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境内に石造りの牛像が祀られている、栃木市大平町牛久の牛来寺 [堂々巡り]

今日、2021年(令和三年)の新しい年が明けました。我家はこの年末年始は喪中の為、正月飾りもせず毎年恒例の家族そろっての初詣も、年賀状の楽しみも有りません。新型コロナの感染拡大は収まる気配も無く、昨日はこれまでの数値を大幅に上回り、日本全国で4,519人の感染者が確認されたと読売新聞一面に載っていました。。
遠くにいる息子には、帰省させませんでした。そんな訳で正月の団欒も無いので、この冬は居間の炬燵も造りませんでした。今日は一日中、テレビを見、新聞を読んで、外出する事も無く静かに一日を過ごしました。
そんな中、目を通していた「よみうりタイムス・栃木南部版」の1面に<今年は丑年 朝日森天満宮「なで牛」>の記事が出ていました。
朝日森天満宮は、栃木市の西隣、佐野市に祀られている神社です。私も昨年の梅の咲く時期に参拝をして、記事に載っていた「なで牛」を撫でて来ました。
朝日森天満宮社殿.jpg朝日森天満宮なで牛.jpg
(佐野市・朝日森天満宮社殿)           (朝日森天満宮境内にある「なで牛」)

我が栃木市における丑年に関わるものが無いかと、思いを巡らすと、牛の石造を境内にお祀りしている寺院が浮かんできました。大平町牛久の「牛来寺」です。
この「牛来寺」に関しては、すでに2015年6月4日に、このブログ「巴波川日記」に書きましたが、何故か海外からわけのわからない文字でコメントが入ってきてしまうので、公開を遮断していました。
今回丑年と言う事で、その後の話題も追加して、ここに再度公開をする事にしました。

1年半ぶりに牛来寺を参拝して来ました。
「牛来寺」(ごらいじ)は栃木市大平町牛久、県道153号線(南小林栃木線)、栃木市沼和田町から南に進み大平町牛久に入ると、道路右側に雷電神社のこんもりとした森が見えてきます。牛来寺はそのすぐ先です。道路左側に駐車場が有ります。車を停めて中に進みますとお寺の入口正面に出ます。こちらにも駐車場が有ります。本堂の鮮やかな朱色が目に飛び込んできます。
牛来寺2.jpg
入口左側に建つ石柱正面に「栃木県指定文化財 薬師如来」、石柱右側面には「慈覚大師霊跡」そして左側面には、牛来寺の由緒が刻まれております。
牛来寺9.jpg牛来寺10.jpg
右側には、大きく「薬師瑠璃光如来」と刻まれた石碑が建っております。1969年に撮影をした私の写真にも、薬師堂の手前にこの石碑が写っております。
牛来寺(1969年撮影).jpg
(1969年に私が撮影した牛来寺薬師堂)

石碑の後ろに石に掘られた牛が座ってくつろいでおります。横の説明板に「御法の牛」と有って「自分のからだの悪い所をなでてから、牛の同じところをなでると病がよくなり、じゃけんな心も消えて豊かな暮らしが出来るようになると云われています」と、記されています。 私も最近動きの悪くなった右肩をなでさせてもらいました。
牛来寺の御法の牛.jpg
(栃木市大平町牛久、牛来寺の「御法の牛」)

本堂(薬師堂)にて参拝を済ませ、境内の中を散策させてもらいました。
牛来寺は正式には、「医王山光明院牛来寺」と号する、天台宗の寺院です。
私のブログにても2014年10月14日に「都賀三十三薬師霊場巡礼③」の中で紹介をしていますが、第十一番札所となっております。
ご詠歌を記した立札が有りました。「願えただ我もじゃけんの角折りて 牛さえ法に引かれくる身を」
牛来寺5.jpg
先ほどの御法の牛の説明文、そしてこのご詠歌の中にも出ている言葉「じゃけん」とは、どのような意味なのでしょうか、調べてみました。仏教用語≪五見・十惑の一、因果の理法を否定する誤った考え≫と有り、更に分からなくなりました。一般的には、正しくない見解、よこしまな考え。で何とか納得しました。
牛来寺の由緒は、≪嘉祥三年庚午(850)、聖の慈覚大師さま蓮華まだらの牛に乗り、諸国巡行のその折りに、九十九曲りや牛の跡、その頃この地で悪病が、流行忌く人数知れず、嘆き悲しむ人多く、さながら地獄の様のごと、大師沐浴咒穣すれば、衆病あまねく痊愉せり、薬師如来のお加護ぞと、邑人こぞって信奉す、梵想のお告げで大師さま、この地に一寺を建立し、薬師如来を安置して、衆生済度を誓願す、三界衆生のともがらは、万病除きて楽を得る、日光闇を照らさるる、月光煩悩掃わるる、後の仏の御世までも、慈悲の守りをたれ給う。≫牛来寺の資料より抜粋し掲載。七五調の文で読みやすくなっています。

本堂に向かって左側に、二つの擬宝珠が置かれています。小さい方は明治二十一年に倒壊して再建されなかった観音堂の屋根に有った物と言う。ここ牛来寺は「都賀三十三観音霊場・第二十三番札所」でも有ったのです。本尊の聖観世音菩薩は、現在本堂に合祀されています。
牛来寺6.jpg牛来寺7.jpg
大きい方の擬宝珠は、旧本堂の屋根に有った物で平成十二年の増改修で新しい屋根に葺き替えた時、外され保存されています。1969年撮影の薬師堂の屋根は向拝が有りません。平成の改修の際に向拝が加えられ、又旧堂宇の両側にそれぞれ一間分が増築されているのが分かります、元の堂宇の柱は円柱の部分になります。
牛来寺1.jpg

牛来寺鐘楼の梵鐘には、天台宗の寺院に行くと、必ずと言っていいほど目にするお言葉「一隅を照らす これすなわち国宝なり」の文字が陽鋳されています。
牛来寺鐘楼.jpg牛来寺梵鐘1.jpg
(牛来寺の鐘楼)                  (梵鐘縦帯に「照千一隅此則国宝」の文字)
このお言葉の由来について、令和3年の「天台こよみ」の「一隅を照らす -本当の宝物ー」の記事の中に載っておりましたので、抜粋し紹介をさせて頂きます。
<この天台宗のシンボルともいえる「一隅を照らす」という言葉は、宗祖大師が比叡山(山家)における僧侶(学生)の育成方針を示した「山家学生式」のお言葉、  国宝とは何物ぞ 宝とは道心なり・・・・・・ 径寸(大きな宝石)十枚 これは国宝にあらず 一隅を照らす これすなわち国宝なり  に由来します。>

本堂裏手に6基の石仏が並んでいます。一番右側は「念佛百万遍供養塔」で、享保六年(1721)の建立。他は十九夜供養塔になります。紀念銘を見ると、享保十三年(1728)や天明七年(1787)など、江戸時代中期の物が多いです。
牛来寺8.jpg
境内は説明の立札も多く、見ていて良く理解する事が出来ました。

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真岡市長沼の宗光寺 [堂々巡り]

