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下野国都賀郡藤岡の陣屋にて活躍した幕府代官「岸本武太夫」 [石碑]

今年の2月に、江戸時代後期に下野国都賀郡吹上村(現在の栃木市吹上町)に代官陣屋を開き活躍。特に栃木県北部、那須野が原の農民から慕われた幕府代官「山口鉄五郎高品」について書きました。
その際、同時期にやはり栃木市内に陣屋を開いて、県南地方から茨城県南西部で活躍した代官が居る事を知り、その人物の足跡を追ってみました。

その人物の名前は、「岸本武太夫就美」と言い、生まれたのは美作国東南条郡押入村(現在の岡山県津山市押入)で、大庄屋「岸本彦左衛門泰久」の五男として、寛保二年(1742)に生まれています。
山口鉄五郎が生まれたのは、寛延元年(1748)と言われていますから、それより6年前に生まれていることに成ります。
岸本武太夫就美が、幕府代官となって下野国都賀・芳賀2郡五万石の支配を命ぜられて、藤岡村(現在の栃木市藤岡町)に着いたのが、寛政五年の十一月頃と言います。山口鉄五郎は、その年の三月ごろ吹上村に来ています。

彼らは当初、同僚と一緒に赴任して来ていますが、岸本も山口もその後一人の専任代官となって活躍を始めています。
この当時の北関東一帯は、天明の大飢饉の後で、農村部の荒廃が激しく、生活苦から子どもが生まれても間引きしたりで、人口が減少し耕作労働力が低下して、耕作されずに荒れ果てる農地が多くなっている状況下にありました。
江戸幕府としてもこのような状況を放置して置くわけにはいかず、荒廃した農村の復興、農民の生活救済、子供養育の補助等、幕府から救済金を支出して農村の風紀の乱れや、生活全般の改善を図る目的で、現地への支配代官の派遣を始めたのでした。

岸本武太夫が着任したと言う、藤岡代官陣屋が何処に有ったのか、現在わかっていません。
「藤岡町史」を開いてみると、「資料編・近世」に「藤岡陣屋」という項目が有ります。その部分を抜粋して引用させて頂くと、<・・藤岡陣屋は、寛政五年(1793)頃から文化年間までのおよそ20年間、下野国都賀郡・芳賀郡などの幕領管轄のため、下町に建てられた。文化期以降は、芳賀郡の東郷陣屋に移転した。藤岡陣屋には、代官岸本武太夫就美、続いてその子武八荘美が在陣したが、陣屋の具体的な状況については未詳である。・・・(後略)>と有り、関連史資料が二点掲載されているだけしかありません。
その史料が作られた時期は、享和元年(1801)と文政八年(1825)で、文政八年の史料に記されている代官の名前は、「岸本武八様」と有り、後を継いだ子供の時期のものです。
これらの書類が作成された頃には、寛政11年(1799)に新設された東郷陣屋(現在の真岡市東郷)に、家族揃って移っていますし、「岸本武太夫就美」自身も、文化六年(1809)に病気で死亡し、翌年には長子の岸本武八荘美が東郷の代官に任ぜられています。
大恵比須像.jpg大前神社.jpg
東郷陣屋の有った場所には現在、「二宮先生遺蹟 東郷陣屋阯」と刻した標柱が建てられています。
真岡市の巨大な恵比須像の建つ「大前神社」と、五行川を挟んだ対岸(左岸)に位置しています。
東郷陣屋阯之碑.jpg東郷陣屋阯説明板.jpg

「東郷陣屋阯」の上部に「二宮先生遺蹟」と有るのは、「二宮尊徳」の方が知名度が全国区であるからでしょうか。東郷陣屋を建てたのは、岸本武太夫ですがその後嘉永元年(1848)、東郷支配「山内総左衛門が兼任で真岡支配となり、真岡陣屋に移った時、代わりに東郷陣屋に入ったのが、「二宮金次郎」だったので、知名度の高い二宮先生遺蹟となったと思われます。
<慶応四年(1868)、官軍の焼き討ちによって焼失、廃陣となった。>と、標柱の隣に建てられた「東郷陣屋跡」の説明板に記されたいます。

