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「嘉右衛門町通り」の私の好きな場所 [歩く]

「嘉右衛門町通り」は、栃木県内で初めて、そして今のところ唯一、「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された地域で、その中心となる通りの通称に成ります。この通りは江戸時代、京都から日光東照宮に、幣帛を奉献する為に使わされた勅使が通った為、「日光例幣使街道」と言われ、現在の道路法では、「市町村道」に当ります。管理番号で示すと「栃木市道11063号線」となります。その延長距離は約750メートルで、車で通過すれば僅か2分、歩いても10分程度で通過する通りです。

私自身は、この区域の知識は殆どありません。10代の頃は通学圏が栃西中から栃工高で、生活圏も箱森町から片柳町・境町方面が殆どでした。その頃のアルバムを開いてみると、出てきたのは「神明神社」と「妙唱寺」の写真1枚づつだけでした。高校生の頃、栃木市内の社寺を良く撮って歩いていたからです。ただ単に「点」としての関わりです。
1968年撮影神明神社.jpg1968年撮影妙唱寺.jpg
(1968年撮影、嘉右衛門町の神明神社と妙唱寺)
20代は宇都宮市に工場を持つ会社に就職しました。その為市内の情報も、入って来なくなりました。
30代になって、嘉右衛門町育ちの女性と結婚したことで、幾らか嘉右衛門町区域の情報が入ってきた程度。それからも仕事と子育てに追われた生活をしていたので、やはり生活圏は10代から変わっていませんでした。
60歳を過ぎ、会社をリタイヤ―してからです、妻と二人でよくこの嘉右衛門町の通りをウォーキングする様になったのは。この頃からやっと「線」として、この「嘉右衛門町通り」を見るようになりました。
2012年5月嘉右衛門町通り1.jpg2012年5月嘉右衛門町通り2.jpg
(2012年5月20日撮影、嘉右衛門町通りをウォーキング)

日が暮れてからのウォーキングでも、良く「嘉右衛門町通り」を歩きました。
2014年10月嘉右衛門町通りの夜1.jpg2014年10月嘉右衛門町通りの夜2.jpg
(2014年10月15日撮影、夜の嘉右衛門町通りを歩く)
暖かなオレンジ色の街灯に照らしだされた通りも良く歩きました。

特に私が魅力を感じる場所は、上に掲示した写真を見ればお解りに成ると思われますが、代官屋敷(岡田記念館)から南に行った、嘉右衛門町の通りが大きく左右にカーブする所です。
嘉右衛門町通り(日光例幣使街道)を南から入ってくると、通りが左にカーブしています。その為視界前方は通り沿いの家並みに自然と目が注がれる形になります。
日光例幣使街道嘉右衛門町通り南の入口.jpg左へカーブする通り.jpg
(2020年5月24日撮影)          (2022年12月5日撮影)
かつてはその中の一軒に釣堀を営む店舗が有りました。現在はアクセサリーとファッションのお店になっていますが、日暮、そのお店から漏れる明かりがお洒落です。
1991年黒田家付近1.jpg2017年7月嘉右衛門町通りの夜1.jpg
(1991年撮影)              (2017年7月21日撮影)
その先の景色は道路がカーブしている為、見る事は出来ません。そして一歩一歩と歩みを進めて行くと、徐々に先を見通せるポイントに至るのです。そして左へのカーブが終わって前方を望むと、今度は新たな景色が前方を塞ぎます。かつて木材商を営んでいた「天海家」の住宅です。その手前で道路は右にカーブをして、その先を見通す事は出来ません。又その場所で左に分岐する道路が有ります。
その角を左に折れていけば、すぐその先に巴波川に架かる「嘉右衛門橋」を渡り、錦町へと進んで行きます。
2020年5月嘉右門町通り1.jpg2020年5月嘉右衛門町通り2.jpg
(2020年5月24日撮影、嘉右衛門町通りを歩く)
そしてクリーニング店を過ぎると右手にカーブした通りのその先が、視界に入ってくることに成ります。
2021年2月嘉右衛門町通り2.jpg
(2021年2月21日撮影)

