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北陸のマンホールカードを求めて富山県へ③ [コレクション]

富山県のマンホールカード収集の旅も、最終日に成ります。
昨日までの2日間で収集したカードは、8枚です。現在富山県下で配布されているカードは、15枚ですから、今回全部は収集できません。せめて富山市の7枚はゲットしたいので、残る3枚を集めて帰路に着きたい。
収集のコツで最初は遠方からと言う事で、まず越中八尾駅へ向かう。ホテルをチェックアウトして、富山駅へ、今のところ曇の天候。駅のコインロッカーに旅行カバンを預けて、高山本線の列車に乗る。
平日の為車両は高校生が多く、混雑している。
高山本線列車.jpg越中八尾駅.jpg

越中八尾駅に到着したのは、8時頃でした。ここのカード配布場所は「越中八尾観光会館」。配布開始は9時からと言う事で、駅から目的地まで街の中を散策していきます。
八尾町は、毎年9月1日から3日にかけて行われる、「おわら風の盆」が有名で、私も一度来てみたいと考えている所です。駅の待合室に、大きな観光ポスターが何枚も掲示されていました。
風の盆のポスター1.jpg風の盆のポスター2.jpg

富山市八尾町は、富山市の南の端に位置し、南隣の岐阜県と県境を成しています。八尾町は街の中央部を貫流する「井田川」の川に沿って開けた町の様で、国土地理院の地形図を見ると、東西と南の三方を山に囲まれ、唯一北側だけが開けた所で、「井田川」は富山市の中心部「富山城址公園」の西方辺りで、同じように富山県中央部を南から北に貫流して、富山湾に注ぐ「神通川」の左岸に合流する神通川の支流です。

駅の待合室に置いてあった、「坂のまち八尾散策マップ」が頼りです。
駅前の通りを左方向に進んでいくと、早速「井田川」に架かる「坂のまち大橋」に出ました。
橋の名前も「坂のまち」を冠に付けています。橋の形状は「斜張橋」で、親柱には編笠を被って、「おわら」を踊る女性の姿が彫られています。親柱のデザインもどのようなモチーフで出来たものか興味が湧いてきます。橋桁に取り付けられた橋の銘板を見ると、「2007年6月」と有り、比較的新しく架けられた橋の様です。
坂のまち大橋.jpg坂のまち大橋親柱.jpg

この橋の上からが、上流側を眺めるビューポイントと先ほどの散策マップに記されています。
見ると、井田川の右岸の街並みの後方には標高200から300メートルの山並みが連なり、山と川とに挟まれた高台に、街が開けている様子が伺えます。
坂のまち大橋からの眺め.jpg
橋の直ぐ上流部右岸(左端)に合流する川が有ります。「久婦須川」で、架かる橋は「新久婦須橋」、その奥(写真中央)にも同じく右岸に合流する川が見えます。「別荘川」です。見える橋は「天満橋」です。その先の井田川に架かる橋が「十三石橋」です。橋好きの私にとっては、とても魅力的な場所です。
が、のんびり見ていたら、雨が降ってきてしまいました。

井田川を渡って、「久婦須川」に架かる「新久婦須橋」とその上流に架かる「久婦須橋」を写真に収め、更にその先の「別荘川」に架かっている「天満橋」へ。
新久婦須橋.jpg久婦須橋の高欄装飾.jpg
久婦須橋の高欄には、おわらの踊り子の装飾が施されています。

「天満橋」の上から別荘川上流側を望むと、二つのコンクリートアーチを持った橋が架かっているのが見えます。「眼鏡橋」という橋名が付けられています。橋の袂に回り込んでいきます。
天満橋の親柱と高欄.jpg眼鏡橋1.jpg
(井田川右岸に沿った、「十三石橋」の橋詰めから「坂のまち大橋」の橋詰間の道路は平成時代に新しく通った道路で、以前は「眼鏡橋」から「久婦須橋」を通るルートを通っていた様です。「天満橋」の竣工は2010年3月と記されています。ちなみに橋名の「天満橋」は、近くに鎮座している「天満宮」からと思われます。)
天満宮に参拝をして、眼鏡橋の袂に。
眼鏡橋2.jpg眼鏡橋3.jpg
この眼鏡橋は、ウィキペディアにて検索すると、<1893年(明治26年)に、富山県最初の永久橋として単径間の無筋コンクリート橋として架橋された。1914年(大正3年)8月13日、台風に伴う豪雨で発生した洪水により下部工のコンクリートアーチを残し流失。その後1916年(大正5年)に明治の橋の遺残物を利用しつつ、右岸側に1径間延長し2径間コンクリートアーチ橋となる。1954年(昭和29年)には下流側に単径間の鋼板桁を架設して3m拡幅された。>複合橋だと分かりました。
橋詰のバス停には、おわらを踊る男女の姿が描かれています。八尾町では、ここかしこに「おわら」が描かれています。まさに「おわら」一色の街並みの様です。それではいよいよ、その八尾地区の中心部に足を踏み入れたいと思います。

