藍配置は変わっていません、唯手前の畑が駐車場に変わり、周囲に垣根がもうけられています。手前の松の木が大きくなってきて、鐘楼が隠れて来ています。)
実は今回梵鐘を調べて分かったのですが、この鐘楼は私が写真を撮った4年前の、昭和39年8月に梵鐘と合わせて新装なったばかりだったのです。
梵鐘に刻まれた銘によると、それ以前は太平洋戦争の際に梵鐘は供出されて無かったのでした。それを当院開祖慈覚大師の一千百年御遠忌を迎えるのに合わせ、当時のご住職の発願と檀信徒の皆さんの力添えで、鐘楼の新築と梵鐘の鋳造を成し遂げたと有ります。
梵鐘を見ていきます。近くに見る事が出来ませんので、カメラの望遠機能を利用して確認しました。
(手前に撞木、梵鐘中央に仏様の姿)(撞木の反対側、撞座上方に南無阿弥陀佛の文字)
撞木を受ける撞座の上方に、阿弥陀来迎図でしょうか、後光を背に仏様が浮き彫りされ、左右には紫雲がたなびき、天女でしょうか飛んでいます。又、その180度反対側の撞座上部に南無阿弥陀佛の文字が確認出来ます。
前回ブログに書いた「近龍寺の石造りの梵鐘」では、梵鐘周囲を縦横十字に分割をする「袈裟襷」や「乳の間」「乳」「縦帯」など、今回の梵鐘には有りません。ただ「乳の間」に相当する、梵鐘上部周囲四か所に、それぞれ縦横3列に「輪宝」9個を配したデザインになっています。
「南無阿弥陀佛」の文字の両側には、梵鐘銘が施されています。
(梵鐘銘の前半部分)
(梵鐘銘の後半部分)
手前の手摺りで隠れてしまう文字も有りましたが、見る位置を変えて何とか全体を確認することが出来ました。ただ一部、ハッキリとしない文字が有り、推量で判断しましたので、間違っているかも知れません。そこはご容赦願います。読み取った「梵鐘銘」を書き写しました。
この梵鐘銘そして中央の「南無阿弥陀佛」の文字も、第251世天台座主大僧正周湛さんの揮毫になります。
そして、この梵鐘の制作者(鋳匠)は、香取正彦さんです。この人物は、日本の鋳金工芸作家で、昭和52年(1977)、梵鐘の分野で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されています。
この、香取正彦さんが制作した梵鐘は、栃木市周辺では鹿沼市北半田の医王寺(昭和53年制作)や、佐野市金井上町の惣宗寺(通称、佐野厄よけ大師)の金銅大梵鐘(昭和59年制作)などが有ります。
(鹿沼市北半田、医王寺の梵鐘) (佐野市金井上町、惣宗寺の金銅大梵鐘)
広島平和記念公園にある「平和の鐘」も香取正彦さんが昭和39年9月に制作したものです。実に白旗山の梵鐘と同じ年に制作されています。
今年の1月に私もこの「平和の鐘」を撞いて来ました。
(広島市平和公園の「平和の鐘」鐘堂)(「平和の鐘」、鐘の表面に国境のない世界地図が)
白旗山の梵鐘の音色、まだ聞いた事が有りません。今度機会が有ったら是非聞いてみたいと思います。
近龍寺境内片隅に置かれた、石造りの梵鐘 [梵鐘]
栃木市の市街地中心部にある浄土宗の古刹、三級山近龍寺。
(浄土宗の寺院、三級山近龍寺の本堂。栃木市指定文化財になっています。)
その境内の片隅、鐘楼に向かって左手奥、枝振りの良い松の木の下で、枝に隠れる様に置かれた、石造りの梵鐘が有ります。
(鐘楼、その向かって左手奥、松の木の下に石造りの梵鐘が置かれています)
近くに寄って見ます。形状的には一般的ですが、吊る場合は上部の竜頭の両脇にフックを掛ける金具がついています。高さは竜頭部も含めて約130センチメートル程度でしょうか。
(松の木の下、宝篋印塔と並ぶ、石造りの梵鐘) (梵鐘の高さは、竜頭上部まで約130㎝)
鍾身の袈裟襷は、水平方向に上帯・中帯・下帯の三本、垂直方向に四本の縦帯で円周上に四分割しています。正面の縦帯には、「三級山近龍寺」と陽刻され、その下に蓮華文の撞座が施されていますが、この撞座の位置は通常縦帯と中帯の交点に有るのが一般的です。
乳の間には一区画に縦横五列で、25個の「乳」と呼ばれる丸い突起が、規則正しく配列されて、円周上に四区画有りますから、合計百個になります。通常は他に縦帯の上部に2個の乳を付けて、総計百八個という煩悩の数と同じになっているようです。