私が魅力を感じるこの場所の、通りの状況を説明する為には、文章では無理なので図面に表してみたいと思います。
変形S字カーブの町並み図.jpg
高校時代に買いそろえた、三角定規に分度器、そしてコンパスを取り出して、作図しました。今の若い人達ならパソコン上で作図する方法が有るのでしょうが、アナログ世代の私は紙の上に鉛筆で、線を描いていくのが一番です。
図を見て頂くと、一目瞭然で「嘉右衛門町通り」のこの場所は、変形S字カーブの状態になっています。南側の左カーブの半径は約58m、カーブしている範囲は約65度。そして約14mの直線部の先は右カーブとなる。このカーブの半径は約30m、カーブの範囲は約70度になっていました。ちなみにこの通りの幅員は約7mです。
丁度代官屋敷の門の前辺りで、カーブが終わり、そこから先の通りは、ほぼ一直線に北の方向に伸びています。
この変形S字カーブの通りが作り出す風景が魅力的なので、何かイベントが有ると、この場所に撮影ポイントを設定することが、多くなっています。
珍しく雪の降った翌朝には、早速出かけて行って撮影しました。
2018年1月雪の嘉右衛門町通り.jpg2018年1月雪の嘉右衛門町通り2.jpg
(2018年1月23日撮影、雪化粧をした嘉右衛門町通り)
栃木秋祭りで、人形山車がここ「嘉右衛門町通り」を通った時も。
秋祭り1.jpg秋祭り2.jpg
(2012年11月10日撮影、秋祭りで万町の人形山車が嘉右衛門町通りを巡行する)
2021年東京オリンピックの聖火リレーが走った時も。
2021年聖火リレー1.jpg2021年聖火リレー2.jpg
(2021年3月28日撮影、東京オリンピックの聖火リレーが、嘉右衛門町通りを通過する)

私はこの「変形S字カーブ」の中に、撮影場所を選んでいます。
この先も、この場所でこの通りの、そしてこの街の移り変わりを、記録に留めていきたい。


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幕府代官「竹垣三右衛門直温」の徳政碑 [石碑]

江戸時代も後期に入った、寛政5年(1793)8月、下野国都賀郡吹上村(現在の栃木市吹上町)に、代官陣屋が完成し、菅谷嘉平次と山口鉄五郎と言う、二人の代官が着任をしました。
又、同じ年の11月に下野国都賀郡藤岡村(現在の栃木市藤岡町藤岡)に、もう一つ在地陣屋が設置され、代官岸本武太夫と田辺安蔵とが赴任してきました。
そして、もう一人竹垣三右衛門直温が、同年7月に関東郡代付代官となっています。関東郡代の役所は江戸馬喰町に有った為、彼が当初常詰していたのはその元郡代屋敷でした。しかし、地方支配を確実に推し進める為には、どうしても現地の根拠地が必要と考え、遅ればせながら寛政9年(1797)下野国芳賀郡真岡(現在の真岡市)と、常陸国筑波郡上郷(現在のつくば市上郷)の二ヵ所に「出張陣屋」を開設しました。

彼らの目的は何であったのだろうか。その当時の下野国を始め北関東一帯で、大飢饉が発生していたのでした。その為荒廃した幕領農村の立て直しを図るために、幕領の代官仕法改革の為に、任命されたものでした。