真岡市の南西部、南隣りは茨城県筑西市、西隣りは下野市と小山市に接する地区は、平成21年(2009)3月23日に真岡市に編入されるまでは芳賀郡二宮町、更に遡ると昭和29年(1954)5月3日に、久下田町・長沼村・物部村の1町2村が合併する前の長沼村でした。
現在、二宮町も長沼村もその区域が何処であるか、グーグルマップで検索しても表示してくれません。真岡市内を更に分割して検索するには、かつての大字名に成るのでしょうか、その区割名での検索に成ります。
明治22年(1889)4月1日に長沼村が誕生しましたが、この時合併をした以前の村は、上大曽村・上谷貝村・谷貝新田・砂ヶ原村・青田村・掘込村・大道泉村・太田村・鷲巣村・古山村・西大島村・上江連村の12の地区で構成されていました。
現在のこれら12地区の分布状態を概略図示すると以下の図の如くに成ります。明治初期のそれぞれの境界は、鬼怒川左岸一帯の大規模な土地改良事業が行われて変化している為、昔の姿を留めていないと考えますが、その分布は現状から推察する事は可能でしょう。
旧長沼村の区割り.jpg
(かつての芳賀郡長沼村12郷の現在の区割り分布概略図)

ただ現在の地域名の中には、かつての太田村の地域を「真岡市太田」で検索しても表示してくれません。その他の11地域は、「真岡市上大曽」とか「真岡市上谷貝」等の名前で全てその地域を確認出来ます。
それでは太田村はどうなったのでしょうか。私は地元に住んでいませんので推測に成りますが、先の概略図に有る「真岡市長沼」の地区が、かつての太田村に比定されるものと考えます。
(財)日本地図センターが発行する、「明治前期測量2万分1フランス式彩色地図」の中に、明治19年1月の「栃木縣下野國河内郡本吉田村及芳賀郡太田村」と題した地図が有ります。
この地図の右下部分に「鬼怒川」の流れが描かれその左岸に「太田村」の文字が見えます。その村名の下に「八幡社」、更のその左下辺りに「大道泉村」の村名も確認出来ます。
ここで「八幡社」と有るのは、長沼八幡宮に成ります。
長沼八幡宮社殿.jpg長沼八幡宮参道.jpg
(長岡八幡宮の拝殿)                 (春には約350mの参道に桜のトンネルも)

その社殿鳥居の前から南に向かって真っすぐに伸びる道路は参道、更に南に目を向けると地図の右下角近くに、「宗光寺」の文字が記されています。
この「宗光寺」が今回訪れた天台宗の準別格大寺、「新御堂山 円頓止観院 宗光寺」(しんみどうさん えんどんしかんいん そうこうじ)に成ります。
長沼宗光寺山門.jpg
(宗光寺山門、「新御堂山」の扁額が掲げられています)
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(宗光寺本殿、右手前は新しくなった客殿)
長沼宗光寺鐘楼&阿弥陀堂.jpg
(手前鐘楼、奥に建つのが阿弥陀堂)
大銀杏.jpg冬の大銀杏.jpg
(山門前から南100mに建つ薬師堂前に聳える大銀杏)(落葉後の大銀杏、その大きさが分かる)

下野新聞社発行の「とちぎの天台の寺めぐり」(天台宗栃木教区宗務所編集)より「宗光寺」の由緒に付いて抜粋させて頂くと、≪宗光寺は嘉祥元年(848)に慈覚大師円仁によって開かれた。建久4年(1193)に長沼宗政の主君である源頼朝の本願により、「新御堂」を建立した。≫と、有ります。
慈覚大師円仁と言えば、その幼少期に栃木市岩舟町の下津原や小野寺にて修行を積み、比叡山にて最澄の教えを受け遂に第三代天台座主に成られました。
由緒は更に続きます、≪弘安9年(1286)に長沼宗光が比叡山よい盛海僧正を迎えて宗光寺を中興した。≫と。ここで最初に出て来た「長沼宗政」とは、下野国大掾小山政光の三男、従五位上、淡路守、五郎左衛門尉です。元暦元年(1184)、芳賀郡長沼郷太田村に「長沼城」を初めて築いたと伝えられています。
長沼城は宗光寺の位置から北東側、北宿集落付近に有った様ですが、現在は城址の姿を全く留めておりません。城址の南側、宗光寺東門脇駐車場から東に、現在轟々と勢いよく流れる用水堀を渡った少し先に、長沼宗光公の墓と伝えられる墓石が一基建っています。
用水路.jpg長沼宗政公の墓.jpg
(宗光寺の東側を満々として水が流れる農業用水路)  (伝、長沼淡路守宗政公之墓)

又、この寺院の名前にもなっている、宗光寺中興「長沼宗光」は長沼系図によると、長沼の祖「宗政」から7代の城主で、従五位下、駿河守、監物、藤五郎。この人無双の豪勇にして世に悪五郎と呼ばれ、鎌倉に出て征夷大将軍久明親王に仕え、軍功により菊紋を賜わりました。後に遁世し鎌倉大御堂に入り、正慶二年(1333)皆川庄筥森に来て、草庵を建てて念仏三昧に入り、観応二年(1351)八月六日79歳で入寂したと云います。栃木市のそれも私の家の近く箱森町内に建つ「悪五郎堂」は長沼宗光の隨身仏といわれる阿弥陀仏と観音の二体を安置し、又悪五郎の霊をも合祀してある。(現在仏像は別に保管されている様です)
※悪五郎堂に付いては、今年7月20日にここで紹介しました。
こうした関係から以前から真岡市長沼の地の宗光寺には興味を持っていた訳です。
真岡市長沼宗光寺周辺概略図.jpg
(現在の宗光寺周辺の概略地図)

今回、宗光寺周辺を歩いて回りました。宗光寺の東側を流れる用水の水量の多さに少し恐怖を感じる程、激しく音を発てて流れていました。この水は鬼怒川から取水した物でしょうか。用水路を満々と流れていました。
宗光寺から南西の方向鷲巣に、鷲宮神社が祀られています。
鷲宮神社(真岡市鷲巣).jpg
(真岡市鷲巣の鷲宮神社)
平成二十七年(2015)に本殿を修復し、境内を整備したと云う事で、全体的に整然としていました。参道入口脇に建てられた記念碑に神社の由来等が記されていました。その中で気になったのが、陰暦十一月初酉日例祭(とりのまち)が行われ、神前に鶏卵や、つとっこ(卵の形をした餅を藁づとにいれたもの)を供える古式の伝統が今なお氏子たちによって受け継がれている。と記されていました。この「つとっこ」と言うものがどういうものか見た事が有りませんが、栃木市箱森町の鷲宮神社の秋の例祭の日には、米の粉で作った卵型の団子を藁にくるんだ物が売られ、それを食べると風邪に罹らないと言われています。何か似たものを感じました。
鷲宮神社(箱森).jpg鷲宮神社(箱森)米団子.jpg
(栃木市箱森町の鷲宮神社)           (11月の例祭日に販売される米団子)

