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北陸のマンホールカードを求めて富山県へ① [コレクション]

私のコレクションのひとつに、マンホールカードの収集が有りますが、今回は富山県に向かいました。合わせてその地域の観光も楽しみです。
これまでに私が収集した、マンホールカードの枚数は、今回300枚を超えました。
コレクションを始めたきっかけは、栃木県内で最初に発行された「足利市」のカード入手でした。
足利市のカードの発行は早く、今から8年前、2016年4月に第一弾が発行されたその年8月、第二弾で配布が開始されています。
私はそれ以前から、県内各自治体が設置している、ご当地マンホール蓋のデザインに興味を持ち、写真を撮り歩いていました。ですから、この「マンホールカード」の収集は、当然の様に興味を持ったのです。
当初は栃木県内とその周辺、群馬県や茨城県・埼玉県の範囲でしたが、次第にその範囲を広げ、現在は北は北海道から南は九州鹿児島県までになりました。
現在、全国的に発行されているその種類は、昨年12月に発行された第21弾のマンホールカードまでで、ついに1,000種類に達しています。つくば市や北九州市で発行している英語版を合わせると、1,004種類に成ります。ただ、すでに一部のマンホールカードは配布を終了しているカードもあります。それでもこの「マンホールカード」は、これからも新しいカードが続々と発行予定になっておりますから、全てを収集することは不可能に近いです。
北九州市1英語版.jpg北九州市4(英語版).jpg
(北九州市が発行する英語版のカード3枚の内2枚)

昨年、山形県の12種類を完全取得しました。群馬県も一度100%取得しましたが、すぐ新しいカードが発行され現在は19種類のうち2種類が未入手に成っています。
酒田市.jpg桐生市2.jpg
(昨年収集した山形県酒田市と群馬県桐生市発行のマンホールカード)

北陸地方は新潟県は36種類中20種類を収集していますが、その他の県(富山・石川・福井)については、これ)まで1枚も収集できていませんでした。
昨年の夏に富山県への計画をしましたが頓挫して、今回改めて計画しました。
能登半島地震の事もあり、躊躇するところも有りましたが、思い切って出かけました。

北陸新幹線にて富山駅に、両毛線で高崎駅まで行き、そこで新幹線に乗り込みます。ただ、自由席ホームで待っていると、駅員さんが駆けずり回って「本日は大変混雑をしていて、全員乗り切れない可能性が有りますので、指定席車両等分散して乗車して下さい。」と叫んでいます。私は一番前で待っていたので、降りてくる人を待って列車に乗り込みましたが、空席が有りません。何とか三列席の真ん中に荷物を置いていた外国の方がいたので、声をかけて座ることが出来ました。富山駅到着後、荷物を駅のコインロッカーに、ところが意外やコインロッカーに空きが無い状態、運よく丁度一か所空いたので、身軽になって最初のマンホールカードを求めて、氷見市へ向かいました。
氷見市には富山駅から「あいの風とやま鉄道」で高岡駅へ、そこでJR氷見線に乗り換え、終点の氷見駅に。駅構内の観光案内所で配布している氷見市のマンホールカードを受け取りました。富山県最初の一枚です。
氷見市マンホールカード.jpg
(富山県で最初に入手した、氷見市のマンホールカード)
カードにデザインされている魚は、氷見市の高級ブランド「ひみ寒ぶり」、カード裏面にはマンホール蓋にデザインされた図柄の解説が記されています。

早速、氷見駅で折り返し運転となる、乗ってきた車両に飛び乗り次の目的地、道の駅「雨晴」に向かうことに。私の住む栃木市を走るJR両毛線も同じようですが、富山県のローカル線も昼前後は、1時間に1本有るか無いかと言う状況です。移動するタイミングをよく考えないと、観光も上手く出来ません。

次の目的地「雨晴」では、次の列車が来るまでの間、1時間40分でカードを入手して、昼食を取り、周辺観光を楽しみました。
雨晴駅.jpg道の駅「雨晴」.jpg
(雨晴駅のホームから高岡方面に向かう列車。大型客船のイメージの道の駅「雨晴」の建物。)

