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隅田川と荒川との分岐「岩淵水門」を巡る [建物]

これまで隅田川に沿って何度か歩いていますが、いずれも北千住の「千住大橋」から下流側でした。
今回は、初めて荒川と隅田川との分岐点「岩淵水門」周辺を歩いて巡ってきました。
元々、隅田川は荒川下流部分の流路でしたが、川幅が狭く堤防も低かったので、大雨や台風の洪水被害を、起こしていました。その洪水対策として明治44年から昭和5年にかけて、新しく河口までの約22kmの区間、人工的に流路を開鑿しました。荒川放水路です。
旧荒川下流部(現在の隅田川)と荒川放水路(現在は荒川)との分岐に、増水時に旧荒川下流部(現在の隅田川)方向に増水した水が流入するのを阻止する為、旧荒川下流部側の分岐点に水門を設けました。これが旧岩淵水門です。
この水門のゲートを閉じることで、増水した水を川幅の広い放水路側に流すことで、旧荒川下流域の洪水の発生を防ぎました。
現在、荒川と隅田川の分岐には、水門が2か所有ります。旧岩淵水門(赤水門)と岩淵水門(青水門)です。

最寄りの駅「JR赤羽駅」から歩いて、分岐点に向かいます。
駅から荒川の流れる、北方向に歩いて行くと、まず荒川の右岸を流れている「新河岸川」の堤防が前方に現れました。
新河岸川に架かる「岩淵橋」.jpg
新河岸川に架かる「岩淵橋」を渡って、その先の堤防の上に昇ると、前方に大きな川が現れました。荒川です。右手下流方向を望むと見えました、手前に赤く塗られた「旧岩淵水門」と、その右奥に青いゲートの大きな「岩淵水門」です。
岩淵水門を望む.jpg
まず手前の旧岩淵水門に向かいます。
赤水門全景(上流側).jpg
旧岩淵水門の近くまで来ました。東京都が建てた説明板によると、
<旧岩淵水門は、明治43年(1910)東京下町を襲った大洪水を契機に、内務省が荒川放水路事業の一部として隅田川とこの分派点に設けた。
水門は、ローラーゲート構造で、幅約9メートルの五つの門扉からなっており、袖壁部も含めた長さは約103メートルの大型構造物となっている。本体は、レンガ構造では力学的に対応が困難であったことから、当時では珍しい鉄筋コンクリート造として、大正5年(1916)に着工し、同13年(1924)に竣工した。
昭和22年(1947)のカスリーン台風や昭和33年(1958)の狩野川台風の大出水の際も、機能を十分に果たしてきたが、昭和20年代後半からの東京東部地域一体における広域的な地盤沈下により、本水門も沈下したため、昭和35年(1960)に門扉の継ぎ足しが行われたほか、開閉装置の改修などが施され、現在の旧岩淵水門(赤水門)となった。
その後、昭和48年(1973)に荒川の基本計画が改訂されたことに伴い、水門の高さに不足が生じたことから、昭和57年(1982)に約300メートル下流に新たな岩淵水門(青水門)が整備され、旧岩淵水門はその役目を終えることとなった。>との、説明が記されています。
赤水門(通路).jpg
水門上の通路を渡って対岸に向かいます。対岸は現在小さい島の状態になっていて、公園として地元の人たちに憩いの場を提供しているようで、犬の散歩に訪れる婦人や、小さな子供ずれのお父さんなどの姿も見ることが出来ます。
また島には「月を射る」と題した、彫刻家「青野 正」さんの、チョッと不思議な作品(1997年第二回荒川リバーアートコンテスト特賞)が建てられています。
又、「草刈の碑」と題した石碑も建てられています。碑の正面には大きく「農民魂は 先づ草刈から」と刻まれ、碑の下部には、全日本草刈選手権大会理事長 横尾堆肥居士撰の「由来記」も刻まれています。その冒頭には「草刈は日本農民の昔ながらの美風で農民魂の訓練であり發露である。」として、この地にて昭和13年8月より、「全日本草刈選手権大会」が六ヵ年開かれ、全国各地から選抜された、鎌を競う選手四万余名が、各2時間に亘り熱戦を繰り広げ、両岸には観衆溢れ、旗指物などなびいて一世の壮観であった。などとその当時の様子が、刻まれています。
月を射る.jpg草刈りの碑.jpg

島から荒川上流側を望むと、奥に「新荒川大橋」が、荒川をまたいでいます。写真右側には埼玉県川口市の高層ビル群が見えます。
荒川の上流方向を望む.jpg

旧岩淵水門上の通路から下流側を撮影した写真を見ると、右手に岩淵水門の青く塗られたゲートが見えます。又、左手奥に荒川の流れが、そして左手手前に見えるのが、先ほど散策した「赤水門緑地公園」の端が見えます。
青水門遠景.jpg

それでは、次は新しい「岩淵水門」(青水門)を見に行きます。
青水門全景(上流側から).jpg岩淵水門管理通路.jpg
国土交通省荒川下流河川事務所が設置した案内板によると、
<岩淵水門 「増水時に、荒川の水が隅田川へ流入することを防ぎます。」
岩淵水門は、大正13年に完成した旧岩淵水門の老朽化、地盤沈下による高さの不測のため、昭和57年に旧水門の下流約300mに設置されました。平常時は、水門を開放し船の通行を確保するとともに、隅田川の水質を浄化するために荒川の水を流下させています。増水時には水門をしめて隅田川への流入をくい止め、首都東京を水害から守る大切な役割を担っています。>と記されています。

・完成年:昭和57年(1982) ・場所:東京都北区志茂地先 
・ゲートの大きさ:高さ16.17mX幅20.0mX3門(たたみ約620畳分)
・ゲートの重さ:214トン(1門あたり)
・ゲート開閉時間:約50分
・操作水位:荒川水位A.P.+4.00mで隅田川へ流入したとき
      (荒川平常時水位より約2.7m上昇した、とき)
岩淵水門門扉.jpg岩淵水門門扉銘板.jpg

水門のゲートを目の前にすると、その大きさに圧倒されます。重さ214トンのゲート3基が、いざ台風等で増水した荒川の流れを、しっかりと受け止めて隅田川への流入をくい止めてくれる。頼もしい水門です。
休日の岩淵水門には、荒川の河川敷を利用した「荒川サイクリングロード」のコースが通っている為、ロードバイクに乗った人達が、颯爽と通過していきます。

岩淵水門から見ると、上流側の旧岩淵水門と中の島の様子がよくわかります。
赤水門遠景.jpg

今回訪れた「岩淵水門」の周辺の概略図を作ってみました。
岩淵水門周辺概略図.jpg
荒川の北側は埼玉県川口市、そして南側は東京都北区で、岩淵水門周辺は旧荒川の河道に沿って、県境となっています。概略図に赤の一点鎖線で記したラインが境界線で、明治13年5月に発行された「埼玉縣下武蔵國北足立郡川口町之圖」を見ると、現在の境界線に荒川の河道が走っています。
川口町と赤羽村との間を大きく蛇行しながら流れる荒川。その間に橋梁は無く、渡し船が描かれています。