もう一つ気になった事が、かつてこの地に有った長沼城は、別名その形がきんちゃくに似ていた事から錦着城と呼ばれていたそうです。 そして又、我が箱森町に有る小丘は、同様に形がきんちゃくに似ていた為に、巾着山とか現在では錦着山と成っています。
第7代長沼城主の長沼宗光公がその晩年を過ごした箱森の地、そこには何か彼の地「真岡市長沼」と共通した雰囲気が有ったのでしょうか。

※今回参考にした文献は
  ・栃木の城           編著者下野新聞社  発行下野新聞社
  ・とちぎの天台の寺めぐり  編集天台宗栃木教区宗務所 発行下野新聞社
  ・下野長沼氏          著者江田郁夫   発行戎光祥出版
  ・栃木縣誌           著者舟橋一也   発行歴史図書社
  ・校訂増補 下野国誌    再校訂徳田浩淳  発行下野新聞社
      



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旧日光例幣使街道の起点、倉賀野宿閻魔堂を訪ねる。 [堂々巡り]

先週の土曜日、旧日光例幣使街道の起点となる、中山道の宿場町「倉賀野」に車を走らせました。
日光例幣使は江戸時代、正保4年(1647)から毎年4月の日光東照宮の例大祭に奉幣する為に、朝廷から派遣された奉幣使で、慶応3年(1867)まで221年間、1回の休みも無く続けられました。
日光例幣使は、毎年4月1日に京都を発って中山道を下り、上野国の倉賀野宿にて中山道より分かれ、我が栃木市街を通過して、鹿沼市楡木にて日光西街道(壬生通り)に合わさる、日光例幣使街道を通って、4月15日に日光に到着するのが慣例になっていました。
倉賀野宿の「下の木戸」を出た所で道は分岐し、「従是右江戸道、左日光道」と刻された道しるべが建てられています。
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(右が江戸に向かう中山道、左が日光に向かう例幣使街道)
そして道しるべの背後には、文化10年(1814)に立てられた立派な常夜燈と、さらにその奥に閻魔堂が建っています。
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(例幣使街道を示す新しい道路標識)         (分岐点に建つ道しるべと常夜燈)
私は、2014年9月21日に一度、この閻魔堂を訪れていますが、その時は丁度堂宇の老朽化が酷くなったとして、解体をされた後でした。昨年(2015)の5月に再建されたという事で、今回新しくなった閻魔堂を訪れました。
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(新しくなった閻魔堂)
倉賀野宿の旧中山道を、少し歩いて見ました。「連子格子」の有る建物やナマコ壁の土蔵など明治期の面影が残る建物を見る事が出来ます。
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(矢島家)                           (吉野家「叶屋」)
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(大山家)                    (街道の様子、左手に倉賀野古商家おもてなし館)
ただ午後1時を回る頃、歩いているだけでも夏の陽射しが照り付け、汗が噴き出て来ます。そこで少し空調の効いた屋内に入ろうと、近くの「群馬県立歴史博物館」に避難しました。
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(群馬の森内、「群馬県立歴史博物館」の正面入口)
「群馬県立歴史博物館」は、先ほどの分岐から日光例幣使街道を少し行った先に有る「群馬の森」の中に有り、先月(7月23日)リニューアルオープンをしたばかりでした。
館内は空調が効いていて、最高に快適空間、ゆっくりと群馬県の歴史・文化を見て回りました。
「近世」のコーナーには、今回訪れた中山道倉賀野宿周辺の様子がジオラマで展示紹介されています。
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(倉賀野宿のジオラマ。左側の道の両側に家並みが続くのが中山道。右側に流れる川が、利根川支流の烏川。川には帆を掛けた舟が何隻も見えます。倉賀野宿は烏川の舟運による河岸も栄えていました。)
ジオラマをよく観察をすると、丁度中山道と日光例幣使街道との分岐付近を進む例幣使一行の行列が細かく再現されているでは有りませんか。馬に乗る人達や、長持ちを担いでいく人達、行列の中央付近に12名の人によって担がれている、一際大きい御輿には天皇からの宣命と金の幣帛を納めた櫃が収められているのか。行列後方には四枚肩の引戸駕籠が続く。数えてみると総勢74名(駕籠に乗っている人も含む)の行列となっています。
行列の先頭はすでに、「下の木戸」を抜けて分岐点を左の日光道を進んでいます。
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(倉賀野宿下の木戸を通り、閻魔堂の分岐を日光道へ進む例幣使の行列先頭部)
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(倉賀野宿内中山道を進む行列。12名で担がれた奉納される金の幣帛を納めた御輿も。)
ジオラマを眺めながら、遠い昔に思いを馳せました。
この群馬の森の公園内も、今ブームとなっている「ポケモンGO」をする若者達の姿を、多く見かけました。

新緑の雲巌寺へ [堂々巡り]

今日5月5日は立夏、暦の上では夏になります。そして昨日に続いて今日も、暦通りの暑い1日となりました。今回は新緑があふれる、大田原市の雲巌寺を訪れました。
私が初めて雲巌寺を訪れたのは、40年以上前になります。そして最近では一昨年2014年に訪れました。雲巌寺は大田原市東部の黒羽地区で、大田原市の中心街からでは、車でも40分ほどかかる、茨城県との境に横たわる、八溝山地の中に位置します。車で10分ほどで茨城県との県境になります。
雲巌寺の南側を東から西に、武茂川(むもがわ)の渓流が、新緑に包まれた谷の下を流れています。この武茂川左岸の道路脇に有る広い駐車場に10数台の車が止まっています。
雲巌寺にはここから、武茂川に架かる朱塗りの反り橋「瓜瓞橋」を渡った先に石段が有り、その上に重厚な山門に向かいます。この景色は40年前と殆んど変わっておりません。丁度2014年秋に訪れた時に、入口となる「瓜瓞橋」の高欄の塗り替え作業中だったのかビニールシートで養生されていました。今回は鮮やかな朱色の高欄が、新緑の中に浮き上がります。
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(1973年撮影、雲巌寺山門)          (2016年5月撮影、新緑の雲巌寺山門)
雲巌寺は正式に「東山雲巌寺」と称し、臨済宗妙心寺派の寺院で、御本尊は釈迦牟尼仏になります。山内に寺の由緒を記した説明板が建てられています。
「神光不昧」と書かれた額が掲げられた山門を潜って、中に入ります。正面に緩やかな曲線を以って左右に広がる銅板葺きの屋根を頂いた「仏殿」。山号「東山」と大書した額が掲げられたいます。
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(ご本尊の釈迦牟尼仏を安置している仏殿)
仏殿に向かって左手正面に「平和観音」の額が掲げられた堂宇。右手には鐘楼が建っています。
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(観音堂)                        (鐘楼)
鐘楼の前に「雲巌寺略図」とその下に、山内での心得が記されています。
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(鐘楼前に建てられた「雲巌寺略図」)
仏殿の裏手の石段を更に登り「獅子王殿」へ。参拝の後方丈前から自然豊かな山内を眺めます。「釈迦堂」「鐘楼」「山門」の屋根が緑色の空間に点在します。
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(手前露盤宝珠を頂いた屋根は仏殿。右奥が山門、左奥が鐘楼の屋根)
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(右手の建物が「獅子王殿」)           (獅子王殿わきに咲いていた牡丹の大輪)
帰りは山門を通らず左側を下る坂道へ進む。裏門の前を過ぎると、右手に橋の高欄親柱に擬宝珠を付けた石橋が掛かっています。「瑞雲橋」と親柱に刻されています。
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(武茂川に架かる「瑞雲橋」)             (瑞雲橋の文字を刻す、石造りの親柱)
雲巌寺前を流れる「武茂川」には「雲巌寺五橋」と呼ばれる橋が架かっている様です。今回そのすべてを見てくることは出来ませんでしたが、山門前に架かる「瓜瓞橋」、そしてこの「瑞雲橋」さらにこの上流側の「涅槃橋」「梅船橋」そして下流側に「独木橋」の五橋だそうです。
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(山門前、擬宝珠を載せた朱塗りの反り橋「瓜瓞橋」)
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(武茂川の流れの上に架かる新しい「独木橋」。隣りに古い橋が残っている)
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(現在の「独木橋」の隣りに残る、古い「独木橋」) (道と川百選、雲巌寺周辺の武茂川の碑)
今は更にその下流に架かっている、「三和橋」「錦雲橋」「心橋」を含めた、「雲巌八橋」と言う呼び方もあるそうです。
今度来た時は、ゆっくりと歩いてこれらの橋の有る風景を見てみたいと思いました。

