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馬草川(吹上地区)に沿って歩く [栃木市の河川と橋]

先日、久しぶりに「歴史と文化を歩く会ー栃木」の企画に参加して来ました。
新型コロナの感染拡大等で、開催が困難になって休会状態が続き、私自身の都合でそれ以降ずっと足が遠のいていましたが、今回は地元栃木市内を歩くというので、3年ぶりに参加をして来ました。

今回の企画は、栃木市内の「吹上地区を流れる馬草川沿いを歩く」という内容でした。
この「馬草川」は地元の人達から「まぐさっ堀」とか「まぐそっ堀」などと呼ばれ、吹上地区の大森町から吹上町の街の中を流れ、野中町で東北自動車道の下を抜け、赤津川に架かる「永宮橋」の上流右岸で赤津川に落ちています。
この川幅2メートル程の水路については、以前(2017年8月9日付け)に、「栃木市吹上町の街中を貫流する水路」と題して、このブログの中で書いています。もう5年以上も前の事で、その頃はずっとこの水路の名前も分からずに、たまたま現地で出会った農家の方に尋ねた時に「まぐさっぽり」と教えて頂き、感激した事を今も覚えています。
まぐさっ堀22.jpg
上の概略地図は、そのブログに添付したものですが、吹上地区の「大森町」「吹上町」そして「野中町」へと流れる馬草堀の流れを記しています。

その後、多くの資料を見る機会も増えて、この「馬草川」について書かれた資料も集めることが出来ました。
令和元年12月25日に発行された、「知っていますか、郷土の地名 吹上地区小字の由来」(吹上地区まちづくり協議会「歴史ロマン委員会」編集発行)の冊子に、この「馬草川」の事が何カ所か紹介されています。その一部を抜粋します。
大森町の小字に、「上」・「中」・「下」が有ります。その小字名の由来に関して、<大森町の中央部を北西から南東へと馬草堀がながれている。大きな川(堀)ではないが、左岸沿いは上流から、上(カミ)・中(ナカ)・下(シモ)と呼ばれる3つの小字がある。数百年前の大森村集落はこの堀を境に山際に接して立ち並び、馬草堀南側には人家は殆どなく「犬塚村」の近くに数軒あるのみであった。この小字「上」の位置は、馬草堀の北側で仲方町から薬師堂までをいう。堀の上流に位置することから上(カミ)と呼んだ。中(ナカ)は、馬草堀の北側にあり薬師堂から鹿島神社まで。堀の中流に位置することから中(ナカ)と呼ばれた。下(シモ シタ)は馬草堀の北側で鹿島神社から吉野工業西側までを言い、下流に位置することから下(シモ)と呼ばれた。・・(中略)・・ところで、馬草堀の呼び名について触れたい。隣の吹上町では「馬ぐそっぽり」などと呼ぶ人もいるようだが、ここ大森町では決してそのようには言わない。この堀は「姥ヶ沢」「千田入り」「富士の入り」などの沢水を集めた川で、昔は、実にきれいな水が流れており、人々は鍋や釜・野菜等を洗ったりする重要な川であった。(後略)>と、記されています。

以前、調べた時は今思えば川の上流域は確認していませんでした。馬草堀に沿って吹上町から大森町へと歩いて来て、サントリー梓の森工場の手前まで遡って来て、これ以上は工場の敷地内に入ると思い、それより上流についてはあきらめていました。が、今回はサントリーの工場入口の取り付け道を越えた、更に上流側を案内して頂きました。

栃木の市街地から、星野遺跡や出流山満願寺の有る寺尾地区に向かう、主要地方道栃木粕尾線(通称鍋山街道)を北西方向に進み東北自動車道の栃木ICの前を通過して、吹上地区を進んで行くと、道路左手に千塚小学校の明るくモダンな造りの建屋が現れます。そこも通過して道路が少し右のカーブした先に信号のある丁字路が現れます。この丁字路を右に折れると、サントリースピリッツ梓の森工場方向に向かう市道13029号線。この道路を横断してサントリーの工場方向に歩くと、左手からこんもりとした森が道路際まで迫って来ています。
その森に沿って左手に入る小路を60メートル程行くと、道路右手脇、木立に覆われ柵に囲われた小さな池が現れました。
磯池1.jpg
地元で「磯池」と呼んでいる湧水池とのこと。位置的にここで湧き出た水も「馬草川」に流れ込んでいたと思われます。現在はサントリーの工場への進入道路として拡張された為、水の流れはどうなっているものか確認できません。小さな湧水池の為、地形図にも反映されていません。
地元「吹上地区まちづくり協議会 歴史・文化・自然保護委員会」が平成21年2月1日に発行した「吹上地誌Ⅰ(西部編)」を開くと、「名所・旧跡の部」の所に「10.磯池(仲方町)」として、この池の説明が書かれています。一部抜粋させて頂きます。
<10.磯池(湧き水) 栃木市仲方町のサントリー工場入口の脇を少し入ると、山陰に水が湧き出る箇所がある。とても澄んだ水に小魚が泳ぎ、なんとも心まで澄んでくる思いがするところである。この磯池の由来は、その昔、弘法大師が旅の途中、この地に立ち寄った際、水不足に困っている民を見て気の毒に思い、手にしていた杖を地面にさしたところ、その地から水が湧き出てきたという。(後略)>
磯池2.jpg
磯池は中央が渡れるように左右に分かれています。その先の小丘を少し上った所に、小さな石造りの祠が祀られています。水神様は、<行事として年1回(4月1日頃)、地元住民の間で水神講が行われ、旗を立て赤飯や料理を持ち寄り水神様を祭っている。>との紹介もされています。