では、そんな大飢饉の原因は何だったのか、それは遡ること丁度10年前の天明3年(1783)7月、浅間山が噴火し、北関東一帯に大量の火山灰が降りそそぎました、更に秋口に入って冷害の影響も現れ、もともと天明元年から翌2年にも、米の不作が続いていた事も重なり、北関東の農村に大きな影を落とす結果となっていたのでした。
そんな背景も有って、天明3年9月4日に、栃木町で困窮者数百人が、造酒屋に押し込み、酒桶から戸障子、畳に至るまで徹底的に打ち壊した。窮民は更に穀屋を襲い、米・麦・大豆の俵を切り散らし、古着屋をも、打ち壊しました。
こうした不穏な動きは、下野国内の各町場にも起こっていました。
その後も、天明4年から5・6・7年にかけて連続して凶作に襲われていたのでした。

そんな天明6年(1786)9月、第10代将軍徳川家治が病死し、それと共にそれまで全盛を振るっていた、田沼意次が失脚。代わって奥州白河藩主の松平定信が、政権の座に付きました。
その松平定信は、翌天明7年6月に老中首座となり、8月三ヶ年の倹約令を新規に発令しました。
更に翌年の天明8年3月には、将軍補佐の地位に就任、全国の幕領に巡見使を派遣して、農村の実情把握に努め、幕領農村の荒廃からの立て直しこそ喫緊の課題であるとして、代官仕法による改革に乗り出しています。
そして元号が寛政となった1789年9月、新たに向う5ヶ年の倹約令を発し、幕府財政の緊縮に努めています。
こうして、松平定信の陣頭指揮によって、すすめられた改革は、「寛政の改革」と言われます。
この「寛政の改革」で、幕府の直接関与をふやすことで、農村の復興と物価の安定にそれなりの成果を見せましたが、評判は決して良いものでは有りませんでした。それは、贅沢を禁止したり、情報・思想の統制強化です。あまりに息苦しい状況になったことから、寛政5年(1793)7月、松平定信は解任されました。

そのような寛政5年に、下野国の陣屋に赴任してきた幕府代官達は、松平定信が推し進めてきた、幕領農村の復興に全力でとりかかって行きました。
最初に吹上陣屋にて、活動を開始した菅谷嘉平次と山口鉄五郎(後に山口鉄五郎一人での専従代官となっています)の支配範囲は、下野国の那須・塩谷・都賀・河内の各郡と武蔵国の内に合せて五万石の幕領でした。山口代官は享和3年(1803)に、那須・塩谷郡の幕領支配の為、那須郡八木沢村(現在の大田原市親園)に出張陣屋を開設しています。

又、藤岡陣屋にて、活動を開始した岸本武太夫と田辺安蔵(田辺は寛政9年に病気の為にやめて、以後は岸本の一人支配となっています)の支配範囲は下野と下総・上野の三ヶ国にわたり、202村約六万石に及んでいます。岸本代官は荒廃の著しい芳賀地方の農村復興に尽くすため、寛政11年(1799)12月、芳賀郡東郷村(現在の真岡市東郷)に出張陣屋を設置しています。

そして、今回注目する代官「竹垣三右衛門直温」は、関東郡代付代官として支配範囲はさらに広く、文化4年(1807)には下野・武蔵・安房・上総・下総・常陸の六ヶ国、535ヶ村約八万四千石となり、広大な地域に分散していました。
竹垣代官は当初は江戸の馬喰町の役所に詰めていましたが、支配地の情勢をつぶさに見ていくには、現地に根拠地を設ける必要が有ると、寛政9年(1797)特に荒廃の著しい下野と常陸の両国に、真岡陣屋(現在の真岡市台町字城内)と、上郷陣屋(現在の茨城県つくば市上郷)を設置して、竹垣自身が半月ごとに陣屋を往復して、地域復興に力を注いでいました。

そこで、竹垣三右衛門直温が開設した出張陣屋が有った、真岡市とつくば市周辺を巡って、竹垣代官の遺蹟を見てきました。
先ずは、真岡市台町城山公園内に建つ「真岡陣屋阯」の石碑を見てみます。
真岡陣屋址の碑.jpg真岡陣屋址の説明板.jpg