下野市の国分寺へ [堂々巡り]

今日は、栃木市から東方面へ自転車を走らせました。神田町から真直ぐ東に寄居町を抜け、国指定史跡の下野国庁跡の南で、思川の大光寺堰から取水した、「美田東部用水」の幹線が北から南に流れています。
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(下野国庁跡、復元された前殿が見える)         (美田東部用水幹線)
この用水は歴史が古く、開鑿されたのは元禄十二年(1699)と云われています。旧豊田、穂積村の小宅・黒本等の八つの大字の水田を灌漑しました。その後も何度も改良を加え、現在に至っています。
用水堀に橋が架かっています。「おおはし」の橋名板が付いています。長さm、幅4m程の小橋ですが、名前は大きいです。橋の下流側右岸に雑草に埋もれる様に、国土地理院が設置した「四等三角点」が有ります。
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(美田東部用水に架かる「おおはし」)        (橋の右岸の草むらに三角点「古国府」)
基準点名は「古国府」、標高は43.11mです。関東平野の田畑の中に位置し360度視界が開けています。
東側には栃木市の南東端に位置する「古国府(ふるこう)」の集落が有りその東側に思川の土手が見えます。目を西側に転じると、正面奥に太平・晃石の山並み、右手前には「下野国庁跡」、宮目神社の森が見えます。
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(三角点設置位置から西方を望む、正面奥に一等三角点の有る晃石山が見える。)
用水堀に沿って南に下がります。300m程で栃木市田村町から小山市小宅に入ります。この辺り行政区の境界線が東西に走っていますが、この境界線に沿っていにしえの「東山道」が通っていたと云われています。下野国庁が境界線の北側に面するこの場所、かっては奥州へ向かう人達や、都に戻る人達の往来が有ったと思うとロマンが広がります。
用水堀の脇に背の高さ3m強にもなる、大きな石碑が建てれれています。正面に元「栃木縣知事従四位勲三等 山縣三郎書」となる「幹線改良記念碑」の文字が刻されています。この碑は昭和十一年から昭和十五年にかけて行われた「県営用水幹線改良事業」の竣工記念碑になります。
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(美田東部用水の右岸に建つ石碑)    (石碑正面、元栃木県知事 山縣三郎による文字)
自転車は小山市小宅の集落を抜け、思川に架かる仮橋「小宅橋」を渡って、思川左岸の小山市飯塚の集落に入ります。
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(思川に架かる仮橋「小宅橋」遠望)         (小宅橋を東橋詰より)
飯塚は街の中央を南北に県道18号線が抜けています。この道はかっては「日光西街道(壬生通り)」と称し、小山市喜沢にて宇都宮を経由して日光に至る「日光街道」から分かれ、壬生を通って鹿沼市楡木にて「例幣使街道」と合流する街道です。国土地理院2万5千分の1「小金井」の地形図を眺めると、飯塚の集落は道路の両側に短冊状に町屋が形成されています。今も道路を壬生方向に走らせると、宿場町の趣を覗わせています。
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(現在の日光西街道・壬生通りの飯塚宿)
暫らく行くと「国指定 琵琶塚 摩利支天塚 古墳」の標識が道路上に見えて来ました。折角なので寄っみます。右折して脇道に入ると直ぐ正面に小丘を背にして鳥居が建っています。
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(琵琶塚・摩利支天塚古墳の標識) (摩利支天尊社の鳥居、後方の小丘が古墳)
右脇に「摩利支天尊」と刻した石柱があり、「史跡 摩利支天塚古墳」の説明板や「しもつけ風土記の丘案内図」などが建てれれています。
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(史跡説明板・摩利支天塚古墳)         (しもつけ風土記の丘案内図)
古墳の上に祀られている社殿に参拝をします。摩利支天塚古墳は説明板に依ると、≪隣接する琵琶塚古墳とともに県内で最大の規模を誇る大形の前方後円墳≫との事で、全長117m、前方部幅約75m、高さ約7m。後円部直径約70m、高さ10m。≪この古墳の築造年代は、5世紀末から6世紀初頭と推定されます。このような巨大な古墳の被葬者は、大和王権による支配体制の中で、下毛野国をはじめて統括した大首長であったとも考えられます。≫と説明されていました。
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(摩利支天塚古墳、前方部より後円部方向を望む)(後円部墳頂に祀られた摩利支天尊社)
続いて、北隣りに有る琵琶塚古墳にも登って見る事にしました。琵琶塚古墳も摩利支天塚古墳と同じ前方後円墳で、全長約123m、前方部幅約70m、高さ約9m。後円部直径約75m、高さ約11mと説明板に記されています。こちらの古墳には後円部の墳丘上に、小さな石の祠が祀られているだけでした。
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(史跡、琵琶塚古墳の説明板)     (琵琶塚古墳後円部墳頂に祀られた石の祠)
丁度墳丘周辺の発掘調査が行われていました。どのような結果に成るか、発表が待たれます。
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(国指定史跡琵琶塚古墳の東側面、左が前方部、右側が後円部)
古墳を後にして、下野市の国分寺を目指します。途中「天平の丘公園」「国分尼寺跡」を横目に、更に北に自転車を走らせます。道路は県道44号(栃木二宮線)に突き当たります。その道路の突き当たった先に真言宗豊山派の寺院「瑠璃光山安養院国分寺」が有ります。
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(瑠璃光山安養院国分寺、右手に本堂、正面奥薬師堂、火の見櫓の下が釈迦如来堂)
本堂前に「本堂会館建設経緯」を記した顕彰碑が建てられています。その冒頭に≪聖武天皇が国分寺建立の詔を発せられたのは、天平十三年(741)でありました。この詔勅によって建立された国分寺は「金光明四天王護国之寺」として僧20人がおかれてその地方の文化学問の中心をなしていたわけでございます。その後、建物の改修を重ね約三百年隆盛を極めましたが十一世紀には衰退期に入ったとされています。現在の瑠璃光山安養院国分寺がいつの頃建立されたか明確では有りませんが、先祖様が懸命に守ってきたお寺を私達の時代に潰してしまう訳にはいかないだろうと会合の都度総代相語らいその対応策を模索していました。 (後略)≫と記されています。今、立派になった本堂が建てられています。本堂に向かって左手方向に、これも立派な造りの薬師堂が建っています。
薬師堂の更に左手に、大きな五輪塔が三基並んでいます。これらの五輪塔は、下野市指定の文化財で、一説には聖武天皇、光明皇后、行基菩薩を祀ったものと云われます。
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(都賀三十三薬師、第20番札所)      (下野市指定文化財の五輪塔)
私はこの薬師堂を訪れるのは、4回目になります。最近では2013年10月12日です。栃木市教育委員会生涯学習課主催の「古代遺跡と薬師巡礼」と言う現地学習に参加した時です。国分寺は「都賀三十三薬師巡礼第20番札所」に成っています。
ここから後は交通量の少ない裏道を抜け壬生町を経由して栃木に戻りました。約28kmのサイクリングを楽しみました。

