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山形県鶴岡市で擬洋風建築など見て回る [建物]

先のゴールデンウィークに、久しぶりに遠出をして、山形県の鶴岡市まで出掛けました。
目的は、明治大正に建築された建物が多く残されていて、以前から行ってみたかったからです。
朝6時に家を出て、鶴岡市に到着した時は、昼まじかになっていました。
東北自動車道をひたすら北上し、福島県を縦断、宮城県の村田ジャンクションにて、山形自動車道に入り蔵王の北側を西に走る。蔵王山の北面は残雪が多く見られた。月山や湯殿山を通過して庄内平野に。
鶴岡駅前の観光案内所によって、鶴岡市内の観光マップや観光資料を貰って、早速かつて鶴ケ岡城の有った「鶴岡公園」近くの駐車場へ。
案内所で渡された「山形県鶴岡市観光パンフレット」を開くと、
<江戸時代から続く 城下町 今も殿が暮らすまち・・・酒井家庄内入部400年
江戸時代に酒井忠勝公が藩主として庄内に入部し、今も旧藩主家が住み続けている、国内でも珍しい地域です。令和4年は酒井家庄内入部400年の年となります。歴史情緒が今も残る城下町鶴岡を散歩してみましょう。>  と、街の紹介が出ています。

実は私が今回この町を訪れたかった、もうひとつの理由は、栃木県の第三代県令となった三島通庸(みちつね)への興味からになります。三島通庸が明治7年(1875)12月3日に初めて酒田県令となり、この山形の地に来ていますが、その翌年明治8年8月31日に県庁を酒田から鶴岡に移し、酒田県から鶴岡県に名称変更を行っています。
 
三島通庸が栃木県令として明治16年(1883)10月30日任命(この時は福島県令との兼務)された時にも、翌年明治17年2月23日には栃木県庁を、栃木町から宇都宮へ移転、名称も宇都宮県に変更しています。
県庁を栃木町から宇都宮に移転させる話は、明治6年(1873)に当時の宇都宮県を栃木県に合併した当時から出ていました。それからずっと移転賛成と反対とが中央政府に対して請願活動を繰り広げていたもので、三島通庸が県令に着任した事で、一気に宇都宮移転が決まりました。そして同時に名称も「宇都宮県」と改称されました。明治17年1月24日付で「宇都宮県令三島通庸代理 宇都宮県大書記官片山重範」の名前で布達を発しましたが、その5日後それを取り消して、もとの栃木県に戻されています。(栃木市史より)

さて、鶴岡市に話を戻します。地形図を見ると鶴岡公園の西側に酒井氏庭園の文字が確認出来ます。ここは旧庄内藩主酒井家より伝来の文化財および土地・建物等が寄付され、昭和25年(1950)に創立した、「致道博物館」があり、目的の擬洋風建築2棟がここに移築されています。

先ず最初の建物は、「旧鶴岡警察署庁舎」です。
旧鶴岡警察署庁舎.jpg

この建物は明治政府の威信を示す為建設したとされ、建てられたのは明治17年と有ります。
明治9年8月22日、それまでの鶴岡県・旧山形県・置賜県の三県を統一した新生山形県の初代県令となった、三島通庸が命じて、市内馬場町に建てられたものを、昭和32年ここに移築保存しています。

写真右側の茶褐色の門は「旧酒井家江戸屋敷 赤門」で、<田安徳川家の姫君が酒井家へ輿入れした際に建てられた門で、江戸中屋敷から移築し、御隠殿の門にしたと伝わる>と説明がされていました。

二つ目の擬洋風建築は、上記の警察署庁舎と同様、三島県令の命により建てられた「旧西田川郡役所」に成ります。
旧西田川郡役所.jpg

創建は明治14年(1881)、棟梁は鶴岡出身で西洋建築を学んだ高橋兼吉と石井竹次郎に成ります。
<バルコニーと塔屋・時計台が特徴で、玄関ポーチの柱脚台や吊階段など、要所にルネッサンス様式の模倣がみられます。>(説明板より抜粋)

この致道博物館の敷地内には以上の擬洋風建築の外、幕末に江戸中屋敷を一部移築したと伝わる藩主の隠居所「旧庄内藩主御隠殿」や、出羽三山の山麓・田麦俣の民家「旧渋谷家住宅(多層民家)」や、「美術天覧会場」・「重要有形民俗文化財収蔵庫」・「民具の蔵」等の建物と、酒井氏庭園を観覧する事が出来ます。
旧渋谷家住宅.jpg
(多層民家旧渋谷家住宅:山形県内でも有数の豪雪地帯で、庄内と内陸を結ぶ六十里越街道の要所・田麦俣(旧朝日村)から移築した民家)