カードを配布している、道の駅「雨晴」は前を通る国道415号とJR氷見線の線路を挟んで、富山湾を望むことが出来ます。
高岡市1マンホールカード.jpg
(富山県で2枚目取得の「高岡市」のマンホールカード。)
図柄は、中央に「女岩」、右端に「義経岩」、後方に立山連峰が描かれています。

「雨晴」の読みは「あまはらし」ですが、最近もテレビのクイズ番組の「難読漢字」で出ていました。
ここ「雨晴海岸」は、能登半島国定公園に有り、天気が良い日には富山湾越しに、3,000メートル級の山々が連なる、立山連峰を望むことが出来る景勝地ですが、残念ながら私が行った日は曇っていてその景色を拝むことは出来ませんでした。それでも道の駅の展望席で「氷見うどん」を食べながら、目の前に広がる富山湾の景色を堪能できました。
雨晴海岸「女岩」.jpg
(雨晴海岸の名勝地「女岩」、晴れた日には後方に立山連峰が見える。)
万葉句碑と芭蕉句碑.jpg
(道の駅2階展望フロアーには、移設された万葉歌碑と芭蕉翁の句碑が有りました。)

次の目的地は二駅先の「伏木」です。ここでは次の列車が来るまで1時間44分有りますから、カード配布場所「勝興寺」までの間の周辺観光も楽しみました。
高岡市2マンホールカード.jpg
(勝興寺の受付で受け取った、3枚目のカード)
図柄は、勝興寺本堂と、その周りに万葉集の編者「大伴家持」が歌に詠んだ「カタクリ」の花。

勝興寺は浄土真宗本願寺派、「雲龍山」と号し、本尊は阿弥陀如来。
平成十年(1998)に本堂の保存修理に着手、令和二年(2020)までの23年を掛けて、重要文化財12棟全ての保存修理を行っています。その後、「本堂」と「大広間及び式台」の2棟が国宝に指定されています。
総門を入ると、正面に城郭を思わせる望楼形式の「鼓堂」。左手受付の先に、京都興正寺から移築された、檜皮葺の「唐門」
唐門.jpg鼓堂.jpg
(唐門と鼓堂)

濠に架かる石橋を渡り、唐門を抜けると、正面に国宝となった「本堂」の大伽藍が現れます。その右手奥には、同じく国宝の「大広間と式台」が有ります。
本堂.jpg大広間と式台.jpg
(本堂と大広間と式台)
<勝興寺の境内は、奈良時代の越中国庁跡と推定されるところで、万葉集を編纂した大伴家持が国守として5年間在任し、その間に詠まれた多くの和歌が今に残されています。>と、勝興寺で頂いたリーフレットに記されていました。
勝興寺総門の手前の参道脇に、総門を背に立つ「大伴家持卿」の像と、家持の歌碑が建てられています。
大伴家持の像.jpg勝興寺総門前方に建つ万葉歌碑.jpg

伏木の駅前から勝興寺総門まで、約300メートル。その中程に「高岡市伏木気象資料館」が有ります。この建物は「旧伏木測候所」で、庁舎は明治42年(1909)に建築されています。脇に建つ測風塔は昭和13年(1938)に建てられました。共に国の登録有形文化財です。
尚、敷地内には「越中國守館址」と刻まれた石碑も建てられています。碑陰には<天平勝宝二年(750)三月二日、越中国守大伴家持が館舎の朝の寝床ではるか射水川を漕ぎ歌う船人の声を聞いてよんだ歌。「朝床に 聞けば遥けし 射水川 朝漕ぎしつつ 唱ふ船人」>が刻まれています。(高岡市教育委員会の解説文を参照しました。)
旧伏木測候所.jpg越中国守館址の碑.jpg

本日予定の3枚のマンホールカードを無事入手して、今夜の宿泊地「富山」に戻りました。
宿泊したホテルには、おおぜいの外国人観光客の姿も有りました。

夕食後は近くの、「富岩運河環水公園」のイルミネーションを見に行ってきました。
富岩環水公園イルミネーション1.jpg富岩環水公園イルミネーション2.jpg

今回、参考にした資料:
・公益財団法人勝興寺文化財保存・活用事業団発行リーフレット「甦った大伽藍 国宝勝興寺」
・高岡市教育委員会文化財保護活用課発行リーフレット「高岡市伏木気象資料館」