旧岩淵水門(赤水門)は、「近代化産業遺産」に認定されているほか、「日本の近代土木遺産」「東京都選定歴史的建造物」「北区景観百選」などに認定されています。
今年、2024年は旧岩淵水門が竣工した、大正13年(1924)から丁度百年に成ります。と同時に「荒川放水路」が完成して通水を開始してから百年になることから、今年は国土交通省・関東地方整備局や、東京都や埼玉県、荒川知水資料館等関連自治体・団体施設で、色々な企画が計画されています。

旧岩淵水門のペーパークラフトが有りましたので、組み立ててみました。
旧岩淵水門ペーパークラフト.jpg

最後に昨年暮れに、隅田川クルーズで岩淵水門を通過した際撮影した、水上からの「岩淵水門」です。
船上より青水門を遠望.jpg
(隅田川を遡ってくると、前方に青い三連のゲートを持つ「岩淵水門」が現れます。左側の水路は「新河岸川」です。)

船上より青水門を.jpg
(岩淵水門の下を通過します。)

船上より赤水門を.jpg
(岩淵水門を通過すると、前方左側に「旧岩淵水門」が現れます。クルーズ船はここから右手の開口部を通って「荒川」に入って行きます。)

今回は、隅田川の起点、岩淵水門周辺を巡りました。
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山形県酒田市の山居倉庫 [建物]

明治の初め頃までは、山形県は北・東・南の三方を山に囲まれ、陸上交通では不便な地域となっていました。唯一、西側が日本海に面した地形になっています。その中でも酒田は、県内の主要都市を巡るように流れる「最上川」の河口に位置していたことで、最上川舟運を利用して、米をはじめ紅花などの物産品の、積出港となっていました。江戸時代には、最上川流域には幕府の直轄地(天領)が多く存在していて、そのトータルは20万石とも言われていました。
最上川流域各地から集積された物産品は、酒田の港から「北前船」によって、関西方面に運ばれていったのです。
山居倉庫(さんきょそうこ)は、二級河川「新井田川(にいだかわ)」の河口近くの左岸に、明治26年(1893)に酒田米穀取引所の付属倉庫として、創建されました。
山居倉庫(酒田市).jpg
(手前の川が「新井田川」で、右手方向が河口(酒田港)になります。最上川は写真の後方を、左から右に流れ酒田港に注いでいます。)

新井田川の河口は、最上川の河口と接して、酒田港に注いでいる為、最上川舟運の荷役を取り扱う好適地になっていました。
当初6棟だった倉庫も、翌年の明治27年に9棟に、その翌年に更に2棟増築、そして大正5年に一番南側の1棟が建てられています。12棟の倉庫が並ぶ景色は正に壮観です。現在は国指定史跡となっています。
山居倉庫(南側より).jpg
(山居倉庫12棟を南側から撮影)
夜の山居倉庫.jpg
(夜の山居倉庫)

山居倉庫の裏手(西側)の大きな欅並木と倉庫の家並は、酒田観光のシンボルの一つで、観光写真で良く見る景色です。
倉庫裏手(西側)の欅並木.jpg
(山居倉庫裏手の欅並木)

<この欅は、日本海からの強風(西風)と、夏の直射日光(西日)をさえぎり、倉庫内の温度変化を少なくする目的で植えられたもので、現在41本残っている。>と、案内板に記されています。

川面に映る山居倉庫(酒田市).jpg
(新井田川の川面に映る倉庫群)
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栃木市薗部浄水場を見学してきました。 [建物]

先日、栃木市の市街地家庭に生活用水を供給している、薗部浄水場を見学してきました。普段はなかなか見る事が出来ない施設の為、とても良い経験でした。
旧栃木市の水道事業が創設されたのは、今から丁度60年前、昭和38年12月28日との事。
栃木市内では、その前の年に平井町簡易水道事業により、太平山に水道が引かれています。が、市内では「少し掘ると美味しい水を得ることが出来る。」と言われていました。
しかし実態は、その当時市内を流れる巴波川などは、生活排水等が流入し、汚染が進行して周辺の井戸水は飲料に適さない水質になって来ていた時期でした。
巴波川(1967年撮影).jpg
<1967年巴波川の川面に出来た模様。汚れた川が作ったアートとして撮影しました。>

実際に上水道工事が開始されたのは昭和39年度からで、四ヵ年継続、総工費は2億4,100万円となっていました。
私は丁度その頃、永野川に架かる上人橋を渡って、栃木工業高校に通学をしていました。その当時は私の通学路の直ぐ脇で、このような浄水場の建設が始まっていたのは、全く知りませんでした。
昭和41年(1966)頃に錦着山の山頂から永野川の上人橋を撮影した写真を見ると、浄水場の姿は有りません。が、細かく見ていくと、現在の浄水場の建つ場所付近に、何やら工事をしている様子が写っていました。
1966年永野川・上人橋(錦着山頂より撮影).jpg
<1966年に撮影しました。現在住宅地となっている巴波川右岸も、水道山も、まだ何も無い状態でした。>

別の角度から撮影した写真には、その当時の浄水場の建物や、何と今回見学で見る事が出来た、第一水源の取水ポンプ配管が、露出して写っている写真も有りました。もちろんこれらの写真を撮影した時は、何を建てているのか、知るわけも有りませんでしたが、偶然です。
1966年4月撮影1.jpg
<同じく1966年撮影。錦着山をバックに浄水場の建物が手前に写っていました。>

1966年4月撮影.jpg
<上と同じ日に撮影。上人橋の左岸橋詰より、浄水場の建物を写す。建物の手前に取水ポンプの配管が見えます。>
取水ポンプ.jpg第一水源建屋.jpg
<今回見学会で案内された、薗部浄水場の第一水源の室内と建屋外観>
薗部浄水場の水源は、現在5ヶ所有るそうで、浄水場敷地内の第一水源の建屋内の取水ポンプ配管を見る事が出来ました。直径5m厚さ50cm、高さ12mの鉄筋コンクリート管を地中に埋め、2台の取水ポンプで自動取水しています。薗部浄水場の水源は10mという浅井戸方式との事。
周辺には、他の水源施設が見られます。
第4水源.jpg第5水源.jpg
<錦着山の北側、田んぼの中の第4水源と、赤津川左岸皆川街道脇の第5水源施設。>

2018年10月に、錦着山上から同様に、永野川の上人橋を撮影した写真が有りました。1966年の写真と同一場所からでは無いので、少しアングルが異なりますが、周辺の状況を見ると、大きく様変わりしている事が分かります。約50年間の時代の変化を改めて実感できます。
永野川・上人橋(2018年10月撮影).jpg
<上人橋は広く新しくなっています。1974年に架けられ、その後下流側に有った旧橋も撤去されました。>
永野川右岸に有った栃木市営の流水プールも、とうに閉鎖して今は住宅地となっています。その西側の山の上に大きな円筒のタンクが2基写っています。薗部浄水場の「配水池」です。
浄水場にて殺菌消毒をされた水は、送水ポンプにてこの配水池に送られます。その送水管は浄水場の「浄水池」から永野川の河床下を通って送られているそうです。
次亜塩素酸ナトリウム槽.jpg浄水池(側面より).jpg
<原水を殺菌消毒する為の「薬品タンク」、殺菌消毒された水道水を貯水する「浄水池」>