ゆっくりとこれらの展示物を見ていきたいところですが、日帰りの旅。又、5時間以上掛けて栃木まで戻らければならないため、他に移動します。

次の建物は、「鶴岡公園」内、荘内神社の南東側に建つ「大寳館」を見学します。
大宝館.jpg

大宝館は、大正4年(1915)に大正天皇の即位を記念して創建されたもので、現在館内には鶴岡ゆかりの人物資料展示施設として、一般公開されています。

次は荘内神社の正面鳥居の前の道を、東の方向に少し歩いた道路左手に現れる「鶴岡カトリック教会の天主堂に向かいます。
鶴岡カトリック教会天主堂.jpg

道路際に立つ案内板によると、<この天主堂はフランス人パピノ神父の設計といわれ、明治36年鶴岡市三日町に在住した大工相馬富太郎が棟梁となって完成した建物でヨーロッパ中世紀頃に建築されたロマネスク様式をもつ教会…(後略)>と記されています。
天主堂の中に入ると、荘厳な雰囲気に包まれます、礼拝集会に参加する人達が座るために現在折り畳みのパイプ椅子が並んでいますが、床には畳が敷かれています。かつては正座をして礼拝をしたと思われます。

国内にはこうした明治時代に建てられたかつての郡役所の建物が多く残されています。私もこれまでこの山形県や福島県にて何カ所か見て来ていますので、参考に写真を掲載します。
旧南会津郡役所.jpg旧伊達郡役所.jpg
(旧南会津郡役所:明治18年8月落成)   (旧伊達郡役所:明治16年桑折町)
旧西村山郡役所.jpg旧西村山郡会議事堂.jpg
(旧西村山郡役所:明治11年12月竣工) (旧西村山郡会議事堂:明治19年8月竣工)

私の住む栃木市にも、明治初期に栃木県庁が置かれた事で、「栃木県庁」明治9年12月上棟。「栃木区裁判所」明治5年設置。「時計台があった栃木師範学校」や「栃木模範女学校」。「栃木県医学校」明治15年焼失廃校。「下都賀郡役所」明治16年設置。等々多くの建物が建設されたが、残念ながら全て現存していません。ただ栃木県最初の写真館「片岡写真館」の創業者片岡如松(じょしょう)さんが、その当時の栃木の街の様子を撮影してくれていたので、現在私達も写真でその当時の様子を窺い知ることが出来るのは、大変有り難い事です。
現在も営業を続けている片岡写真館の新スタジオビルは、明治9年に建てられた初代の栃木警察署をモチーフに、建てられたと聞いています。先ほどの明治初期からの多くの栃木町の写真を収録した写真集「片岡寫眞館」の中にも、その初代警察署の写真も掲載されていますので、参考に抜粋し載せさせて頂きます。
片岡写真館(栃木市).jpg栃木警察署.jpg

山形県内には、まだ多くの魅力的な建築物が残されています。又、機会が有ったら実際にこの目で見てみたいです。

今回参考にした資料:
・「栃木市史 史料編近現代Ⅰ」 栃木市発行
・「土木県令 三島通庸」 丸山光太郎著 栃木県出版文化協会発行
・「写真集 片岡寫眞館 明治・大正・昭和140年の記憶」 片岡惟光編 新樹社発行

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改修を終えて新築当初の外観を見せる元栃木町役場庁舎 [建物]

栃木市の「元県庁堀」南東部角に建つ「元栃木町役場庁舎」の建物、傷みが激しくなって来ていましたが、このほど改修工事を終えて、新築当初の外観が蘇り、美しい姿を見せています。
改修なった旧栃木町役場庁舎.jpg
(上の写真が、改修成った「元栃木町役場庁舎」)
改修前の正面玄関.jpg
(改修前の北側、正面玄関部の写真)
改修前後で塗装色の違いが認められますが、これは色褪せにより減色した為か、元々違っていたのかはっきりしない。今回改修後は「青緑色」ですが(見た目玄関・バルコニー部は更に緑色が強く、「常盤色」に近いように思われる)、改修前はより水色に近い「青竹色」か。ただ1980年頃は全く別の色で「肌色」に近く、これまでも何度か塗装替えをして来ていると思われます。
1981年旧栃木町庁舎 4.jpg
(1981年撮影した時の塗装色は「肌色」に近かった。写真を見るとこの頃は堀に住む鯉も色鮮やかな錦鯉が多く見られましたが、最近は殆ど真鯉で緋鯉も稀に見られる程度に成ってしまいました。)

次に今回の改修に伴い変わった所をを見ていきたいと思います。<「旧栃木町役場庁舎」については、2016年5月12日付でこのブログに於いて紹介させて頂いておりますので、そちらもご覧頂ければ幸いです。>
改修前の外観(南東角部分).jpg
上の写真は改修前の姿です。南東部分に有った木造モルタル造りの建屋は、当初は無かった為、今回の改修工事で初期の姿に戻すということで、取り壊されました。
下の写真は改修後で、スッキリした感じになっています。
改修なった旧栃木町役場庁舎(南東角部分).jpg

外にこの改修で姿を消したものがいくつかあります。
建屋の外壁に何カ所か取り付けられていた外灯が、取り外されました。
街灯.jpg
次の写真はドアの取っ手です。凝ったデザインです。東側入口に有った風除室のドアに付いていましたが、このドアは元々は後から追加した構造物だった事から、今回風除室と共に撤去されています。
ドア取っ手.jpg
それからこのフックの様な金具、正面玄関バルコニーの柱の左右内側に付いていました。
飾り.jpg
単なる装飾品か、他に何か用途が有った物か、不明です。