真岡市東大島に極楽山西念寺という、浄土真宗大谷派の寺院が有ります。このお寺は享和元年(1801)に岸本武太夫が、入百姓政策によって遠く北越地方から移ってきた人々の、心のよりどころの為として、開基建立したもので、今お寺の山門前には自然石に「岸本代官遺蹟」と刻した石碑が建てられています。
西念寺山門.jpg岸本君遺蹟.jpg

又、真岡市西郷には「岸本武太夫就美」を祀った、「岸本神社」が建てられ、今もなお地元西郷の人達から、農村の復興、生活改善に多く尽力した岸本代官に敬愛の気持ちを表しています。
岸本神社1.jpg岸本神社2.jpg

更に、岸本武太夫の活躍の場は、栃木県境を越え茨城県南西部の「坂東市」まで及んでいます。
茨城県坂東市沓掛の街中に、「沓掛香取神社」が有りますが、その境内の二の鳥居右側、玉垣の直ぐ内側に少し小ぶりな石碑に成りますが、「奉 唱光明真言三千十七遍 祈岸本君武運長久所也」と刻まれた、文政六年(1823)沓掛根古内・向原の人達が建立した碑が建っています。
沓掛香取神社.jpg沓掛香取神社境内の石碑.jpg

更にさらに、沓掛地区諏訪山の藤岡稲荷神社の境内に、「岸本君二世功徳碑」が覆屋に守られて建っています。この碑は文政四年(1821)飯沼廻り村々・新田村六十三ヶ村の人達によって建立されたものです。
藤岡稲荷神社.jpg岸本君二世功徳碑.jpg

現在の坂東市と古河市、常総市、八千代町の間に昔あった「飯沼」と呼ばれる広大な沼地を、江戸時代中期、享保年間(1716~1736)に干拓して水田へと変えてきたが、その後度重なる飢饉や洪水のために村々は疲弊して、農民は田畑を捨てて村を離れたり、生活苦から口減らしのため堕胎や間引きを行い、人口が減少して村々は荒廃の一途を辿っていました。寛政五年(1793)代官となった岸本武太夫が飯沼新田の支配を兼ね飯沼の再開発に尽力しました。現在では周辺を含めて飯沼三千町歩と言われる、穀倉地帯を形成するに及んだ礎を作った一人で、この碑は「飯沼中興の名大官と称される岸本父子の徳政を讃える」ものという。

功徳碑が建つ「藤岡稲荷神社」は、頭に「藤岡」と付く通り、岸本武太夫就美が当初駐在した陣屋を建てた、下野国都賀郡藤岡村(現在の栃木市藤岡町藤岡)に有る、稲荷神社から分祀したと言います。
 
その稲荷神社は、「藤岡町史」に依れば、<元弘元年(1331)九月、藤岡伊勢守の時代に茂呂稲荷山から松葉へ勧請されたと伝えられ、その地名をとってかつて松葉稲荷大明神と言われていたという。その後元和九年(1623)二月に現在地に遷宮されたと伝えられ、江戸期の記録によれば享保十七年(1732)に拝殿が建立されたということである。しかも本殿の彫刻は大平町富田住の左隆顕(磯部儀兵衛隆顕のことで、左甚五郎十二世、隠居後は十一世を名乗り儀兵衛家を興した人物)の手になるものという。・・・(後略)>
稲荷神社全景.jpg稲荷神社本殿.jpg

幕府代官「岸本武太夫就美」も、先に書いた吹上陣屋の「山口鉄五郎高品」も広大な北関東を舞台に、民百姓の為に惜しみなく善政を尽くした名大官でした。

※今回の参考資料:
 ・栃木県史通史編5近世2(栃木県発行)
 ・藤岡町史資料編近世 (藤岡町発行)
 ・ふじおか見てある記 (藤岡町教育委員会発行)
 ・真岡市史第三巻近世資料編 (真岡市発行)
 ・真岡市史案内第5号 (真岡市教育委員会発行)
 ・坂東市石碑深訪ハンドブック (坂東市立資料館発行)
 ・飯沼新田物語 (さしま郷土館ミューズ発行)




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