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謎のとけない舟形構造の通り・・・鹿沼市 [地図]

先日、久しぶりに鹿沼市の市街地を歩いて来ました。
今回は「歴史と文化を歩く会-栃木-」の19名のメンバーと一緒に、鹿沼市の観光ボランティアガイドさんの案内で、鹿沼市の旧市街地、日光道中壬生通り(旧日光例幣使道)の鹿沼宿を巡り、昨年(2016年)11月30日ユネスコ無形文化遺産に登録となった「鹿沼今宮神社祭の屋台行事」の見事な彫刻が施された屋台と歴史ある社寺等の説明を受けて来ました。
東武新鹿沼駅前で現地のガイドさん達と落ち合い、鹿沼の歴史と文化の旅が始まりました。
駅前から東へ伸びる道を歩く、150メートル程で南から北に鹿沼の市街地を縦貫する通りとの交差点の角に出ます。「新鹿沼駅前交差点」と信号機の上に表示されています。この交差点から北側方向は二股に道路が分かれる「五差路」となっています。北に向かって右方向の通りが「田町通り」、そして左方向が「内町通り」と云われたと、観光ガイドさんの説明が続きます。
分岐点.jpg
(駅前交差点角から北側を撮影。手前の通りが例幣使街道、向こう側が田町通り。)

今回の鹿沼宿を歩く企画に参加を決めた時、私の頭の中に昔から消えずに残っていた疑問がよみがえって来ました。そして今まさに観光ガイドさんがその事について説明をしています。私は聞き耳を立て、その言葉の一句一句を聞き漏らさぬよう耳を傾けますが、脇を走り抜ける自動車の音にかき消されて、断片的になっています。
鹿沼宿を縦貫する街道筋は、上記の通りこの地点で二筋に分かれ、次第に離れるものの、互いに北に進み、鹿沼宿の先で又合流しています。その街道筋が描く形が舟の形を呈している「舟形構造の通り」に成っています。
元々はこの鹿沼宿の通りは右側の「田町通り」の1本だけでその道幅も1間ほどの狭い通りだったと言われます。それが、元和二年(1616)徳川家康が死去して、その遺骨が久能山から日光山へ移される事に成り、時の代官「大河内金兵衛秀綱」が、「田町通り」の西側、お城の近い側に幅12間の道路を開鑿したのが、現在の「舟形構造の通り」となった由来の様です。
1980年10月10日、「(株)そしえて」より発行された「地図の風景、関東編Ⅱ、埼玉・栃木・群馬」と題する本の中に、まさにこのテーマを記した記事が載っています。今回のタイトルに書いた「謎のとけない舟形構造の通り」は、その記事のタイトルに有った言葉を使わせて頂きました。
残念ながら街を歩くだけでは、この二筋の通りが「舟形構造」に成っている状況を知る事は難しいですが、国土地理院発行の2万5千分1の「鹿沼」の地形図を確認すると一目瞭然です。丁度今年の4月1日に最新の「鹿沼」の地形図が発行されたばかりですが、そこには「舟形構造の通り」をハッキリと確認出来ます。
舟形構造の通り・鹿沼市.jpg
(鹿沼市街地の主要道路の様子、南北方向に二筋の通りが舟の形に成っています。)

本来は従来から有る「田町通り」を拡張する所なのでしょうが、急遽「徳川家康」の遺骨を日光へ移送する事と成った為、恐らく通り沿いの家屋を移すより、それまでの集落の裏手をバイパスさせる方が、早く街道を整備できるとの判断で、新たな12間幅の道路を通したものと思われます。
こうしたバイパス道は、交通渋滞が激しくなった通りではどこでも渋滞緩和策として行われています。しかしこの鹿沼市の様な綺麗な舟形の構造は、あまり見られません。私の住む栃木市内にも「栃木環状道路」・「富田バイパス道」・「藤岡バイパス道」など旧道の渋滞解消を目的に整備されていますが、どれも道路が複雑に曲りあって、この鹿沼市の様な構造には成っていません。

こうした道路が二股に分かれ、又合流する構造は幹線道路などで良く見かけます。それらは一般に元々有った旧道が曲がりくねって、その上道筋に家並みが密集している所で、その集落の始点と終点の二点間を直線的に結んだ、言わばショートカットされた新道との組み合わせです。こうした通りの構造を「舟形構造の通り」に対して私は「弓型構造の通り」に成っていると思っています。
栃木市内には、こうした「弓型構造の通り」はいたる所で見る事が出来ます。
例えば、県道2号線(宇都宮栃木線)にては、大宮町印役付近。そして県道3号線(宇都宮亀和田栃木線)の、都賀町家中下新田付近。これらは少し大きめの集落を通らずその脇を新しい道路が直線的に抜けています。
栃木市内では有りませんが、県道31号線(栃木小山線)での、小山市卒島や小山市立木の集落にも見られます。
大宮町印役付近.jpg
(栃木県道2号線、栃木市大宮町印役付近。南側の曲がりくねった道が旧道)

しかしここ鹿沼市に有る様なハッキリした「舟形構造の通り」はなかなかお目にかかれません。ところがその鹿沼市内で今又、新たにこの「舟形構造の通り」が出現して来ました。それは鹿沼市の東部を横断する県道4号線(宇都宮鹿沼線)、東部台地区の東町から菊沢地区の千渡の区間、現在の県道4号線の北側に滑らかな円弧を描く様に新しい道路が姿を現して来ています。
県道4号線鹿沼市千渡付近.jpg
(栃木県道4号線、鹿沼市千渡付近。北側の新しい道路で交通渋滞解消に。一部推定です。)

今も各地で道路工事が進められています。その中には以前から有る道路の拡張で有ったり、新たに計画された道路で有ったりと、その目的は色々です。地形図を見ているとそこに描かれている地形にまた新たな謎が生まれて来ます。


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栃木市箱森町のこと [地図]

私が生まれ、そして現在に至るまで60年以上住んでいる「箱森町」。しかし、箱森町の事に関しては、殆んど分かっていません。最近に成って、自分が住む町にどのような歴史が有ったのか興味が湧いてきて、少しづつ調べ始めています。
私はこの町で生まれましたが、私の父は入舟町で生まれています。そして私の祖父は大皆川村で生まれています。ですから私の家には箱森町に関する情報は何も残っていません。

