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懐炉灰の思い出 [懐かしい写真]

少し前の事です。「歴史と文化を歩く会ー栃木ー」の会長さんから一つの情報が入りました。
「栃木市新井町の赤津川近くに、かつて懐炉灰の原灰を製造していた跡が残っているから、見に行きませんか。」と。

新井町は私の母方の祖母の生まれた所で、私も子供の頃から母に連れられて、良く行っていました。
私が中学生の頃に撮影した、新井町の風景写真がアルバムに残っています。
1965年12月撮影新井町.jpg
この写真は1965年12月頃に撮ったもので、手前に広がる収穫を終えた田んぼの先に、藁ぶき屋根と思われる農家が見えます。写真右手に懐炉灰の原料となる「オガラ」が高く積まれています。
撮影した頃の私は、それが何であるか知ることは有りませんでした。

「オガラ」を広辞苑で引いてみると、「苧殻」や「麻幹」の漢字で表されています。「オガラ」は、麻の皮を剥いだ茎の部分になります。現在「オガラ」の現物を見られるのは、盂蘭盆の際に迎え火や、送り火として焚く為、スーパーマーケットなどで、盆前に店頭に並ぶ「お盆セット」の中に入っている、軽い木質の棒のようなものです。

私のアルバムの中に再びその「オガラ」の山が写っている写真が見えるのは、1977年12月です。新井町の瓦製造の写真を撮影した時の事、近くに見えた「オガラ」の山をカメラに収めたものです。
1977年1月撮影新井町 (1).jpg1977年1月撮影新井町 (3).jpg
その時も、なぜここに「オガラ」が積まれているのか分かっていませんでした。

今回、それらの写真の謎が解けたのでした。そこには、この「オガラ」を焼いて、懐炉灰の原灰を製造する作業場が有ったのでした。
その現地を見学に行くと、作業場は既に廃業されていて、その原灰を製造する為、オガラを焼いた窯跡(窯と言っても地面に直径90cmほどのコンクリート製円筒管を埋めて作られた穴)が、コンクリートの土間に12か所残されていました。その穴も既に土に埋まっていましたが、2列に6か所並んでいるのが確認できます。
2023年4月21日撮影懐炉灰の原灰製造跡.jpg

かつて、この場所で、どのような製造工程で、どのような作業が行われて、「オガラ」が「原灰」に変わるのか、もう見る事は出来ません。

私の懐炉灰の思い出は、更に遡り小学校低学年の頃に有りました。我が家の近くに「懐炉灰屋さん」と呼ばれる家が有りました。開け放たれた工場の窓の中に、何やら機械が並び、おばさんたちがそこで作業をしていました。細長い紙筒に黒い粉末を詰めていました。
私は近所の仲間たちと連れだって、というか、まだ私は小さかったので、上級生らに連れられて、その工場の隅で、懐炉灰を詰めた紙の筒を化粧箱に並べて入れる作業をしてました。そして帰りにお小遣いの5円玉を手にして帰りました。その作業はそれほど長い期間では無く、一時の記憶として残っているだけです。

もう、60年以上も昔の記憶です。が、今もその時の光景が甦ってきました。
栃木市史によると、栃木市のカイロ灰工業は、昭和20年まで全国生産の95パーセントをほこっていたと言います。しかし、「使いすてカイロ」が出てきた事で、カイロ灰式の懐炉はすっかり姿を消しました。



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昭和の風景「栃木駅周辺」 [懐かしい写真]

昭和の風景として、栃木駅周辺の写真を紹介します。
昭和と言っても、私が撮影をしたものですから、昭和50年から昭和60年頃の栃木駅周辺に成ります。
写真の前に、栃木駅周辺が、どのように変化したか、3枚駅周辺の道路の変遷概略図を作ってみました。

最初は明治期の始めの様子を、明治前期測量 2万分1フランス式彩色地図、「栃木縣下野國下都賀郡栃木町」を参考に描きました。
「栃木町」のこの迅速測図は、明治19年に作成されていますので、その当時はまだ両毛線は開通していませんので、当然「栃木駅」もまだ姿を現していません。
栃木駅周辺の道路網 (明治).jpg

上の道路図だけでは、なかなか場所の特定が出来ないと思いますので、2枚目は一気に百年後「昭和61年」の栃木駅周辺の道路の様子を掲示します。
栃木駅周辺の道路網 (昭和).jpg

栃木駅は、明治21年(1888)5月22日に両毛線の開通と共に開業しました。
東武線は昭和4年(1929)4月1日、杉戸・新鹿沼間が開通しました。
道路は、旧例幣使街道はほぼ昔のままですが、駅北口から放射状に道路が伸びています。しかしこの時期でもまだ駅の南側は開発が遅れて水田が広がったままの状態でした。

そして3枚目は「平成」の栃木駅周辺の様子です。
栃木駅周辺の道路網 (平成).jpg

元号が昭和から平成に変わった1989年、栃木駅前土地区画整理事業が着手となり、平成3年(1991)には栃木駅南土地区画整理事業もスタートしました。
これにより、駅の南側の開発も進み、北口南口両方に駅前ロータリーが整備されています。大きな変化は平成12年(2000年)に東武線が、続いて平成15年(2003)に両毛線が高架化され、駅の東西に有った踏切も無くなり、道路の渋滞も解消されています。

それでは栃木駅の高架化ですっかり変わってしまった、昭和の栃木駅周辺の風景を見ていきたいと思います。
最初は昭和50年(1975)1月、駅の連絡橋からの構内の雪景色です。
連絡橋から駅西方向、太平山を望む(1975年).jpg
太平山を望む西方向の様子。構内には石灰運搬用の貨車が多く見られます。両毛線が真っ直ぐ西に向かって伸びています。東武線は写真左端、前方で左にカーブしています。

東武線連絡通路から駅東方向を(1974年).jpg
反対側東方向を望むと、左端に栃木駅舎の屋根。中央奥に写る煙突は、東武線(右側)と両毛線(左側)に挟まれた「鳥海味噌」工場のものです。

次に高架化で姿を消した踏切の様子。昭和51年から昭和53年頃に撮影したものです。
第一佐野踏切(昭和51年頃).jpg
上の写真は駅の西側、栃木自動車教習所の南東側に有った、両毛線の踏切です。写真右奥に栃木駅の連絡橋が見えます。その駅舎とこの踏切との間、線路の北側には石灰会社の倉庫や貨車溜まりが有りました。
石灰会社の倉庫(1974).jpg
昭和48年(1973)撮影、栃木駅西側の石灰会社倉庫。