乳の間の下側、池の間と称する部分に、何やら文字が陰刻されていますので、円周上時計回りに確認をしていきます。
(正面から撮影、縦帯に山号と寺号) (左隣の池の間①に刻まれた文言)
当寺の山号・寺号の有る縦帯に向かって左隣の池の間(説明上、第1区とします)に刻された文字は、右から左に
「梵誉 三誉 名誉」 と住職さんの名前(誉号)でしょうか、3名並んでいます。
「鋳物師大工 野村惣兵衛 藤原久信 同名 六郎兵衛」と、鋳物師3名の名前が並ぶ。
「元禄十丁丑歳十月二十七日」 日付けです、西暦では1697年12月10日になります。
「高五尺 口經二尺五寸七分」 鍾身の寸法で高さ約151cm、直径が約78cmです。
「重量五二二瓩」 重量は522kg
「供出價額四百六十四円五十銭」 求めに応じて差し出した時の金額464円50銭。
次、左隣の池の間(第2区)には文字は確認されません。更にその左は正面の縦帯の180度反対側に当たりますが、その縦帯には「南無阿弥陀佛」の文字が陽刻されています。その下方中帯との交点に撞座が付いています。これは一般的な位置になります。
(縦帯部分に「南無阿弥陀佛」と陽刻) (池の間③の左端に日付け等陰刻有り)
更に左に回り込み、池の間(第3区)を確認します。その池の間の左端に文字が陰刻されています。
「昭和十八年十月二十七日」 この日付、梵鐘を供出した日か、このレプリカの完成日か。
「近龍寺第二十六世鏡誉」 昭和18年10月27日当時の住職さんでしょうか。
次の池の間(第4区)、ここは最初の正面縦帯の右隣に位置する区域です。
(正面縦帯の右隣、池の間④に整然と陰刻された文言)
この池の間(第4区)に陰刻された文字は、以下の通りです。
經白
天下和順日月清明
風雨以時災厲不起
國豊民安兵才無用
崇徳興仁務修禮譲
頌白
一聴鍾聲當願衆生
脱三界苦速證菩提
これらの文の意味を、Web版「新纂浄土宗大辞典」に求めました。
まづ「經白」の部分については、「祝聖文」として記されていました。その意味の部分を抜粋させて頂きます。
≪天下は太平であり、日と月は清らかに明るく照らし、風と雨も時に応じ、災害と疫病も起きず、国は豊かに人々は安らかに過ごし、兵や武器を用いる争いごともなく、人々は徳を崇め仁を尊び、務めて礼儀と謙譲の道を修めます。≫という意。
又、「頌白」の部分については、「聴鐘声功徳文」の解説に有りましたので、その意味の部分を抜粋させて頂きます。
≪ひとたび鐘の音を聴けば、人々共に三界の苦しみを脱して、速やかに悟りを成就することを願う。≫との意。
これで一周し、全て確認出来ました。
以上の内容より、私が思うに、この石造りの梵鐘は、昭和18年の第二次世界大戦時に出された「金属類回収令」により、供出を余儀なくされた際、近龍寺の関係者の方々が、せめてその姿を残そうと石を刻んで造ったレプリカと考えます。寸法的には元の梵鐘の方が、記された寸法より判断すると、一回り大きかったと思われます。
ここで、現在鐘楼に設置されている梵鐘についても確認しておきます。
ただ、鐘楼にのぼることは出来ませんので、下から確認できる範囲で、調べてみます。
(近龍寺鐘楼で毎朝6時に、時を告げる梵鐘)
(撞木を受ける撞座の有る縦帯部分) (撞木の反対側の縦帯部分)
撞木の有る部分に写る縦帯部分には、中央に「三級山 近龍寺」と大きく陽刻され、その右側に「昭和三十一年八月」の日付け、そして左側に「第二十六世 鏡誉」の名前(誉号)が同じく陽刻されています。
昭和18年、戦争の為に供出され、終戦後11年新しい梵鐘を迎えられたことに成ります。どちらも近龍寺第26世住職、鏡誉さんの時でした。
その縦帯の左隣の池の間に、「善野佐治平」「岡田嘉右衛門」等々発起人の名前が陰刻されています。
又、その180度反対側縦帯部分には、「南無阿弥陀佛」と大きく陽刻され、その右隣池の間には石造り梵鐘にもあった「經白」以下の「祝聖文」が、又、左隣の池の間には、同じく「頌白」以下の「聴鍾声功徳文」が、陽刻されています。この部分が梵鐘の正面に当たるのかもしれません。