次は、一度市道まで戻って又、サントリーの工場の方に進んで行くと、正面の道路中央に「SUNTORY」のプレートが付いた煉瓦造りの門扉、「関係者以外立入禁止」の文字も見えます。
市道13029号線は、その手前で左手方向に分かれています。
梓の森へ.jpg
ここから市道はサントリーの工場敷地の北側に沿って沢の奥に向かって伸びてます。途中広い駐車場を抜けると、道路の左側は「梓の森」が迫り、道路の右側はフェンスを距ててサントリーの工場、フェンスと道路の間に水路が有ります。この水路が「馬草川」の様です。ここから大森町の間は暗渠となってサントリー工場の入口道路の下あたりを抜けて繋がっているようです。
馬草川源流をめざす.jpg
少し進んだ先で、左手に森の中に入る道路が有ります。

入口には丸太の杭が打たれて、車が進入出来ない様になっていて、ロープも張られ「危険!立入禁止!」の看板。下側に「サントリー」の会社の名前が付いています。この「梓の森」もサントリーの所有地になっているようです。
「サントリー㈱梓の森工場」は、昭和52年(1977)この地に建設され操業を開始しています。私も、まだ子供たちが小さかった頃、年に一度だったと思いますが、工場見学会の様な催しに訪問した事が有り、工場内を見学しました。ガラス窓越しに銅色に輝く蒸溜タンクを見た記憶が有ります。
建設当初のサントリー梓の森工場.jpg
上の写真は昭和48年頃に梓の森周辺を撮影したもの、サントリー工場も建設が進んでいます。写真右手の山が「梓の森」。右手奥に三峰山(通称鍋山)が見えます。

その当時は確か、「サントリー梓の森」はバードサンクチュアリとして野鳥の保護区域としていたと記憶しています。
現在は立入禁止の看板の脇に、「里山林循環整備プロジェクト実施中」の掲示が有り、その内容については、<サントリー「梓の森工場」の森林では、新たな整備活動を始めることになりました。>として、<森林全域を複数のエリアに分割。十数年サイクルで、木々の伐採・収穫、管理・育成を繰り返していく、循環型の里山的管理を行っていきます。>などと記されています。
新緑輝く梓の森2.jpg新緑輝く梓の森3.jpg

森の中から鶯の鳴き声が聞こえてきます。「梓の森」は新緑が芽吹き始めていて、その輝きは目に心地よく写ります。
新緑輝く梓の森1.jpg

更に市道を進むと又左手に入る道が現れました。そちらの道を少し入ると、大きな溜池が目に飛び込んできました。
馬草川源流近くの沼1.jpg
馬草川源流近くの沼2.jpg
野鳥のさえずる声、溜池の水面に映る梓の森。栃木の街からそれほど離れていないのに、すっかり自然の中に入り込んだ錯覚に驚きます。

地図を見ると「梓の森」の中にはいくつかの溜池(4カ所)が記されています。市道が切れた先、北の方角に入り込む沢の奥にも小さな溜池が描かれていますが、そこへの道路は地図上に描かれていません。
ただ平成30年8月1日発行の最新の2万5千分1、「下野大柿」の地形図を確認すると、「馬草川」の河道を遡ると、その一番奥の小さな溜池まで繋がっているので、源流はそこになるものと思われます。
しかし、今回はそこまで確認することはしませんでした。
明治初期に作られた地形図「迅速測図」で確認する馬草川の源流は、現在の場所より一つ西側の沢へ入っています。溜池は一つも描かれていません。その当時は無かったのか、記載されなかったのか。それは分かりません。
馬草堀の上流域、梓の森周辺の概略図を作ってみました。図面上に現在の馬草川(水色で記載)と、明治初期の馬草川の河道(赤色で記載)を描きました。
馬草堀上流域概略図.jpg