建物の屋根の中央部に建つ塔屋部分に設置されていた、2台の大時計も今回姿を消しています。
大時計.jpg塔.jpg
この大時計も私が1981年に撮影した時には有りませんでしたから、チョッと殺風景な気がしますが、当初の姿と言う事で、仕方ありません。でもそもそもこの塔屋は何の目的で設けられてものだったのでしょうか。
1981年旧栃木町庁舎 5.jpg
(1981年撮影、時計は付いていません。この頃元県庁堀や巴波川では白鳥を飼育していました。川面を泳ぐ白鳥の姿が優雅だったことを覚えています。良く写真を撮りました。)

改修により剥がれていた塗装膜や腐食した窓枠部分等が、綺麗に修復されました。
窓周辺(改修前).jpg窓周辺(改修後).jpg

正面玄関バルコニーの柱に施された装飾部の塗装も、以前は細かい所は塗りつぶされていましたが、今回は細部まで塗り分けられています。
柱の装飾.jpg柱の装飾(改修後).jpg

この建物は予定では来年(2022年)4月、「栃木市立文学館」として、栃木市ゆかりの文豪「山本有三」や、少女時代を栃木市で過ごされた女流作家「吉屋信子」等の作品や資料を展示紹介する施設として、開館する様です。その為に外観的に大きく変わった所が有ります。
それは建物の裏手に当たる部分にエレベーターが外付けされたのです。
文学館として活用する為、2階の展示部分にもお年寄りや足の不自由な方も見学する事が出来る様にする為です。今はバリアフリーは必須条件ですから。
裏手エレベータ.jpg裏手.jpg

今から来年の開館が待ち遠しいです。

丁度今、大きく成長したヒマラヤ杉の脇の元県庁堀には、吉屋信子が少女時代に暮らした栃木町の思い出を読売新聞社宇都宮支局編の本「野州百話」の序文に寄せた一文の中で、<巴波川に浮かぶカワフネの黄色いかわいらしい花>と記している、黄色の小さな花「河骨」が咲き始めています。
堀に咲く河骨1.jpg堀に咲く河骨2.jpg
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旧栃木町役場庁舎の改修工事が進んでいます。 [建物]

今日、旧栃木町役場庁舎改修工事見学会に参加して来ました。

「旧栃木町役場庁舎」は、明治の初期に栃木県庁庁舎が初めて建設された跡地となる、「旧県庁堀」内の南東角地部分に、大正9年4月に起工し、大正10年11月に竣功しました。
旧栃木町役場庁舎1.jpg
(旧栃木町役場庁舎、背の高い木は「ヒマラヤ杉」樹齢は推定90年程か)

設計は町の技師をしていた堀井寅吉氏。木造2階建、塔屋付の洋風建築に成ります。最初の建物の設計図を銅版エッチングしたものが掲示されています。そこには建物の「北面」と「東面」の外観図や、1階と2階のフロアー図、そして建築工事概要などが記されており、初期の建物の様子がつぶさに知る事が出来ます。
銅板エッチングの庁舎設計図.jpg
(正面玄関左脇に設置された「栃木町役場庁舎設計図」の銅版エッチング)

栃木市では平成31年(2019)3月より建物の改修工事に着手しています。
改修工事の内容については、①建築当時の姿に復原する事。但し当初西側に付随していた建物は除く。②可逆性の確保。これは耐震性の確保等の補強材を鉄骨等で加えるが、元の建物にあえて溶け込ませないで、補強の為当初には無い構造物とハッキリ判別できるようにし、将来更に良い工法で補強が可能になった時は、追加補強を撤去することが出来る様にしておくこと。③誰もが安心して利用できる建物として改修(バリアフリー対策)の3つが工事に際しての基本方針(見学会配布資料より参照)
建築中の写真.jpg棟札に記された上棟式参加者名.jpg
(見学会会場に掲示された建築当時の様子の写真と上棟式日付や関係者名を記した棟札)

改修工事は令和3年(2021)1月までの工期を予定しています。現在は、1階の床や天井を解体し、基礎工事の準備中とのことです。
本日の見学会は市内でも珍しい大正時代の洋館の、改修中しか見る事が出来ない、床下や木組みなどを直接見る事が出来るチャンスと言うので、参加申し込みをしました。

私は栃木第二小学校(現、栃木中央小学校)で子供時代を過ごしました。大人になってからもこの「旧栃木町役場庁舎」は、とても好きな建物で、四季折々写真に収めてきました。
1994年6月15日撮影栃二小屋上より.jpg
(1994年6月、栃木第二小学校(現、栃木中央小学校)の屋上より撮影)
旧栃木町役場庁舎2.jpg1974年6月旧栃木町庁舎.jpg
(2019年9月、旧県庁堀漕渠より)  (1974年6月撮影、ヒマラヤ杉はまだ低かった)
旧栃木町役場庁舎(2013年7月撮影).jpg
(2013年7月撮影、栃木市役所別館として利用されている頃)
枝垂れ桜と2019年4月.jpg2000年頃旧栃木町庁舎.jpg
(2019年4月撮影、東側の枝垂れ桜) (2010年頃撮影、コブシの木はすでに伐採)