送水ポンプ(陸上型).jpg
<浄水池の北隣、浄水場管理棟内で、防水扉の有る室内に設置されている「陸上型送水ポンプ」>
送水ポンプと配水池.jpg
<浄水池の水中に設置された、「水中型送水ポンプ」。写真奥の山上に「配水池」が見えます。>

写真の様に、薗部浄水場には地上に設置して、配水池まで水道水を送り出す「陸上型送水ポンプ」と、水中に設置して送水する「水中型送水ポンプ」をそれぞれ2基設置されています。
これは、万一の場合でも、支障が出ない様にしている為で、それは水源の「取水ポンプ」も先程の「薬品タンク」も「浄化池」も、そのほとんどの施設が、並列運転をされているそうです。

なんとその送水管の口径は70cm、送水能力は毎時400トン。配水池には7,000トンの水道水が配水前に貯水され、標高の高い山上に設置された配水池により、自然流下方式で、その重力によりポンプを使用しないで配水しています。ただし、自然流下方式では配水できない標高の高い地域には、「増圧ポンプ」で圧力を加えて送り出す施設を、それらの地域には設置されています。
配水池.jpg
<「配水池」を近くで見ると、その大きさを実感できます。>
ここに蓄えられた水道水が、私たちの家庭に送られています。

平成の大合併により、1市5町が一緒になった新生栃木市では、平成26年12月1日に、新しい「栃木市水道事業」を創設(計画給水人口:145,500人。計画一日最大給水量:70,700㎥)しています。
現在、栃木市内の水道施設は、下記の状況になっています。
   ①水源(取水施設)・・・・・・・・・・・56箇所
   ②浄水場(浄水施設)・・・・・・・・・・18箇所
   ③配水場(配水施設)・・・・・・・・・・・9箇所
   ④増圧ポンプ場(配水施設)・・・・・・・14箇所
   ⑤水道管路(配水施設)・・・・1,196.7km
そして、栃木市上下水道局庁舎本館にある、中央監視室に置いて、市内18箇所の浄水場全ての情報を確認出来る様になっているそうです。
中央監視室.jpg
<中央監視室内には、多くのモニター画面が切り替えて確認出来る様になっているそうです。>

私達も、もっと水を大切に利用して行かなければと、感じました。
水を大切にしよう。.jpg

※今回の参考資料:見学会に際して配布された、栃木市上下水道局作成の資料になります。
         添付写真は全て私自身の撮影によるものです。

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門司港駅見てあるき [建物]

1年ぶりに北九州市小倉駅に着いた。大きな荷物をコインロッカーに入れ、門司港行き電車に乗り換えました。電車で門司港駅に向かうのは初めて、在来線の改札を入ったものの、目的のホームが分からず、通りかかりの青年に尋ねた。
彼も分からなかったのか、直ぐ携帯を操作をして、今度の発車が8番線ホームであると教えてくれた。
私は反対方向に来ていたのでした。8番線ホームに降りると丁度「門司港行」の電車がホームに入ってきた。とりあえず門司港行の電車に乗ることが出来、一安心。
小倉駅8番ホーム.jpg

門司港駅は、小倉駅から3駅目、約15分程度で終点の門司港駅の2番ホームに到着しました。
門司港駅到着.jpg

鉄道レールはここで切れています。突き当りに白と黒の風車の様な図柄の「車止め標識」が設置されています。
ホーム反対側、1番線の付け根部分に「0哩(マイル)ポスト」が立てられています。
0哩ポスト.jpg0哩記念碑.jpg
2番線ホームと4番線ホームとの間に、昭和47年10月14日、鉄道開業100周年を記念して新たに「0哩」標が建立されました。揮毫した人物は、当時北九州市長を務めていた「谷 伍平」氏。この人、谷伍平氏は東京帝国大学卒業後鉄道省に入省。ご当地日本国有鉄道門司鉄道管理局長も務められた、門司港駅にとてもゆかりの有る人物です。

門司港駅は、鹿児島本線の起点駅です。関門トンネルが出来るまでは、本州と結ぶ九州の玄関口で、対岸の下関駅との間に就航した「関門連絡船」との連絡中継駅として賑わっていました。
最初の駅舎は、明治24年(1891)に開設されましたが、現在の場所より東南東200メートル程の場所で、現在は九州鉄道記念館ミニ鉄道公園辺りに成ります。
現在の駅舎は、大正2年3月16日に起工し、大正3年(1914)1月15日に竣工しています。
平成24年(2012)より、駅舎保存修理工事を開始、平成31年(2019)3月10日、駅正面玄関口に昭和4年(1929)設置した上屋(ひさし)を撤去して、開業当初の姿に復元されました。
門司港駅舎正面.jpg

よく観光パンフレットなどで目にする、ホームの写真をカメラに収め、改札を出ました。
門司港駅ホーム.jpg

門司港駅の駅舎は、国の重要文化財に指定されていて、見どころ満載です。もっと駅舎内を見て回りたいと思います。改札を出た東口方向に向かうと、現在はタクシーやバスの乗り場のロータリーに出ますが、その途中に昔ながらの洗面所やトイレが有ります。

帰り水の蛇口.jpg
最近、テレビのクイズ番組を見ていたら、上の水道蛇口の写真を見て、どこの駅かあてる問題が出ていました。鉄道ファンには有名らしく、すぐに正解が出されていました。
この水道蛇口は、門司港駅の洗面所前に有る水道の物でした。
洗面所前の水道設備.jpg
近くに掲示された説明文によると、<この水道(水呑處)は、駅が開設(大正3=1914年)された頃に設置されたもので、以来、旅行者に門司の「おいしい水」を供給し続けています。
とくに、戦前の海外旅行帰国者をはじめ終戦後の復員や引揚の人達が、門司に上陸して安堵の思いで喉を潤したところから、(誰言うとなく)「帰り水」と呼ばれる様になりました。>と、しるされています。
蛇口本体は緑青色に錆びつき、ノブの部分は絶えず人の手に触れている為か、真鍮色に光っています。
下の一枚目の写真は、旧洗面所の流しの部分です。昭和4年(1929)に洗面専用に新設されたものを老朽化に伴い一部だけ残させたと解説が出ていました。
又、二枚目の写真はトイレ内に設置された手水鉢を写したものです。
洗面所.jpg手水鉢.jpg
「手水鉢」の上に掲示された解説文を読むと、<幸運の手水鉢 大正3年の建設当時からあり、戦時中の貴金属供出からもまぬがれ現在も鋳造時の形のまま、長寿を誇っております。>と、記されています。どのように使われていた物か、水鉢には脇から一ヶ所1本の細い銅パイプが、先端を水中内に突っ込んでいます。想像するに、そのパイプを通して水鉢には絶えず水が供給されていて、オーバーフローした水が、水鉢の周囲の縁の低くなっている部分から流れ出ていて、その流れ出た水で手を洗っていたと思われます。(現在は流れ出ていませんが)