石灰会社の倉庫(1975).jpg
昭和50年(1975)撮影、栃木駅西側、石灰会社の貨物積み込みエリア。

次は駅の東側の踏切です。
両毛線沼和田踏切(昭和51年頃).jpg
上の写真は昭和51年(1976)撮影、両毛線沼和田踏切を北東角から、鳥海味噌工場方向を望む。
駅東側、沼和田両毛線踏切(1978年).jpg
上の写真も同じく両毛線沼和田踏切の南東角から西の栃木駅方向を写しています。

この両毛線の踏切の南側には、もう一ヶ所踏切が有りました。東武日光線の踏切です。
ですから、この道路を通行する為には、続けざまに二つの踏切を渡らなければなりませんでした。
駅の直ぐ傍の踏切の為、閉まると結構な時間電車の通過を待たなければならず、運が悪いと両方の踏切がしまって、間に閉じ込められて不安を感じる事も有ったのではないでしょうか。

私はこの東武線の踏切を一度定点撮影の様な真似事をしました。最近の状況も含めて、ご紹介します。
最初に撮影をしたのは昭和41年(1966)だったと思います。
1966年沼和田東武線踏切.jpg
この写真は踏切の南西脇から写しています。浅草行の普通電車が接近してきています。
写真を見ると分かりますが、この頃はワイヤーロープが下がって来て通行を遮る方式でした。

昭和50年(1975)代に、ほぼ同じ場所から、ほぼ同じ方向に向かって撮影しています。
1974年沼和田東武線踏切.jpg
特急きぬが接近してきています。踏切は現在と同じ、バーが両サイドから円弧を描いて下りてくる形式に変わっています。警報ランプも見えます。
線路の北側に、「トリウミ きぬごし味噌」と大書した工場建屋が見えます。

3枚目は平成25年(2013)にほぼ同じ場所同じ方向を写した写真です。
2013年9月23日栃木駅周辺 (1).jpg
高架化により風景は大きく変わって、踏切も無くなりました。

最後に昭和の栃木駅に行きましょう。夜の栃木駅です。昭和51年(1976)に撮影しました。
栃木駅前夜景(昭和51年頃).jpg
写真左の端に写っているのが、駅前交番。その横に公衆電話ボックスが並んでいます。駅前にメンズショップが有りましたね。駅前広場にはロータリーもまだ有りません。
同じころ駅前に有ったイトーヨーカドーの屋上から撮影した栃木駅の風景も紹介します。
栃木駅前ヨーカドー屋上より(昭和51年頃).jpg
こうして改めて見ると、栃木駅前は意外と雑然としていたものですね。そして駅南にはまだ多くの田畑が広がっていました。

駅の中に入って行きます。1974年から1975年頃の撮影したものです。
改札口を入って1番線、小山方面ホームの様子を、2番線ホームより撮影しました。
両毛線2番線ホームより1番線ホームを撮影.jpg
その1番線ホームより、2・3番線ホーム、さらにその奥の東武線ホームを写した写真です。
1番線ホームより東武線ホームを撮影.jpg
そして、一番南側の東武線ホームの様子を写した写真。特急きぬ号が通過中
東武線ホームの様子.jpg

この間までこの駅から東京や日光・宇都宮方面に出かけていたのに、もう昔のことになってしまいました。
栃木駅も今はすっかり変わってしまいました。


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栃木の盆踊り唄 あれこれ [懐かしい写真]

8月ももうすぐ終わり、新型コロナ感染症の蔓延で、栃木市も未だに緊急事態宣言下に居ます。
不要不急の外出は自粛、市内の多くの公共施設が閉鎖となっています。
毎年行われていた夏のイベントも、何もかも中止に成り、街中の人通りもまばらです。

例年の8月であれば、あちらこちらで、「夏祭り」だ、「盆踊り大会」だ、「納涼祭」だ、等として夏を満喫しているところなのにと思います。

そこで、今回はそんな夏の風物詩のひとつ、「盆踊り」についての私の幼いころからの思い出を辿ってみたいと思います。

まだ小学校に通う前だったろうか、両親に連れられて「盆踊り」に行った時の記憶です。
会場は、栃木神明宮の南隣、現在「第二公園」となっている所。現在広場の中央にはクスノキが、大きく枝を伸ばして真夏に良い木陰を作っています。
第二公園のクスノキ.jpg
(今や第二公園のシンボル的存在のクスノキ)
今は無くなっていますが、そのクスノキの横に螺旋の滑り台が有って子供達が元気に遊んでいました。
第二公園の遊具で遊ぶ子供たち.jpg
(クスノキの下に有った螺旋状の滑り台、いつの間にか無くなっていました)
そのクスノキが、かつてどうだったのかもちろん記憶は有りませんが、その広場に櫓が組まれ、櫓から四方に祭提灯が架けられ、櫓の上では賑やかに笛や太鼓や鐘によるお囃子が演奏され、しわがれた爺さんの声がスピーカーから流れていました。
(ここで歌われていたものが、昔からこの地方で唄い伝えられた「盆踊り唄・口説き節」であることは、ずっと後の大人になってから知りました。「栃木市史 民俗編」の中に、「盆踊りの音頭」として、沢山の歌詞が紹介されています。「鈴木主水(もんど)」とか、「お吉清左」「国定忠治」などなど、聞き覚えが有りました。)
会場は大勢の人だかりで、小さかった私は、会場の中の様子を見る事は出来ませんでした。
曲が変わり、女性の歌声と成り、それが幼かった私の耳にも心地よく聞こえていました。それが「栃木音頭」でした。

小さい頃に、家に40センチメートル四方の、木製の箱型の蓄音器が有りました。蓋を開けるとターンテーブルが有り、レコード盤をセットしてハンドルを回して作動させました。何枚か残っていたレコード盤の中に「栃木音頭」と記された音盤が有り、何度か聞いた記憶が有りましたが、どんな曲だったかは全く記憶していません。