午前10時集合で、参加者が集まってきました。大型台風が近づいて来ている為、天候が気になりましたが、台風前で気温が上昇、日差しがきつく、建物の陰に入って待ちました。
旧栃木町役場庁舎3.jpg
(改修工事の為、周囲に仮囲いが設置されています。)

見学会の始めに栃木市教育委員会事務局文化課の担当者さんから説明を聞いて、改修工事現場での見学開始となりました。
旧栃木町役場庁舎6.jpg旧栃木町役場庁舎5.jpg
(改修工事見学会の担当職員さんと参加者たち、ヘルメットを被って見学しました。)

旧栃木町役場庁舎7.jpg
(入口から入って所定の見学場所から。床や天井が撤去された内部)

天井の太い梁1.jpg天井の太い梁2.jpg
(天井部分には太い梁が見えます) (梁は2本の柱をボルトで繋いだ合せ梁に成っています)
梁の材料は国産材では無くて、北米産の米松との事。寒い地方の木材の為硬い材料である。
梁の長さは、当時の荷車や船で輸送している為、短く途中で継いで使用して有るのが確認出来ました。

旧栃木町役場庁舎8.jpg
(床下基礎部分、大谷石が積まれています)

基礎部分(内観).jpg基礎部分(外観).jpg
(床下換気の目的で取り付けられた基礎部分の換気口。外観は綺麗に形成されています)

天井裏の構造.jpg天井部分.jpg
(天井裏の木組み構造が見られます)     (天井が有った時の風景です)

旧栃木町役場庁舎(2010年6月撮影).jpg東側増築部解体撤去.jpg
(建屋東側の増築部分)     (改修で建築当初に戻す為、増築部は解体撤去されました)
昭和12年~13年頃、栃木市制が施行された当時に増築された東側の建屋は、今回大正10年の建築当時に戻す為、解体撤去されました。その脇に有った枝垂れ桜は今のまま残される様です。
尚、ヒマラヤ杉はドンドン大きく高く成長しているので、少し心配です。写真で撮影しても建屋がだんだん隠れる様に成ってきています。少しダイエットさせられれば良いのではと思います。
見学会場では色々と説明が有り、大変勉強になりました。

令和4年度(2022)には生まれ変わった建物を見る事が出来ます。その時が今から楽しみです。

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山形県寒河江市に残る旧西村山郡役所と郡会議事堂 [建物]

先日、山形県をマンホールカード収集の為に訪れました。山形県には2013年4月に山寺(宝珠山立石寺)を訪れて以来になります。今回は東根市を始めに2・3カ所を巡り、寒河江市に向かいました。
寒河江駅前の観光案内図を確認すると、近くの寒河江公園の一画「さくらの丘」に郷土館を発見、せっかくここまで来たので、寄り道して見学をすることにしました。

寒河江市郷土館の建物は、旧西村山郡役所と旧西村山郡会議事堂という、2棟の県指定有形文化財で構成されています。
郷土館に到着したのは、午後2時30分を過ぎていたため、東向きの郡役所は太陽が西に傾き始めて、写真撮影は逆行状態になってしまいました。
旧西村山郡役所全景.jpg
(旧西村山郡役所、正面より撮影)
この建物は、明治11年12月の竣工。案内板によると山形県内はもとより、全国的にも最も早い時期の郡役所の様です。
旧西村山郡役所斜景.jpg
(旧西村山郡役所、向かって左斜め方向より撮影)

では、この旧西村山郡とはどこなのか、山形県は大きく4つの区域に分割されています。北東側は新庄市を中心に真室川町、金山町、最上町、舟形町、鮭川村、戸沢村、大蔵村の「最上地域」。北西側は酒田市・鶴岡市を中心に遊佐町、三川町、庄内町の区域で「庄内地域」。県南地域は米沢市を中心に白鷹町、南陽市、高畠町、川西町、長井市、小国町、飯豊町の区域で「置賜地域」。そして県央部に位置する区域は、山形市を中心に天童市、東根市、尾花沢市、大石田町、村山市、河北町、寒河江市、西川町、大江町、朝日町、中山町、山辺町、上山市を含む地域でここが「村山地域」となる。

この村山地域が、明治11年(1878)に行政区域として、東西南北の4つの区域に分割発足しています。そしてその一つが、「西村山郡」ですが、この西村山郡を構成したのは、現在の「寒河江市」「河北町」「西川町」「朝日町」「大江町」の1市4町でしたが、現在も残る西村山郡は市制を敷いた「寒河江市」を除く前記の4町で構成されてます。
ちなみにこの明治11年8月には、栃木でも都賀郡が下都賀郡と上都賀郡とに分かれています。

太政官が「郡区町村編成法を布告したのが明治11年7月ですから、早くもその年の12月4日に、この郡役所の建物が建築されたことに成ります。この時の山形県令はその後、栃木県の第三代県令となった、「鬼県令」「土木県令」とも呼ばれた、三島通庸でした。

三島通庸(みしまみちつね)と山形県との関わりは、明治7年(1874)12月3日に酒田県令となったのが初めてで、その後三島は翌明治8年8月31日、坂田県を鶴岡県に改め、県庁を鶴岡に移しています。そして明治9年8月22日には、鶴岡・旧山形・置賜の三県を統一させた山形県を誕生させ、初代の県令となりました。