今度は反対方向、改札口を出て左方向(西口)に行ってみます。突き当りに階段が有り下に少し下がっています。その先は塞がれていて、どん詰まりになっていて、その壁面に船の写真が貼られています。
その入口の上部に「関門連絡船通路跡」の表示が掛かっています。
関門連絡船通路跡.jpg

かつて、ここに有った通路は、駅から桟橋までの約100メートルを結ぶ連絡路で、明治34年(1901)5月27日に発足した関門連絡船の為に設置された。その通路の入口横のコンクリートの壁に小さな長方形の穴が、奥が小さくなる形で空いています。脇の解説文によると、<旧監視孔 詳細は不明ですが、ここは戦争末期、軍の命令で設置された渡航者の監視所跡です。門司港は、外国航路寄港地n為、関門連絡船の通路は、戦時下の不審者を監視する絶好の場所でした。(後略)>と、説明されています。
関門連絡船通路跡の監視窓.jpg

外にも、「誇りの鏡」とか「旧正面上家」など見所がまだありますが、ここは一度駅舎の外に出て行きたいと思います。
丁度駅前の噴水広場の噴水が、水を拭き出していたので、止まる前に急いで写真に収めました。
門司港駅前噴水.jpg
この噴水は1時間おきに15分程度出るそうで、タイミング良く撮影できました。
この噴水広場の東側塀際に1本の石柱が建っています。「バナナの叩き売り発祥の地」の文字が刻まれています。「バナナの叩き売り」なつかしいです。私が子供の頃栃木の街中で、大勢の人だかりの中にその小気味よいバナナを売る男の口上を、夢中で聞いていた記憶がよみがえります。ここ門司港が発祥なのか。
バナナの叩き売り発祥の地碑.jpg

門司港駅舎はルネッサンス様式で、左右が対称になっていて、照明が付いた日没後も魅力的です。
夜の門司港駅舎.jpg

ここ門司港地区は、この駅舎だけではなく、「旧門司税関」や「旧大阪商船」「大連友好記念館」等、レトロな建物も多く、いくら時間が有ってもとても全て見て回ることが出来ません。
又、機会が有ったら是非訪れたいと思います。
夜の門司港駅ホーム.jpg





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嘉右衛門町伝建地区でのイベント「蔵フト麦酒ウォーク2022」へ [建物]

今日、久しぶりに良く晴れたので、歩いて外出しました。
目的は、嘉右衛門町通りで、昨日から2日間の日程で開催されている「蔵フト麦酒ウォーク2022」の企画で、「石蔵での音楽コンサート」が有り、普段は入れない石蔵の中に入ることが出来るからです。
石蔵は嘉右衛門町通りに面した、油伝味噌店の裏手に建つています。
油伝味噌店舗1.jpg油伝味噌店土蔵.jpg
油伝味噌店は、創業天明年間と言われていますから、西暦1781年から1789年頃の、今から240年程前と言う事に成ります。初代の油屋伝兵衛さんが、此の地に油屋を始めたそうで、其の後質業や味噌の醸造も手がけました。今も江戸時代の繁栄を物語る様な多くの土蔵が立ち並んでいます。
油伝味噌店食事処.jpg油伝味噌店田楽セット.jpg 現在は店舗入口脇に有る食事処で、田楽セットなども提供しています。
石蔵全景.jpg石蔵鉄扉.jpg
そして、目的の石蔵は、それらの建物の一番裏手、細い路地を挟んだ先に建っています。
その石蔵の南側中央部に鉄の扉が設けられていますが、今回その扉が開かれました。
蔵フト麦酒ウォーク2022にて5.jpg
丁度私が到着したとき、午前の部の演奏が始まる所でした。石蔵の中に入ると一瞬その暗さに驚きましたが、目が慣れてくると既に会場は満席状態、私は後方で立ち見に成りました。写真を撮るにはその方が都合も良いので。
石蔵コンサート1.jpg蔵フト麦酒ウォーク2022にて6.jpg
石蔵コンサート2.jpg石蔵コンサート3.jpg

演奏者は、「Chemin de Neige」(高橋由紀・平田 侑)と紹介されているだけで、音楽に疎い私には分からない方々でしたが、フルートとピアノのコンサートでした。
演奏が始まると、石蔵の中の空間にフルートの柔らかい音色が広がって、まさに聞き惚れる感じを味わいました。もちろんピアノ演奏もフルートの音色とやさしく共鳴しています。
無料でこのような上質な音楽を、しかもビールを飲まれている方にとっては、最上の音の調べをおつまみに、心地よい時間をすごせているのでしょう。

演奏終了後に、嘉右衛門町通りを散策しました。
丁度お昼時と成っていたせいで、食事を提供するお店は何処も行列が出来ていました。
蔵フト麦酒ウォーク2022にて2.jpg
蔵フト麦酒ウォーク2022にて1.jpg
ヤマサ味噌工場の跡に、伝建地区の拠点施設として整備された、ガイダンスセンターなどの建物にイベント本部があり、そこに栃木市大平町西水代出身で、ビール麦の父と呼ばれる「田村律之助」に因んだクラフトビール「律之助物語」シリーズの、「麦秋」・「麦笛」・「麦処」のラベルを貼った瓶ビールがならんでいました。栃木市産麦芽100%のビールの味、興味を引かれました。さっそく買って味わってみたいと思います。
蔵フト麦酒ウォーク2022にて3.jpg蔵フト麦酒ウォーク2022にて4.jpg

家に戻ってから、石蔵コンサートで演奏していた奏者について、インターネットにて検索をしてみました。「Chemin de Neige」と入力すると、すぐにホームページが表示されました。この言葉はフランス語で「雪の道」という意味なのだそうです。読みは「シュマン・ドゥ・ネイジュ」と発音するそうです。
フルート奏者の髙橋由起さんと、ピアノ奏者の平田 侑さんのデュオの名前だと知りました。
日本とフランスで活動していて、髙橋さんが栃木県出身とのことで、栃木市での事業などでもコンサート活動をされているとの紹介もされていました。
機会が有ったら、又、お二人のコンサートを聴いてみたいと思いました。

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栃木市立文学館を見学してきました。 [建物]

今年(2022年)の4月27日、栃木市に新しく文学館が開館しました。
「栃木市立文学館」には、どんなものが展示されているのでしょうか。当然「文学」に関する、そして又「栃木市」に関係する「文芸作品」や「文学者」がその対象に成ります。
栃木市といえば、まず「山本有三」でしょう。市内万町大通りには「山本有三ふるさと記念館」が有りますし、栃木市内には、太平山謙信平の文学碑をはじめ、栃木駅前や小学校の校庭などに、「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間生まれてきたかいがないじゃないか」という、「路傍の石」の作品中の一節を記した文学碑が建てられています。
山本有三文学碑(太平山).jpg山本有三文学碑(栃木駅前).jpg