確かに八尾は坂のまちです。それでもそれほど苦になるほどの坂では無いので、息も上がらない。
しばらく歩いて行くと、道路左手の石段の上に、鐘楼と大きな伽藍の寺院が現れる。
下新町あたり.jpg聞名寺1.jpg
聞名寺2.jpg
「聞名寺」は浄土真宗本願寺派の寺院。その歴史をお寺のホームページに求めると、<聞名寺がはじめて越中に入ったのは応仁二年(1468)、本格的に拠点を移したのは大永四年(1524)であったと伝えます。八尾南部の山間地(乗峰や倉ヶ谷など)を経て、福島の台地に一旦寺域を構えましたが、越後上杉勢の来襲に備え、天文二十年(1551)、三方を崖に囲まれた旧い砦の址、「八尾前山」(現在地)に移りました。その後寛永十三年(1636)境内に八尾町建てがなされ、当寺は町そのものの母胎として今日に至っています。>と、記されています。

「風の盆」の碑.jpg「風の盆」の碑の心組み.jpg
聞名寺の境内に建てられた「風の盆」の碑。
境内には枝垂れ桜もあり、花を咲かせた頃を思い描くと、またその時期にも訪れたくもなります。

通り沿いに「おわら資料館」の看板が現れました。中に入ると正面に等身大のパネルが、男女のおわらの踊り手とバックに、風の盆の行燈が道の両側に灯る石畳の道。
おわら資料館1.jpgおわら資料館2.jpg

受付のスタッフさんに案内されて、最初の映像展示室へ。約10分間の「おわら」の映像を大画面で堪能できます。それから資料展示室へ回り、数多くの歴史的な写真や資料などを見て廻りました。

「おわら風の盆」の事を少しかじって、資料館を後に八尾町の通りを散策します。石畳の諏訪本町通りに差し掛かると、八尾町は確かに「坂のまち」であることを、実感する風景がそこに有りました。
諏訪町本通り.jpg諏訪町本通り上から.jpg

街並みに気を取られて、ここまで歩いて来ましたが、時計はすでに10時を過ぎています。もう雨降る中を2時間もうろうろしていました。少し急いで目的地の「越中八尾観光会館」へ向かうことにします。

八尾曳山展示館1.jpg川崎順二像.jpg
「越中八尾観光会館」には、毎年5月3日に開催される「曳山祭」に曳き出される豪華絢爛な曳山を、3基展示する「曳山展示館」が併設されて、栃木市の人形山車を展示している山車会館同様、背の高い曳山を収納展示する為、背の高い大扉が、建物を象徴しています。
開館前には、多くの石碑や銅像が建てられています。
医学博士「川崎順二」は、越中八尾おわら保存会初代会長となった人物で、顕彰碑の碑文「事績」冒頭を参照させて頂くと。
<大正十一年春、好者のみで伝えられてきた郷土民謡越中おわら節を永遠の文化として次代にのこさんがため、町内同志と諮りおわら研究会を結成、昭和四年に越中おわら保存会と発展的改称をなし、以来三十余年に富山県民謡おわら保存会と改称するもその会長として中心的役割を医師という多忙な日を割き、あるときは私財を投じて尽力してきた。・・・・(後略)>

そんな超有名となった「越中八尾おわら風の盆」だけでなく、八尾の町には、豪華絢爛な6基の曳山が有ることを、PRする会館の中を見学します。
入口の受付にて、本日一枚目のマンホールカードを受け取り、まずは映像で曳山祭りの情報を、映像を見て楽しく理解することが出来ました。
続いて館内を見学、いろいろな情報を得ることが出来ました。
曳山展示館内1.jpg曳山展示館内2.jpg
豪華絢爛な曳山.jpg豪華絢爛な曳山の装飾.jpg
曳山は全体に彫刻が施され、動く陽明門の様に感じられます。
この曳山が、あの八尾の石畳の坂を進む姿、狭い路地を曲がる迫力を、是非実際に見てみたいと思いました。
帰りの列車の時間が心配になってきました。幸い帰りは下り坂です。

富山駅に戻り、残り2枚のカードも無事に入手出来ました。
富山市7.jpg富山市6.jpg富山市3.jpg

今回、富山県を訪れて、多くの情報に触れて、是非又、富山県を訪れたいと感じました。
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