まずは現在の箱森町について確認をしたいと思います。
箱森町概略図.jpg
上の図は現在の箱森町のエリアーを概略図に表わしたものです。
北側は川原田町と野中町、西側は新井町と泉川町、南側は薗部町の一丁目と3丁目そして柳橋町に接しています。南東の端で入舟町と僅かに接しています。そして東側は錦町と小平町そして大町とに接しています。
大町との境界は概ね巴波川の流れに沿っています。西側は昔、風野村の集落中央を南北に走る道路を境に東側は箱森、西側を新井と泉川とに分かれました。現在、道路の西側に沿って暗渠化された水路が南の錦着山方向に伸びています。
風野町.jpg
(元風野町の通りを北側から錦着山方向を望む。道路西側に暗渠化された用水路)
「風野堀」と呼ばれる用水堀で、錦着山の東側に架かる「錦橋」の下を流れ、カッパ寿司さんの西側に残る石橋アーチ橋の「八雲橋」の下流で、錦着山の南側を西から流れて来た「東郷堀」と合流して南隣りの薗部町1丁目と3丁目の境として南に伸びています。
2013年風野堀(錦着山より).jpg
(錦着山上より北方向を撮影。写真中央に「風野堀」、右半分「箱森」左「泉川」と成ります)
箱森町の中央部を「栃木環状線」が通り、東端には「栃木粟野線、南側に「栃木佐野線」そして中央を北西側栃木インター方面に伸びる「栃木粕尾線」の県道が通っています。
外環道西.jpg
(栃木外環道の箱森町歩道橋上から南西方向を撮影。太平山を正面に望む)
外環道東.jpg
(栃木外環道の箱森町歩道橋上から北東方向を撮影。イオンやコジマの看板)

箱森町の現在の人口は、5,448人(2017年7月31日現在)ですが、この人数は旧栃木市ないの町内では、大宮町の6,923人に次いで2番目に多い町内と成っています。次いで平柳町(4,899人)、片柳町(4,703人)、薗部町(3,866人)と続いています。ここで、薗部町や片柳町などは町内が更に区割りされ、一丁目・二丁目・三丁目などに分かれています。その為、薗部町一丁目は栃木女子高から錦着山にかけての一画、四丁目は永野川の西側から太平山遊覧道路に至る一画と広い薗部町の中で、どの辺りか範囲を狭める事が出来ます。片柳町も同様で一丁目から五丁目と五つの区域に分割されています。
箱森町の場合、そのような分割が有りませんから、住居表示の何番何号で位置を調べますが、番号表示も1番から53番まで有る為、番号を言われても箱森町のどの辺りに成るか、全く見当が付きません。
ちなみに1番は「特別養護老人ホーム」辺りで、「錦着山」は8番に成ります。「イオン栃木店」辺りが37番です。箱森町の北東隅となる「アップル薬局はこのもり店」が53番でした。
私が子供の頃に住んでいた所は、箱森一丁目と成っていました。国土地理院昭和40年3月30日発行の2万5千分1地形図「栃木」には、箱森町の所に「一丁目」の文字の他、「東部」・「西部」の記載が確認出来ます。確かに私が子供の頃は、「箱一」とか「箱東」そして「箱西」という呼び方をしていました。
栃木市は栃木県で最初に、昭和38年8月1日付けにて、新住居表示への変更を実施しました。第一次として市街地中心を対象に実施しました。この時は箱森町は対象外でしたが、昭和45年3月1日の第二次で、箱森町も「〇番-〇号」へと変更が行われています。

ただ、現在も箱森町は自治会の名称として以前の様な、「箱森町一丁目自治会」とか「箱森町西部自治会」、「箱森町中央自治会」、「箱森町東部自治会」が使われています。以前の東部自治会は「中央」と「東部」に分かれています。
箱森一丁目 公民館.jpg箱森町中央公民館.jpg
(箱森町一丁目公民館)                (箱森町中央公民館)
箱西公民館.jpg箱森町東部公民館.jpg
(箱森町西部公民館)                 (箱森町東部公民館)

「箱森」と言う地名は何時ごろ現れたのでしょうか。詳しい事は分かりません。
集落の状況について私達が確認する手段としては、古地図の様なものが有ればと思いますが。この周辺の古地図は、宝暦9年(1759)の「栃木町絵図」、天明7年(1787)の同じく「栃木町絵図」、そして天保8年(1837)の「栃木町並栃木續新田村屋舗図面」、更に古い年代のものでは「天和」(1681~1683)の元号が記された「小平柳村」の絵図が確認されますが、残念ながら「箱森」を描いた絵図などは、まだ見た事が有りません。
私が見た事の有る「箱森村」の様子を記した最も古い地図は、明治に入ってからのもので、明治19年7月発行の迅速測図「栃木」2万分1です。
この地形図を見ると、明治初期の箱森村の集落の様子が細かく描かれています。最も人家が密集している地区は、現在「箱森町西部」の公民館の有る鷲宮神社の西側周辺、そして現在の「箱森町中央公民館」が建つ十二社神社の周辺、そしてもう一ヶ所は旧赤津川の東側(現在なかつぼクリニック)周辺に集落が形成されています。
鷲宮神社.jpg
(鷲宮神社の周辺は、明治の初期に箱森村で最も大きな集落が有りました。)
十二社神社.jpg
(十二社神社南側の細い道を進むと、箱森西部の舘野へ通じています。)
この内、鷲宮神社を中心にひらけた場所は、大正6年7月30日発行の2万5千分1地形図「栃木」には、「御邊」と言う地名が大きく記されています。「御邊」と言う地名は何を意味するものなのか、私はずっと以前から気に成っていました。それに対する情報が栃木市教育委員会が平成27年3月31日に発行した、「栃木市遺跡分布地図」と題した冊子の中に有りました。
そこには「舘野城・御辺館地籍図」が掲載されていて、横に解説文が載っています。
≪御辺館 : 栃木県教委1982では、鷲宮神社あたりを城郭推定地としているものの、現地に遺構は存在しない。地籍図調査においては、字御邊に水路で囲まれる四角い空間が見受けられ、ここを御辺城と想定したものと考えられる。≫
御辺.jpg
(写真右側が周囲を堀の様に囲まれた館跡の地。奥の林の様になっているのが古墳)
現地に行くと、鷲宮神社の裏手に今も周囲に濠の様な地形が残る少し回りより高くなった土地を見る事が出来ます。その土地の西側に沿った道を北に少し入った林の中に、小さな小丘が有りその上に小さな石の祠が祀られています。手前に一つ鳥居が建てられていますが、何という神社なのか。この件も先ほどの冊子に記載が有り、小丘は径21メートル、高さ3メートルの古墳で、遺跡の名前は「鶴巻古墳」と記されています。
≪円墳、墳頂部に神社有、明治期に刀出土、県風土記の丘資料館1987≫と備考欄に記されています。
弦巻神社1.jpg弦巻神社2.jpg
(御辺の館跡の脇の道を入ると鳥居が有り、その先の小丘上に祠が祀られています)