そして、旧西村山郡の初代郡長となった人は「海老名季昌(えびなすえまさ)」という人物で、幕末に会津藩家老を務めた人です。

話を建物に戻します。この建物はもともとは寒河江南町に有った寒河江代官所跡地に建てられています。現在地には≪明治初期の洋風建築の遺構として価値が高いことから移築復元して永久に保存することにしたものである。≫と案内板に記されていました。
旧西村山郡役所案内板.jpg
(旧西村山郡役所の説明板)

擬洋風建築は、一見洋風に見える建物に和風の意匠が取り込まれ上手く融合させた建物。
洋風意匠として、下見板張り壁、バルコニー、ファンライト、デンティル、玄関ポーチ・柱、上げ下げ窓など。
和風意匠として、垂木・装飾、幕板・装飾など。
上下開閉窓.jpg上下開閉窓2.jpg
(下見板張り壁と上げ下げ窓)         (デンティル・軒蛇腹と垂木装飾)
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(郷土館内部展示の様子)

郡役所に向かって、左手方向に建つ旧西村山郡会議事堂
旧西村山郡会議事堂全景.jpg
(旧西村山郡会議事堂正面)

旧西村山郡会議事堂斜景.jpg
(旧西村山郡会議事堂、向かって左斜め方向より撮影)

旧西村山郡会議事堂案内板.jpg
(旧西村山郡会議事堂の説明板)
郷土館内部展示2.jpg
郷土館内部の展示の様子。ドア上のアーチ状採光窓がファンライトです)

明治初期の建築物で空調設備など無い為、見学していても暑くて大変でしたが、担当の職員の方に館内を説明・案内して頂いたので、色々なお話を伺う事が出来ました。
山形県内にはこの様な明治初期の擬洋風建築の郡役所が他にも残っているとの事、機会が有ったら又山形県を訪れてみたいと思いました。
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群馬県板倉町の雷電神社を詣でました。 [建物]

今日、群馬県邑楽郡板倉町の雷電神社に行って来ました。
板倉雷電神社4.jpg
(板倉雷電神社、本社正面を大鳥居を通して撮影しました)

境内の周りには今、蠟梅の黄色い花が咲き、ほのかな甘い香りが溢れていました。
平日の為か参道の茶店は開いておりませんでしたが、参拝に来られた人が、蠟梅や社殿をバックに写真を撮られていました。
板倉雷電神社3.jpg
(社殿前には蠟梅の黄色い花が、ほのかな香りを発しています)
蝋梅.jpg
(咲き始めた蠟梅の黄色い花、バックは雷電神社社殿屋根の千木)

私も本社から奥宮などを、社殿に施された多くの素晴らしい彫刻装飾を観賞しながら参拝して廻って来ました。

<本社・社殿正面>
拝殿正面彫刻.jpg
拝殿正面彫刻1.jpg拝殿正面彫刻2.jpg

<本社・社殿左側面>
本殿左側面彫刻.jpg
本殿左側面彫刻2.jpg本殿左側面彫刻1.jpg

<本社・社殿後面>
本殿北面彫刻.jpg
本殿北面彫刻1.jpg

<本社・社殿右側面>
本殿右側面彫刻.jpg
本殿右側面彫刻1.jpg本殿右側面彫刻2.jpg
上の写真左側に写る彫刻が描く物語が、私が唯一分かった「浦島太郎」の作品です。
「竜宮城の乙姫様に見送られ、左脇に土産の玉手箱を抱え、海亀の背に乗って帰る浦島太郎の図です。」
その他の彫刻が表す物語も有名な物なのでしょうが、私には思い当たる物は浮かんできませんでした。


<奥宮・社殿正面>
奥宮正面.jpg
奥宮向拝部彫刻.jpg
奥宮向拝部彫刻1.jpg奥宮向拝部彫刻2.jpg

此処、板倉の雷電神社は昔から栃木町の人達からも、篤く信仰されていたと聞きます。
社殿前の大鳥居の脇に有る手水舎は江戸時代に、そんな栃木町の雷電講が寄附をしたもので、水舎脇に建てられた石碑には、「栃木町同盟講社」と「水舎寄附」の文字が刻されています。碑陰には栃木町で良く見聞きされる人達の名前がズラッと並んで刻されています。残念ながら表面に苔が付いたり風化等により判別が出来ない名前も多くなりました。

板倉雷電神社1.jpg板倉雷電神社2.jpg
(社殿前大鳥居横の水舎)              (水舎の傍に建てられて石碑)

私の叔父からも、「若い頃は自転車の載って参拝して、御札を頂いて来た。」と、懐かしく話してくれます。今では自動車で40分足らずで行くことが出来ますが、車が今の様に発達していなかった頃は、延々と広がる田んぼの中の道を、ペダルを漕いで行かなければならなかった。それでも往きは下りで多少は楽だったものが、復路は上り坂と成る為、大変だったと思われます。

見事な彫刻作品を鑑賞し、蠟梅のほのかな香りを嗅いで、家路に着きました。
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三池炭鉱の産業遺産を巡る [建物]

