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永野川改良復旧工事現場を寄り道しながら巡る [栃木市の河川と橋]

一級河川永野川の改良復旧工事が、着々と進行しています。
改良復旧工事が済んでスッキリとした永野川.jpg
河道を掘削し、水の流れる幅を広げて、新たに法面を整形、大型連結ブロックを敷き詰めた護岸で、スッキリとした永野川。太平山を背景にして、ゆったりとした曲線を描いて続いています。

護岸上の道路わきに、何やら謂れの有りそうな、大きな石が置かれています。周辺に何も説明板も、見られませんが、きっとこれが、かつて薗部町の人達が信仰を寄せていた、「疱瘡石」と言われる石に違いない。今回私はこの石に、初めてお目にかかりました。以前はここには無かったと思います。多分今回の河川改修工事で、ここに移動されたものと思います。
この大きな石を見て、ふと思い出しました。この「疱瘡石」の話しは、長沼英雄著「わが町さんぽ 栃木周辺見てある記」に、掲載をされています。
<明治の頃、栃木市地方に天然痘が流行したとき、この石を拝むと不思議にも病に冒されず、またかかっても軽くすんだと言われ、人々は「疱瘡を鎮める神霊を宿す恵みの石」と尊敬し、種痘の発明されない昔は、村民すべてこの石を頼りにし、詣でる人も多かったという。>と、記されています。
改良復旧工事が完了した永野川堤脇の大きな石.jpg
今、この石は、永野川に架かる「睦橋」の下流右岸に、見ることが出来ます。

永野川の改良復旧工事、護岸工事が多くの工区にて完了をして来ています。今、工事の主体は、工事対象区間内に有る三か所の灌漑用水取水堰の改築と、三か所の橋梁架け替え工事の様です。

工事の様子は、関係者以外は立ち入りが制限されていますので、遠くから眺めてみました。
まず、三か所の取水堰です。上流側から見ていきます。
最初は「二杉堰」です。この取水堰は、「二杉橋」の下流側に有ります。
2013年7月二杉堰.jpg
この写真は、2013年7月11日に撮影したものです。写真右端に写る橋が「二杉橋」になります。
下の写真は、2023年12月3日の工事の様子です。上流「二杉橋」からと、下流側「大柳橋」から撮影した写真です。
二杉堰改築現場1.jpg二杉堰改築現場2.jpg

この「二杉堰」から取水した水は、現在永野川の西側を川に並行する「八箇村用水堀」を流れ、下流側の大平町から岩舟町の田んぼを潤しています。かつて下流側「大柳橋」の西側でこの用水堀に架かっていた「恵光院橋」の親柱の一つに「八箇村用水堀」の文字が刻まれていました。
恵光院橋.jpg八箇村用水堀.jpg

この「八箇村用水堀」は、その昔は「六ヵ村用水」でした。
「栃木県の地名」(平凡社 1988年8月25日発行)の大平町の所に「六ヵ村用水」として掲載されています。
<永野川より取水した近世の灌漑用水。同川上流の平井村(現栃木市)にある二杉に大口堰を設け、その下流筋に和田山堰を設け取水し、現町域の下皆川村・富田村・現岩舟町の古橋村・沖島村・赤塚村・曲之島村の六ヵ村を潤した。・・・後略>と記されています。
何時、六ヵ村から八ヵ村に変わったのか興味が有りますが、現在「栃木市都市計画図3」の中には、「八箇村堀」とだけ記されています。

横道にそれてしまいました。工事現場に戻ります。次は「新西野田堰」に行きます。
この取水堰は、東武日光線橋梁の下流の橋「川谷橋」の200m程の場所に設置された固定堰です。写真は2015年4月16日に撮影したものです。
新西野田堰(現状).jpg
今年11月18日に行われた、「永野川改良復旧工事 第3回現場見学会」に参加して、現地を訪れた時は、まだ工事は着手されていませんでした。その時の説明では現在の場所より下流側に新たに「鋼製自動転倒堰」に改築され、永野川の水量が増水等で一定のレベルに達すると、自動的に堰のゲートが倒れて解放され、増水した水を下流側にスムースに流せるようにするとのことでした。

この「新西野田堰」より取水した水は、右岸の水門を抜けて、大平中学校の東側を南流して、県道蛭沼川連線を抜け、ゆうゆうプラザの西側を流れ、大平南中学校の東方の水田地帯を、真っ直ぐ南に向かって流れていく「赤津用水」となります。
県道蛭沼川連線に架かる「新愛宕橋」の親柱に「赤津用水」の文字が刻まれています。
新愛宕橋.jpg赤津用水.jpg