「栃木音頭」の歌詞を、しっかりと意識して聞いたのは、二十歳を過ぎてからで、勤労者が集う「勤労青少年ホーム」を利用するようになって、そこでお囃子会のメンバーに入って、八木節とか日光和楽音頭などと共に練習をしたのが始まりでした。
大杉囃子を練習するのに、仲間たちと小山市の小薬や小宅方面に出かけて、お囃子の練習している所を探しては、カセットテープに録音をさせて貰いました。(そのテープは今も大切に保管しています。)
「栃木音頭」や「栃木小唄」は踊り方を、民謡会の踊りの先生に教えて貰いました。
昭和47年8月には、勤労青少年ホームのテニスコートに本格的な櫓を組んで頂き、初めて櫓の上でお囃子を演奏しました。演奏するのはやはり日光和楽音頭と八木節でした。
「栃木音頭」と「栃木小唄」は録音され曲を流して踊って楽しみました。
栃木青少年ホーム盆踊り大会.jpg
(栃木市勤労青少年ホームのテニスコートで行われた盆踊り大会)
その当時は、盆踊りが盛大に行われていたのは、日光市の古河電気工業や真岡市でした。近くでは壬生町で藤井の「かんぴょう音頭」が有り、お囃子仲間と見に行ってきました。
その頃、栃木市では各地域、自治会等で盆踊りが行われていましたが、栃木市でも大きな祭にしたいと、栃木青年会議所が提唱して、昭和48年8月のお盆に、「10万人栃木まつり」として開催されました。
東中校庭に出現した盆踊りの櫓.jpg
(東中学校の校庭に組まれた櫓)
祭の初日は「栃木ヤングフェスティバル」として若者達が中心となってとして企画されました。
10万人栃木祭ヤングフェッティバル1.jpg
(中高生をはじめ、多くの若者が会場いっぱいに溢れた)
10万人栃木祭ヤングフェッセィバル.jpg
(櫓の脇で、井桁に組まれた丸太に火を付け、フィナーレのキャンプファイヤを楽しむ)

此の時昔から盆踊りで歌われてきた口説き節をリニューアルして「栃木やぐら音頭」がお披露目されました。
私が幼い時聞いた盆踊り唄です。
「栃木やぐら音頭」は、八木節と同じ歌詞で、七・七調です。八木節との違いは、お囃子と唄とがワンフレーズ毎に交互に唄い演奏されます。

<栃木名物 読み上げまする
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ

 陸の松島 太平山よ
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ

 桜つつじの 錦着山よ
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ

 女人平家で あの有名な
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ

 吉屋信子の 学びしところ
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ>
 
こんな感じで、音頭取りと囃子が掛け合いながら、進んで行きます。
上記の歌詞は、私が思い出すまま書きましたから、順不同かもしれませんが。
  
又、櫓音頭では音頭取りが交代するたびに、次のような口上が唄われます。

 <前の先生は 関東一よ
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ
 
  関東どころか 日本で一よ
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ
 
  前の先生の 読んだるように
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ
 
  うまいわけには 読めないけれど
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ
 
  鈴木主水を 読みあげまする
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ>

 こうして本題に入って行きます。ただ多くの唄の歌詞が長い為、まず最後まで唄われる事は無いようです。
 そこで

<まあだ まだまだ 読みたいけれど
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ

 後に先生 やまなすほどに
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ
 
 後は頼むよ 大先生に
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ
 
 頼みまするよ 品よく頼む
 トンツク トコツク トン ツクツ ツ トンツク トコツク ツ>

 こうして、音頭取りが順番に交代して行きます。
音頭取りによって、スピードが遅くなったり、調子が変わったりしますが、それも愛嬌に成ります。
調子よければ、踊りの輪もドンドン広がって行きます。
 
 
東中の校庭に櫓を組んで行われた盆踊りは2年間で、昭和50年8月から踊りの会場は大通りに変わりました。
大通り会場の踊りの列.jpg

大通り会場の踊りの列2.jpgしなやかに踊る.jpg
演奏に熱が入る.jpg

盆踊り唄として、メインは「栃木櫓音頭」と成りましたが、まだその頃は、各地域自治会等で開催される盆踊りでは、ま「日光和楽踊り」や「栃木音頭」も踊られました。

私の好みとしては「栃木音頭」が一番です。唄うような調子で筆記してみました。

<手拍子揃えて 踊りゃんせ~ (トコスットン スットントン トコ トコスットン スットントン)

  はぁあ~ あ あ あ あ~ あ~え~
  晴れの栃ぃ木ぃい~に~   コリャセ
  春ぅ 風ぇ 吹けぇばぁ~~
  街は黄金ぇえ~の コリャセ 
  街は黄金ぇえ~のぉ 花ぁ吹雪~
 手拍子揃えて 踊りゃんせ~ (トコスットン スットントン トコ トコスットン スットントン)

  はぁあ~ あ あ あ あ~ あ~え~
  春は 絵巻~ぃ~の コリャセ
  錦~着~山ぁに~
  つづく 花ぁ笠 コリャセ
  つづく 花笠 人ぉ~の 波
 手拍子揃えて 踊りゃんせ~ (トコスットン スットントン トコ トコスットン スットントン)

  はぁあ~ あ あ あ あ~ あ~え~
  唄も~可愛~い~い コリャセ
  娘ぇは 見頃~
  麻は 刈り~頃 コリャセ
  麻は 刈り頃 使ぁ~い頃
 手拍子揃えて 踊りゃんせ~ (トコスットン スットントン トコ トコスットン スットントン)

  はぁあ~ あ あ あ あ~ あ~え~
  さあっさ 繰りぃ~出~せ コリャセ
  祭~りの 太鼓~
  ドンと 響くぅ~は コリャセ
  ドンと 響くぅは 寄せぇ~太鼓
 手拍子揃えて 踊りゃんせ~ (トコスットン スットントン トコ トコスットン スットントン)

  はぁあ~ あ あ あ あ~ あ~え~
  さあっさ 踊~ろ~よ コリャセ
  シャ シャ~ン~ガ~ シャン~ト~
  花の 栃ぃ木ぃい~に コリャセ
  花の 栃木に~ 陽がぁ~昇る
 手拍子揃えて 踊りゃんせ~ (トコスットン スットントン トコ トコスットン スットントン)>

 前出した「栃木市史 民俗編」の中には上記の「栃木音頭」は掲載されていません。タイトルが「栃木音頭」と同じ名前の唄が有りましたが、私はそちらは聞いた事が有りません。

「栃木小唄」と言うものも有りました。これも「栃木市史 民俗編」の中に、サトウハチロー作詞の歌詞が掲載されていますが、私が知っている「栃木小唄」は又別の曲で、これも掲載されていません。

<ハァ~ ア~ ア~
 春は 花から ほのぼの 明けてょ~
 桜 つつじの 錦着山も~
 呼べよ 栃木の 晴れ姿 晴れ姿
 やんれ 栃木は よい ところ~

 ハァ~ ア~ ア~
 夏は あの娘と ネオンの 街をょ~ 
 涼み がてらに 仲よ~く ぬ~け~て~
 嬉~し 巴波の 蛍~狩 蛍狩
 やんれ 栃木は よい ところ~