元々、この御辺を中心とした地域が、古墳が残り、館の址が残り、集落も大きく形成されている等から、箱森村の中心だったものと考えられます。先ほどの冊子にはもう一つ「御邊」の北側に「舘野城」と言う遺跡についても説明しています。
≪舘野城 : 栃木市教委1990では、御辺館の北西を舘野遺跡としている。地籍図調査では、字舘堅(やかた)に、水路で囲まれた楕円形の空間があり、城郭遺構であったと考えられる。現在遺構としては、地籍図上南側の幅のある堀が池となって残っている。≫と、記しています。
「舘野」に関しては8月2日に「箱森町内を流れる館野川について」と題して載せています。
箱森町舘野周辺地図.jpg文色分け道路の説明.jpg
(箱森町の昔からの中心とされる、「御辺」や「舘野」周辺の様子を概略図にしました)
箱森町に館や城が有ったとは、まったく知りませんでした。
尚、河合町にある熊野神社(開明橋の橋詰に祀られています)は、元箱森に有った熊野神社を分祠したものと云われていますが、私はその元の熊野神社を探して箱森町の中を捜し歩きました。町内には多くの屋敷神社が有りましたが、結局探し求めていた熊野神社は取り壊されて無くなっているという事でした。その熊野神社が有った場所と云われるのが、小野産業㈱栃木工場の西側、蕎麦店「山成」さん辺りだったようです。今も大きな木が一本残っています。
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栃木城のこと [地図]

栃木市の市街地中心部から東南東方向へ1,000メートル程の場所に、僅かに濠跡や土塁の一部が修復され史跡として残されています。天正十九年(1591)から慶長十四年(1609)のわずか19年間で廃城と成った「栃木城」の二の丸(東丸)の北側一部と言われています。
栃木城址公園1.jpg
(史跡として整備されている「栃木城址公園」、濠の北西部角より撮影)
私は城郭の研究をしていませんので、良く分かりませんが、城の様子を描いた「縄張り図」というものを見る事が有ります。栃木市内に有る「西方城址」や「眞名子城址」そして「皆川城址」などもこの「縄張り図」が作られています。これらの城は「山城」で有る為、現在でも「桝形虎口」や「竪堀」などの地形が当時の姿を留めている為です。しかし「栃木城」は「平城」だった事と、栃木の市街地に近かった事等により、農地や住宅地に転用され、一部を残すだけで殆んど昔の姿を留めていません。
私もこれまで「栃木城」に関して、郷土史の資料の中に記されている物の内、築城時の様子を記したものが有るか探してきました。
栃木市の歴史ですから、「栃木市史・資料編・近世」の中に当然記載されていました。
≪慶安4年(1651)3月、皆川山城守の城跡≫の項目の中に、都賀郡 1.栃木町古城  平城として、以下の様な城の状態を文書にして表わしています。
     一、城の西入口より栃木町通り迄五町四拾間有り
     一、堀の総めぐり五百拾間有り
     一、本丸東西八拾三間、南北七拾三間
     一、二の丸は本丸から東に有り東西拾壱間、南北三拾六間、
        本丸から南の方の丸東西二拾八間、南北七拾三間
     一、蔵屋敷東西七拾間、南北四拾六間、本丸より北に有り
     一、三の丸は本丸から東に有り、東西二拾八間、南北七拾三間
     一、本丸から南の方の丸東西五拾弐間、南北弐拾間なり
     一、城の大手口表門は南の三の丸から入、裏門は東二の丸から入り
     一、城の惣堀、広さ九間、拾間、田畑に成る
     一、土手は祢をき六間・七間と見へ申候也
     一、城惣かまへ、廻三方は侍町なり
     一、右の城中仙道栃木町東の方に有り
栃木城址案内板.jpg
(栃木城跡公園に建てられている説明板、上記の城の規模が記されています。)
この史料の出所は、正保国絵図作成時に幕府の命令により宇都宮藩が調査作成をした、下野国内の地理調査報告書「下野一国」、奥書に慶安4年と成っています。(東西文献刊)
同じく栃木市発行の「目で見る栃木市史」の中にも、「栃木城」と題して上記の城の状態を少し読み下した感じで、長さ(間表示)はメートル換算値を併記しています。「目で見る栃木市史」ですが城の縄張り図の様な絵図の掲載はされていません。ただ、「栃木城址(市指定史跡)」として現在の城址の写真を掲載して、≪現存しているものは、東丸の北部の土塁と濠の一部である。・・・≫と、説明を加えています。
城址脇に建つ家屋.jpg
(栃木城跡公園の西側に建つ武家屋敷の趣を持つ家屋)
他にも、下野新聞社が昭和50年4月20日に発行した「栃木の城」や、日向野徳久先生が昭和27年10月10日に初版を著した「北関東における一封建都市の研究」の中でも栃木城について記していますが、規模等についてはやはり上記に記した内容に留まっています。
栃木市周辺の歴史研究に長年携われ、多くの著書に係わられた日向野先生をして、それ以上の史料を見い出せていないと言う事は、栃木城の絵図面等は残っていないと考えて良いのでしょうか。
更に栃木城の様子を絵図として描いている資料は無いものかと、文献をあさって行くと、昭和52年8月20日発行「栃木郷土史」(著者:栃木郷土史編纂委員会)の巻頭部に、栃木町の古地図などと一緒に「栃木城復原推定図」(研究製図 粟野健太郎)の絵図面が掲載されています。
又、昭和53年12月、栃木城跡保存会発行の「栃木城と栃木城内村」の冊子巻頭に、「栃木城略図」(岸慶蔵想定)の絵図面が掲載されている事を、最近知りました。(栃木城跡保存会は地元栃木城内町を中心に、栃木城に関する研究調査をされている会)

そこで、これらの想定図等を参考にさせて頂き、私の思い描く栃木城を「見える化」してみたくなりました。それは栃木城のそれだけでなく、栃木町との関係を含めて少し広い視野で位置関係が分かる様にしよと試みました。下の塗り絵が私がこれまで収集した情報を基に描いた図に成ります。
栃木城址周辺図1.jpg栃木城址周辺図2.jpg
(栃木町と栃木城の関係図)
この図のベースとして使用した地形図は、明治19年7月発行二万分一、迅速測図「栃木町」ですので、当然栃木城が築城された天正十九年当時とは違います。栃木町もまだまだ城下町として寺社を配置して、主要道路を通し町の形体を整えている時ですから。ただこの迅速測図を見ると、現在の栃木城跡周辺にハッキリと土塁や濠跡ではと思われる段差の印が認められます。その一番の高台に当たる所に三角点記号が見えます。標高46.35メートルの数字も見えます。この場所は現在「TSUTAYA栃木城内店」付近です。三角点は現在栃木第四小学校の校庭内に変更されていますが、その標高は42.5メートルですから、明治期には4メートル程の小丘が存在していた事が見て取れます。
絵図には現在の位置関係が分かり易くなるよう、JR両毛線・東武日光線の線路を破線で記入しました。
栃木城跡一帯の地域(城ノ内周辺の赤く着色した所)は、栃木市文化課主催の文化講座にて入手した資料を参照しています。
先の「栃木城復原推定図」や「栃木城略図」にも記されていますが、栃木城の周辺の地名として、「田宿」「大宿」「紺屋町」「川島」などが見られますが、これらの地名は現在も自治公民館や杢冷川に架かる橋の名前として確認する事が出来ます。
下田宿公民館.jpg大宿公民館.jpg
(下田宿公民館と田宿聖観世音堂)          (大宿公民館)
今、小山街道沿いに建つ観音堂は「田宿聖観世音」を祀り、都賀三十三観音霊場第27番札所でした。
紺屋橋 .jpg紺屋橋の親柱.jpg
(杢冷川に架かる「紺屋橋」)
本町の長清寺の裏手を東から西に流れている杢冷川、長清寺の丁度北東部角に架かる小さな橋、親柱を良く見ると「紺屋橋」の文字を読み取れます。この周辺は元「こうや町(紺屋町)」と呼ばれていました。≪城内の紺染めを扱う工場の有った所と思われる≫と先の冊子にも記されています。
旧川嶋橋1.jpg川嶋橋.jpg
(以前の「川嶋橋」に有った親柱)  (現在の川島橋、橋名が分かるものは何も無い)
本町の長清寺の裏を流れた杢冷川はその後、壬子俱楽部の前を流れ、その後流れを南に変え、栃木文化会館方向に流れる。その間に「本橋」「一二三橋」「川島橋」「旭橋」と幾つかの小さな橋が架けられています。現在は架け替えられて親柱が無くなりましたが、「川島橋」には「川嶋橋」と刻した親柱が有りました。この辺りが元「川島」と言う地名であった名残りが、又無くなり忘れ去られようとしています。

