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農民達から慕われた、幕府代官「山口鉄五郎高品」 [石碑]

江戸時代後期「天明の大飢饉」後、農村の疲弊が著しかった寛政五年(1793)、幕府直轄領(天領)を支配するため、下野国都賀郡吹上村に代官陣屋が設置され、代官山口鉄五郎高品が着任しました。
山口代官が支配した地域は、下野国及び武蔵国のうちの五万石におよんでいました。

その支配の本拠地となった吹上代官陣屋は、中世に築かれた皆川氏一族「膝附氏」の居城「吹上城」の跡で、現在は栃木市立吹上中学校が建てられています。現在、現地中学校の校庭にはただ、「吹上城址」と刻んだ石柱と、その脇に地元吹上地区の名勝地「伊吹山」を詠った「藤原実方朝臣」の和歌、<かくとたに えやはいふきの さしも草 さしも知らしな 燃ゆる思ひを>を刻した歌碑とが建てられているだけです。
吹上城址の標柱.jpg

この地は、足尾山塊が広大な関東平野に附き出した南東の縁に位置して、今もその場所に立つと、西北西の方向には、かつての皆川氏の居城であった「皆川城址」の山並みが北から南に延び、その先端山上に、物見櫓を模した展望台がシルエットとなって望まれます。
皆川城遠望.jpg

ただ、吹上を拠点に活躍した代官「山口鉄五郎」について、地元吹上村(現在の栃木市)に、その業績に関して記した資料は殆ど見る事は出来ません。ところが、栃木県の北部、那須地方に置いては趣が全く異なり、多くの資料の中に「山口代官」の名前が出てきます。

日本三大疏水と言えば、その開発順に記すと、先ず福島県の「安積疏水」、そして栃木県の「那須疎水」、最後に滋賀県から京都府に跨る「琵琶湖疏水」ですが、那須疎水に関した著書「那須野ヶ原の疏水を歩く」編著者「黒磯の昔をたずねる会」発行:随想舎を開くと、「名代官山口鉄五郎の新田開発と山口堀」と題した記事が掲載されています。その一部を引用させて頂くと。<幕府代官山口鉄五郎 元禄年間(1688~1704)那須郡には幕府直轄領(天領)が五八か村(石高にして一万八一四四石余)があった。特に現在の黒磯市・湯津上村・大田原市に多く、黒磯市だけでも二五か村(石高にして四六七九石余)を数えた。天明の大ききん後の寛政五年(1793)三月、これらの幕府直轄領を支配する代官に任ぜられたのが山口鉄五郎である。山口代官の支配地は、下野国および武蔵国(東京都、埼玉県、神奈川県の一部)のうちの五万石で、新設された吹上陣屋(栃木市)をその本拠地とした。・・・後略>

しかし、吹上陣屋から那須郡の幕府直轄領は、現在でも東北自動車道を利用して行っても、1時間余は必要ですから、当時は歩いて行き来しなければならない訳で、宇都宮から大田原までをかつての奥州街道を利用したとすると、栃木市吹上町からでは片道60km以上の道のりとなり、とても日帰りする事は出来ません。数年前まで栃木市では「市民ウィーキング大会」が開催されていました。私も第一回から参加をしていました。最初の4年間は一番距離が長い30kmコースを歩きました。スタート地点は「藤岡総合体育館」そしてゴールは西方町の「道の駅にしかた」でした。それを休みなく歩き続けて、5時間30分以上。後半は歩くのも飽きてくる感じです。
それが60km以上となれば、途中で食事や休憩も必要となるでしょう。

そこで、山口代官は吹上陣屋に赴任した最初の正月、那須地方から新年の挨拶のために、数日間をかけてやってきた名主たちに対して、次からは儀礼だけが目的であれば、わざわざ来なくても良いと、申し付けました。そして享和三年(1803)には、地元からの要望などを受けて、大田原の八木沢村(現在の親園)に出張陣屋を設け、彼の手代をそこに常住させています。