 ハァ~ ア~ ア~
 秋は 太平 絵のよに 映えてょ~
 紅葉 錦の 化粧~姿~
 霞む 筑波も はづか~しや はづかしや
 やんれ 栃木は よい ところ~

 ハァ~ ア~ ア~
 冬は 山脈 屏風~に すえてよ~
 雪も 風情の 栃木の 街は
 あつ~い 人情の 花の~郷 花の郷
 やんれ 栃木は よい ところ~

 ハァ~ ア~ ア~
 さあっさ 踊ろよ 仲良く まるくょ~
 踊りゃ お国も まんま~る なぁ~て
 栃~木 繁昌の 灯もお~どる 灯もおどる
 やんれ 栃木は よい ところ~>

 上の「栃木音頭」も「栃木小唄」も、元々は栃木の花柳界の、芸者さん達により、お座敷で披露されていたものだったのでしょうか。演奏も三味線や小太鼓だった記憶が有ります。(録音していたテープは紛失しました)

幼いころの盆踊りの夜 人混みの向こうから聞こえた耳触りの良いお姉さんたちが唄う、盆踊り唄の思い出です。
又、踊りたくなりますね。


 

  

  



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東京晴海、東京国際見本市会場の思い出 [懐かしい写真]

現在、東京国際展示場と言えば、お台場にある「東京ビックサイト」ですが、私が若かった頃は東京晴海の東京国際見本市会場でした。
私が初めてその場所に行ったのは、今から50年以上も前、高校生の時で、学校の行事として「東京モーターショー」を見学する為に行ったのが、「東京国際見本市会場」でした。
東京モーターショー1968.jpg
東京国際見本市会場東館(ドーム館)
東京モーターショー1968-2.jpg東京モーターショー1968-1.jpg
ホンダ・F-1カー                マツダ・コスモスポーツ(ロータリーエンジン搭載)
ともかく会場には人が溢れ、特に人気の有った自動車メーカーの展示ブースは思う様に見学する事が出来なかった記憶が残っています。

社会人になった年に、今度は会社の同僚4人で又、東京モーターショーを見に行く計画をして、その一人が親の乗用車を借りて出かける手はずだったのですが、思わぬハプニングが起きてその年は行くことが出来無くなったのです。
その時のハプニングとは、今では笑い話で済まされますが、出発の前日に、乗って行く車にガソリンを補給したり、タイヤの空気圧を点検して、万全の態勢で当日を迎え、早朝意気揚々出発したまでは良かったのですが、走り出して暫らくしたところで、タイヤがパンクをしてしまったのです、それも3本共。1本であればスペアタイヤに交換して、走行再開する所ですが、3本共パンクしたのです。これで完全に走行不可。
原因はタイヤの空気圧2.0kg/平方センチメートルを勘違いをしてその10倍入れてしまっていたので、その圧力に耐えられずタイヤが爆発してしまった事が判明。早朝でまだほとんど車が走っていなかった頃で、大事に至らなかった事が幸いでした。今では懐かしい思い出の一つになっています。

その後も晴海の展示場には、幾度となく出かけました。
東京モーターショー1970.jpg
1970年、東京モーターショーにて

それはモーターショーだけではなく、仕事上必要な新しい情報を得る為でも有りました。「エレクトロニクスショー」や「省力機器展」など、その中で気になった所ではカタログを入手。帰りはカタログの手提げ袋を幾つも抱えて帰って来たものです。
国際ウエルディング展2.jpg国際ウエルディング展1.jpg
国際ウエルディング展3.jpg国際ウエルディング展4.jpg

晴海の会場までは東京駅丸の内北口付近から、直通シャトルバスを利用しました。帰りは何時もバス乗り場に長蛇の列が出来ていたので、ブラブラ歩いて途中写真を撮りながら帰ったものです。
勝鬨橋.jpg聖路加国際病院1973年.jpg
勝鬨橋                    東京聖路加国際病院

その後国際展示場は、千葉の幕張メッセや東京有明のビックサイトへと移りました。
幕張メッセ1.jpg幕張メッセ2.jpg
千葉県の幕張メッセ
東京ビックサイト1.jpg東京ビックサイト2.jpg
東京有明の東京ビックサイト

会場は変わりましたが、イベント会場は何時も大勢の人で、熱気に溢れていました。

現在晴海の東京国際見本市会場の跡地には、東京オリンピックの選手村として、幾つものビルが立ち並んでいます。
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古い1枚の写真について [懐かしい写真]

私が写真撮影に興味を持ったのは子供の頃で、中学生の頃には今では見なくなったハーフサイズのカメラを使って友達の写真などを撮って遊んでいました。高校に入学と同時に写真部に入部、一眼レフカメラを入手しました。
高校一年の夏休みに、友達と自動二輪車の運転免許試験場に行き、免許証を取ることが出来ました。バイクに乗る様になって、私の写真撮影エリアーは大きく広がりました。
その頃はフィルムは24枚とか36枚撮りで、撮影も一ヶ所で数枚、時には1枚しか撮りません。ですから今その頃の写真を見ると、どこで撮影したものか全く記憶に無い写真も結構あります。

そんな写真の一枚が今回の内容です。
1968年万福寺.jpg

この写真、1968年に撮影されたもので、この写真の前後には栃木市泉町の「雲龍寺」、壬生町の「円宗寺」「壬生寺」「興光寺」「高雄神社」、そして栃木市に戻って「近龍寺」や「神明宮」「長清寺」「正覚寺」などの神社仏閣が写っています。他に、同様に場所が特定できない神社も混ざっています。

数年前に、近隣の寺院を「堂々巡り」と題して、このブログで紹介させて頂きました。その為現地を確認して歩いていますが、その中でも上の写真の建物を持つ寺院に巡り合っていませんでした。

ずうっと疑問に感じていましたが、先日たまたまインターネット上にて、栃木市旭町の「満福寺」の公式ホームページを閲覧した時です。その中に「昭和40年頃の当山」との説明書きの有る上空から撮影したと思われる写真を見ていると、建物の配置や形、電柱や木の状態が同じである事に気付いたのです。

私の記憶に残る「満福寺」と言うと、この建物のイメージだったのです。
1979年6月万福寺.jpg
(満福寺旧本堂、現在は「太子堂」)
この写真は1979年に撮影したものです。
ですから、全然想像もしていなかった寺院です。
栃木市旭町の満福寺の写真と分かっても、信じられない感情が強く残っています。
小学生の頃は、良く神明宮の周り、第二公園の瓢箪池の周りで遊んでいましたが、満福寺まではテリトリーに入っていませんでしたから。