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北千住、氷川神社を巡る [歩く]

栃木市から北千住までは、東武特急を利用すれば、1時間で行けます。

北千住駅前.jpg日光街道後宿場印.jpg
(北千住駅と昨年6月に訪宿した際に入手した、「千住宿」の日光街道御宿場印)

この北千住の駅で降りて、日光道中最初の宿場町「千住宿」の街巡りをしました。
千住宿は、寛永2年(1625)に江戸幕府によって整備されました。その時の千住宿は、千住一丁目から五丁目の範囲でしたが、寛永12年(1635)に参勤交代制が敷かれると、日光道中の往来が盛んになった事で、宿の負担が増えてきていました。そのころまでに千住宿の南側に開発された掃部新田の街道筋に、商いを営む店が立ち始め、掃部宿が出来あがってきていました。
万治元年(1658)にはその掃部宿は千住宿に加えられました。この時加宿となった掃部宿の範囲は、掃部宿の南側に繋がる、千住河原町や千住橋戸町も含まれていました。
更に、万治3年(1660)には、千住宿の範囲は南に広がり、荒川(現在の隅田川)を超えて、右岸の小塚原町、中村町が加宿されて、元の一丁目から五丁目は本宿と言われました。
現在、隅田川の南側は、荒川区南千住と言う町名に成っていますが、しかし北千住という町名は有りません。現在の隅田川と北側を流れる荒川(かつての荒川放水路)とに囲まれた地域は、足立区の南端に位置し、北千住駅を中心として、多くは千住寿町とか、千住龍田町の様に「千住」を冠した町名に変更され、現在に至っています。言葉ではうまく説明できないので、北千住駅周辺の概略図を描いてみました。
北千住エリア概略図.jpg
概略図の上部を、西から東へ、そして大きくカーブして南に流れる「荒川」は、1930年(昭和5年)に完成した荒川放水路ですが、昭和40年に「荒川」の正式名称になり、概略図下部を蛇行して流れる「隅田川」は、元々は荒川の流れでしたが、度重なる氾濫から解放する為、上記荒川放水路が開鑿され、同じく昭和40年に、上流の岩淵水門から下流の名称は、正式に「隅田川」となりました。
荒川に架かる鉄橋群.jpg荒川放水路の名残.jpg
荒川に架かる鉄橋群、左側には常磐線や千代田線・つくばエクスプレスの「荒川橋梁」、右側は東武伊勢崎線の鉄橋。その橋桁部分に「東武伊勢崎線荒川放水路橋梁」の文字が、かつての名残を留めています。

概略図の左上(西新井橋南橋詰)から南南東に下がり、千住神社東方で東に進み、また南東に曲がって右下に進む、深緑色で記した線は、天正年間(1573~1592)小田原北条氏によって築かれた「熊谷堤」に成ります。荒川(現在の隅田川)の除水堤防として築かれました。当初の千住宿(本宿)は、この熊谷堤の堤内(北側)に当たります。

明治19年1月7日付けの「明細 改正東京新圖」(編輯兼出版人 井上勝五郎)を眺めてみると、日本橋から北に延びる「奥州街道」の、荒川(現在の隅田川)に架かる「大ハシ」を渡った先に、「足立郡」や「千住中組」・「千住北組」等の地名が記されたエリア―に、かつての「千住宿」の街並が道路の両側に続いています。そして目を引いたのは、鳥居の地図記号と、脇に記された「氷川社」の文字です。僅かな間隔で、街道から少し脇に入ったところに、3ヵ所有ります。