そしてその山本有三と共に栃木盆踊り唄に、必ず唄われる人物がいます。
<女人平家であの有名な、吉屋信子の学びしところ>  と。
「吉屋信子」は、父親の関係で子供の頃に、この栃木町に移ってきました。
吉屋信子が学んだ「栃木高等女学校」(現在の栃木県立栃木女子高等学校)の校庭には、
「秋灯 机の上の 幾山河」の俳句を記した文学碑が建てられています。
吉屋信子文学碑(栃女高).jpg

そして、もうひとりは、2011年3月11日に発生した「東日本大震災」のあと、一躍話題となった詩集「くじけないで」の作者、詩人「柴田トヨ」です。

栃木市立文学館の2階にはこの三人の人柄や作品、栃木市内のゆかりの場所などを記した、展示ブースが設けられています。

前口上が長くなりました。さっそく文学館内に入りましょう。
栃木市文学館南西側.jpg
上の写真は、文学館を南西方向から撮影したものです。手前に写っている堀は、かつて栃木県庁がこの地に建てられた際に、周囲にめぐらされたもので、今も「県庁堀」と称され県の史跡に指定されています。
文学館はこの「県庁掘」の南東の角部分に、大正10年(1921)に栃木町役場庁舎として建てられた建屋を、改修したものです。
栃木市文学館北側外観.jpg
栃木町役場庁舎の正面入り口は、北側に位置しています。入口部分には車寄せが設けられ、上部はバルコニーになっています。ただし現在はここからの出入りは出来ません。
入口前に建物についての説明文が掲示されていました。
文学館案内板.jpg

現在文学館の入口は、建物の西側を廻り込んだ裏手に有ります。
入口部分は、高齢者や体に障害を持った方など、階段によって2階に上れない人達にも見学する事が出来る様に、従来の建物の脇に付随させたエレベーター施設部分が新たなエントランスになっています。
文学館入口.jpg

自動ドアから中に入ります。
エントランス1.jpgエントランス2.jpg

時節柄、中に入ると先ず、手の消毒そして体温測定が待っています。
開放されたガラス越しに、従来の建屋部分を確認できます。元々の建屋の形状は鉤型を呈していて、今回その内側部分を利用してエレベーター施設部分を建てています。従来の状態を撮影した、改修直前の写真が有りますので参考に掲示します。
栃木市文学館南西側(改修前).jpg
この写真と最初に載せた文学館南西側からの写真を見比べると、増築部分がハッキリ確認できます。

先に進みます。体温測定器の先を見ると階段が有りますが、受付カウンターはその手前を、左に入ったところに有ります。
館内に入ると、写真撮影も色々制約が有りますので、注意が必要になります。
先ず動画やフラッシュやライトを付けての撮影は全面禁止です。又、2階フロア―は有料エリア―になっていて、撮影も一部例外箇所を除いて禁止になっています。1階部分も制約が有りますので、受付の職員さんに確認が必要です。(ここから掲示する写真は撮影の確認を取っています。)
私が見学に訪れた時は、1階受付の前に有る「郷土の先人紹介コーナー」では、日立製作所創業者「小平浪平」の展示が行われていましたが、ここは撮影禁止になっていました。

受付の横の広いスペースは、「とちぎサロン」として、休憩したり周囲の棚に所蔵されている書籍や資料を自由に閲覧する事が出来るエリア―が用意されています。
1階とちぎサロン.jpg
その先、北側回廊部分に面したカウンタには、当初の建設当時に有ったとする、ガラスを嵌めた格子、に受付の小窓が復元されています。
1階回廊部.jpg
以前、この建物が市役所別館として利用されていた当時、何度かこの北側入り口から入って、カウンター越しに、手続きをした記憶が有りますが、その時はカウンターの上部は解放されて、内側の市の職員さんと対話が出来ました。
大正時代は、町役場の職員さんと訪れる町民との間には、隔離するものが有ったのかもしれません。実際回廊部分の床の高さより、カウンターの内側の床の方が高くなっていました。現在は車いすでの見学に対応するためスロープが設けられています。
このような所にも時代の変化を感じるところが有ります。

「とちぎサロン」の東隣に「旧栃木町役場展示コーナー」が有ります。ここは面白いコーナーで見る所満載です。しかも撮影OKになっています。
建屋構造模型.jpg
まずこれ、「大兵工務店」さんが造った、「文学館の軸組模型 1/50」です。
軸組の中に白く塗られた部材が見られますが、これらは元から有ったものではなく、今回の改修に際して、建屋の耐震補強の為に追加された軸組と思われます。実際に先に掲載した回廊部分の写真の中に、白く塗られた柱が露出して立っていますが、これは本来有ったものでない、今回の改修で追加した柱であると、識別出来る様に、ワザと色を変えて施工されてます。(文化財建屋の改修時のルールなのかも知れません)

もう一つ興味のある展示物が有りました。
元栃木町役場庁舎模型.jpg
「栃木市役所別館(旧栃木町役場庁舎)模型」です。制作・寄贈された人は、坂入定雄さんと記されています。表示された名称からすると、以前建屋が市役所別館として使用されていた当時に寄贈された模型と思われます。
模型の内容を観察すると、今から24年ほど前、平成10年(1998)頃の状景模型と思われます。
1981年頃は、建屋の色はアイボリー系でした。塔屋にまだ時計は設置されていませんでした。模型は公衆電話がログハウス調になっています。県庁掘には噴水が見られ、白鳥の餌場も。「県庁堀」の案内掲示板も以前の形をしていますから、2000年頃でしょう。
でも本当に当時の姿を克明に表現されています。見ていても飽きません。良く作ってあります。
建物を立体的に360度、簡単に見て回ることが出来ます。

2階の展示室や多目的室を見学するには、観覧料一般220円(中学生以下は無料)が必要です。
展示室には冒頭に紹介した、栃木市ゆかりの三人のブースが有ります。
一度見てみると、又、三人の作品を読んでみたい気持ちが湧いてきます。
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山形県鶴岡市で擬洋風建築など見て回る [建物]

先のゴールデンウィークに、久しぶりに遠出をして、山形県の鶴岡市まで出掛けました。
目的は、明治大正に建築された建物が多く残されていて、以前から行ってみたかったからです。
朝6時に家を出て、鶴岡市に到着した時は、昼まじかになっていました。
東北自動車道をひたすら北上し、福島県を縦断、宮城県の村田ジャンクションにて、山形自動車道に入り蔵王の北側を西に走る。蔵王山の北面は残雪が多く見られた。月山や湯殿山を通過して庄内平野に。
鶴岡駅前の観光案内所によって、鶴岡市内の観光マップや観光資料を貰って、早速かつて鶴ケ岡城の有った「鶴岡公園」近くの駐車場へ。
案内所で渡された「山形県鶴岡市観光パンフレット」を開くと、
<江戸時代から続く 城下町 今も殿が暮らすまち・・・酒井家庄内入部400年
江戸時代に酒井忠勝公が藩主として庄内に入部し、今も旧藩主家が住み続けている、国内でも珍しい地域です。令和4年は酒井家庄内入部400年の年となります。歴史情緒が今も残る城下町鶴岡を散歩してみましょう。>  と、街の紹介が出ています。