又、周辺の寺社もこの栃木城築城時に現在地に移されたものが、ほぼ当時のまま現在に至っており、位置関係を把握するのに重要な目標物に成ります。
東宮神社(神田町).jpg稲荷神社(城内町一丁目).jpg
(神田町の東宮神社)                (城内町1丁目の稲荷神社)
≪城内のもと神明宮の有った近くに祀られている東宮神社は、皆川広照が皆川の東宮神社を分祠したものであり、栃木城の鬼門に祀ったものと思われる。≫(目で見る栃木市史より)
≪内の城の西南方にある稲荷神社は皆川秀光の建立したもので一に城の内稲荷、俗に鬼門稲荷と言われ少しの位置の変更も無く昔のままに祀られてあります。≫(栃木名所旧蹟物語、大浦倉蔵編より)
ただ、稲荷神社は栃木駅の高架化や道路新設等の影響により移転を余儀なくされ現在の場所に祀られています。
自分で想定した本丸や二の丸三の丸の配置ですが、栃木城跡をあらわした条件が上手く合わない項目(城の大手口表門や裏門の位置)が有るので間違っているのでしょう。ジグソーパズルでは有りませんが、どの位置に置けばすべてがマッチするのか、まだまだ難題だらけです。


鹿沼市口粟野から望む「大倉山」 [地図]

前回、我家から北北西方向に見える三角山が、栃木市と鹿沼市の境界と成る山々の稜線のひとつ、「大倉山」標高454.6メートルで有る事を確認しました。
大倉山5.jpg
(我家から見える「大倉山」、バック中央の雪山は「女峰山」、右側は都賀の里「観音山」)
地形図を確認して等高線の状態から、円錐状の山では無い事も判明しました。たまたま我家の方向から見える形は三角状に見えるのでした。
それでは、大倉山の反対側から見ても同じ三角山に見る事が出来るのではと考え、地形図上で我家と「大倉山」とを結ぶ直線の延長上を探してみると、鹿沼市口粟野の粟野城址と成る「城山」山頂が当たっている事を確認出来たので、さっそく現地確認に出掛けて来ました。
目的の「城山」は、鹿沼市口粟野の市街地中心部に有ります。街を東西につらぬく県道15号線から、入粟野方面に向かう県道246号線が分岐する交差点の西側に「城山公園」と記した道路標識が建っています。
標識の所から北に入る細い道に入り、左にカーブする坂道をそのまま進むと、城山公園の駐車場に突き当たります。
駐車場に車を停めて本丸方向に山道を登ります。公園内は「城山を守る会」の手による、道標や説明板がいたる所い建てられ、山頂への道路も綺麗に整備されて、安心して登る事が出来ました。
標高257メートルの山頂と思しき所まで約20分で到着しました。山頂に大きな石碑が建てられています。
粟野城址「城山」の碑1.jpg
(粟野城址の通称「城山」の山頂に建てられた石碑)
石碑の正面には「城山」の文字が大きく刻されています。この文字は徳川慶喜翁の揮毫と説明されていました。碑陰には横尾勝右衛門氏の撰文で粟野城の歴史が記されています。その碑文の中に「天正16年12月某日皆川山城守広照・・・」の文字が記されていました。興味が有るので後で又調べてみたいと思います。
粟野城址「城山」の碑2.jpg粟野城址「城山」の碑3.jpg
(石碑の表に刻された文字は「城山」)     (碑陰には粟野城の歴史が刻されている)
その石碑の隣りには「栃木県の防空関連施設群」のひとつ、土木学会選奨土木遺産として指定された「口粟野防空監視哨」が残されていました。
口粟野防空監視哨2.jpg口粟野防空監視哨3.jpg
(山頂に残る口粟野防空監視哨の跡)         (推奨土木遺産の銘板)
この監視哨は≪太平洋戦争開戦の昭和16年(1941)「防空監視隊令(勅令1136号)の発令を受けて策定された「栃木県防空計画」により整備・建造された。(後略)≫との説明板が脇に立てられています。
この監視哨の脇に立って南の方向を望むと、栃木市との境界と成る山々の稜線がシルエットとなって、東西方向に連なっています。
口粟野防空監視哨1.jpg
(城山山頂の土木遺産「口粟野防空監視哨跡」から南方栃木市との境界稜線を望む)
そして、有りましたその稜線にひときわ高く突き出た三角形の山、「大倉山」です。
大倉山(北から).jpg
(標高454.6メートルの「大倉山」山頂部分)
地形図上で検証した、我家からとは正反対の北側から見た「大倉山」の姿です。

蚤の市通り、栃木市 [地図]

栃木市に「蚤の市通り」と呼ばれている通りが有ります。栃木市街地中央を南北に通る「蔵の街大通り」の西側をほぼ平行に通っている道路に付けられた名前です。現在の栃木市道11196号線に当たります。
第一回の蚤の市が開催されたのは昭和28年2月でした。
昭和55年(1980)2月の蚤の市の様子を撮影した写真を紹介します。
蚤の市1.jpg
蚤の市2.jpg蚤の市3.jpg
蚤の市4.jpg
蚤の市5.jpg