この正月休みを利用して九州北部を旅した。目的地は二ヶ所、長崎市と大牟田市です。
長崎市では眼鏡橋を、そして大牟田市では明治日本の産業革命遺産として平成27年(2015)7月に世界文化遺産の構成資産として登録された三池炭鉱関連資産を見て廻りました。

大牟田市の三池炭鉱を訪れたのは世界遺産に登録された事とは別に、その地が栃木市と少なからず繋がりが有ったからです。私が栃木工業高校を卒業する数年前の昭和39年(1964)に、栃木市に三井三池製作所栃木工場が誘致され、私の同級生の中からも多くが就職していました。
大宮町・国府町の萱場地内の工場敷地は32,769坪の広大な土地で、南側は県道宇都宮街道、北側は東武宇都宮線とに挟まれ、北西部には東武野州平川駅が有り通勤には便利な場所です。
私の就職したのは宇都宮市内の工場でしたから、通勤時の電車の窓から良く三井三池製作所を眺めていました。線路際にタンクやパイプが複雑に入り組んだ、石油コンビナートなどで良く見かけるプラントの小規模な施設が設置されていました。
同社に就職したクラスメートの話でも、仕事の関係で出張する事が多い、現地で組み立て作業を行う為と、良く話していました。

(株)三井三池製作所が三井鉱山(株)より分離独立して設立されたのは、昭和34年(1959)でしたが、この頃国内の石炭産業は斜陽化により大量解雇が行われ、三池争議などの労働争議が起きていた時期であり、栃木工場にも九州から大勢の社員が移って来ていたと云います。
三井三池製作所栃木工場では、忘年会などの飲み会の時には、必ず「三池炭鉱節」を歌って盛り上がっていたと聞きました。故郷を懐かしんでいたのかも知れません。
「月が〜あ 出た出た、月が〜あ 出た。三池炭鉱の 上に〜い出た。あんまり 煙突〜が 高い〜いので。さ〜あぞや お月さん けむた〜あかろ。 サノヨイヨイ。」
そんな歌の歌詞に出てくる、煙突を私も一度見てみたいと、この大牟田の地を踏んだのでした。

長崎市を出て、諫早市を経由、有明海に沿って走り、回りこんで大牟田市に到着したのは、14時30分。
私はこれまでイメージだけで、三池炭鉱はもっと福岡県の北域に有るものと勝手に思っていました。それが実際は福岡県の南西端、熊本県との県境、有明海に面した土地で、三池炭鉱の一部、万田坑は熊本県荒尾市に成ります。
まず、JR鹿児島本線の大牟田駅前の観光案内所に寄って、観光パンフレットを貰いました。

最初に「三池炭山創業碑」を見る為駅近くの笹林公園へ。昭和5年(1930)に建てられた石碑の側面には、官営時代を中心に三井による経営が始まる以前の、三池炭山の歴史が刻されていました。
次に向かったのは、目的の煙突です。それは明治28年(1888)開坑の、三池炭鉱の主力坑の一つ、宮浦坑跡(宮浦石炭記念公園)に1本建っていました。
煉瓦積みの煙突の高さは31.2m、直径は上部が2.9m、下部が4.3m、使用されている耐火赤煉瓦約138,000枚と説明板に記されていました。
以前は、大浦坑、勝立坑、万田坑など明治時代の坑口には、いずれもこのような煉瓦の煙突が建てられていましたが、現在はこの1本だけが残されているのだそうです。
三池炭山創業碑.jpg宮浦石炭記念公園.jpg
(三池炭山創業碑)                (宮浦石炭記念公園に建つ煙突)

次に向かったのは「宮原坑」。明治31年(1898)の開坑です。さすが世界遺産に登録されているだけ有って、広い駐車場が整備されています。その先に我が国で現存する最古の鋼鉄製櫓という、明治34年築の「第二竪坑櫓」が聳え立っています。
宮原坑1.jpg
(宮原坑第二竪坑櫓と巻揚機室)
櫓の高さ:22.05m、鋼板リベット止めラチス組み。櫓上部に取り付けられた滑車(シーブ)に、巻揚機からの鋼索(ワイヤーロープ)を介して、竪坑内にケージを吊り下げ、支える役割を持っています。人馬昇降、排水、揚炭機能を担っていました。
宮原坑2.jpg宮原坑3.jpg
(巻揚機室)                     (排水管)

車を更に南に走らせ県境を越えて、熊本県荒尾市原万田へ。
「万田坑」は明治35年(1902)の開坑。宮原坑に続き開鑿された坑口で、当時炭鉱業界の模範となるような坑口施設を作るため三井が総力を挙げて建設したと説明されています。
明治時代に作られた炭鉱施設としては、わが国最大規模を誇っていました。
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(万田坑)

現地に着いた時は既に最終入場時間を過ぎていた為、門の中に入場する事が出来ず、外観見学のみと成りました。

大牟田市まで来たついでに、市役所に立ち寄り、マンホールカードを貰ってきました。
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(国登録有形文化財指定の、大牟田市役所本庁舎旧館)  (大牟田市マンホールカード)