(正面より左側面の縦帯部分) (鍾身の上部、竜頭部分)
側面に当たる縦帯部分に「鋳物師高松市藤塚町 多田丈之助宗春」の名前が陽刻されています。
鐘楼の天井に設置した金属の吊り具が、梵鐘の上部笠形をしっかりと銜えこんだ竜頭の穴に通されています。見ているとここだけで良く重い鍾身を壊れずに支えているなと感心します。
乳の数も縦帯の上部にそれぞれ2個付いていて、総数で煩悩の数と同じ108個に成っています。
外にも池の間の一区画に文章の様な物が陰刻されています。その冒頭部分にピントを合わせて、何とか読んで行くと「寛文二年近龍寺が時鍾所となり・・・・」の文字を確認出来ました。
栃木市発行の「目で見る栃木市史」の中に、「時の鐘」についての解説文が載っていました。一部を抜粋して紹介します。
≪人口も増加、町がにぎわいを見せるようになると、町民に時刻を知らせるための時の鐘も必要になってくる。こうして領主阿部対馬守に願って時鐘所を町のほぼ中央にあたる近龍寺に設けたのが寛文二年(1662)であった。・・・(後略)≫
昭和31年8月、江戸時代より栃木の街に時を知らせた、近龍寺の梵鐘が復活しました。
今もなお毎朝6時には、「ゴォゥン~・ゴォゥン~」と、栃木の街に時を知らせる、近龍寺の鐘の音が、響わたっている、と聞きます。
※参考資料:
・「目で見る栃木市史」(栃木市発行)
・Web版「新纂浄土宗大辞典」
・ウィキペディア「梵鐘」
(浄土宗の寺院、三級山近龍寺の本堂。栃木市指定文化財になっています。)
その境内の片隅、鐘楼に向かって左手奥、枝振りの良い松の木の下で、枝に隠れる様に置かれた、石造りの梵鐘が有ります。
(鐘楼、その向かって左手奥、松の木の下に石造りの梵鐘が置かれています)
近くに寄って見ます。形状的には一般的ですが、吊る場合は上部の竜頭の両脇にフックを掛ける金具がついています。高さは竜頭部も含めて約130センチメートル程度でしょうか。
(松の木の下、宝篋印塔と並ぶ、石造りの梵鐘) (梵鐘の高さは、竜頭上部まで約130㎝)
鍾身の袈裟襷は、水平方向に上帯・中帯・下帯の三本、垂直方向に四本の縦帯で円周上に四分割しています。正面の縦帯には、「三級山近龍寺」と陽刻され、その下に蓮華文の撞座が施されていますが、この撞座の位置は通常縦帯と中帯の交点に有るのが一般的です。
乳の間には一区画に縦横五列で、25個の「乳」と呼ばれる丸い突起が、規則正しく配列されて、円周上に四区画有りますから、合計百個になります。通常は他に縦帯の上部に2個の乳を付けて、総計百八個という煩悩の数と同じになっているようです。
乳の間の下側、池の間と称する部分に、何やら文字が陰刻されていますので、円周上時計回りに確認をしていきます。
(正面から撮影、縦帯に山号と寺号) (左隣の池の間①に刻まれた文言)
当寺の山号・寺号の有る縦帯に向かって左隣の池の間(説明上、第1区とします)に刻された文字は、右から左に
「梵誉 三誉 名誉」 と住職さんの名前(誉号)でしょうか、3名並んでいます。
「鋳物師大工 野村惣兵衛 藤原久信 同名 六郎兵衛」と、鋳物師3名の名前が並ぶ。
「元禄十丁丑歳十月二十七日」 日付けです、西暦では1697年12月10日になります。
「高五尺 口經二尺五寸七分」 鍾身の寸法で高さ約151cm、直径が約78cmです。
「重量五二二瓩」 重量は522kg
「供出價額四百六十四円五十銭」 求めに応じて差し出した時の金額464円50銭。
次、左隣の池の間(第2区)には文字は確認されません。更にその左は正面の縦帯の180度反対側に当たりますが、その縦帯には「南無阿弥陀佛」の文字が陽刻されています。その下方中帯との交点に撞座が付いています。これは一般的な位置になります。
(縦帯部分に「南無阿弥陀佛」と陽刻) (池の間③の左端に日付け等陰刻有り)
更に左に回り込み、池の間(第3区)を確認します。その池の間の左端に文字が陰刻されています。
「昭和十八年十月二十七日」 この日付、梵鐘を供出した日か、このレプリカの完成日か。