念の為に、写真左奥に写るお堂の形を、現在満福寺の「太子堂(旧本堂)」に向かって左手側に建つ「観音堂」の外観と良く比較してみると、同じである事が分かります。
2013年万福寺観音堂.jpg
(2013年撮影、満福寺観音堂)

「満福寺」の事に関しては、2014年12月2日に「三鬼尊を祀るお寺」として、このブログ「巴波川日記」の中で紹介しておりますので、今回はこの何所か分からなかった、古い写真の寺院が、かつての「満福寺」だったと判明したうれしさで、書いています。

もう一つ、私の記憶に残る「満福寺」と言うと、やはり北側の築地塀の風景ですが、この風景も今はもう見る事が出来ません。
1974年12月万福寺北側.jpg 

現在の「満福寺」は、伽藍や周辺整備が進み、本堂も新しく江戸時代と同様に南向きに建てられました。
2014年万福寺本堂.jpg
(2011年新しく建てられた本堂「大毘盧遮那殿」)
2014年万福寺.jpg
(以前の本堂は「太子堂」として改修されています。)
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私が撮り続けた、栃木秋祭りの思い出 [懐かしい写真]

今年、2018年は栃木市秋祭り、人形山車出御の年です。以前は5年間隔でしたが、2006年以降は2年に1度の出御に変更と成りましたので、祭り好きにとっては歓迎する所です。
「写真撮影が趣味」と言うより、運動するのが苦手で、人と交流する事もそんなに得意でなかったので、一人で楽しめる写真撮影が、その頃の私には打って付けだったのかも知れません。
今、秋祭りの日が近く成って来て、ふと、私がこれまで撮影して来た祭りの写真を見返してみました。
古いアルバムには、ピンボケした物や、色褪せてしまったカラー写真も多いですが、そんな写真を眺めていると、忘れてしまったその頃の風景が、断片的ですが蘇えって来るのでした。

私が初めて人形山車を撮影したのは、昭和41年(1966)でした。まだ白黒フィルムでしたし、高校生で金銭的余裕も無かったので、撮影した枚数はたったの6枚でした。それも何故か夜間で山車も小屋の中に入った状態での撮影でした。なぜ昼間の写真を撮らなかったのか、それは思い出せません。
1966秋2.jpg1966秋1.jpg

次が5年後の昭和46年(1971)です。この頃にはカラーフィルムも使い始めていました。撮影枚数は24枚でした。
1971秋1.jpg1971秋2.jpg

2枚の写真とも、倭町の大通りに有った歩道橋付近で撮影した物、1枚は歩道橋の上から人形山車を撮っています。歩道橋が設置して有った場所は、現在の「蔵の街第一駐車場」の前に成ります。その為万町一・二・三丁目の人形山車はこの歩道橋の下を潜る事が出来なかったので、ここでUターンして戻る事に成りました。又、通りを横断する電線等も多かった為、山車の巡行時は、山車の上層部や人形を下げていました。

5年後の昭和51年(1976)は、市制40周年に当たりました。この年私はカラーフィルム2本57枚、モノクロフィルム1本39枚の写真を撮りまくっています。
1976秋1.jpg1976秋2.jpg

写真は2枚とも秋祭り名物の「ぶっつけ」の様子を写しています。上記の歩道橋を挟んで倭町二丁目「神武天皇」の山車(左側)と、万町一丁目「天照大神」の山車(右側)とのぶっつけです。
そして右のモノクロ写真は、歩道橋を潜って万町側に巡行して来た室町「桃太郎」の山車(手前)と、それを迎える万町一丁目・ニ丁目の山車とのぶっつけの様子です。
この年見られたのは、倭一「獅子頭」、倭二「神武天皇」、倭三「静御前」、万一「天照大神」、万二「関羽雲長」、万三「素盞嗚尊」、泉「諌鼓鶏」でした。

昭和56年(1981)の秋祭りは、初めて第二小学校の校庭に勢揃いをした人形山車を見る事が出来ました。これまでは大通りでの巡行だけの撮影でしたが、この頃から勤めていた会社も土曜休日に変わった事で、広範囲での撮影が可能になりました。各町内から第二小学校へ向かう途中、常盤橋を渡る山車や、入舟町や湊町を巡行する山車の様子を撮影しました。
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この年、私は人形山車の巡行の写真を70枚撮りましたが、その中にこれまでずっと参加していた倭町三丁目の「静御前」の姿が写っていません。

昭和61年(1986)の秋祭りも、70枚の写真を撮っています。この年は祭りの期間中に、昭和58年から始められた「第4回とちぎ・太平山・蔵の街マラソン大会」が行われ、大通りを駆け抜けるランナーに声援を送る様に、山車の上からお囃子が打ち鳴らされていました。
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大町の人形山車「弁慶」が初めてお目見えしたのは、この年からです。又、この年は市制50周年のパレードに「日の出町青年部はやし連」が鎧武者姿の「源義経」を載せた車で参加をしています。もう1枚の写真は「ぶっつけ」ですが、これまで多くの「ぶっつけ」の様子を撮影して、何時もその時の祭りの雰囲気に呑まれて思うような写真を撮る事が出来ません。夜の「ぶっつけ」はストロボを使うと、手前が白く飛んでしまったり、影の無いフラットな写真で物足りません。この写真も色々工夫した1枚です。まだテクニック不足でした。

平成3年(1991)、時代は昭和から平成に移り、最初の秋祭りです。67枚の写真が残りました。
この年、栃木文化会館北側駐車場に勢揃いした人形山車を見に行きました。
この栃木文化会館駐車場に各町内の山車が一堂に揃うのは前回の昭和61年からで、それまでの会場だった第二小学校校庭は、蔵の街マラソン大会のスタート・ゴール会場と成っていた為、その前昭和58年に元栃木刑務所跡に完成した「栃木文化会館」の駐車場に変わっていました。
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人形山車が整列すると、北向きとなる為撮影するのに逆行気味と成り上手く撮れません。これも私の技量不足ですが。尚、この年は友好親善都市の北海道滝川市から、「しぶき祭」の行燈山車が秋祭りに参加して、祭会場を盛り上げていました。

平成8年(1996)の秋祭りは、人形山車が巡行するメイン会場の大通り無電柱化がなされた事で、巡行する時も人形を下げず豪華な山車の姿を見る事が出来ました。又この年、県立栃木高校が創立100周年の記念する年という事で、それを祝う為に万町一・二・三丁目の人形山車が、栃木高校の正門内まで巡行しています。
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平成12年は、西暦2000年という節目の年と成り、栃木市では多くの大きな事業が完成した年という事で、5年毎に開催していた秋祭りの人形山車巡行を、4年目のこの年特別に行っています。
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そして平成13年(2001)に、これまで5年毎に行っていた定期の人形山車巡行を開催しました。これは特別巡行した前年に続き2年連続、秋祭りに人形山車が繰り出すことに成ったのでした。
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祭期間中、天候に恵まれた事も有り、50万人お越える人出に成り、大通りは身動きが出来ないほどと成りました。