石碑の正面には、上部に小さめに「二宮先生」、そしてその下側に大きく「遺蹟 真岡陣屋阯」と刻されています。真岡市街地の東側を縦断するように流れる「五行川」の右岸に大きな恵比寿像の建つ、大前神社の川の対岸(左岸)近くに建てられている、「遺蹟 東郷陣屋阯」の石碑も正面上部に、「二宮先生」の文字が刻まれています。真岡陣屋は竹垣代官が、そして東郷陣屋は岸本代官が開設した所ですが、後に二宮金次郎が利用している為、両方とも二宮先生の遺蹟として石碑が建てられています。確かに二宮金次郎(尊徳)の知名度の方が高いですし、建立したのが「栃木県尊徳会 下野桜町遺跡保存会」によるものですから。
幸い脇に建てられた説明板で、竹垣代官や岸本代官の関わりが記されていますからよかったです。

次に向かったのは、城山公園の南側。行屋川右岸に有る、曹洞宗梵音山(ぼんおんざん)真岡院(しんこういん)海潮寺(かいちょうじ)の境内に建てられた、「竹垣君徳政碑」(真岡市指定有形文化財)になります。
竹垣代官徳政之碑(海潮寺境内).jpg
石碑の脇に、真岡市教育委員会が掲示した説明板が有りました。それに依りますと、<真岡代官竹垣三右衛門(直温)の徳をたたえ、その支配下に有った18ヶ村の人々が協力して建てたものである。碑文は、太田元貞(加賀藩の儒者、錦城と号する)が撰し、河三亥 江戸の人市河米庵(書家)が書いたものである。後略>
竹垣君徳政之碑2(海潮寺境内).jpg海潮寺山門.jpg
石碑が建てられている「海潮寺」は、行屋川に架かる「施無畏橋」を渡った右岸に位置し、立派な山門が迎えてくれます。この山門の屋根は、大谷石の瓦で葺かれており、栃木県指定有形文化財となっています。

竹垣三右衛門が真岡陣屋と同時に開設した、常陸国筑波郡の上郷陣屋周辺にも、竹垣代官の善政に対し「徳政碑」を建立顕彰しています。それは上記「海潮寺」に建てられた石碑と同様の物が、二基確認されているので、確認する為現在のつくば市上郷に向いました。

最初の石碑は、小貝川左岸に祀られている「金村別雷神社」の境内に建てられていました。
竹垣代官徳政之碑(金村別雷神社境内).jpg
この石碑は、竹垣代官が職を辞して没した翌年の文化12年(1815)、地元の有志によって建立されました。碑文は、江戸の書家で儒学者でもあった「亀田鵬斎」が撰文及び揮毫しています。
竹垣代官徳政之碑正面.jpg金村別雷神社社殿正面.jpg
金村別雷神社は、承平元年(931)、領主豊田氏が京都上賀茂社の分霊を守護神としてまつったと、伝えられます。
石碑正面に、「竹垣君徳政之碑」と刻されています。石碑には真岡海潮寺に建つ石碑同様、竹垣代官が行った善政の内容を記した碑文が刻されています。共に漢文体なので、私には読み下す事は出来ませんでした。

もう一つは、金村別雷神社から北東の方向約4.5km、つくば市今鹿島の集落内の小路の脇に建てられていました。この石碑も正面は「竹垣君徳政之碑」と有りました。が、こちらは碑文は有りません。ただ石碑左側面に「明治二十五年辰八月建」と、建立年が刻まれています。(西暦では1892年となります)
竹垣代官徳政之碑(今鹿島)).jpg
竹垣君徳政之碑正面(今鹿島)).jpg竹垣代官徳政之碑側面(今鹿島)).jpg
この石碑、なぜ金村別雷神社境内に建つ石碑から、77年も経ってから建立することに成ったのか、その背景はチョッと興味が有ります。
それだけ、竹垣三右衛門代官は、その地方の人達に慕われ続けていたのかもしれません。