栃木の市街地では、その発展に合わせて多くの新しい都市計画道路が整備されてきました。
江戸時代、日光例幣使街道の宿場町だったころは、町の中央を例幣使街道(現在の大通り)が通っていましたが、横道は現在の様に多くは有りませんでした。江戸時代の天明七年(1787)に描かれた栃木町の絵図を見ても、通りの西側へ抜ける道路は巴波川に架かる「念仏橋」(現在の幸来橋)へ通ずる道(現在の銀座通り)の1ヶ所しか描かれていません。(もちろん絵図には描かれていない路地は、幾つも有ったと考えますが。)
それでは現在の「蚤の市通り」は、いつごろ整備されたのだろうか、ずいぶん前からそんな疑問に駆られていました。地元の方に尋ねれば簡単に解決をする事なのでしょうが、なかなかその機会も有りません。
そこで国土地理院発行の地形図を調べてみました。まず明治19年(1886)7月に発行された迅速測図を確認すると、大通りから西に抜ける横道は、4ヶ所現れています。銀座通りの他に、元の下都賀郡役所(現在の室町駐車場)への道、カシワヤ事務機店脇から倭橋へ抜ける道、そして常盤橋に抜ける旧市役所通りです。しかしこの地図にもまだ「蚤の市通り」は現れていません。
栃木の地形図上に初めて「蚤の市通り」が描かれたのは、昭和40年4月30日発行の2万5千分1の地形図に成ります。その前に発行された昭和22年9月30日の地形図には、まだ描かれていません。又、翌年の昭和23年6月8日に米軍によって撮影された、栃木市街地の航空写真の中にも、この「蚤の市通り」は現れていません。従って、「蚤の市通り」は昭和24年以降に整備された事が分かります。

栃木市観光協会が栃木市制15周年記念として、昭和26年9月1日に発行した、「栃木市鳥瞰図」が有りますが、その絵図には万町一丁目の裏通りの部分、倭橋から常盤橋の間に道路が描かれています。
蚤の市通り3.jpg
この「栃木市鳥瞰図」は現在も「栃木蔵の街観光館」にて購入出来る様です。
又、昭和28年1月20日発行の「栃木市政だより」の記事の中に、第9回栃木市議会臨時会報告が有りました。そこに、≪まず、会議は、さきの市議会において土木常任委員会に付託となっておりました万町二・三丁目大通り西側への平行道路新設されたいとの誓願について委員長の報告が有り、本道路が新設されることによって地元は勿論のこと、栃木市発展上にも裨益するところ大なるものがあるとして満場異議なくこれを採択し、≫と記されていました。
以上の情報から、「蚤の市通り」は昭和30年代に工事は進み開通されたものと考えます。

現在、蚤の市通りを歩いて見ると、道路脇歩道部分に蚤の市に出店するお店の区画割番号表示が付けられています。
番号1は一番南側、倭橋の東橋詰付近、元「静」という割烹のお店が有った前辺りで、番号60は現在の栃木市役所の裏手に有る、たこ焼き屋さん付近に有りました。更に北側の万町三丁目付近は番号は付けられていません。
蚤の市通り1.jpg
(現在の栃木市役所裏手となる、蚤の市通り)
蚤の市通り.jpg
(歩道部分の敷石に刻まれている、蚤の市出店区画の表示番号)
蚤の市通り2.jpg
(蚤の市通りの南の端、道路脇に残る石灯籠、近くに番号1の表示が有ります)

蚤の市通りの最北端部、万町三丁目櫻井肥料店裏手に道路開通に伴って、大町大杉神社裏手の湧水池より流れて、市役所の駐車ビル南側にて巴波川に落ちる水路に架けられた橋が有ります。竣功したのは昭和30年8月の表示が有ります。
この橋の名前には、この道路を開通させた当時の地元の人達の気持ちが表れています。
「萬盛橋(まんせいはし)」 萬町(よろずちょう)がこれから更に盛んになります様にと。
萬盛橋1.jpg萬盛橋2.jpg

栃木市昭和町を訪ねる [地図]

栃木の市街地北側に昭和町と言う町名の町が有ります。その名前の由来は昭和になってから誕生をした町という事です。
昭和町の区域は、万町交番前交差点から北に伸びる、県道3号(宇都宮亀和田栃木線)に沿った商業地域に有り、新栃木駅入口交差点を中心として、南側と北側にそれぞれ2ブロック、東側と西側にそれぞれ1ブロック、但し1番南の東側のみ何故か2ブロックの範囲になります。
1ブロックの広さは多少のばらつきは見られますが、南北方向が約110メートル、東西方向約90メートルの長方形になっています。昭和町全体の広さは、南北方向が約450メートル、東西方向は約190メートル(南端の3ブロック有る場所は約280メートルになっています。)
昭和町の南側は泉町と、北東部を含む東側は平柳町1丁目、北西側を大町、南西側は嘉右衛門町と言う、四つの町に囲まれています。
昭和町の周辺の略図を作ってみました。図の中央部オレンジ色に着色した所が昭和町になります。
昭和町周辺略図.jpg
この略図は、昭和48年(1973)修正測量、昭和49年発行国土地理院2万5千分の1地形図を基に作成しています。
略図の下側、赤く着色をした曲がりくねった道路が、旧日光例幣使街道で略図右側方向が南で、例幣使街道が桝形になっている所が、江戸時代に栃木宿の北の木戸が設けられていた所で、現在の万町交番前交差点になります。反対側略図左方向が北で、例幣使街道は次の宿場町の合戦場宿に至ります。現在はこの略図の先で東武日光線の跨線橋となります。そしてこの右と左を直線的に繋いでいる中央の黄色く着色した道路が、通称「北関門通り」と呼ばれていますが、開通したのは昭和11年になります。
現在この北関門通り周辺の道は、碁盤の目の様に東西と南北の道が直行していますが、大正6年(1917)に発行された地形図に依ると、例幣使街道の両側は栃木町から北の一乗院付近まで家並みがずっと繋がっていましたが、その裏側は東側も西側も殆んど水田が広がっていました。ただ東側の星宮神社の周辺は集落が出来ていた為、神社の周辺だけは今も古い曲った、道端に石仏などが残る道路が残っています。
星宮神社.jpg星宮神社2.jpg
(平柳町1丁目に鎮座する星宮神社)     (星宮神社に至る道路脇に建つ石仏)

ところが、その後その田園風景が一変します。例幣使街道の東側に東西南北に直線的に走る道路が現れます。昭和7年発行の地形図にも、その変化の状態が確認できます。現在の北関門通りの位置にも直線道路が出来ていますが、北側はすでに例幣使街道と繋がっていますが、南側は現在の泉町交差点付近で止まって、その南に有る泉町の雲龍寺周辺の町並みはそのまま残されています。
この変化は、大正15年1月から始められた、「下都賀郡栃木町大宮村耕地整理事業」によるものでした。この事業は昭和7年3月に完了しています。
今、大町大杉神社の境内南東の角に、事業の完成を記念する背の高い記念碑が建てられています。
大杉神社1.jpg耕地整理記念碑1.jpg
(昭和町北隣りに鎮座する大町の大杉神社) (境内南東部に建つ耕地整理記念碑)