平成18年(2006)の秋祭りは、残念ながら私は仕事の関係で地元に居なかった為、見る事が出来ませんでした。この年も前回にもまして大勢の見物客が訪れたと聞いていました。
これがきっかけとなったのか、この後人形山車の出御が5年に1度から、2年に1度に変わっています。
そして2年後の平成20年(2008)も人形山車が出御したのですが、私はまだ地元に帰って来ていませんでしたので、この時もパスです。

平成22年(2010)の3月、私は4年ぶりに地元に戻りましたので、その年の秋祭りは久しぶりに見に行くことが出来ました。この頃は手持ちのカメラもデジタル式と成った為か、撮影枚数は150枚以上とまさに撮りまくっていました。この後、平成24年、平成26年、平成28年と毎回とちぎ秋祭りを楽しんでいます。
最後に、最近の祭りで撮影した各町内の人形山車等を紹介します。

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(室町 桃太郎)
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(倭町一丁目 獅子頭)
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(倭町二丁目 神武天皇)              (倭町三丁目 静御前)
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(万町一丁目 劉備玄徳)               (万町二丁目 関羽雲長)
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(万町三丁目 張飛翼徳)                (泉町 諌鼓鶏)
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(嘉右衛門町 仁徳天皇)                   (大町 弁慶)

今週末に向け、今秋祭りの準備が進んでいます。後はお天気次第です。私も又カメラをぶらさげて出かけたいと、今から楽しみにしています。
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栃木名産「かんぴょう」、夕顔の実の皮剥き天日干し風景 [懐かしい写真]

古い写真アルバムをめくっていたら、今から40年程前の「かんぴょう」生産農家の風景を撮影した写真が出て来ました。その当時は、社会人に成って、宇都宮に通勤するする様になり、電車の窓から見えた風景の一つでした。緑の畑の中に大きく育った夕顔の実。農家の前庭一杯に整然と並べられた細い帯状の夕顔の実。毎年7月から8月にかけて目にした風景でした。
天日干しの為に、1.5メートル程の高さに通された細い竹竿に間隔を空けて掛けられた、約4センチメートル幅に剥かれた白い夕顔の実。その風景を写真に収めたいと、干瓢生産農家にお邪魔して撮影させて貰いました。
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(畑から大きく育った夕顔の実を収穫)  (干瓢剥き専用機を使い夕顔の実を帯状に剥く)

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(細い帯状に剥かれた夕顔の実を、家族総出で竹竿に間隔を空けて掛けて行く)

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(青空の下、リボン状に剥かれた夕顔の実が、母屋前の庭一杯に干され白く輝く)

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(天日干しにより乾燥してしわしわとなった夕顔の実)

こんな風景も、現在はあまり目にする事が無くなりました。でもスーパーマーケットに行くと「夕顔の実」の絵が描かれ「栃木名産 干瓢」と印刷されたパッケージに入った商品が並んでいます。生産地住所には「栃木県壬生町」と有ります。
今も県内で生産は続いています。40年前と同様のスタイルで行われているのかどうかは分かりませんが。
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栃木工業高校写真クラブの思い出 [懐かしい写真]

私が写真を始めたのは中学生の頃、家に有ったカメラを持ち出しては、学校の同級生の写真を遊び半分で撮っていました。オリンパスカメラでハーフサイズ、今もネガが保存されています。
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(1965年10月撮影、栃西中の校庭南側に人家は少なかった)(懐かしの木造校舎)

高校に入ると早速写真クラブに入りました。が、その頃1年生では私ともう一人だけ、先輩も数人しか居なかったと思います。最初は本館の化学室(物理室だったか)の暗室を部室として使用していたのですが、その後すぐに教室棟2階西側階段下の収納庫の様な部屋に移動となりました。
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(暗室内での写真の焼付け作業)       (第一回学校公開での写真クラブの作品展)
その頃、顧問の先生は機械材料を教えていた先生でした。それでも先生はあまり顔を出さず、結構勝手に活動をしていた記憶が有ります。
2年生に成った年、電子科に女子の生徒が入学して来て、我が写真クラブにも確か3名の女子が入部して来ました。
私が3年生に成った時も、部員は十数名でしたが、結構まとまりが有って、良く撮影旅行に行っていました。

1968年5月には中禅寺湖に出掛けました。この時は第一いろは坂を歩いて登りました。途中からガスが掛かり視界が悪くなりましたが、その頃はまだ車の通行もそれほど多くなく危険は感じませんでした。(1965年10月に第二いろは坂が開通していたので、従来の第一いろは坂は下り専用に成っていました。)
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(距離の短い第一いろは坂を歩いて登り中禅寺湖へ向かう)
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8月の夏休みには益子町へ撮影旅行。栃木から両毛線・水戸線そして下館駅から真岡鉄道に乗り換えて益子町へ。
ここで初めて登り窯を知りました。ここでも又良く歩きました。西明寺まで道は写真を見ると当時はまだ砂利道でした。畑には1メートル程に育ったタバコが、一面に大きな葉を広げていました。
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(益子の町で初めて登り窯を見る)     (西明寺への道は長閑な自然が溢れていました)
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(西明寺への砂利道を登る)           (西明寺三重塔)

翌1月には宇都宮の二荒山神社の初詣風景を撮影に行きました。そのころ女性は日本髪を結って晴れ着を着て初詣をしていました。
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(上野百貨店屋上より二荒山神社を)    (望遠レンズの先に捕えた被写体は?)
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(昭和40年代の初詣には、和服姿の女性が多く見られました)

あれから早いもので50年の月日が経ちました。最近、昔のアルバムを開くと一枚一枚の写真に撮影をした時の場面がよみがえってきます。そこには懐かしい多くの友の顔が笑顔で並んでいます。
段ボール箱一杯に詰まった写真のネガ、そろそろ処分しようか。
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太平山神社の三光台 [懐かしい写真]