佐野市犬伏新町の米山薬師堂へ(真田父子 犬伏の別れの地) [堂々巡り]

今年に入り始まった、NHKテレビの大河ドラマ「真田丸」、これまで初回視聴率が19.9%、2話が20.1%と、好調な滑り出しを見せています。
私の子供の頃は、「真田十勇士」の猿飛佐助や霧隠才蔵そして三好清海入道の活躍する物語に夢中になった。ドラマもこれからどう展開していくか楽しみである。
私も昨年の夏、信州上田城に行って来ました。上田城は天正十一年(1583)三月頃、真田昌幸によって築城された。それまでの真田の本拠地は上田盆地の北東隅、盆地を見下ろす砥石城、天正十年頃までは麓の伊勢山に居住していました。
上田城は千曲川の断崖に面し、盆地の中央に位置し、小県全体を掌握するのに最良の場所だったと云われています。
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(崖の上に建つ西櫓)                  (南櫓、奥に櫓門と北櫓が続く)
築城当時は千曲川の流れが、この櫓の建つ崖の下(尼ヶ淵)を流れていたと言います。
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(北櫓と東虎口櫓門)            (城跡内真田神社前に祀られた真田赤備え兜)   
石垣や建物は後世の建築ですが、堀などは真田氏時代のものと云われています。建設当初の上田城の構造は良く分からないそうです。しかし地形を利用した堀で囲まれ、土塁によって守られる堅固名備えに造られたとされる。後の時代の何度かの改変によっても、基本的な構造はあまり変わっていないとされています。
又、「真田赤備え兜」は大阪夏の陣において武具を赤で統一した「真田赤備え」部隊を率いた真田幸村公がかぶった朱色で鹿角型の兜です。

そして、その真田氏ゆかりの地が、栃木市のお隣、佐野市に有りました。
慶長五年(1600)五月、徳川家康は命令に従わない会津の上杉景勝討伐の動員令を発しました。東国の多くの大名がこれに応じ、天下分け目の関ケ原の合戦を目前に控えた七月二十一日、真田昌幸、信幸(信之)、信繁(幸村)父子も、下野国犬伏(現在の佐野市)にて、家康の嫡子秀忠軍に合流しました。
そこで陣を張っていた真田昌幸の元に石田三成の密書が届き、豊臣方に味方するよう書かれていました。
昌幸は驚き、急いで陣所に信幸と信繁を呼んで対応を協議しました。
父子三人の密談により、昌幸と信繁は豊臣方(西軍)に、長男信幸は徳川方(東軍)に付くことになりました。信幸は早くから家康の臣下に入って、家康の重臣本多忠勝の娘を妻に迎えていました。父子が分かれるという選択はやむおえなかった。そして、東西のどちらが勝っても、真田の家名が存続する手段として決断したともされています。
真田父子が分かれて戦う事を決断した所とされるのが、佐野市犬伏新町に残る薬師堂です。この薬師堂は旧日光例幣使街道の犬伏宿の東端に有る「米山古墳」の中腹にに有ります。
私がこの薬師堂を訪れたのは2014年9月11日、足利から岩舟間の例幣使街道を歩いた時でした。佐野の天明宿から犬伏宿に入り街道を東に進むと、街道の正面にこんもりとした小丘が近づいて来ます。
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(佐野市犬伏を東西に抜ける旧日光例幣使街道より東方の米山古墳を望む)
国土地理院発行2万5千分1の「佐野」の地形図にこの小丘上に三角点記号が有り、標高61.4mと記されています。裾野の標高が約30m有りますから、比高は30m程になります。
旧日光例幣使街道は、この薬師堂の前まで来ると山を迂回するように北側を回り込んで、関川町から三毳山の北麓を抜け、岩船山の南を通って次の富田宿へと向かいます。

山の西麓、街道の突き当りに有る石段を登り薬師堂の前へ。
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(米山薬師堂)
石段の左手、境内に「史跡 米山古墳」と刻した石柱が建てられています。説明板によるとここ「米山古墳」は栃木県指定史跡となっています。元々あった丘陵を利用し築造したもので、採土の必要が無かったためか、周囲に濠跡が無い。等の説明が記されています。
又、薬師堂の前に立てられた案内板に、「真田父子 犬伏の別れ」の地と題して先に記したような真田父子の話し合いの場がこの薬師堂であったと云われている。と記されています。
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(犬伏新町町会により薬師堂前に立てられた、「真田父子 犬伏の別れ」の地の案内板)
この後昌幸と信繁(幸村)は急遽沼田経由で上田に向かいます。
一方犬伏に留まった信幸は事態を家康に報告します。徳川家康は書状を信幸に送り、その忠義を褒めた上で、沼田領の他に昌幸の上田領も与える、と約束をしたと伝えられます。
関ケ原合戦の後、上田城は破却されましたが、小県の領地は約束通り信幸に与えられています。

NHK大河ドラマ「真田丸」のこれからの展開の中で、この犬伏の父子別れのシーンが見られるかと、又楽しみが増えました。

参考資料:週刊上田新聞社発行の「疾風六文銭 真田三代と信州上田」





栃木市内の霊場巡り [堂々巡り]

栃木市内の寺院がかかわる霊場を見ると、「栃木市史民族編」に「札所」として出てくる、坂東17番札所の「出流山満願寺」をはじめとして、下野三十三ヶ所霊場や都賀三十三ヶ所霊場、佐野坂東三十三ヶ所霊場が有ります。
◎坂東三十三ヶ所霊場
第17番:出流山満願寺 本尊 千手観世音(出流観世音) 出流町
      ※本堂(大御堂)は県指定文化財。山門は市指定文化財
出流観音3.jpg出流観音1.jpg出流観音2.jpg
(満願寺大御堂)           (奥之院)            (奥之院内の鍾乳石)