市道13029号線の東端付近で道は北に向かったところで終点になります。
馬草川源流への山道.jpg
上の写真は市道の終点付近を写したもので、道路脇を流れる水は夜に降った雨が、流れているもので、地図に描かれた「馬草川」の河道はこの道の左の雑木の中を流れていると思われます。
その河道が市道を北から南に抜ける地点に、小さな水溜りが有りました。ここが今回確認した最上端です。
馬草川源流近くの沼3.jpg

梓の森で自然を満喫して帰路に付きました。
馬草川沿いを歩く2.jpg
大森町を流れる「馬草堀」に沿って歩いて戻りました。
皆さん相変わらず健脚です。最高齢者は90歳を超えているのも驚きです。私もまだまだ頑張らなければと、あらためて思いました。
今回歩いた歩数は、12,550歩(約7.5km)でした。

今回の参考資料:
①当日配布された資料。
②「知っていますか、郷土の地名 吹上地区小字の由来 吹上町・大森町・仲方町・梓町 編」
      (吹上地区まちづくり協議会 歴史ロマン委員会編集発行)
③「吹上地誌Ⅰ (西部編)」(吹上地区まちづくり協議会 歴史・文化・自然保護委員会編集発行)
④2万5千分1「下野大柿」(平成30年8月1日 国土地理院発行地形図)
⑤明治前期測量 2万分1 フランス式彩色地図「栃木縣下野國下都賀郡尻内村」
      (日本地図センター発行)

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下野国都賀郡藤岡の陣屋にて活躍した幕府代官「岸本武太夫」 [石碑]

今年の2月に、江戸時代後期に下野国都賀郡吹上村(現在の栃木市吹上町)に代官陣屋を開き活躍。特に栃木県北部、那須野が原の農民から慕われた幕府代官「山口鉄五郎高品」について書きました。
その際、同時期にやはり栃木市内に陣屋を開いて、県南地方から茨城県南西部で活躍した代官が居る事を知り、その人物の足跡を追ってみました。

その人物の名前は、「岸本武太夫就美」と言い、生まれたのは美作国東南条郡押入村(現在の岡山県津山市押入)で、大庄屋「岸本彦左衛門泰久」の五男として、寛保二年(1742)に生まれています。
山口鉄五郎が生まれたのは、寛延元年(1748)と言われていますから、それより6年前に生まれていることに成ります。
岸本武太夫就美が、幕府代官となって下野国都賀・芳賀2郡五万石の支配を命ぜられて、藤岡村(現在の栃木市藤岡町)に着いたのが、寛政五年の十一月頃と言います。山口鉄五郎は、その年の三月ごろ吹上村に来ています。

彼らは当初、同僚と一緒に赴任して来ていますが、岸本も山口もその後一人の専任代官となって活躍を始めています。
この当時の北関東一帯は、天明の大飢饉の後で、農村部の荒廃が激しく、生活苦から子どもが生まれても間引きしたりで、人口が減少し耕作労働力が低下して、耕作されずに荒れ果てる農地が多くなっている状況下にありました。
江戸幕府としてもこのような状況を放置して置くわけにはいかず、荒廃した農村の復興、農民の生活救済、子供養育の補助等、幕府から救済金を支出して農村の風紀の乱れや、生活全般の改善を図る目的で、現地への支配代官の派遣を始めたのでした。

岸本武太夫が着任したと言う、藤岡代官陣屋が何処に有ったのか、現在わかっていません。
「藤岡町史」を開いてみると、「資料編・近世」に「藤岡陣屋」という項目が有ります。その部分を抜粋して引用させて頂くと、<・・藤岡陣屋は、寛政五年(1793)頃から文化年間までのおよそ20年間、下野国都賀郡・芳賀郡などの幕領管轄のため、下町に建てられた。文化期以降は、芳賀郡の東郷陣屋に移転した。藤岡陣屋には、代官岸本武太夫就美、続いてその子武八荘美が在陣したが、陣屋の具体的な状況については未詳である。・・・(後略)>と有り、関連史資料が二点掲載されているだけしかありません。
その史料が作られた時期は、享和元年(1801)と文政八年(1825)で、文政八年の史料に記されている代官の名前は、「岸本武八様」と有り、後を継いだ子供の時期のものです。
これらの書類が作成された頃には、寛政11年(1799)に新設された東郷陣屋(現在の真岡市東郷)に、家族揃って移っていますし、「岸本武太夫就美」自身も、文化六年(1809)に病気で死亡し、翌年には長子の岸本武八荘美が東郷の代官に任ぜられています。
大恵比須像.jpg大前神社.jpg
東郷陣屋の有った場所には現在、「二宮先生遺蹟 東郷陣屋阯」と刻した標柱が建てられています。
真岡市の巨大な恵比須像の建つ「大前神社」と、五行川を挟んだ対岸(左岸)に位置しています。
東郷陣屋阯之碑.jpg東郷陣屋阯説明板.jpg