私が若かった頃撮影をした写真帳の中に、太平山神社で写した少し変わった写真が出て来ました。
1973年7月に撮影をしたもので、現在では既に無くなっている、太平山神社拝殿前の表参道の石段を登って来た脇に有った建物の中に飾られていた奉納額の写真です。
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(数多くの奉納額が掲示された建物の内部)
建物外観の写真は写していませんでしたので、記憶の中に僅かに残っているだけです。上の写真を見ると、吹き抜けの窓の外に少し写っている建物は、拝殿の前に出る時最後に潜る門で、太平山神社のホームページの中で納められたいる「太平山ハイキングMap」に「勅使門」と説明されている朱塗りの門と思われます。
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(表参道石段の奥に見える朱塗りの門)    (勅使門を潜ると拝殿の前に出る)

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明治45年7月17日、栃木理髪業組合が創立10周年を紀念して奉納した「大鏡」。
その鏡の中にも多くの奉納額が写って見えています。他に「花鳥百人一首」と題した奉納額も有りました。
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上の写真に見える奉納額は、栃木県河内郡薬師寺村大字仁良川の金子傳吉さんが、明治25年9月18日に奉納したもので、太平山神社表参道の様子を描いた絵です。「神橋」「隨神門」「鳥居」など明治中期の表参道の姿を窺い知ることが出来ます。

昭和9年6月10日田代善吉著、下野史談會が発行した「栃木縣史 神社編」の第四節に「縣社大平山神社」の中に神社の建築物について記されています。そこには
 ・境内は  壹萬六千四百二十五坪
 ・御本殿  明治十四年の新築  六坪
 ・御拝殿  明治九年新築   總坪十五坪
 ・社務所  天保十年六月建設 總坪数三十三坪
 ・神楽殿  明治六年六月建設 總坪 六坪
 ・隨神門  享保八年八月建設 二階建十坪六合
 ・納額殿  嘉永元年七月建設 二十一坪六合
 ・神  橋  延寶五年八月建設 
 ・水  屋  嘉永五年八月建設
この中で、本殿や拝殿・社務所・隨神門は、ほぼそのままの姿を現在に残していると思いますが、「神楽殿」は場所を少し後方に引き、リフォームして現在は「福神社」となっています。従って現在も代々神楽の奉納はこの社殿で行われている様です。
1966年3月神楽殿.jpg福神社.jpg
(1966年3月撮影、神楽殿)           (2013年1月撮影、福神社)

表参道の中ほどに架けられていた「神橋」は、1981年撮影した時はまだ鮮やかな朱色と黒の擬宝珠を持つ橋が架かっておりましたが、今年(2018年6月18日)訪れた時は、その姿は無く丸太3本を渡した「仮橋」に成っておりました。
神橋1.jpg神橋2.jpg
(1981年撮影、太平山神社の神橋)     (2018年撮影、丸太3本を渡した仮橋)
 
上記の建物の名前の中に「納額殿」と称する嘉永元年(1848)に建てられた建築物は何処に有ったのか、最初に私が撮影した奉納額が多数飾られていた建物がこの「納額殿」だったのかも知れません。1958年頃の太平山神社社殿群の写真の中に、拝殿と向かい合う建物が「納額殿」に当たるか?現在は「三光台」となっています。
1958年太平山神社境内.jpg2018年太平山神社境内.jpg
(1958年頃の社殿群、左側建物が「納額殿」か) (2018年現在の状況、左側「三光台」)

三光台は昭和49年(1974)12月に竣工してから、太平山神社の行事の会場などに使われて来ています。
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(太平山神社では一年間を通して多くの神事・祭事が行われています)

又、晴れて空気の澄んでいる日には、三光台より筑波山の霊峰も手に取る様に望む事が出来ます。
三光台からの眺望.jpg
(三光台より東南東方向を望むと、霊峰筑波山が関東平野の奥に見えます)

この「三光台」の三光とは、太平山神社に祀られている「日・月・星」の三座の神様で、太平山神社はかつては「三光神社」とも称されていました。表参道の三の鳥居の神額にはこの「三光神社」の名称が記されています。
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(「三光神社」の神額が掲げられている、三の鳥居)

※参考文献:太平山神社ホームページ、田代善吉著「栃木縣史・神社編」、栃木市勢要覧
   
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栃木市における釜屋号 [懐かしい写真]

今日、関東地方の梅雨明け宣言が有りました。私の住む栃木市も連日30℃を越える暑い日が続いていましたから、「やっと梅雨明け宣言が出たな。」と言った感じです。今後の天気予報を見ても最高気温が35℃から40℃に迫る日が続きそうで、毎日冷たいものばかり取り過ぎて、お腹の方も大分疲れて来ています。
ここは鰻でも食べてスタミナを付けたいところです。もう直ぐ7月25日、土用の丑の日です。市内の鰻屋さんも忙しくなります。
栃木市内にも多くの鰻を扱うお店が有りますが、その中のひとつに「釜屋」さんが有ります。創業は明治2年と言う老舗に成ります。
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(現在の釜屋さんの店舗入口)       (玄関に掛かる釜屋さんの店舗暖簾)
現在の店舗は城内町2丁目に有りますが、以前は河合町の巴波川に架かる「開明橋」の南東橋詰で営業されていました。
手元の「栃木県営業便覧」(明治40年10月発行)を見ると、そこには「釜屋」とでは無く、「鳥屋」と記されています。釜屋さんは元々は鳥料理がメインだったのでしょうか?確かに釜屋さんで頂く焼き鳥、とても美味しいです。
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(巴波川の開明橋の橋詰で営業していた「釜屋」さん。1979年4月撮影)
栃木の市街地には以前、「釜屋」という屋号を用いていたお店が多く見られました。 私が子供の頃、「釜芳さん」とか「釜重さん」とか言うお店の名前を耳にした事が有ります。
そこで、先ほどの「栃木県営業便覧」を調べて、明治40年当時栃木町で「釜屋号」を付けた商店を見付けて行くと、9店舗有りました。
①釜屋   善野喜平    味噌醤油醸造元  室町(現在はNTT東日本栃木ビル.)
②釜屋號  早乙女峰次郎 美術両中形小紋更紗問屋 倭町(元蔵の街第三駐車場)
③釜芳   伊藤芳次郎  砂糖石油肥料食塩商 倭町(現在は足利銀行栃木支店)
④釜屋號  善野伊平   呉服太物商      倭町(現在は中原証券栃木支店)
⑤釜屋   竹澤傅次郎  醤油味噌漬物和洋酒瓶詰 万町(栃木信用金庫本店)
⑥釜屋號  長谷川峰七 染物業          旭町(場所不明、神明宮の東方?)  
⑦釜屋號  篠山長平   染物業         片柳(現在は境町19 駐車場)
⑧釜屋   篠山傅吉   製茶煙草商      相生町(現在は室町4 ミツワ通り)
⑨釜屋號  金子忠吉  萬染物業        入舟町(現在錦町11 かねこ整骨院)
  ※屋号・氏名等は掲載内容、( )内は所在箇所の現在の状況です。
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(境町、旧例幣使街道沿いの染物業「釜長」さん⑦の当時の様子。1978年6月撮影)