◎下野三十三ヶ所霊場となっているのは、以下の6ヶ寺になります。
第22番:華厳寺(廃寺) 本尊 十一面観世音、都賀町木村
      ※納経所:都賀町原宿の玉塔院
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(昔、華厳寺が有った「つがの里」)           (華厳寺観音堂)
第23番:善応寺(廃寺) 本尊 聖観世音(伊吹観世音)
      ※納経所:吹上町の観音堂(地元管理)
伊吹観音堂2.jpg伊吹観音堂1.jpg
(赤津川右岸の伊吹観音堂)
第24番:近龍寺 本尊 聖観世音 万町
       ※宝永元年創建の観音堂は、三仏堂として建て替えられています。
        本堂は市指定文化財となっています。
近龍寺1.jpg近龍寺2.jpg
(近龍寺本堂)               (近龍寺三仏堂)
第25番:如意輪寺 本尊 如意輪観世音 大平町富田
如意輪寺(富田)1.jpg如意輪寺(富田)2.jpg
(如意輪寺山門)                       (如意輪寺薬師堂)
第26番:清水寺 本尊 千手観世音 大平町西山田
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(清水寺観音堂)               (境内は蠟梅や紅葉など四季を通じて華やか)
第29番:出流山満願寺 本尊 千手観世音(出流観世音) 出流町

◎都賀三十三ヶ所(観音)霊場の場合、第25番札所「称念寺」だけが、栃木市外(小山市小薬)となりますが、それ以外は全て栃木市内となります。
第 1番:近龍寺 聖観世音 (万町) 
第 2番:定願寺 聖観世音 (旭町)
      ※御成門彫刻及び成就院不動堂の扉の彫刻は市指定文化財。
定願寺1.jpg定願寺2.jpg
(定願寺本堂)                (境内に建つ成就院不動堂)
第 3番:東泉寺 正観音 (沼和田町)
       ※堂は明和年間の創建で、市指定文化財となっています。
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(東泉寺観音堂)
第 4番:正龍院流本寺(廃寺) 阿弥陀如来  仮、悪五郎堂 (箱森町)
第 5番:泉光院 十一面観世音 (泉川町)
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(泉光院本堂、 左手前の屋根が観音堂)
第 6番:千手院 千手観世音 (皆川城内町)
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(千手院観音堂、後方の山が皆川城址公園)
第 7番:吉祥院 正観音 (岩舟町小野寺 田代)
第 8番:小野寺山大慈寺 十一面観世音 (岩舟町小野寺)
      ※相輪橖は県指定文化財、慈覚大師堂は市指定文化財。
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(大慈寺本堂、右後方が慈覚大師堂)  (奥之院へ向かう途中に建つ観音堂)
第 9番:常光寺(廃寺) 延命観世音 (岩舟町小野寺) 仮堂
第10番:永照山宝積院中田寺 千手観世音 (岩舟町小野寺 小名路)
第11番:実相院(廃寺) 馬頭観世音 (岩舟町上岡)
       ※跡地に慈覚大師、御母公墓有り。 栃木市指定史跡
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(実相院跡に建てられた慈覚大師御母公の墓)
第12番:成就院 十一面観世音 (岩舟町三谷)
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(梅花山成就院山門)
第13番:自性院(廃寺) 千手観世音 (岩舟町新里)
第14番:岩船山高勝寺 (岩舟町静)
      ※三重塔、山門、鐘楼は県指定文化財、西院の河原堂は市指定文化財。
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(高勝寺が山頂に建つ岩船山)         (県指定文化財の一つ三重塔)
第15番:大蔵院(廃寺) (岩舟町鷲ノ巣)
第16番:東光寺 (岩舟町静和古橋)  ※專光寺 (岩舟町和泉鶴巻)とも言われている。
      付記しているご詠歌の内容を確認すると、鶴巻の寺と詠まれている。
        <ありがたや ちかいもつきぬ観世音 よろづの宝つるまきの寺>
第17番:宝泉寺観音堂 (岩舟町和泉)
第18番:如意輪寺 (大平町富田)
第19番:清水寺 十一面千手観世音 (大平町西山田) 本尊は県指定文化財
第20番:観音寺 (大平町下皆川)
第21番:観正寺 正観音 (大平町下高島)
第22番:観音寺 (大平町横堀)
第23番:慈眼寺(廃寺) (大平町牛久) ※観音像は牛来寺に祀られている。
第24番:寶明山萬福寺 馬頭観音 (高谷町)
第26番:日輪山成就院(大日堂) 大日如来 (藤田町)
第27番:真勝坊慈眼寺 聖観世音 (城内町2丁目)
第28番:善応寺 聖観世音 (吹上町) 伊吹観音堂
第29番:東善光寺 阿弥陀如来 (木野地町)
      ※木造金剛力士像は市指定文化財。
第30番:華厳寺 千手観音(焼失) (都賀町木) 跡地は栃木市指定史跡
      ※観音堂は市指定文化財。
第31番:光永寺 (都賀町富張)
第32番:青林山東安寺 千手観音 (西方町元)
第33番:長徳寺 聖観世音 (西方町本城)
      ※聖観音立像は市指定文化財

◎佐野坂東三十三ヶ所霊場
第 5番:施無畏山東光寺 (岩舟町古江)
東光寺(古江)1.jpg東光寺(古江)2.jpg
(東光寺本堂)               (本堂から少し離れた高台に建つ観音堂)
第 6番:医王山清水寺 (岩舟町下岡)
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(後方の山の中腹に清水寺観音堂は建っています。)
第 7番:櫁川山浄光寺 (岩舟町小野寺)
第 8番:神明山正覚寺 (岩舟町畳岡)
第 9番:明星山不動院 (岩舟町下津原)
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(三毳山の東麓木立の中にひっそりと建つ観音堂)
第33番:出流山千手院 (出流町)

この様に霊場巡りとしては、観世音菩薩をお参りするものが知名度が高いと思われます。最近では元気な高齢者が多くなった事で、「ぼけ封じ関東三十三観音霊場」と言うものも見られます。栃木市内に有る札所は。
第20番:高岡山宝幢院高平寺 (岩舟町下津原)
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(三毳山東麓の高平寺)            (寺院裏手墓地の上部に建つ観音像)
第26番:東醍醐山乗琳院如意輪寺 (大宮町)
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(西陽を受ける如意輪寺山門)        (境内観音堂前に立つ観音像)

又、関東地方一帯に広がる、弘法大師巡礼地として、「関東八十八箇所」が1995年に開創されています。
第18番:長清寺 大日如来  (本町)
長清寺1.jpg長清寺2.jpg
(長清寺山門)                 (長清寺本堂)
第19番:如意輪寺 大日如来 (大平町富田)

他には、「北関東三十六不動尊霊場」が有ります。
第14番:如意山吉祥院延命寺 身代り不動尊 (大平町西水代)
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(西水代延命寺山門)           
第15番:光明山金智院正仙寺 吹上不動 (吹上町)
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(吹上町の正仙寺本堂)
第16番:梅沢山金蔵院華蔵寺 梅沢不動 (梅沢町)
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(梅沢町の華蔵寺本堂)          (華蔵寺の参道入口前より北、三峰山を望む)