実は私が今回この町を訪れたかった、もうひとつの理由は、栃木県の第三代県令となった三島通庸(みちつね)への興味からになります。三島通庸が明治7年(1875)12月3日に初めて酒田県令となり、この山形の地に来ていますが、その翌年明治8年8月31日に県庁を酒田から鶴岡に移し、酒田県から鶴岡県に名称変更を行っています。
 
三島通庸が栃木県令として明治16年(1883)10月30日任命(この時は福島県令との兼務)された時にも、翌年明治17年2月23日には栃木県庁を、栃木町から宇都宮へ移転、名称も宇都宮県に変更しています。
県庁を栃木町から宇都宮に移転させる話は、明治6年(1873)に当時の宇都宮県を栃木県に合併した当時から出ていました。それからずっと移転賛成と反対とが中央政府に対して請願活動を繰り広げていたもので、三島通庸が県令に着任した事で、一気に宇都宮移転が決まりました。そして同時に名称も「宇都宮県」と改称されました。明治17年1月24日付で「宇都宮県令三島通庸代理 宇都宮県大書記官片山重範」の名前で布達を発しましたが、その5日後それを取り消して、もとの栃木県に戻されています。(栃木市史より)

さて、鶴岡市に話を戻します。地形図を見ると鶴岡公園の西側に酒井氏庭園の文字が確認出来ます。ここは旧庄内藩主酒井家より伝来の文化財および土地・建物等が寄付され、昭和25年(1950)に創立した、「致道博物館」があり、目的の擬洋風建築2棟がここに移築されています。

先ず最初の建物は、「旧鶴岡警察署庁舎」です。
旧鶴岡警察署庁舎.jpg

この建物は明治政府の威信を示す為建設したとされ、建てられたのは明治17年と有ります。
明治9年8月22日、それまでの鶴岡県・旧山形県・置賜県の三県を統一した新生山形県の初代県令となった、三島通庸が命じて、市内馬場町に建てられたものを、昭和32年ここに移築保存しています。

写真右側の茶褐色の門は「旧酒井家江戸屋敷 赤門」で、<田安徳川家の姫君が酒井家へ輿入れした際に建てられた門で、江戸中屋敷から移築し、御隠殿の門にしたと伝わる>と説明がされていました。

二つ目の擬洋風建築は、上記の警察署庁舎と同様、三島県令の命により建てられた「旧西田川郡役所」に成ります。
旧西田川郡役所.jpg

創建は明治14年(1881)、棟梁は鶴岡出身で西洋建築を学んだ高橋兼吉と石井竹次郎に成ります。
<バルコニーと塔屋・時計台が特徴で、玄関ポーチの柱脚台や吊階段など、要所にルネッサンス様式の模倣がみられます。>(説明板より抜粋)

この致道博物館の敷地内には以上の擬洋風建築の外、幕末に江戸中屋敷を一部移築したと伝わる藩主の隠居所「旧庄内藩主御隠殿」や、出羽三山の山麓・田麦俣の民家「旧渋谷家住宅(多層民家)」や、「美術天覧会場」・「重要有形民俗文化財収蔵庫」・「民具の蔵」等の建物と、酒井氏庭園を観覧する事が出来ます。
旧渋谷家住宅.jpg
(多層民家旧渋谷家住宅:山形県内でも有数の豪雪地帯で、庄内と内陸を結ぶ六十里越街道の要所・田麦俣(旧朝日村)から移築した民家)

ゆっくりとこれらの展示物を見ていきたいところですが、日帰りの旅。又、5時間以上掛けて栃木まで戻らければならないため、他に移動します。

次の建物は、「鶴岡公園」内、荘内神社の南東側に建つ「大寳館」を見学します。
大宝館.jpg

大宝館は、大正4年(1915)に大正天皇の即位を記念して創建されたもので、現在館内には鶴岡ゆかりの人物資料展示施設として、一般公開されています。

次は荘内神社の正面鳥居の前の道を、東の方向に少し歩いた道路左手に現れる「鶴岡カトリック教会の天主堂に向かいます。
鶴岡カトリック教会天主堂.jpg

道路際に立つ案内板によると、<この天主堂はフランス人パピノ神父の設計といわれ、明治36年鶴岡市三日町に在住した大工相馬富太郎が棟梁となって完成した建物でヨーロッパ中世紀頃に建築されたロマネスク様式をもつ教会…(後略)>と記されています。
天主堂の中に入ると、荘厳な雰囲気に包まれます、礼拝集会に参加する人達が座るために現在折り畳みのパイプ椅子が並んでいますが、床には畳が敷かれています。かつては正座をして礼拝をしたと思われます。

国内にはこうした明治時代に建てられたかつての郡役所の建物が多く残されています。私もこれまでこの山形県や福島県にて何カ所か見て来ていますので、参考に写真を掲載します。
旧南会津郡役所.jpg旧伊達郡役所.jpg
(旧南会津郡役所:明治18年8月落成)   (旧伊達郡役所:明治16年桑折町)
旧西村山郡役所.jpg旧西村山郡会議事堂.jpg
(旧西村山郡役所:明治11年12月竣工) (旧西村山郡会議事堂:明治19年8月竣工)

私の住む栃木市にも、明治初期に栃木県庁が置かれた事で、「栃木県庁」明治9年12月上棟。「栃木区裁判所」明治5年設置。「時計台があった栃木師範学校」や「栃木模範女学校」。「栃木県医学校」明治15年焼失廃校。「下都賀郡役所」明治16年設置。等々多くの建物が建設されたが、残念ながら全て現存していません。ただ栃木県最初の写真館「片岡写真館」の創業者片岡如松(じょしょう)さんが、その当時の栃木の街の様子を撮影してくれていたので、現在私達も写真でその当時の様子を窺い知ることが出来るのは、大変有り難い事です。
現在も営業を続けている片岡写真館の新スタジオビルは、明治9年に建てられた初代の栃木警察署をモチーフに、建てられたと聞いています。先ほどの明治初期からの多くの栃木町の写真を収録した写真集「片岡寫眞館」の中にも、その初代警察署の写真も掲載されていますので、参考に抜粋し載せさせて頂きます。
片岡写真館(栃木市).jpg栃木警察署.jpg

山形県内には、まだ多くの魅力的な建築物が残されています。又、機会が有ったら実際にこの目で見てみたいです。

今回参考にした資料:
・「栃木市史 史料編近現代Ⅰ」 栃木市発行
・「土木県令 三島通庸」 丸山光太郎著 栃木県出版文化協会発行
・「写真集 片岡寫眞館 明治・大正・昭和140年の記憶」 片岡惟光編 新樹社発行

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改修を終えて新築当初の外観を見せる元栃木町役場庁舎 [建物]