奥州街道・親園.jpg八木沢出張陣屋跡周辺風景.jpg
(八木沢出張陣屋が設けられた、現在の大田原市親園付近の奥州街道と、街道からかつての出張陣屋が建てられた跡へ向かう道路の様子)

御陣屋橋.jpg八木沢出張陣屋跡2022年11月27日撮影.jpg
(八木沢出張陣屋の前方を流れている「加茂内川」に架かる「ごぢゃばし(御陣屋橋)」と、跡地に建てられた「陣屋跡」と刻された石碑)

八木沢村は奥州街道の佐久山宿と大田原宿とのほぼ中間辺りに開けた集落で、間宿として栄えていました。代々名主を勤めた国井邸内に町初碑(まちはじめのひ)が有ります。「親園村郷土誌」には、<此碑ハ寛永四年八木沢宿ノ初メテ開カレタルトキ当時ノ名主役国井与左衛門ガ紀念トシテ花鋼石ノ天然石高サ二尺バカリノモノヲ同氏(国井沢吉先祖)庭内ニ建テラレタト言ヒ伝ヘ今尚同所ニ存在セリ。碑面ニハ「此町初寛永ひのえ卯年」側面ニハ「国井与左衛門」と鐫マレタリ。・・・(後略)>と記されています。

その八木沢出張陣屋は最初5年間期限付きの設置でしたが、その後2回も延長されています。
しかし文政四年(1821)、山口代官病死後、竹内平右衛門・古山善吉が赴任したものの文政六年(1823)八木沢出張陣屋は、吹上陣屋と共に真岡陣屋に併合されて、廃止となっています。

山口鉄五郎高品の出身の詳細はハッキリしていないようですが、越後国(新潟県)蒲原(かんばら)の小休止(こやすど)と言われています。そこで貧しい農家の三男として寛延元年(1748)に生まれました。頭が良くて努力家だった彼は、その能力を買われて二十歳になった頃には、江戸にでていて勘定奉行の役人に推挙され、天明五年(1785)には幕府の命により、蝦夷地探検を行い「蝦夷地拾遺」を著わしています。その後の寛政二年(1790)には美濃国にて、郡代の手代として赴任しています。そして寛政五年(1793)に、ここ下野国都賀郡吹上に代官として赴任して来たのでした。

山口代官は常に民百姓と同じ目線で物事をとらえている様でした。彼が良く自分の手代達に申し渡していた言葉が有ります。それは「無軽民事」、<民を軽んずこと無かれ>でした。
大田原市史・史料編に「代官山口鉄五郎高品」の事が記されていましたので引用させて頂くと、<高品は那須、塩谷両郡の幕領六十二カ村を支配したが、寛政五年八月初めて那須支配に就くと先ず農業を奨励し、遊惰の弊風を禁じ、貧困者および病老者の救恤、荒蕪地の開発に意を注いた。殊に那珂川上流の木俣川を分水して堰路を掘り新田二百余町を開発したことなどは特筆すべき業績である。…(後略)>

八木沢出張陣屋が設けられた八木沢村(現在の大田原市親園)の奥州街道沿い、湯殿山神社の参道入口脇に、小さなお堂の様な建物が有ります。格子戸から中を覗くと一基の石碑が建てられています。
先の大田原市史・史料編の名所旧蹟の所に、「蒲盧碑」として記されている石碑に成ります。又、引用させて頂きます。<蒲盧碑ー大字親園字八木沢の湯殿山神社境内にある。文化九年十月に高津義克という行脚僧が那須野で蒲盧(蜃気楼のこと)を見て、碑文となっている原稿を残して去り、薬王寺に保存してあったのを八木沢代官山口鉄五郎の手代飯岡重武が石に刻んで建立したもので、碑の背面には『はてしなく浮世の人に見するかな、那須の野面のほろのいしぶみという自作の和歌が刻んである。…(後略)』と有ります。碑文は当然漢文体の為、私には読み砕く事が出来ませんので、写真をご覧ください。
蒲盧之碑堂.jpg蒲盧碑案内板.jpg
(奥州街道沿いの湯殿山神社参道入口脇に建つ「蒲盧之碑」を納めた建屋と説明板)