それから、栃木市周辺の薬師堂を巡る、「都賀三十三薬師如来」が見られます。これは先の「都賀三十三観音霊場」と共に江戸時代中期以降、この地方に住む人達の心の支えとして信仰されて来たものと考えられ、今も地元の人達の手によって守り伝えられています。
この都賀三十三観音および薬師霊場の分布を地図上にプロットしてみました。残念ながら現在所在が分からなくなっている物も有りましたが、大部分が今もひっそりと残されています。
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(都賀三十三観音及び薬師の霊場分布図)
※赤の点と数字が観音霊場の位置と順路、黒の点と数字が薬師霊場の位置と順路です。

◎都賀三十三薬師如来順路
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(下野市国分寺の第20番薬師霊場となる、国分寺薬師堂に掲げられている扁額)
第 1番:威徳院 (梅沢町)
第 2番:普門院 (鍋山町) 
       ※昭文社発行「栃木市」の地図には「薬師寺」として記されています。
第 3番:善入坊 (大久保町)
第 4番:平等院 (千塚町)
第 5番:専福寺 (吹上町)
第 6番:龍善寺 (川原田町)
第 7番:恵性院 (川原田町) ※所在不明
第 8番:蓮池院 (旭町) ※現在の第二公園南西部付近に有った。
第 9番:圓通寺 (城内町2丁目)
第10番:持主院 (仲仕上町)
第11番:牛来寺 (大平町牛久)
第15番:長福寺 (寄居町)
第16番:西入坊 (田村町)
第17番:重兵衛 (惣社町金井)
第18番:六郎兵衛 (惣社町内匠屋)
第26番:華蔵院 (大塚町) ※荒痛薬師
第27番:尊照院 (都賀町家中 桜本)
第28番:光明寺 (都賀町家中 宿)
第29番:寶蔵院 (都賀町家中 本郷)
第31番:長福寺 (都賀町富張) ※薬師堂の前に樹齢200年以上となる枝垂れ桜が見事。
第32番:円満寺 (都賀町真名子)
第33番:市兵衛 (都賀町深沢)
栃木市以外は小山市西北部(3)、下野市西部(2)、壬生町西部(4)、鹿沼市南部(2)に分布をしています。
これらの霊場に関しては、2014年10月10日より5回に分けて堂々巡りとして紹介をしました。

丸山観音堂 [堂々巡り]

今日、小山市に用が有って出かけましたが、思川の大光寺橋を渡り、花見ケ丘を回って行きました。
小金井街道(県道44号線)を走るのは久しぶりです。瓦葺の重厚な校舎国府南小を過ぎると、田村町に入ります。前方に背の高い銀杏の木が迫ってきます。すでに黄葉も終わって、多くが落葉しています。
道路脇に、栃木市ふれあいバスの停留所が有り、「ぎんなん山」と表示されています。この大銀杏は星宮神社の境内に有り、小金井街道の一つのシンボルの様な存在です。
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(田村町の星宮神社の大銀杏と石の鳥居)
この大銀杏の場所から、道路を跨いだ南側の小高い小丘の上に小さな堂宇が一つ建っています。
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(星宮神社から丸山観音堂を望む)
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(南側より道路左手、丸山観音堂を望む。右奥の大銀杏が星宮神社となる。)
一間半四面宝形型向拝付の瓦葺の屋根を載せています。堂宇の正面は南東方向を向いて、正面入口の上に「丸山聖観世音菩薩」と記した扁額が掲げられています。
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(小さいながら均整の有る丸山観音堂と正面に掲げられた扁額)
観音堂が建つのは、丸山古墳と言う墳丘の上です。ここから更に東に進むと大光寺町に入り、思川に架かる橋を渡ると、下野市に成ります。
この思川を渡った、思川の左岸には、小山市喜沢にて日光街道から分かれ、壬生から鹿沼を通って日光に至る、日光西街道(県道18号線)が通っていますが、その街道の道筋に数えきれないほど多くの古墳が分布しています。
その中には国指定史跡になっている「摩利支天塚古墳」や「琵琶塚古墳」「吾妻古墳」などの大きな前方後円墳のほか、円墳など大小さまざまな古墳が確認をされています。
それに対して、思川の右岸はこの丸山古墳の他、1、2ヶ所しか確認されていないのです。
観音堂が墳丘上に建つ丸山古墳は円墳で規模は墳丘の径が約32m、高さは約2.5mに成ります。
尚、先ほどの北側にある星宮神社の境内には、古墳の石室の一部に使われたと伝えられる方形の凝灰岩の巨石が無造作に置かれています。
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(星宮神社の境内の東の端に有る巨石)
このような大きな石を誰がどのような経緯でここに運んで来たのか謎ですが、東武宇都宮線野州大塚駅の南西方向約0.8kmの場所に有る「岩屋古墳」の物と云われてます。岩屋古墳の玄室は、同様の凝灰岩の大きな一枚岩を組み合わせた横穴式石室となっています。が、岩屋古墳は、ここ丸山古墳からは北西方向に直線距離にて2.3kmも離れています。
この謎を解くのも楽しいかもしれません。
※写真は全て、2013年10月11日に撮影をしたものです。

葛飾北斎描くところの「足利行道山くものかけはし」 [堂々巡り]