さて次に、上郷陣屋の有った場所に行ってみました。現在は便利な世の中に成ったもので。携帯電話アプリのグーグルマップで「上郷陣屋跡」と打ち込んで検索すると、地図上にその場所が表示され、ナビ機能にすれば、現在地から目的の場所まで誘導してくれます。

ただ、現地を訪れても、「上郷陣屋」に関する掲示物は、何もありませんでした。
つくば市上郷陣屋跡1.jpgつくば市上郷陣屋跡2.jpg

私が出向いたのは、丁度桜が満開となった3月下旬でした。上郷陣屋跡は現在、角内農村集落センターの建物が建っています。その一角に「瀧大権現」が祀られています。
この場所には、人足寄場も有りました。この施設は松平定信の寛政の改革の一つとして実施されたもので、火付盗賊改の長谷川平蔵が提案して、寛政2年(1790)2月に石川島に設置された。常陸国筑波郡上郷村に人足寄場を開設し、石川島の支署的存在として制度化されるのは、」寛政4年(1792)と言われる。
竹垣三右衛門が、ここ上郷に出張陣屋を設けたとするのは、寛政9年となっているが、ここにはそれ以前から代官陣屋があった事に成ります。
ただ、この人足寄場を育て上げたのも、やはり竹垣代官でした。彼はこの寄場の運営にも、尽力を尽くしていたのでした。

今回、寛政の改革を現場で推し進める為、北関東に派遣された3人の幕府代官の内、竹垣三右衛門の遺蹟を辿ってみました。他の二人の代官については、以前にこのブログの中で、角度は異なりますが紹介して来ています。
・農民から慕われた、幕府代官「山口鉄五郎高品」(2023年2月27日)
・下野国都賀郡藤岡の陣屋で活躍した幕府代官「岸本武太夫」(2023年4月6日)

ここで、彼ら3人の足跡が確認できる場所を、簡単に地図上にプロットしてみました。
三人の代官の関係地マップ.jpg

山口鉄五郎代官の関係地は、緑色にて表示。(3ヶ所)
岸本武太夫代官の関係地は、黄色にて表示。(6ヶ所)
竹垣三右衛門代官の関係地は、白色にて表示。(5ヶ所)

興味が有りましたら、是非現地を訪れてみてください。車等の移動手段の無い時代、彼ら代官の支配範囲の広さは、驚くしかありません。

今回参考にした資料:
・栃木県史 通史編5 近世2 栃木県史編さん委員会編 栃木県発行
・ウィキペディア 「竹垣直温」
・知られざる江戸時代中期200年の秘密 島崎 晋著 ㈱実業之日本社発行





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変貌する永野川 [栃木市の河川と橋]

私が生活している北関東は、ここの所梅雨の中休み状態で、蒸し暑い日が続いています。
一方、ニュースを見ると連日、西日本の各地で線状降水帯が発生して、洪水や土砂崩れ等で、多くの方が被害に遭われ、大変な生活を送っている様子を、伝えています。
でも、今こうして静かに生活を送っている私たちも、4年前の令和元年10月12日、台風19号による想像を絶するような被害で、栃木市の大半を濁流の中に落とし込んだ情景は、今も眼の奥に焼き付いて消える事は有りません。
現在、被害をもたらした、市内を流れる河川の改良復旧工事が、進められています。
今回は、いち早く工事が進んでいる「永野川」の状況の内、大平町北域の永野川の復旧の様子を、定点撮影の手法を使って、見ていきたいと思います。
以前の姿は、被災以前の永野川の風景を撮影した写真を、アルバムの中から選び出し、その写真と同じ場所にて、現在の状況を撮影、比較対比する感じで、変貌する永野川の様子を確認していきます。