大牟田市のマンホールカードのデザインと成っているのは、大牟田市公式キャラクターの「ジャー坊」君です。昨年のゆるきゃらグランプリーに於いて、最後までトップ争いを行い残念ながら一位の座を逃しましたが、投票活動における組織票争い等で、全国的なニュースとなり、一躍有名になったキャラクターです。
背景に「三池炭鉱宮原坑」が描かれています。
訪れた日が1月4日(金)、丁度仕事始めで市役所が開いていたので、カードを入手出来ました。ラッキーでした。
尚、三池炭鉱の見どころはまだまだ有るので、機会が有ればまた訪問したいと思っています。
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金山浄水場取水塔 [建物]

映画「男はつらいよ」で有名な、東京都葛飾区柴又の帝釈天、正式には「経榮山題経寺」という日蓮宗の寺院。その参道の入口となる駅が、京成金町線柴又駅です。
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(柴又帝釈天の二天門から見た帝釈堂)  (柴又帝釈天参道の土産物店)
この柴又駅の駅前広場に建っているのが、「男はつらいよ」の主役、今は亡き渥美清さん演じる「フーテンの寅」こと「車寅次郎」の銅像です。柴又駅に向かう寅さんが、ふっ、と足を止めて後ろを振り返る。すると、その視線の先に、心配そうにお兄ちゃんを見送る、最愛の妹「さくら」の姿が有りました。
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(柴又駅前広場に建つ「フーテンの寅」さんの銅像)(昨年姿を現した「見送るさくら像」)
この「見送るさくら像」は、昨年、2017年3月25日に、「男はつらいよ」の映画監督山田洋次さんや、妹さくらを演じた賠償千恵子さんも参加して除幕式が行われたもので、建てられてからまだ1年程しか経っていません。「フーテンの寅像」が設置されたのが1999年という事ですから、それから18年後にやっと寅さんを見送る妹のさくらさんが姿を現したことに成ります。二つの銅像が建ってやっと一つの物語が完成したのかも知れません。
この柴又駅や柴又帝釈天の東側を、北から南にゆったりとした流れを見せているのが江戸川です。
そして江戸川の右岸、柴又帝釈天の北側に、大正15年(1926)8月に竣工したのが、当時の南葛飾・南足立・北豊島の3郡の12町村を給水区域とした金山浄水場です。原水は江戸川の表流水を導入していました。現在三角形のとんがり帽子の屋根を持つ第二取水塔とドーム型の丸帽子の屋根を持つ第三取水塔が江戸川の右岸に見る事が出来ます。
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(金町浄水場第二取水塔、とんがり帽子)(同じく下流側の第三取水塔、丸帽子)
そこから少し下流にに向かい、土手から河川敷に下りて行くと、昭和58年(1983)の第25回レコード大賞に輝いた、細川たかしさん歌う「矢切の渡し」が今も東京都葛飾区柴又と千葉県松戸市を渡し舟で結んでいます。
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(矢切の渡しの柴又側に建つ歌碑)      (江戸川左岸、松戸側の桟橋)
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パーラートチギ(旧関根家住宅店舗) [建物]

国指定有形文化財と成っている栃木市倭町大通り(旧日光例幣使街道)沿いの旧関根家住宅店舗が、昨年の暮に新しく「パーラートチギ」としてよみがえりました。
それまでは、通路に面した鉄筋コンクリートタイル張り2階建ての店舗入口の扉や窓は閉ざされ、中が見えない様にガラス部分には目隠しがされていましたが、今は夕方ウォーキングでこの建物の前を通ると、窓がら灯りが洩れています。
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(建物が息を吹き返したように、光が漏れ出る旧関根家住宅店舗)

「関根家」は、明治から昭和初期まで、煙草卸売商を営んでいました。
石崎常蔵氏が著した「栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人びとたち」には、
≪四代目関根源七氏は栃木煙草元捌組合を経営、小山・壬生・藤岡に支店を設け、下都賀郡内の煙草元売業界の責任者として活躍。五代目源七氏は昭和15年(1940)、第七代栃木商工会議所会頭、昭和14年に栃木市初代警防団長、戦後は初の社団法人商工会議所会頭に選任されました。会頭在任中は戦前戦後の会議所の歴史上最も苦難の時期であったが、会頭としてその重責を果たした。(一部抜粋)≫と記されています。
この「関根家住宅店舗」は、平成12年に国の登録有形文化財に指定されました。大通りに面した大正11年(1922)建築の「店舗」、その奥に明治期に建てられた「主屋」、さらにその奥の江戸期の建築と伝わる「文庫蔵」などで構成されています。
昨年の4月に元の所有者のご遺志により、栃木市に寄贈されています。

今回はその「パーラートチギ」さんを訪問しました。
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(パーラートチギのお店正面入口)       (店名のロゴ、お洒落ですね)
店舗の中に入ると、お洒落なアンティーク調の椅子やテーブル、チョッとした小物が置かれ、それでまた特別な雰囲気が演出されています。
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(店内を飾る家具、時の流れを感じる椅子)(緑の葉っぱが壁の白に映えています)

入口を入った横の小さなテーブルの席に座り、コーヒーを注文。暫らく窓の外を眺める。この角度から通りを見るのも又新鮮に感じます。外を観光客と思われる一団が通り過ぎて行きました。
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(窓際のテーブルには、西日が射しこみ始めています)