栃木市の「元県庁堀」南東部角に建つ「元栃木町役場庁舎」の建物、傷みが激しくなって来ていましたが、このほど改修工事を終えて、新築当初の外観が蘇り、美しい姿を見せています。
改修なった旧栃木町役場庁舎.jpg
(上の写真が、改修成った「元栃木町役場庁舎」)
改修前の正面玄関.jpg
(改修前の北側、正面玄関部の写真)
改修前後で塗装色の違いが認められますが、これは色褪せにより減色した為か、元々違っていたのかはっきりしない。今回改修後は「青緑色」ですが(見た目玄関・バルコニー部は更に緑色が強く、「常盤色」に近いように思われる)、改修前はより水色に近い「青竹色」か。ただ1980年頃は全く別の色で「肌色」に近く、これまでも何度か塗装替えをして来ていると思われます。
1981年旧栃木町庁舎 4.jpg
(1981年撮影した時の塗装色は「肌色」に近かった。写真を見るとこの頃は堀に住む鯉も色鮮やかな錦鯉が多く見られましたが、最近は殆ど真鯉で緋鯉も稀に見られる程度に成ってしまいました。)

次に今回の改修に伴い変わった所をを見ていきたいと思います。<「旧栃木町役場庁舎」については、2016年5月12日付でこのブログに於いて紹介させて頂いておりますので、そちらもご覧頂ければ幸いです。>
改修前の外観(南東角部分).jpg
上の写真は改修前の姿です。南東部分に有った木造モルタル造りの建屋は、当初は無かった為、今回の改修工事で初期の姿に戻すということで、取り壊されました。
下の写真は改修後で、スッキリした感じになっています。
改修なった旧栃木町役場庁舎(南東角部分).jpg

外にこの改修で姿を消したものがいくつかあります。
建屋の外壁に何カ所か取り付けられていた外灯が、取り外されました。
街灯.jpg
次の写真はドアの取っ手です。凝ったデザインです。東側入口に有った風除室のドアに付いていましたが、このドアは元々は後から追加した構造物だった事から、今回風除室と共に撤去されています。
ドア取っ手.jpg
それからこのフックの様な金具、正面玄関バルコニーの柱の左右内側に付いていました。
飾り.jpg
単なる装飾品か、他に何か用途が有った物か、不明です。

建物の屋根の中央部に建つ塔屋部分に設置されていた、2台の大時計も今回姿を消しています。
大時計.jpg塔.jpg
この大時計も私が1981年に撮影した時には有りませんでしたから、チョッと殺風景な気がしますが、当初の姿と言う事で、仕方ありません。でもそもそもこの塔屋は何の目的で設けられてものだったのでしょうか。
1981年旧栃木町庁舎 5.jpg
(1981年撮影、時計は付いていません。この頃元県庁堀や巴波川では白鳥を飼育していました。川面を泳ぐ白鳥の姿が優雅だったことを覚えています。良く写真を撮りました。)

改修により剥がれていた塗装膜や腐食した窓枠部分等が、綺麗に修復されました。
窓周辺(改修前).jpg窓周辺(改修後).jpg

正面玄関バルコニーの柱に施された装飾部の塗装も、以前は細かい所は塗りつぶされていましたが、今回は細部まで塗り分けられています。
柱の装飾.jpg柱の装飾(改修後).jpg

この建物は予定では来年(2022年)4月、「栃木市立文学館」として、栃木市ゆかりの文豪「山本有三」や、少女時代を栃木市で過ごされた女流作家「吉屋信子」等の作品や資料を展示紹介する施設として、開館する様です。その為に外観的に大きく変わった所が有ります。
それは建物の裏手に当たる部分にエレベーターが外付けされたのです。
文学館として活用する為、2階の展示部分にもお年寄りや足の不自由な方も見学する事が出来る様にする為です。今はバリアフリーは必須条件ですから。
裏手エレベータ.jpg裏手.jpg

今から来年の開館が待ち遠しいです。

丁度今、大きく成長したヒマラヤ杉の脇の元県庁堀には、吉屋信子が少女時代に暮らした栃木町の思い出を読売新聞社宇都宮支局編の本「野州百話」の序文に寄せた一文の中で、<巴波川に浮かぶカワフネの黄色いかわいらしい花>と記している、黄色の小さな花「河骨」が咲き始めています。
堀に咲く河骨1.jpg堀に咲く河骨2.jpg
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旧栃木町役場庁舎の改修工事が進んでいます。 [建物]

今日、旧栃木町役場庁舎改修工事見学会に参加して来ました。

「旧栃木町役場庁舎」は、明治の初期に栃木県庁庁舎が初めて建設された跡地となる、「旧県庁堀」内の南東角地部分に、大正9年4月に起工し、大正10年11月に竣功しました。
旧栃木町役場庁舎1.jpg
(旧栃木町役場庁舎、背の高い木は「ヒマラヤ杉」樹齢は推定90年程か)

設計は町の技師をしていた堀井寅吉氏。木造2階建、塔屋付の洋風建築に成ります。最初の建物の設計図を銅版エッチングしたものが掲示されています。そこには建物の「北面」と「東面」の外観図や、1階と2階のフロアー図、そして建築工事概要などが記されており、初期の建物の様子がつぶさに知る事が出来ます。
銅板エッチングの庁舎設計図.jpg
(正面玄関左脇に設置された「栃木町役場庁舎設計図」の銅版エッチング)

栃木市では平成31年(2019)3月より建物の改修工事に着手しています。
改修工事の内容については、①建築当時の姿に復原する事。但し当初西側に付随していた建物は除く。②可逆性の確保。これは耐震性の確保等の補強材を鉄骨等で加えるが、元の建物にあえて溶け込ませないで、補強の為当初には無い構造物とハッキリ判別できるようにし、将来更に良い工法で補強が可能になった時は、追加補強を撤去することが出来る様にしておくこと。③誰もが安心して利用できる建物として改修(バリアフリー対策)の3つが工事に際しての基本方針(見学会配布資料より参照)
建築中の写真.jpg棟札に記された上棟式参加者名.jpg
(見学会会場に掲示された建築当時の様子の写真と上棟式日付や関係者名を記した棟札)

改修工事は令和3年(2021)1月までの工期を予定しています。現在は、1階の床や天井を解体し、基礎工事の準備中とのことです。
本日の見学会は市内でも珍しい大正時代の洋館の、改修中しか見る事が出来ない、床下や木組みなどを直接見る事が出来るチャンスと言うので、参加申し込みをしました。

私は栃木第二小学校(現、栃木中央小学校)で子供時代を過ごしました。大人になってからもこの「旧栃木町役場庁舎」は、とても好きな建物で、四季折々写真に収めてきました。
1994年6月15日撮影栃二小屋上より.jpg
(1994年6月、栃木第二小学校(現、栃木中央小学校)の屋上より撮影)
旧栃木町役場庁舎2.jpg1974年6月旧栃木町庁舎.jpg
(2019年9月、旧県庁堀漕渠より)  (1974年6月撮影、ヒマラヤ杉はまだ低かった)
旧栃木町役場庁舎(2013年7月撮影).jpg
(2013年7月撮影、栃木市役所別館として利用されている頃)
枝垂れ桜と2019年4月.jpg2000年頃旧栃木町庁舎.jpg
(2019年4月撮影、東側の枝垂れ桜) (2010年頃撮影、コブシの木はすでに伐採)