上流側から見ていきたいと思います。先ずは大平町下皆川の「大平橋」の上流地点に設置されている、「永野川大平橋上水位観測所」の周辺を見てみます。
大平橋上流部の水位観測所付近1.jpg大平橋上流部の水位観測所付近2.jpg
以前の写真は、令和元年(2019)2月15日に撮影したもので、その年の10月12日に通過した台風19号により、上流の両毛線永野川鉄橋の右岸上流の堤防が決壊して、鉄橋も被害を受うけています。写真の永野川堤防の向こう側、下皆川地区の田んぼは、完全に濁流に飲み込まれ、下流のカインズモールからケーズ電機、更にその下流一帯に大きな被害をもたらしています。その時この水位観測所からは、どのような情報を発信していたのか。

次は、県道栃木藤岡線の「永久橋」の上流側の状況です。
永久橋上流域1.jpg永久橋上流域2.jpg
以前の写真は、上と同じ令和元年2月に撮影したもので、手前に写る高欄は「旧永久橋」の物です。上流側に見えるのが「大平橋」になります。

次は東武日光線巴波川鉄橋の下流部分です。下流側「川谷橋」の橋上から上流部分を撮影しています。
川谷橋上流域1.jpg川谷橋上流域2.jpg
以前の写真は、平成25年(2013)5月25日の撮影です。丁度今から10年前になります。
写真奥に、東武日光線の永野川鉄橋が見えます。

次は「川谷橋」の下流域の状況です。写真に写る橋は「川谷橋」になります。
川谷橋下流域1.jpg川谷橋下流域2.jpg
以前の写真の撮影日は、上の写真と同じ日平成25年5月25日です。

そして次の写真はその下流に有る「新西野田堰」周辺の様子です。
新西野田堰付近1.jpg新西野田堰付近2.jpg
以前の写真は、平成27年(2015)4月16日に撮影したものです。
堰の上流側堤防は綺麗になっています。堰から下流側は以前のままです。この堰の下流側に架かる「諏訪橋」は、増水の被害を受けて、橋中央部の桁が流されてしまい、現在橋の架け替えに向けて工事が始まっている所です。橋の架け替えは、令和7年2月3日完成の工事予定が掲示されていました。
この橋は、川の右岸近くの市立大平中学校に通学する生徒達が、朝夕利用していた橋ですから、1日も早い完成を待ち望んでいます。

次、「山下橋」下流域の状況です。この辺りは現在のところ、まだ工事が行われている様子は有りません。
山下橋下流域1.jpg山下橋下流域2.jpg
従来の写真は、平成25年(2013)10月17日撮影ですが、現在も同じような情景のままです。写真右側に写る小丘は、諏訪神社が祀られる「磯山(標高51m)」です。

次は、「町田橋」の上流域の状況です。
町田橋上流域1.jpg町田橋上流域2.jpg
従来写真は、平成25年(2013)5月25日撮影の物です。前方に写る橋が「町田橋」になります。この辺りは、すでに綺麗に工事が完了している様子です。

比較写真はここまでです。この橋の下流に「永豊橋」が有ります。その周辺まで両側の堤防は綺麗に出来上がっていました。更にその下流まで行こうと予定していましたが、まだ工事中の様で、堤防上の道は通行止めとなっていました。

その「永豊橋」の橋上から、下流側を眺めると永野川の河道が大きく狭まっている様子を見る事が出来ます。
永豊橋下流域1.jpg永豊橋下流域その先1.jpg
「永豊橋」の直ぐ下流部分は、改良工事が終わっていて、河道幅が広くなっていますが、その先のまだ工事が着手されていない部分は、河道が狭いままです。
その部分を拡大すると、以前の永野川の姿が残っています。
今、下流側の榎本堰の改良工事が進行中で、その堰が出来たら、その区域の河道部分の改修も進むと思われます。
今、目の前に改修前後の「永野川」の風景を、はっきりと同時に確認することが出来ました。

「永野川」の改良復旧工事は広範囲に渡っている為、まだ完全完成まで数年かかると思いますが、流域住民が安心して暮らせる日が、一日も早く来ることを、そして炎天下の中、工事に従事している方々の、健やかなることを、切に願っています。
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