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栃木城のこと [地図]

栃木市の市街地中心部から東南東方向へ1,000メートル程の場所に、僅かに濠跡や土塁の一部が修復され史跡として残されています。天正十九年(1591)から慶長十四年(1609)のわずか19年間で廃城と成った「栃木城」の二の丸(東丸)の北側一部と言われています。
栃木城址公園1.jpg
(史跡として整備されている「栃木城址公園」、濠の北西部角より撮影)
私は城郭の研究をしていませんので、良く分かりませんが、城の様子を描いた「縄張り図」というものを見る事が有ります。栃木市内に有る「西方城址」や「眞名子城址」そして「皆川城址」などもこの「縄張り図」が作られています。これらの城は「山城」で有る為、現在でも「桝形虎口」や「竪堀」などの地形が当時の姿を留めている為です。しかし「栃木城」は「平城」だった事と、栃木の市街地に近かった事等により、農地や住宅地に転用され、一部を残すだけで殆んど昔の姿を留めていません。
私もこれまで「栃木城」に関して、郷土史の資料の中に記されている物の内、築城時の様子を記したものが有るか探してきました。
栃木市の歴史ですから、「栃木市史・資料編・近世」の中に当然記載されていました。
≪慶安4年(1651)3月、皆川山城守の城跡≫の項目の中に、都賀郡 1.栃木町古城  平城として、以下の様な城の状態を文書にして表わしています。
     一、城の西入口より栃木町通り迄五町四拾間有り
     一、堀の総めぐり五百拾間有り
     一、本丸東西八拾三間、南北七拾三間
     一、二の丸は本丸から東に有り東西拾壱間、南北三拾六間、
        本丸から南の方の丸東西二拾八間、南北七拾三間
     一、蔵屋敷東西七拾間、南北四拾六間、本丸より北に有り
     一、三の丸は本丸から東に有り、東西二拾八間、南北七拾三間
     一、本丸から南の方の丸東西五拾弐間、南北弐拾間なり
     一、城の大手口表門は南の三の丸から入、裏門は東二の丸から入り
     一、城の惣堀、広さ九間、拾間、田畑に成る
     一、土手は祢をき六間・七間と見へ申候也
     一、城惣かまへ、廻三方は侍町なり
     一、右の城中仙道栃木町東の方に有り
栃木城址案内板.jpg
(栃木城跡公園に建てられている説明板、上記の城の規模が記されています。)
この史料の出所は、正保国絵図作成時に幕府の命令により宇都宮藩が調査作成をした、下野国内の地理調査報告書「下野一国」、奥書に慶安4年と成っています。(東西文献刊)
同じく栃木市発行の「目で見る栃木市史」の中にも、「栃木城」と題して上記の城の状態を少し読み下した感じで、長さ(間表示)はメートル換算値を併記しています。「目で見る栃木市史」ですが城の縄張り図の様な絵図の掲載はされていません。ただ、「栃木城址(市指定史跡)」として現在の城址の写真を掲載して、≪現存しているものは、東丸の北部の土塁と濠の一部である。・・・≫と、説明を加えています。
城址脇に建つ家屋.jpg
(栃木城跡公園の西側に建つ武家屋敷の趣を持つ家屋)
他にも、下野新聞社が昭和50年4月20日に発行した「栃木の城」や、日向野徳久先生が昭和27年10月10日に初版を著した「北関東における一封建都市の研究」の中でも栃木城について記していますが、規模等についてはやはり上記に記した内容に留まっています。
栃木市周辺の歴史研究に長年携われ、多くの著書に係わられた日向野先生をして、それ以上の史料を見い出せていないと言う事は、栃木城の絵図面等は残っていないと考えて良いのでしょうか。
更に栃木城の様子を絵図として描いている資料は無いものかと、文献をあさって行くと、昭和52年8月20日発行「栃木郷土史」(著者:栃木郷土史編纂委員会)の巻頭部に、栃木町の古地図などと一緒に「栃木城復原推定図」(研究製図 粟野健太郎)の絵図面が掲載されています。
又、昭和53年12月、栃木城跡保存会発行の「栃木城と栃木城内村」の冊子巻頭に、「栃木城略図」(岸慶蔵想定)の絵図面が掲載されている事を、最近知りました。(栃木城跡保存会は地元栃木城内町を中心に、栃木城に関する研究調査をされている会)