「建物の中、見学させて貰っていいですか?」
私のぶしつけなお願いに、お店の方が快く対応して下さいました。
調理室の裏手に2階へほ階段。急勾配の階段に手摺につかまり、注意して2階へ。北側の壁沿いの廊下。壁はコンクリートむき出しの様、西側の通りに面した部屋は外光が溢れ眩しく感じる。でも部屋に入ると白一色に塗られ、天井から、大正期をほうふつさせる照明が吊下がっています。いつも通りから眺めていた二階の縦長の窓。今その窓を通して外の景色を見ています。
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(2階の廊下の先は通りに面した西側の部屋)(2階西側の部屋、縦長上下開閉窓)
下におりる時、やはり階段のステップ幅が狭い為か少し不安になりました(これは歳のせいでしょうか)。注意してゆっくりと一階に戻りました。
次に店舗の後に続く部屋に足を踏み入れます。そこには店舗部分と全く違った「和」の世界が広がっています。屋根に設けられた明かり取りの窓から差し込む光が、部屋の中を明るく照らし出しています。
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(店舗後方の「主屋」、木造2階建、南側に通り土間が店舗土間に続く。数寄屋風)
更にその通り土間の先に有る潜り戸を抜けると、中庭に出ました。見られるのはここまでです。その中庭の先に土蔵が見えます。江戸末期に建てられたものと伝えられています。
江戸時代、例幣使街道のひとつの宿場町として栄えた栃木宿は、街道の両側に短冊状に屋敷割が行われ、間口が狭く奥に長い、うなぎの寝床の様な敷地を持つ町屋で、形成されていました。関根邸にてこの特徴をハッキリと確認する事が出来ました。
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お店に戻り、もう一度通りを行きかう車と人の動きを眺めつつ、ゆったりとした時間を暫らく過ごしました。

「パーラートチギ」
若い人たちが運営する「新しい空間」がこれからずっと栃木の街に根付いて行って欲しいと思いました。

カトリック松が峰教会(宇都宮市) [建物]

高校を卒業した後、宇都宮市の工場に就職しました。東武宇都宮線の電車は途中でドンドン通勤客が載って来て混雑してくる、途中で下車する私は直ぐ降りられるドアのすぐ横のシートが私の指定席でした。
終点の東武宇都宮駅まで乗るのは、年に何度有っただろうか、5月1日にはメーデーに参加する為に、駅から競輪場通りの会場まで、ぞろぞろと歩いて行く大勢の人達の後について行きました。忘年会や送別会などでも東武百貨店の店内を抜け、エスカレータを下りてオリオン通りのアーケードの人混みに吸い込まれていきました。
定年後は年に1・2回誘われて昔の職場の仲間と会う為、宇都宮市内の居酒屋に出掛ける時しか、東武宇都宮線に乗る事は無くなりました。それでも宇都宮に向かい、終点近くなると今も電車の窓の外に、大谷石造りの「カトリック松が峰教会の重厚な建物を探しています。

久しぶりに宇都宮に行きました。待ち合わせの時間に余裕が有ったので、駅を降りた後、駅の東側を南に歩いて教会の脇まで行って見ました。こうして近くでゆっくりと見るのは初めてでした。
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(カトリック松が峰教会)
夏の太陽は夕方のこの時間に成ってもまだ十分に強い光を教会の大谷石を照らしつけています。

この建物は平成10年(1998)12月11日に、国登録有形文化財と成っています。
教会のホームページに依りますと、聖堂はスイス人建築家マックス・ヒンデル氏の設計による建築物。聖堂の内外壁に用いられている大谷石は、旧帝国ホテルに用いられた場所と同じ大谷の採石場から切だされたものに、石工職人によりさまざまな意匠が施されています。
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古代および中世初期の教会建築とロマネスク様式によって建設されてり、日本では数少ない双塔を持った教会建築。
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・昭和6年7月起工
・昭和7年11月20日竣工
・施行統括者 宮内初太郎
・石工棟梁 安野半吾
・大谷石造り(鉄筋コンクリート・一部木造)

機会が有ったら、一度は中に入って見たいと思っています。そして、昭和53年(1978)4月に奉献されたというパイプオルガンの音色を聴いて見たいものです。

旧大内村役場庁舎 [建物]

今回は、旧大内村役場の庁舎として昭和4年に建てられた建物を見たいとおもいます。
住所は真岡市飯貝、真岡市街地の荒町から県道156号(石末真岡線)を北に4km程の所で、国道121号との交差点北東側に成ります。ただ、道路から細い道を少し入った場所で通りから見えない為、気が付きにくい建物です。
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大内村は昭和29年(1954)3月に、当時の真岡町と山前村や中村と1町3村合併を行い真岡町に成りました。そして、その年の10月に真岡市と成っています。
真岡市ホームページの説明によりますと、建物の構造はその当時としては最新技術の、鉄筋コンクリート造り2階建ての洋風建築という事です。
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現在真岡市登録文化財として、市内で出土した土器や埴輪等の、埋蔵文化財の展示をしている「大内資料館」として利用されているそうです。