今回は、葛飾北斎の「諸国名橋奇覧」に出てくる、足利市の行道山淨因寺を訪ねました。
「諸国名橋奇覧」は、全国の珍しい橋を画題とした全11図の名所絵揃物。大判錦絵で、天保4~5年(1833年~1834年)。版元・西村屋与八。ボストン美術館蔵。
作品を見ると画面右半分に雲海の上にそびえ立つ岩山。下に山門が見え中腹岩肌の中に、に寺の本堂等と思しき堂宇。画面中央に雲海から突き出した一塊の岩山、その断崖上に茶室「清心亭」。清心亭と本堂との断崖の間を繋ぐ「天高橋」。この光景を頭に浮かべ現地に向かいました。
国道293号から脇道に入り、北関東自動車道足利インターチェンジの南側を西に進み、山裾を南北に走る県道284号線を北に行く。途中のY字路で県道と別れ左手の細い道を北に走ると、行道山淨因寺まで約2kmと道路標識に出ている。スピードを落として登り坂となった細い道を先に進む。途中道の脇に上に観音像の附いた石柱が建てられています。正面に「観世音菩薩尊像 三萬三千體安置 行道山」の文字が刻されています。
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暫らく行くと道路脇に比較的新しい公衆トイレが有り、前に数台の駐車スペースが有ります。私はここに車を停めて、寺に向かうことにしました。その先は寺の境内を示す、一本の石柱が建てられています。「名勝行道山淨因寺境内」と刻されています。
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又、駐車スペースの脇に小さい堂宇が細い橋の架けられた先の大きな岩の上に建っています。脇に建つ案内板に「行道山 澤菅 弁財天 淨因寺」と記されていました。
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晩秋の日没は早く、まして山間の事、直ぐ太陽が山の陰に隠れてはと、先を急ぐことに。途中の舗装された道路が濡れていて滑りやすくなっています。道路の先に沢水が落ちていて、道路を濡らしている事が分かりました。道路脇の岩から滝の様に水が落ちています。
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背の高い杉木立の中の道は、結構勾配がきつく、歩いていても胸が苦しくなる感じで、休み休み登ります。500m程登った所に広く整備された駐車場が現れました。ここまで車で来られたのでした。
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ここからは石段を登るようです。石段の左側に山の上に向かって鉄製のレールの様なものが伸びています。「行道山くものかけはし」モノレールとなっています。残念ながら動いていません。
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石段をせっせと登る事にします。石段脇の山肌には大小多くの石仏や庚申塔が建っています。
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石段の先に「行道山」の扁額を掲げた山門が見えて来ました。
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ここまで来ると石段も山門の屋根も沢山の落葉で埋もれています。
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又一つ山門を過ぎると本堂の前に出て来ました。本堂の裏山の上の木立はまだ太陽の光が当たっていますが、境内はすでに山の陰に入ってしまった様です。
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境内左手奥に、葛飾北斎の描いた「くものかけはし」の光景を覗わせる風景が有りました。
岩山の上にせり出すように建つ「清心亭」と思しき建物。岩山に渡す橋が架けられている。現在は鋼製に成っているが、かっては北斎の錦絵の如き木橋が渡されていたのでしょうか。
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橋が架けられた岩山の周辺は落石の危険が有る為か、柵やフェンスで囲われて、少し興ざめですが、参拝者等の安全の為、講じられたもので、残念ですがこれも仕方がないものと考えます。
本堂の右手庫裏の裏手に、熊野社の堂宇が有り、そこから先に奥之院への山道が続いていますが、岩山を登って行くような、足元が危うい感じになったので、先に行く事は断念した。
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昭和60年9月に㈶足利市民文化財団と足利市教育委員会によって建てられた「行道山淨因寺」の説明板によると、≪行道山は今から約1,200年前、和銅年間に行基上人により開かれたと伝えられる。その後、法徳禅師が禅寺とし、室町時代には学問の道場として修行僧が多く集い”関東の高野山”と呼ばれた。元和9年(1623)には雷火のため堂塔が焼失したが、幕府から寺領20石の朱印をうけ、往時の寺勢をもりかえした。当時のおもかげは、木版刷の文献などによってうかがい知ることができる。
山頂に近い「奥の院」には寝釈迦(石仏)を中心に多くの石仏(49院)や石塔が周囲をとりまいている。ここは行基上人が分骨入定された聖地である。≫と記され境内堂宇の配置図が描かれています。
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寝釈迦を見る事が出来ませんでしたが、北斎描くところの「くものかけはし」の錦絵の世界に暫し思いを巡らすことが出来ました。
現在、この地は「関東ふれあいの道」の「山なみのみち」(行道山から名草巨石群)と、「歴史のまちを望むみち」(行道山から織姫人神社)の中継点にも成っていて、多くのハイカーも訪れています。
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今回、紅葉の時期に合わせて訪れましたが、最近の降雨の影響なのか、すでに落葉に成っていたようです。又、この地は出来れば午前中に訪れるのが良かったのかも知れないと思いました。落葉に足を取られないように気を付けて、車を停めた場所まで戻りました。



来年の干支は申 [堂々巡り]

速いもので今年も後、残り1ヶ月余りと成りました。来年の干支は申。来年の事を言うと鬼が笑うと言いますが、そろそろ解禁でしょう。どこのスーパーマーケットやコンビニ店でも今、来年の年賀状印刷の受け付けも始まっていますから。
という事で今回は一寸した猿の話題です。
タイ王国、バンコクから北に130km程の所に「ロッブリー」と言う名の県が有ります。日本で良く知られる世界遺産の有る「アユタヤ」県の北隣りに位置しています。17世紀のアユタヤ王朝ナーラーイ王の時、オランダの侵攻を恐れた王は、このロッブリーに第二の都市(副都)を築き、すぐにでも遷都出来る様にしました。
この町に、300匹以上の猿が住み着いている寺院が有ります。「サーン・プラカーン」と言い、ロッブリー駅の直ぐ北側に建っています。
私は5年前の正月休み(1月2日)ロッブリーに旅しました。バンコクのフワランポーン駅(バンコク中央駅)からタイ国有鉄道北本線の列車に乗り出かけました。
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(フワランポーン駅正面)                 (ロッブリーへの列車のチケット)
約3時間列車での一人旅、周りのタイの人達と会話する事も出来ずひたすら車窓から外の景色を眺めていました。
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(車窓から見た仏塔)            (途中の駅で私の横に座っていた僧侶が下車)
ロッブリー駅に着くと、タイ国の中でも長い歴史を持つ町は駅の向かいに、「ワット・プラ・シー・ラッタナ・マハタート」と言うロッブリーで最も高い仏塔の有る寺院が迎えてくれます。
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(ロッブリーの駅舎)                       (駅の向かいに建つ寺院遺跡)
「ワット・プラ・シー・ラッタナ・マハタート」と言う名前の寺院はタイ国内に数か所確認できますが、「ワット・マハタート」はタイ語の単語で、仏塔の有る仏教寺院のうち、マハタート(大いなる物質、つまり仏舎利・貴人の遺骨)の有る寺院。有名な物はアユタヤに有る木の根で覆われた仏頭が有る遺跡として有名。
このロッブリーの遺跡の歴史は古く、12世紀クメール時代に最初の仏塔が建てられました。その後数回にわたり増築、改築を行い色々な時代の仏塔が混在しています。
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(広々としたワット・プラ・シー・ラッタナ・マハタート)
次に鉄道の線路沿いを北に少し行くと、線路脇に目的の寺院「サーン・プラカーン」が建っています。噂通り周辺には多くの猿が、餌を物色したり動きまわっています。我物顔で道路や鉄道線路にもたむろしています。
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(いたる所に猿の群れが)
猿の動きが気に成って、ゆっくる写真撮影も出来ず、すぐに線路の向かいに有る遺跡に移動しました。
こちらの寺院は13世紀クメール時代に建てられた、仏塔が3つ並んでいる「「プラ・プラーン・サーム・ヨート」です。
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(町の中に建つ13世紀のクメール遺跡)
こちらの遺跡の周辺にも多くの猿がいます。この遺跡は内部に入る事が出来、内側から窓の鉄格子越しに猿を見る事が出来ますが、人間が檻の中にいて、猿の方から観察されている錯覚もします。
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(遺跡の窓にはめられた鉄格子の外にたむろする猿達)
街中のレストランで食事をしましたが、店頭にも猿の街らしく、ひょうきんな猿の置物が迎えていました。
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(ロッブリー街中のレストランで迎えてくれる猿の置物)
帰路もロッブリーの駅から列車でバンコクに戻りました。ロッブリー駅のホーム端に置かれた大きな黄金色の猿が見送ってくれました。
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(ロッブリー駅到着時に購入した復路のチケット)  (ホームで見送ってくれる黄金色の猿)
ロッブリーは遺跡と猿の町でした。この町では毎年11月の最後の日曜日にロッブリー駅前にて「猿祭り」が開けれるそうです。
尚、ロッブリーは遺跡や猿の他に、ひまわり畑が有名です。日本ではひまわりの花は暑い夏の花ですが、タイでは11月中旬から12月に咲きます。ロッブリーの郊外には一面のひまわり畑が広がり、毎年12月頃には「ひまわり祭」も行われます。
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来年、良い年でありますように。 これは少しまだ早いかな!
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