蒲盧之碑正面.jpg蒲盧之碑碑陰.jpg
(蒲盧之碑正面と、碑陰に刻された飯岡重武の和歌)

この「蒲盧碑」について、脇に立つ案内板には、<中国の書「中庸」の中には「政治は蒲や盧のようなもの」という一文があり、碑文はこの山口鉄五郎の善政を蜃気楼の蒲盧に結び付けたものとしている。>と説明ています。

先日、久しぶりに吹上町を訪れてみました。吹上陣屋が有った場所の北西側に「正仙寺」が有りますが、本堂や庫裡が新しく立派な建物に変わっていて驚きました。
この正仙寺の墓地に山口鉄五郎高品の家族の墓碑や、吹上代官所役人の墓碑等十数基を見る事が出来ます。
江戸後期吹上陣屋役人家族の墓地1.jpg
(代官山口鉄五郎高品の家族と代官所役人等の墓碑が並んでいます。)
江戸後期吹上陣屋役人家族の墓地案内板2.jpg
(墓碑の所に掲げられている説明板)

天明三年(1783)七月に長野県と群馬県との県境に有る浅間山が、大噴火を起しました。そしてその火山灰が北関東地方に大きな被害をもたらしました。それ以前の天明元年から二年にかけて、農家は不作が続いていた時でした。そこに追い打ちをかける事に成り、北関東の農村は荒廃する一方でした。
同年9月4日に栃木町で、困窮者数百人が造り酒屋に押し込み、酒桶の輪を切り、戸障子・畳等まで徹底的に打ちこわす騒動が起きています。
江戸時代の経済の基本は米です。その米を生産する農村が疲弊してしまえば、幕政体制も崩れていきます。そこで農政の立て直し、とりわけ幕領農村の荒廃からの立て直しが必要となり、現地に代官を派遣して支配強化する事となり、寛政五年まず菅谷嘉平次が代官に任命され、追って同格の立会代官として任命されたのが山口鉄五郎高品でした。
此の吹上代官陣屋こそ、代官の江戸定府の永い伝統を破って、支配所のある地方に陣屋が設置された、幕府代官陣屋の初見でした。

代官山口鉄五郎高品は、自ら新潟県の雪深い山の中の小さな集落で、細々と僅かな田畑を耕して生計を立てていた貧しい農家の子として育った。農民の苦しい生活を充分に理解する事が身に付いていた。その経験から、疲弊した農村を農民側の眼線になって、問題の解決に尽力したのでした。
農民の気持ちを理解し、農民達から慕われた、代官山口鉄五郎高品でした。

今回の参考資料:
・「大田原市史・史料編」大田原市発行。
・「親園村郷土誌」親園村発行。
・「那須野ヶ原の疏水を歩く」編著者黒磯の昔をたずねる会 随想舎発行。
・「水代官山口鉄五郎」那須一郎著 随想舎発行。
・「改訂増補 近世栃木の城と陣屋」杉浦昭博著 随想舎発行。
・「奥州街道 歴史探訪・全宿駅ガイド」無明舎出版編。
・「那須野蜃気楼 蒲盧碑考」人見伝蔵著 大田原温故会発行
・「栃木県史・通史編5 近世」栃木県発行
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一般

地元(下都賀)の高校生です!
たまたまこのサイト(ブログ?)に辿り着きました!個人的に昔の写真だったり橋だったりが大好きなので感動しまくりです!
今は廃道化された某峠なんかも自転車で行ったりしますが、当時の雰囲気までは感じれないので..助かります
by 一般 (2023-03-11 01:13) 

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