1965年9月頃撮影した、泉町北東部の変電所付近の写真、昭和町の南東部もその頃はまだ水田が残っています。
1965年9月変電所.jpg
(変電所は大正6年発行の地形図に、初めて水田の中に地図記号が現れています)
昭和町はこうして、昭和11年に開通した北関門通りを中心に次第に人家が増えて来た事で、住民からの要望によって、昭和30年9月8日新しく「昭和町」の誕生と成ったようです。
昭和町誕生当時の町内の世帯数は103戸、人口は466人でした。(昭和30年1月調べ) 
現在は、世帯数は殆ど変らず100戸、人口は大きく減少して239人となっています。(平成28年8月末)
1968年北関門通り.jpg
(1968年撮影、泉町交差点付近より北に向かう北関門通り)
2015年北関門通り.jpg
(2015年に上の写真と同じ感じで北関門通りを撮影しました)

北関門通りは、新栃木駅入口交差点より南側はすでに電線の埋設が済んでいます。そして北側も現在埋設工事が進められ、栃木環状線の大町交差点までは、近いうちにすっきりした町並みに変わります。
2015年北関門通り(中央部).jpg
(新栃木駅入口交差点より南の方向を撮影)
2012年北関門通り.jpg
(新栃木駅入口交差点より北の方向を撮影)

昭和町は今年大きな火災が発生して多くの家屋が焼失してしまいました。今やっとその後片付けも進んでいる様です。又その北側に有ったマンションも解体されて、現在は新しくスポーツジムの建物の建設が進んでいます。
これからも又、元気に新しい町へと変化を続けて行って欲しいと思います。

箱森町一丁目というところ [地図]

私が所属している自治会は、「箱一自治会」と言う、戸数百軒に満たない小さな自治会です。
現在の地図を見ても「箱森町」と言う町名は出ていますが「箱森町一丁目」と言う町名は見当たりません。従って箱一自治会は現在どの地域に当たるのか、知られていません。実は「箱一自治会」に所属している私自身も、正直良く判っていません。
箱森町一丁目と言う町名はどこから出て来たのか、国土地理院発行の「栃木」の地形図を遡って確認をすると、昭和40年3月発行地図に「箱森町」の区域に、「東部」「西部」そして「一丁目」の記載が確認できます。丁度私が子供の頃ですが、確かにあの頃は、「東箱森」「西箱森」それから「箱森一丁目」と言っていました。現在は東箱森自治会が二つに分かれて、「東箱森」「箱森中央」となって、4つの自治会に分かれています。
しかし、昭和49年11月に発行された地形図にはそれらの記載は消え、「箱森町」だけが表示されるようになりました。
私が子供の頃の箱森町一丁目の町内の様子を思い起こして、地図に表わしてみました。
箱一6.jpg
(昭和30年代の箱森町一丁目の様子)
町内の中心となっていたのは、現在信号機の設置されている「錦町五差路」と呼ばれるところです。地図の中央を縦に貫通している道路は、旧鍋山街道で明治33年から昭和8年まで、鍋山人車鉄道が通っていた所です。(当然、私は見た事ありません)
この道路は、南側で入舟町に入り、栃木高校の西側に至ります。北側は箱森町の十二社神社前に至ります。
箱一3.jpg箱一4.jpg
(地元を撮影した写真は意外と有りませんでした。1968年雪の日の鍋山街道)
この間、道路は一直線に出来ています。明治の19年7月発行の地図には描かれていませんから、この道路は明治の中期に鍋山人車鉄道を敷設する目的で通した、計画道路だったのでしょう。
十二社神社の前で方向を少し西に変え、野中町の増山ストアーに一直線に向かっています。
興味深い事は、栃高から十二社の間の道路上から道路前方奥に男体山を臨む事が出来て、十二社前で曲った後は道路前方奥に三峰山(鍋山)を望む様に成るのです。偶然なのか、計画的だったのか。
箱一7.jpg箱一8.jpg
(旧鍋山街道から望む男体山)           (旧鍋山街道から望む三峰山)
箱森町一丁目は、そんな鍋山街道を中心に商店が集まって出来た町で、良く言われる瓦屋さんや農家が多い西箱森や東箱森とは趣が異なります。
場所的にも栃高の直ぐ北西部に有り、入舟町や錦町に隣接する所です。
箱一1.jpg箱一5.jpg
(町内南の端、入舟町との境から栃高が見えました)(柳橋町との境辺りから錦着山を望む)
街の中には日常的に必要な商品を扱うお店が軒を連ねていました。「酒屋」「文房具店」「洋服店」「魚屋」「八百屋」「駄菓子屋」「自転車屋」「理髪店」「材木店」「石材店」「食糧品店」「御産婆さん」「加治屋」「薪屋」「大工さん」「農機具店」そして、あの時代ならではの、「懐炉灰工場」「鼻緒屋」などなど。
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(旧鍋山街道を走っていた関東バス)
今、これらの商店の殆んどが姿を消しています。昼間は通りから人影が無くなりました。ただ、自動車が通過していくだけの街に変わりました。
又、新住居表示に伴ってか、町内の境が道路境界となった事で。従来の「向こう三軒両隣り」の付き合いが分断をされ、箱一自治会は、箱森町区域、錦町区域、小平町区域へと町名が変わり、以前は学区も全員第二小から西中だったところが、錦町区域は中央小から東中へ、小平町は第三小から東中へと変わってしまいました。
元々鍋山街道沿いに出来た町の為、新たに住宅を建てる土地が町内には殆んど有りません、戸数が増加する事は今後もなさそうです。これからどのように変わって行くのか、見て行きたいと思っています。

2万5000分の1地形図の値段 [地図]

先日、東京に出かけた時久しぶりに「八重洲ブックセンター」に寄った。目的は昨年12月1日に発行された地形図「小金井」を購入する為です。私の住む栃木市内では取り扱っている店舗が無く、インターネットにて入手していますが、送料が掛かる為枚数が少ないと利用をためらいます。今回は上京する機会が有ったので、ついでに立ち寄りました。
地図の値段ですが、レシートを見ると消費税込みで339円でした。消費税抜きの定価でも314円と言う半端です。どんなふうに値段を決めているのか興味が有りますね。ちなみに昭文社が発行している「栃木市」の地図は2014年5版1刷購入時は「800円+税」でした。普通はこのな値段設定でしょうね。やはり国土地理院は民間ではないので、値段設定もシビアーなのでしょうか。

あらためて地図の値段が気になったので、手元の「栃木」の地形図をひっくり返してみてみました。結果は次の様になりました。
   (発行年月)  (定価) (著作権所有兼発行者)(参考:鉛筆1本の値段)(鉛筆何本)
 大正 6年 7月 7銭5厘  大日本帝国陸地測量部   5厘(大正10年)  15本
 昭和 7年12月 13銭       同上            1銭(昭和5年)   13本
 昭和22年 9月 3円50銭 地理調査所           2円(昭和22年)  1.8本
 昭和40年 3月 65円    国土地理院         15円(昭和44年)  4.3本
 昭和49年11月 記載なし     同上           20円(昭和48年)
       以降発行された地形図には定価の記載が有りません。
 