「東郷陣屋阯」の上部に「二宮先生遺蹟」と有るのは、「二宮尊徳」の方が知名度が全国区であるからでしょうか。東郷陣屋を建てたのは、岸本武太夫ですがその後嘉永元年(1848)、東郷支配「山内総左衛門が兼任で真岡支配となり、真岡陣屋に移った時、代わりに東郷陣屋に入ったのが、「二宮金次郎」だったので、知名度の高い二宮先生遺蹟となったと思われます。
<慶応四年(1868)、官軍の焼き討ちによって焼失、廃陣となった。>と、標柱の隣に建てられた「東郷陣屋跡」の説明板に記されたいます。

真岡市東大島に極楽山西念寺という、浄土真宗大谷派の寺院が有ります。このお寺は享和元年(1801)に岸本武太夫が、入百姓政策によって遠く北越地方から移ってきた人々の、心のよりどころの為として、開基建立したもので、今お寺の山門前には自然石に「岸本代官遺蹟」と刻した石碑が建てられています。
西念寺山門.jpg岸本君遺蹟.jpg

又、真岡市西郷には「岸本武太夫就美」を祀った、「岸本神社」が建てられ、今もなお地元西郷の人達から、農村の復興、生活改善に多く尽力した岸本代官に敬愛の気持ちを表しています。
岸本神社1.jpg岸本神社2.jpg

更に、岸本武太夫の活躍の場は、栃木県境を越え茨城県南西部の「坂東市」まで及んでいます。
茨城県坂東市沓掛の街中に、「沓掛香取神社」が有りますが、その境内の二の鳥居右側、玉垣の直ぐ内側に少し小ぶりな石碑に成りますが、「奉 唱光明真言三千十七遍 祈岸本君武運長久所也」と刻まれた、文政六年(1823)沓掛根古内・向原の人達が建立した碑が建っています。
沓掛香取神社.jpg沓掛香取神社境内の石碑.jpg

更にさらに、沓掛地区諏訪山の藤岡稲荷神社の境内に、「岸本君二世功徳碑」が覆屋に守られて建っています。この碑は文政四年(1821)飯沼廻り村々・新田村六十三ヶ村の人達によって建立されたものです。
藤岡稲荷神社.jpg岸本君二世功徳碑.jpg

現在の坂東市と古河市、常総市、八千代町の間に昔あった「飯沼」と呼ばれる広大な沼地を、江戸時代中期、享保年間(1716~1736)に干拓して水田へと変えてきたが、その後度重なる飢饉や洪水のために村々は疲弊して、農民は田畑を捨てて村を離れたり、生活苦から口減らしのため堕胎や間引きを行い、人口が減少して村々は荒廃の一途を辿っていました。寛政五年(1793)代官となった岸本武太夫が飯沼新田の支配を兼ね飯沼の再開発に尽力しました。現在では周辺を含めて飯沼三千町歩と言われる、穀倉地帯を形成するに及んだ礎を作った一人で、この碑は「飯沼中興の名大官と称される岸本父子の徳政を讃える」ものという。

功徳碑が建つ「藤岡稲荷神社」は、頭に「藤岡」と付く通り、岸本武太夫就美が当初駐在した陣屋を建てた、下野国都賀郡藤岡村(現在の栃木市藤岡町藤岡)に有る、稲荷神社から分祀したと言います。
 
その稲荷神社は、「藤岡町史」に依れば、<元弘元年(1331)九月、藤岡伊勢守の時代に茂呂稲荷山から松葉へ勧請されたと伝えられ、その地名をとってかつて松葉稲荷大明神と言われていたという。その後元和九年(1623)二月に現在地に遷宮されたと伝えられ、江戸期の記録によれば享保十七年(1732)に拝殿が建立されたということである。しかも本殿の彫刻は大平町富田住の左隆顕(磯部儀兵衛隆顕のことで、左甚五郎十二世、隠居後は十一世を名乗り儀兵衛家を興した人物)の手になるものという。・・・(後略)>
稲荷神社全景.jpg稲荷神社本殿.jpg

幕府代官「岸本武太夫就美」も、先に書いた吹上陣屋の「山口鉄五郎高品」も広大な北関東を舞台に、民百姓の為に惜しみなく善政を尽くした名大官でした。

※今回の参考資料:
 ・栃木県史通史編5近世2(栃木県発行)
 ・藤岡町史資料編近世 (藤岡町発行)
 ・ふじおか見てある記 (藤岡町教育委員会発行)
 ・真岡市史第三巻近世資料編 (真岡市発行)
 ・真岡市史案内第5号 (真岡市教育委員会発行)
 ・坂東市石碑深訪ハンドブック (坂東市立資料館発行)
 ・飯沼新田物語 (さしま郷土館ミューズ発行)




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