「新西野田堰」が有る場所は、大平町蔵井ですが、堰の名称はなぜか「赤津用水」の下流域となる、大平町西野田の地名となっています。この取水堰からの灌漑用水を主に利用しているのが、西野田と言う事なのか。ちなみに江戸時代、享保14年(1729)の「用水堀普請証文」(須藤喜一郎文書)に、「十二ヵ村用水」に蔵井村・野田村・新井村の村名が確認出来ます。(前出、「栃木県の地名」 平凡社の大平町「蔵井村」に掲載有り)流域的に「赤津用水」に当たるものと想定いたします。
それでは、この「十二ヵ村」はどこか。先の古文書は「蔵井村」「野田村」「新井村」の他は不詳となっているので、手元の「明治前期測量 2万分1 フランス式彩色地図」で赤津用水の水路と思しきルートたどって、そのルート上に江戸時代存在した村を追ってみた。
「蔵井村」「真弓村」「野田村」「新井村」「豊後新田村」「西水代村」「戸恒村」「兵庫新田村」「三蔵新田村」「蛭沼村」「緑川村」「前原村」などが候補として挙がる。
「野田村」は明治12年に「西野田村」に改称。「戸恒村」と「兵庫新田村」は明治9年に合併して「伯仲村」となって、同年「新井村」と「豊後新田村」が合併して「新村」となっています。

三ヵ所目は、「榎本堰」です。
榎本堰(現状).jpg
この写真は、2017年4月14日に撮影したもので、写真の右端に取水用水門が見えます。
この取水堰は、永野川左岸側で取水して下流の大平町榎本の街で道路の両側の水路に流れていきます。
榎本用水新堀1.jpg榎本用水2.jpg
現地の人に話を聞くと、現在の「榎本堰」は明治の初めごろに作られた物で、以前はもっと下流側に有ったとの事。新しく開鑿された用水路は「新堀」と呼ばれているそうです。
上の写真は永野川左岸に沿って南流する用水路です。
榎本用水3.jpg榎本用水4.jpg
左側の写真は、榎本の街を東西に走る道路に出てきた所。右の写真は東側から西に向かって撮影したもので、道路わきに水路が流れています。道路奥の突き当りが、八坂神社です。

新しい「榎本堰」は現在の場所から少し下流側にて、工事が進められています。
榎本堰改築現場1.jpg榎本堰改築現場2.jpg
工事現場を下流側から眺めてみると、新しい堰の下部構造が姿を現していました。写真はこの12月14日に撮影しました。

三つの堰共、工事はまだまだこれからの様でした。
次に、現在工事が進んでいる橋梁架け替え工事の様子も、見てみましょう。
これも上流側から確認します。
最初は大平町蔵井に架かる「諏訪橋」です。
諏訪橋架け替え現場1.jpg諏訪橋架け替え現場2.jpg
2023年11月18日の現場見学会の時には、橋台と親柱だけが残されていました。
この「諏訪橋」は、昭和9年に架けられた古るいRC橋で、以前も橋桁が一部落ちて部分的に鋼桁に架け替えられていました。この橋は大平中学校の裏手に有り、この橋を利用して通学する生徒を多く見かけました。2019年の台風の豪雨で又落橋して、通行できなくなっていました。
諏訪橋(2013年5月).jpg諏訪橋(2023年6月).jpg

次は大平町榎本に架かる「両明橋」です。
両明橋架け替え工事現場2.jpg両明橋架け替え工事現場.jpg
現在架け替え工事の為、通行止めに成っていて、榎本に渡るのにチョッピリ不便を感じますが、幹線道路では無いので、下流の「永和橋」迂回となっています。
この「両明橋」も、諏訪橋と同じ昭和9年架橋の古い橋でしたが、2015年8月に高欄を替える等の修繕を行なっており、その後の増水に何とか耐えてきていましたが、今回新しく架け替える事に成ったようです。
2013年5月両明橋.jpg両明橋(2016年1月).jpg

そして3番目は同じく大平町榎本に架かる「千部橋」です。
千部橋架け替え工事現場.jpg千部橋架け替え工事現場2.jpg
この「千部橋」は、主要地方道岩舟小山線が通っており、交通量も多いため、現在迂回用の仮橋を架けている段階の様です。
2013年5月25日千部橋(側道橋).jpg

この「千部橋」の直ぐ下流側には、旧道に架かる昭和9年架橋の「(旧)千部橋」が、2015年の豪雨で落橋した後、生活道路として修復して残されています。
今回の工事で、新しく立派な橋が架けられた後、撤去される計画と聞いています。ただ右岸の橋詰に建てられている、「千部橋供養塔」は残して頂きたいと思います。
修復した旧千部橋.jpg1993年8月旧千部橋西橋詰供養塔.jpg

これらの工事がすべて完了したとき、強い永野川が誕生します。

今回参考にした資料:
・「わが町さんぽ 栃木周辺見てある記」長沼英雄著
・「栃木市史 資料編 近世」栃木市発行
・「栃木県の地名」平凡社
・「栃木市都市計画図3」栃木市発行
・「明治前期測量 2万分1 フランス式彩色地図」(下都賀郡大平町地区) 日本地図センター発行
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