大きく見ると地図の値段は安くなっていると思われます。その要因としては、測量技術・測量機器の発達により早く正確に作る事が出来る様になった為と思われます。

基本図として日本全域をカバーする最大の縮尺で最も詳細・正確な地図は、この国土地理院の25,000分の1地形図になります。全国を4,419面(2014年10月現在)でカバーしています。
2009年からは電子化され常時更新される地図や空中写真などのデータベースである電子国土基本図が国土を表す際の基準となる最も基本的な地理空間情報と位置づけられ、25,000分の1地形図も電子国土基本図からの編集により作成されています。

私はまだこうした紙地図を愛用していますが、最近では携帯電話やモバイル機器で地図を見る事の方が一般的になって来た為、地図と言えばデジタル地図を指すようになったようです。デジタル地図であればスクロールして行けば、継ぎ目なく見られますし、拡大すればより詳細な地図が見る事が出来ます。使えば便利なのでしょう。
今回入手した最新の「小金井」の地形図や昨年5月1日発行の「下野藤岡」の地形図は、多色刷となって、高速道路を緑色、国道を赤色、都道府県道を黄色に着色。建物はこれまで市街地の建物密集地を総合描示していましたが、縮尺レベル25,000の電子国土基本図の情報をそのまま縮小し、詳細な建物データをオレンジ色で表示しています。
ただこれらの新しい地図は、行政名や居住地名の表示文字サイズが、半分ぐらい小さくなっている為、年寄りには以前より読み難くなっています。(まだ慣れないからかもしれません)

今日もまた炬燵に入り、これらの紙地図を広げて眺めています。又何か新しい発見が有るかもしれません。
※今回の参考資料として、日本地図センター発行の「二万五千分の一地形図が変わった 進化する地図の世界」を使用させて頂きました。

栃木市内の三角点巡り(その2) [地図]

国土地理院発行の地形図に記されている三角点に付いて、栃木市内に現在は前回(1月8日)に紹介した通り、約105ヶ所記載されています。「約」としたのは現在栃木市全体を2万5千分1の地形図で調べる為には、9枚の地形図を見る事が必要です。
「仙波」・「下野大柿」・「壬生」・「田沼」・「栃木」・「小金井」・「佐野」・「下野藤岡」そして「古河」です。
栃木市関連地形図.jpg

ここで、「田沼」や「佐野」の地形図には、僅かしか栃木市が掛かっていませんが、三角点の設置箇所として意外とこうした境界線上に有る場合が多いのです。
実際「田沼」の地形図内の栃木市区域に設置された三角点は、四等三角点ですが3ヶ所確認出来ました。
 ①「京路戸323.70」:栃木市岩舟町小野寺、村檜神社北西、諏訪岳山頂(佐野市境界)
 ②「西耕地172.78」:栃木市岩舟町小野寺、市立小野寺北小学校西方500mの山頂
 ③「謡 坂163.95」:栃木市岩舟町小野寺、東北自動車道岩舟JCT南西900m(佐野市境界)

そして「佐野」の地形図を確認すると、地形図の右上端に三角点の地図記号が見える。
「韮川138.46」です。栃木市岩舟町古江、佐野市韮川町との境界、東北自動車道西側。
この他にも国土地理院の「基準点成果等閲覧サービス」には、認められないものの栃木市藤岡町都賀の西の端、佐野市越名町に突き出した「西幡張」、三杉川の左岸高台に三角点記号が付いています。この三角点はどうなっているのでしょうか。
という事で、三角点の数は絶えず変わっている為、「約」を付けて表しました。

前回に続き、今回は栃木市内の南部、藤岡町の三角点を何カ所か巡って来ました。
まずは県道252号線(蛭沼川連線)を南に向かって、藤岡町蛭沼へ。県道50号線にぶつかる手前、道路左手の田圃の中に高さ5~6m程の小丘が見えます。ここは「山王寺大桝塚古墳」と言われ、栃木市指定史跡になります。今まで私は数回この場所に来ています。最初は栃木市内の寺院巡りで、山王寺跡として訪れたり、古墳として見学に来たりですが、最近まで三角点の設置場所と言う事に関しては気にしていませんでした。今回三角点を確認するという事で、三角点の有る古墳の上まで登って確認をしました。
幸い今回は冬だったので、古墳一面に生い茂っていた雑草も刈れていて、容易に登ることが出来ました。
ここは「蛭沼」と言う名称の四等三角点で、標高23.77m6mになります。周辺の標高が17m程有りますから、見た目の高さは6m前後となる訳です。
三角点「蛭沼」3.jpg三角点「蛭沼」4.jpg
古墳は、前方後方墳で古墳の南東部に、「藤岡町教育委員会」が設置した説明板が立っています。
古墳の上からの展望は、周りに関東平野の田畑が広がる中に位置する高台の為、見通し抜群です。北北西には一等三角点の有る晃石山を中心に、太平の山並みが横たわっています。
三角点「蛭沼」1.jpg三角点「蛭沼」2.jpg

次は県道50号線を西に進み、蛭沼の西となり「富吉」を抜けて「中根」に、前方道路右脇に火の見櫓が建つその道路左手、大きな杉の木立の中に八幡宮が祀られている。三等三角点の「中根」標高21.54mがこの社殿の北東側裏手に有りました。
三角点「中根」1.jpg三角点「中根」2.jpg

そこから更に県道50号線を西に進むと江川に架かる「下江川橋」を渡り橋の西詰から江川右岸の土手上の道路を川に沿って遡ります。途中「江川橋」「上江川橋」の脇を抜けると少し広い道路に出ます。江川に架かる橋「下車橋」を渡って東の「中根産業団地」に向かうと少し登り坂となります。その坂を上った左手人家の手前に、小さな石の祠が祀られています。その祠の北側に四等三角点「江川」標高21.39mが有りました。
三角点「江川」1.jpg三角点「江川」2.jpg

次に向かったのは藤岡町大前の北西部、東武藤が丘カントリー倶楽部東側の畑の中に設置された、三等三角点「大前」25.82mです。三角点「江川」から西に江川を渡り、県道11号線の交差点を右折して栃木方面へ600m程進むと手押し信号の有る横断歩道が有ります。その手前左に折れて細い道に入り、先の丁字路を右に曲り、道なりに進んで東武日光線の踏切を渡ります。そこから一段と道は狭くなっていきますが、正面の道を選んで真直ぐに進んで行くと、前方にゴルフ場の有る森へ向かって行きます。踏切から500m程の道路の左側畑の中に、三角点の標柱が確認できます。
三角点「大前」2.jpg三角点「大前」1.jpg