「近龍寺第二十六世鏡誉」 昭和18年10月27日当時の住職さんでしょうか。
次の池の間(第4区)、ここは最初の正面縦帯の右隣に位置する区域です。
(正面縦帯の右隣、池の間④に整然と陰刻された文言)
この池の間(第4区)に陰刻された文字は、以下の通りです。
經白
天下和順日月清明
風雨以時災厲不起
國豊民安兵才無用
崇徳興仁務修禮譲
頌白
一聴鍾聲當願衆生
脱三界苦速證菩提
これらの文の意味を、Web版「新纂浄土宗大辞典」に求めました。
まづ「經白」の部分については、「祝聖文」として記されていました。その意味の部分を抜粋させて頂きます。
≪天下は太平であり、日と月は清らかに明るく照らし、風と雨も時に応じ、災害と疫病も起きず、国は豊かに人々は安らかに過ごし、兵や武器を用いる争いごともなく、人々は徳を崇め仁を尊び、務めて礼儀と謙譲の道を修めます。≫という意。
又、「頌白」の部分については、「聴鐘声功徳文」の解説に有りましたので、その意味の部分を抜粋させて頂きます。
≪ひとたび鐘の音を聴けば、人々共に三界の苦しみを脱して、速やかに悟りを成就することを願う。≫との意。
これで一周し、全て確認出来ました。
以上の内容より、私が思うに、この石造りの梵鐘は、昭和18年の第二次世界大戦時に出された「金属類回収令」により、供出を余儀なくされた際、近龍寺の関係者の方々が、せめてその姿を残そうと石を刻んで造ったレプリカと考えます。寸法的には元の梵鐘の方が、記された寸法より判断すると、一回り大きかったと思われます。
ここで、現在鐘楼に設置されている梵鐘についても確認しておきます。
ただ、鐘楼にのぼることは出来ませんので、下から確認できる範囲で、調べてみます。
(近龍寺鐘楼で毎朝6時に、時を告げる梵鐘)
(撞木を受ける撞座の有る縦帯部分) (撞木の反対側の縦帯部分)
撞木の有る部分に写る縦帯部分には、中央に「三級山 近龍寺」と大きく陽刻され、その右側に「昭和三十一年八月」の日付け、そして左側に「第二十六世 鏡誉」の名前(誉号)が同じく陽刻されています。
昭和18年、戦争の為に供出され、終戦後11年新しい梵鐘を迎えられたことに成ります。どちらも近龍寺第26世住職、鏡誉さんの時でした。
その縦帯の左隣の池の間に、「善野佐治平」「岡田嘉右衛門」等々発起人の名前が陰刻されています。
又、その180度反対側縦帯部分には、「南無阿弥陀佛」と大きく陽刻され、その右隣池の間には石造り梵鐘にもあった「經白」以下の「祝聖文」が、又、左隣の池の間には、同じく「頌白」以下の「聴鍾声功徳文」が、陽刻されています。この部分が梵鐘の正面に当たるのかもしれません。
(正面より左側面の縦帯部分) (鍾身の上部、竜頭部分)
側面に当たる縦帯部分に「鋳物師高松市藤塚町 多田丈之助宗春」の名前が陽刻されています。
鐘楼の天井に設置した金属の吊り具が、梵鐘の上部笠形をしっかりと銜えこんだ竜頭の穴に通されています。見ているとここだけで良く重い鍾身を壊れずに支えているなと感心します。
乳の数も縦帯の上部にそれぞれ2個付いていて、総数で煩悩の数と同じ108個に成っています。
外にも池の間の一区画に文章の様な物が陰刻されています。その冒頭部分にピントを合わせて、何とか読んで行くと「寛文二年近龍寺が時鍾所となり・・・・」の文字を確認出来ました。
栃木市発行の「目で見る栃木市史」の中に、「時の鐘」についての解説文が載っていました。一部を抜粋して紹介します。
≪人口も増加、町がにぎわいを見せるようになると、町民に時刻を知らせるための時の鐘も必要になってくる。こうして領主阿部対馬守に願って時鐘所を町のほぼ中央にあたる近龍寺に設けたのが寛文二年(1662)であった。・・・(後略)≫
昭和31年8月、江戸時代より栃木の街に時を知らせた、近龍寺の梵鐘が復活しました。
今もなお毎朝6時には、「ゴォゥン~・ゴォゥン~」と、栃木の街に時を知らせる、近龍寺の鐘の音が、響わたっている、と聞きます。
※参考資料:
・「目で見る栃木市史」(栃木市発行)
・Web版「新纂浄土宗大辞典」
・ウィキペディア「梵鐘」