釜屋号に関する外の資料を探してみると、栃木市図書館に明治31年(1898)12月発行の「日本全国商工人名録 全」が有りました。この商工人名録は全国的にその頃の商人工人を調べた名簿で、栃木町では97名掲載され、その内8名の釜屋が名を連ねています。
①釜屋  伊藤善次郎  萬町  麻苧商   (現在万町6 空き店舗)
②釜屋  坂本重藏   倭町   麻苧商  (現在は倭町8 再開発中)
③釜屋  大塚金兵衛  室町  呉服太物商 (現在は室町6 デニーズ駐車場)
④釜屋  大塚敬吉   倭町   呉服太物商 (現在は倭町8 再開発中)
⑤釜屋  前澤藤平   萬町   絲類商   (現在は万町4 快眠館大二)
⑥釜屋  善野喜平   室町   醤油醸造  (現在は室町12 NTT東日本栃木ビル)
⑦釜屋  舘野茂吉   泉町   肥料商   (現在は泉町3 旧例幣使街道に東面)
⑧釜屋  伊藤芳次郎  倭町   砂糖商   (現在は倭町11 足利銀行栃木支店)
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(泉町、旧例幣使街道、嘉右衛門町通り入口に建つ「釜平」さん、舘野家住宅兼店舗)

明治31年の商工人名録の中で釜屋号と記した8店舗の内、明治40年発行の営業便覧で釜屋号が付記されなかった商店が5軒(①釜善、②釜重、③釜金、④釜敬、⑥釜平)そして店舗名自体が確認出来なかった⑤釜藤の1軒でした。この釜藤と言うお店は大正時代の萬町(大通り)の店舗名を記した資料によると、営業便覧に出ている「正直屋」と言う、洋傘製造帽子各種の店舗の南隣りに、「釜藤」の名前が出ています。
これまでの資料で確認された釜屋号の店舗は15に成ります。が、この中には最初に話題にした鰻の釜屋さんは出ていません。又、現在も質店を続けている万町の「釜佐」さんも出て来ていません。

図書館で更に資料を確認して行くと、栃木商工会議所が発行した、「栃木商工案内 昭和十年版」の中に釜屋号の店舗を確認する事が出来ました。
 <商号> <営業別>  <営業所>    <氏名>
①釜藤    糸綿        萬町     合名会社釜藤商店
②釜平    履物(肥料)   泉町      舘野惣吉
③釜屋    金物        萬町      田村福三郎
④釜忠    染物業      錦町      金子愛之助
⑤釜伊    呉服太物     倭町      善野碩之助
⑥釜重    麻眞縄      本町      坂本 喬
⑦釜重    荒物(立麻)   萬町      坂本千代三郎
⑧釜芳    砂糖石炭茶製粉 倭町     釜芳商店
⑨釜屋    川魚(蒲焼)    河合町    渡邊為吉
⑩釜佐    質商        萬町      善野佐次平
この資料で新たに確認された店舗は、5軒(③・⑥・⑦・⑨・⑩)と成り、合計20店舗です。
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(現在万町山車会館入口南側の空き店舗が釜屋号③の金物店でした。1994年8月撮影)
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(現在も質商を営む、「釜佐」善野家土蔵。現在は「とちぎ蔵の街美術館」と成っています)

更に、栃木の街の中を歩いていると、今も釜屋号の看板を掲げた店舗を確認出来ます。店舗の名前は「釜利」さんです。大正時代の万町大通りの店舗名を記した資料の中にも、「釜利」(ポンプ屋)と出てました。
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(万町、出井書店から北側3軒目に、「釜利」と記した看板を掲げた店舗)

今回確認出来ただけでも、栃木市内で釜屋号を付けた店舗は21軒有りました。栃木県の県都「宇都宮市」には栃木市よりはるかに多い屋号を付けた店舗が有りますが、釜屋号の店舗はそんなに多くは有りません。それではなぜ栃木の街にこんなに釜屋号を付けた店舗が現れたのでしょうか。
そんな疑問に答える資料となる書籍が最近発行されました。石崎常蔵氏が著した「栃木人 (明治・大正・昭和に活躍した人びとたち)」です。その本の中に正に「釜屋考」としてまとめて有ります。私が以前から興味を持っていた「釜屋号」について今回さらに踏み込む貴重な資料を多く提供して頂けました。参考にさせて頂きました。

栃木町にて最初に「釜屋号」を名乗ったのは、何時の頃で誰だったのか。
江戸文学研究家の林美一氏の著書「歌麿が愛した栃木」(昭和47年9月発行)の中に、初期の善野家の様子が記されています。以下はその要約です。
≪宝暦年間(1751~1763)に近江の守山から、この栃木に来て土着した善野一族は苦労の末に成功をして財を築きました。善野御三家と言うと、「釜喜」・「釜佐」・「釜伊」という事に成りますが、まず最初は善野喜左衛門が「釜屋号」を名乗りました、「釜屋の喜左衛門」略して「釜喜」となります。初代「釜喜」です。そしてこの初代がその弟に2代目喜兵衛として「釜喜」を譲り、その後喜佐衛門は別家をして「善野佐次兵衛」を名乗ります。これが「釜佐」の始まりに成ります。即ち「釜喜」と「釜佐」の初代は同一人物という事に成ります。もう一つの「釜伊」の始まりは、釜喜の2代目の長男が3代目釜喜を継ぎ、弟の伊兵衛が「釜伊」の初代を名乗ったものと云われています。≫
「栃木人」の中で石崎氏は、≪このように「釜屋」は栃木地方の善野三家の成功によって、「信用」のブランドと認められ使用された。≫と記しています。
この事が栃木の街に多くの「釜屋号」の商家が現れた大きな要因と言って良いのかも知れません。

そんな「釜屋号」も時代の流れの中で次第に消えて少なくなってしまいましたが、喜多川歌麿の肉筆画の大作「雪月花」三部作のひとつ「深川の雪」が長い間所在不明と成っていたものが、平成24年(2012)に発見された事で、再び脚光を浴びることと成った,栃木の豪商「釜伊」と、歌麿の作品中に狂歌が載る通用亭徳成こと「釜喜」の4代目善野喜兵衛。これからもずっと栃木の「釜屋号」を大切に語り継いでいきたいものです。

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