今回、栃木市南部の三角点を巡って、なぜここに三角点がと思う所も有りましたが、尚更興味が湧いて来ました。

栃木市内の三角点を巡る。 [地図]

今日は、先日の電子基準点を調べている中で、改めて地形図に表示されている「三角点」に興味が湧いたので、自転車に乗って栃木市内の「三角点」の場所を巡って見ました。
「三角点」については、我家の近くの錦着山の山頂にも設置されているのを、今から50年以上前1964年にカメラに収めました。今回改めて撮影をしましたが、三等三角点と刻まれた文字が少し判読しにくくなっています。
三等三角点錦着山1.jpg三等三角点錦着山2.jpg
(1964年撮影の三等三角点「錦着山」) (1016年撮影の三等三角点「錦着山)

国土地理院発行2万5千分1の地形図「栃木」を見ると、「錦着山」の山頂に当たる所に三角点の地図記号「正三角形の形の中心に丸印」が、そしてその横に設置個所の高さを表す「80.5」の数値。その右側に神社と高塔の地図記号も記されてます。実際の神社や燈台と同じ配置です。
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(三等三角点の有る錦着山上の護国神社)

国土地理院が提供する「基準点成果等閲覧サービス」より、栃木市内に設置されている三角点情報を確認すると、約105ヶ所を数える事が出来ます。この三角点を一等から四等の内訳を見てみると、以下のような結果になります。
 ・一等三角点: 1ヶ所(晃石山)
   ※設置間隔は約40km、必要に応じて約25km間隔の補点が設置されます。
    全国に約1000点、栃木県内には11点(内5点は補点)有ります。
    男体山、三本槍岳(那須岳)、高原山、松倉山、八幡山、晃石山の6点が本点です。
一等三角点晃石山1.jpg一等三角点晃石山2.jpg
(晃石山の山頂に設置された、一等三角点「晃石山」)

 ・二等三角点: 5ヶ所(矢倉山、木山、家中、犬伏、赤麻)
   ※設置間隔は約8km。全国に約5,000点有ります。
    矢倉山は現在の地形図には「谷倉山」と記載されている、鹿沼市下粕尾と栃木市
    星野町、栃木市西方町との境界となる標高599.4mの山になります。
    明治42年発行の5万分1の地形図には「矢倉山」と表記されていました。

 ・三等三角点:35ヶ所(錦着山、大倉山、岩舟山、三峰山、平柳、上高島、中根、新波など)
   ※設置間隔は約4km。全国に約32,000点有ります。
    「平柳」は、栃木市平柳町3丁目の愛宕神社の境内に設置されています。
    愛宕神社は「ステーキドン」の東側に祀られている神社になります。
三等三角点平柳1.jpg三等三角点平柳愛宕神社.jpg
(三等三角点「平柳」の柱石) (境内に三角点が設置されている平柳町3丁目の愛宕神社)

 ・四等三角点:64ヶ所(桜本、癸生、大塚、和泉、法花、蛭沼、小倉、金崎、富張、泉川など)
   ※設置間隔は約2km。全国に約69,000点有ります。
四等三角点西国府1.jpg四等三角点泉川1.jpg四等三角点太平山1.jpg
(四等三角点「西国府」)     (四等三角点「泉川」)     (四等三角点「太平山」)

これらの三角点は常に見直しが行われていて、国土地理院が発行している地形図に三角点の設置箇所を見ると、位置や高さの表記が変化している物が有ります。
2万5千分1の地形図「栃木」で身近な三角点の状況を確認してみると、平成25年発行の最新の地形図には、先の「基準点成果等閲覧サービス」に見える、栃木市小野口町程久保に有った四等三角点「小野口」と、栃木市境町下都賀郡市医師会病院の南側住宅街に有った四等三角点「病院前」の二ヶ所の三角点が地形図から消えました。平成15年発行の地形図までは記載されていました。
これらの2ヶ所の三角点については、「基準点成果等閲覧サービス」を見ても記載有るものの、成果状態には「処置保留」となっていました。

以前、私は「三角点」は山の上にだけ設置されている物と、思っていましたが、設置条件に有る通り私達の身近にも設置されています。「三角点」の設置目的からすれば、通常見晴の良い場所に設置される場合が多いですが、平地に設置されている物も沢山有ります。もともとは見通しの利く場所であったと思われますが、時代の流れの中で、平地に設置された三角点の中には、住宅街の中にうずもれてしまった「三角点」や、圃場整理で移設を余儀なくされた「三角点」も有るようです。

今回巡った「三角点」の中に、二等三角点が2ヶ所有りました。「家中」と「卒島」です。
「家中」は栃木市都賀町家中の桜本に有る、尊照院(薬師堂)境内北側に並ぶ石仏群の後に、結構しっかり保護されて設置されていました。
二等三角点家中1.jpg二等三角点家中2.jpg
(二等三角点が設置された都賀町家中桜本の尊照院境内)  (二等三角点「家中」の柱石)

「卒島」は小山市卒島の北の端、栃木市との境界近くに有ります。県道31号線(栃木小山線)と広域農道との交差点に最近コンビニエンスストアーが出来ましたが、その裏手の道路脇に、二等三角点の柱石が殆んど埋もれるような状態で残っていました。
二等三角点卒島1.jpg二等三角点卒島2.jpg
(二等三角点「卒島」の位置を記す国土地理院が建てた標識と埋もれる柱石)

昭和8年国土地理院発行の2万5千分1の地形図「小金井」を確認すると、この場所は栃木町から瑞穂村卒島に向かって一直線に伸びた道路の西側、一面に広がる水田の中に、桑畑が僅かに残っていたが、三角点は丁度その中に記されていました。昭和55年発行の地形図では農地改良により水田の畦道は直交して桑畑は消え、近くには広域農道が通り、ほぼ現在の形が出来上がっています。そして周辺には宅地が出来水田が見えなくなりました。この三角点から少し南に下がると、そこにはまだ水田が残り、西方には太平の山並みを望むことが出来ます。その山並みの一番高い所が、一等三角点が設置されている「晃石山」419.1mです。
二等三角点卒島南方より望む晃石山.jpg
(二等三角点「卒島」の場所から少し南に移動した点から望む晃石山)

そこから更に自転車を走らせ、榎本に向かいました。榎本の街の北側に記された、三等三角点「榎本」を確認する為です。しかし道路脇の雑草の中に埋もれてしまったのか、確認できませんでした。陽が沈む前にもう一ヶ所をと、そこから大平町富田に戻り、栄町の住宅街に記されている、三等三角点「富田」の確認を行いました。
三等三角点富田周辺.jpg三等三角点富田1.jpg
(旧日光例幣使街道から1本東を並行する道路脇に残る三等三角点「富田」の柱石)
住宅街の一角にそれは残っていました。その場所に立っても四方は住宅に囲まれ、とても見通す事は不可能な場所に成っています。こうした三角点は今後どのようになって行くのか、10年後20年後に出来れば確認してみたい。