そこで、これらの想定図等を参考にさせて頂き、私の思い描く栃木城を「見える化」してみたくなりました。それは栃木城のそれだけでなく、栃木町との関係を含めて少し広い視野で位置関係が分かる様にしよと試みました。下の塗り絵が私がこれまで収集した情報を基に描いた図に成ります。
栃木城址周辺図1.jpg栃木城址周辺図2.jpg
(栃木町と栃木城の関係図)
この図のベースとして使用した地形図は、明治19年7月発行二万分一、迅速測図「栃木町」ですので、当然栃木城が築城された天正十九年当時とは違います。栃木町もまだまだ城下町として寺社を配置して、主要道路を通し町の形体を整えている時ですから。ただこの迅速測図を見ると、現在の栃木城跡周辺にハッキリと土塁や濠跡ではと思われる段差の印が認められます。その一番の高台に当たる所に三角点記号が見えます。標高46.35メートルの数字も見えます。この場所は現在「TSUTAYA栃木城内店」付近です。三角点は現在栃木第四小学校の校庭内に変更されていますが、その標高は42.5メートルですから、明治期には4メートル程の小丘が存在していた事が見て取れます。
絵図には現在の位置関係が分かり易くなるよう、JR両毛線・東武日光線の線路を破線で記入しました。
栃木城跡一帯の地域(城ノ内周辺の赤く着色した所)は、栃木市文化課主催の文化講座にて入手した資料を参照しています。
先の「栃木城復原推定図」や「栃木城略図」にも記されていますが、栃木城の周辺の地名として、「田宿」「大宿」「紺屋町」「川島」などが見られますが、これらの地名は現在も自治公民館や杢冷川に架かる橋の名前として確認する事が出来ます。
下田宿公民館.jpg大宿公民館.jpg
(下田宿公民館と田宿聖観世音堂)          (大宿公民館)
今、小山街道沿いに建つ観音堂は「田宿聖観世音」を祀り、都賀三十三観音霊場第27番札所でした。
紺屋橋 .jpg紺屋橋の親柱.jpg
(杢冷川に架かる「紺屋橋」)
本町の長清寺の裏手を東から西に流れている杢冷川、長清寺の丁度北東部角に架かる小さな橋、親柱を良く見ると「紺屋橋」の文字を読み取れます。この周辺は元「こうや町(紺屋町)」と呼ばれていました。≪城内の紺染めを扱う工場の有った所と思われる≫と先の冊子にも記されています。
旧川嶋橋1.jpg川嶋橋.jpg
(以前の「川嶋橋」に有った親柱)  (現在の川島橋、橋名が分かるものは何も無い)
本町の長清寺の裏を流れた杢冷川はその後、壬子俱楽部の前を流れ、その後流れを南に変え、栃木文化会館方向に流れる。その間に「本橋」「一二三橋」「川島橋」「旭橋」と幾つかの小さな橋が架けられています。現在は架け替えられて親柱が無くなりましたが、「川島橋」には「川嶋橋」と刻した親柱が有りました。この辺りが元「川島」と言う地名であった名残りが、又無くなり忘れ去られようとしています。

又、周辺の寺社もこの栃木城築城時に現在地に移されたものが、ほぼ当時のまま現在に至っており、位置関係を把握するのに重要な目標物に成ります。
東宮神社(神田町).jpg稲荷神社(城内町一丁目).jpg
(神田町の東宮神社)                (城内町1丁目の稲荷神社)
≪城内のもと神明宮の有った近くに祀られている東宮神社は、皆川広照が皆川の東宮神社を分祠したものであり、栃木城の鬼門に祀ったものと思われる。≫(目で見る栃木市史より)
≪内の城の西南方にある稲荷神社は皆川秀光の建立したもので一に城の内稲荷、俗に鬼門稲荷と言われ少しの位置の変更も無く昔のままに祀られてあります。≫(栃木名所旧蹟物語、大浦倉蔵編より)
ただ、稲荷神社は栃木駅の高架化や道路新設等の影響により移転を余儀なくされ現在の場所に祀られています。
自分で想定した本丸や二の丸三の丸の配置ですが、栃木城跡をあらわした条件が上手く合わない項目(城の大手口表門や裏門の位置)が有るので間違っているのでしょう。ジグソーパズルでは有りませんが、どの位置に置けばすべてがマッチするのか、まだまだ難題だらけです。


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