午前10時集合で、参加者が集まってきました。大型台風が近づいて来ている為、天候が気になりましたが、台風前で気温が上昇、日差しがきつく、建物の陰に入って待ちました。
旧栃木町役場庁舎3.jpg
(改修工事の為、周囲に仮囲いが設置されています。)

見学会の始めに栃木市教育委員会事務局文化課の担当者さんから説明を聞いて、改修工事現場での見学開始となりました。
旧栃木町役場庁舎6.jpg旧栃木町役場庁舎5.jpg
(改修工事見学会の担当職員さんと参加者たち、ヘルメットを被って見学しました。)

旧栃木町役場庁舎7.jpg
(入口から入って所定の見学場所から。床や天井が撤去された内部)

天井の太い梁1.jpg天井の太い梁2.jpg
(天井部分には太い梁が見えます) (梁は2本の柱をボルトで繋いだ合せ梁に成っています)
梁の材料は国産材では無くて、北米産の米松との事。寒い地方の木材の為硬い材料である。
梁の長さは、当時の荷車や船で輸送している為、短く途中で継いで使用して有るのが確認出来ました。

旧栃木町役場庁舎8.jpg
(床下基礎部分、大谷石が積まれています)

基礎部分(内観).jpg基礎部分(外観).jpg
(床下換気の目的で取り付けられた基礎部分の換気口。外観は綺麗に形成されています)

天井裏の構造.jpg天井部分.jpg
(天井裏の木組み構造が見られます)     (天井が有った時の風景です)

旧栃木町役場庁舎(2010年6月撮影).jpg東側増築部解体撤去.jpg
(建屋東側の増築部分)     (改修で建築当初に戻す為、増築部は解体撤去されました)
昭和12年~13年頃、栃木市制が施行された当時に増築された東側の建屋は、今回大正10年の建築当時に戻す為、解体撤去されました。その脇に有った枝垂れ桜は今のまま残される様です。
尚、ヒマラヤ杉はドンドン大きく高く成長しているので、少し心配です。写真で撮影しても建屋がだんだん隠れる様に成ってきています。少しダイエットさせられれば良いのではと思います。
見学会場では色々と説明が有り、大変勉強になりました。

令和4年度(2022)には生まれ変わった建物を見る事が出来ます。その時が今から楽しみです。

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山形県寒河江市に残る旧西村山郡役所と郡会議事堂 [建物]

先日、山形県をマンホールカード収集の為に訪れました。山形県には2013年4月に山寺(宝珠山立石寺)を訪れて以来になります。今回は東根市を始めに2・3カ所を巡り、寒河江市に向かいました。
寒河江駅前の観光案内図を確認すると、近くの寒河江公園の一画「さくらの丘」に郷土館を発見、せっかくここまで来たので、寄り道して見学をすることにしました。

寒河江市郷土館の建物は、旧西村山郡役所と旧西村山郡会議事堂という、2棟の県指定有形文化財で構成されています。
郷土館に到着したのは、午後2時30分を過ぎていたため、東向きの郡役所は太陽が西に傾き始めて、写真撮影は逆行状態になってしまいました。
旧西村山郡役所全景.jpg
(旧西村山郡役所、正面より撮影)
この建物は、明治11年12月の竣工。案内板によると山形県内はもとより、全国的にも最も早い時期の郡役所の様です。
旧西村山郡役所斜景.jpg
(旧西村山郡役所、向かって左斜め方向より撮影)

では、この旧西村山郡とはどこなのか、山形県は大きく4つの区域に分割されています。北東側は新庄市を中心に真室川町、金山町、最上町、舟形町、鮭川村、戸沢村、大蔵村の「最上地域」。北西側は酒田市・鶴岡市を中心に遊佐町、三川町、庄内町の区域で「庄内地域」。県南地域は米沢市を中心に白鷹町、南陽市、高畠町、川西町、長井市、小国町、飯豊町の区域で「置賜地域」。そして県央部に位置する区域は、山形市を中心に天童市、東根市、尾花沢市、大石田町、村山市、河北町、寒河江市、西川町、大江町、朝日町、中山町、山辺町、上山市を含む地域でここが「村山地域」となる。

この村山地域が、明治11年(1878)に行政区域として、東西南北の4つの区域に分割発足しています。そしてその一つが、「西村山郡」ですが、この西村山郡を構成したのは、現在の「寒河江市」「河北町」「西川町」「朝日町」「大江町」の1市4町でしたが、現在も残る西村山郡は市制を敷いた「寒河江市」を除く前記の4町で構成されてます。
ちなみにこの明治11年8月には、栃木でも都賀郡が下都賀郡と上都賀郡とに分かれています。

太政官が「郡区町村編成法を布告したのが明治11年7月ですから、早くもその年の12月4日に、この郡役所の建物が建築されたことに成ります。この時の山形県令はその後、栃木県の第三代県令となった、「鬼県令」「土木県令」とも呼ばれた、三島通庸でした。

三島通庸(みしまみちつね)と山形県との関わりは、明治7年(1874)12月3日に酒田県令となったのが初めてで、その後三島は翌明治8年8月31日、坂田県を鶴岡県に改め、県庁を鶴岡に移しています。そして明治9年8月22日には、鶴岡・旧山形・置賜の三県を統一させた山形県を誕生させ、初代の県令となりました。

そして、旧西村山郡の初代郡長となった人は「海老名季昌(えびなすえまさ)」という人物で、幕末に会津藩家老を務めた人です。

話を建物に戻します。この建物はもともとは寒河江南町に有った寒河江代官所跡地に建てられています。現在地には≪明治初期の洋風建築の遺構として価値が高いことから移築復元して永久に保存することにしたものである。≫と案内板に記されていました。
旧西村山郡役所案内板.jpg
(旧西村山郡役所の説明板)

擬洋風建築は、一見洋風に見える建物に和風の意匠が取り込まれ上手く融合させた建物。
洋風意匠として、下見板張り壁、バルコニー、ファンライト、デンティル、玄関ポーチ・柱、上げ下げ窓など。
和風意匠として、垂木・装飾、幕板・装飾など。
上下開閉窓.jpg上下開閉窓2.jpg
(下見板張り壁と上げ下げ窓)         (デンティル・軒蛇腹と垂木装飾)
郷土館内部展示.jpg
(郷土館内部展示の様子)

郡役所に向かって、左手方向に建つ旧西村山郡会議事堂
旧西村山郡会議事堂全景.jpg
(旧西村山郡会議事堂正面)

旧西村山郡会議事堂斜景.jpg
(旧西村山郡会議事堂、向かって左斜め方向より撮影)

旧西村山郡会議事堂案内板.jpg
(旧西村山郡会議事堂の説明板)
郷土館内部展示2.jpg
郷土館内部の展示の様子。ドア上のアーチ状採光窓がファンライトです)

明治初期の建築物で空調設備など無い為、見学していても暑くて大変でしたが、担当の職員の方に館内を説明・案内して頂いたので、色々なお話を伺う事が出来ました。
山形県内にはこの様な明治初期の擬洋風建築の郡役所が他にも残っているとの事、機会が有ったら又山形県を訪れてみたいと思いました。
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