「氷川社」「氷川神社」、素戔嗚尊を祭神とするこの神社は、私の住む栃木市内には有りません。調べてみると、お隣の小山市の塚崎に1社祀られていました。
小山市氷川神社1.jpg史跡塚田館跡の碑.jpg
小山市氷川神社2.jpg
小山市塚崎は、新小山市民病院の南東方向に広がる地域で、氷川神社はその中央部に位置します。
現地を訪れましたが、神社の由来を記すものは有りませんでした。「栃木県神社誌」をひも解いても、<由緒沿革には、創立年月日は不詳だが、小山城の関係地域の集落の成り立ちなどから推察すると、鎌倉時代に創建されたのではないかと思われる。>と有るのみです。
神社の入口石の鳥居の傍らの、小山市教育委員会が建てた「史跡塚田館」と刻した標柱を元に、小山市史を調べると、「塚田館」築城年代:鎌倉時代。城主:塚田七郎宗光、塚田七郎宗貞と記され、宗光は四代小山長村の子で、塚田を称してこの館を築き、子孫が居住した。ことが掲載されていました。
それでも、なぜ氷川神社なのかは不明のままです。
栃木県全体に範囲を広げても、あと1社、さくら市に「氷川神社」が確認できるだけでした。

氷川神社について更に調べてみると、この氷川神社は武蔵國を流れる荒川流域におよそ280社も集中しているそうで、地域色の強い神社です。その総本社は、埼玉県さいたま市大宮区に鎮座する、かつての武蔵國一之宮「氷川神社」です。
氷川神社という神社名の由来について、ひとつ伝えられているのは、日本神話の中の「八俣大蛇を退治した荒神 スサノオノミコト」伝説に基づく話です。
天照大神を姉とする須佐之男命(スサノオノミコト)は乱暴なふるまいの罪で、高天原を追放され、出雲国の斐伊川上の鳥髪という大原始林の中に降り立った。そこで、老夫婦が一人の可憐な乙女を、八俣大蛇(ヤマタノオロチ)に取られることに、泣き悲しんでいるのを知り、計略をめぐらして、見事に大蛇を退治し、晴れて助けた乙女(クシナダヒメ)と一緒になった。
おそらく、毎年のように洪水を起こし、大きな被害をもたらす「荒川」を、ヤマタノオロチに見立て、それを退治したスサノオノミコトを祀ることで、その神力で、「荒川」を鎮めたいと願ったもので、出雲国の斐伊川(ヒイガワ)から、ヒカワ・・・「氷川」と言う神社の名称が付けられた。と言う説です。それから「荒川」の流域で、「氷川信仰」が広がっていったのだと。

そこで、北千住エリア―の「氷川神社」を中心に、街巡りをしました。
最初は、前出の「改正東京新圖」に記された3か所のうち、一番南側に足を運びます。
北千住駅西口を出て、線路際の道路(千路通り)を南に歩き、そこから路地を抜け、ミリオン通りに出たら左に折れ南に進むと、通りの左側、立派な玉垣をめぐらした「千住仲町氷川神社」前に到着です。約800メートルの道のりです。
千住仲町氷川神社1.jpg
この仲町氷川神社は、掃部宿の鎭守に成ります。延喜年間(901~923)には牛田寄りの元宮に祀られていたものを、元和2年(1616)石出掃部亮吉胤が、掃部堤を築く際に、現在地に遷座させたものです。社殿に向かって右手奥に、北千住エリア―の社寺に分布する、千寿七福神の弁財天が祀られている岩屋が有ります。
弁財天1.jpg弁財天2.jpg
岩屋の中の弁財天は、元禄2年(1689)の建立で、弁天像を陽刻した供養庚申塔の形態をとっています。仏教では庚申の本尊は「青面金剛」とされるので、よく庚申塔に彫られていますが、弁財天を主尊とする庚申塔は、非常に珍しいものです。足立区の登録有形文化財に成っています。

次の氷川神社は、旧日光道中(旧奥州街道)に出て北上、千住3丁目のコンビニ先を西に入る路地を覗くと、奥に背の高い木立と石の鳥居が見えます。

千住本氷川神社(せんじゅもとひかわじんじゃ)に成ります。境内内に建つ案内板によると、この神社は、<徳治2年(1307)に千葉氏によって、牛田に千葉山西光院と共に、氷川神社として創建されたという。千住が宿場町として栄え始めた江戸時代の初期、現在地に地主の土地奉納によって分社が建てられた。>のが始まりで、石の鳥居を潜った先に、旧社殿が残されています。旧社殿の向拝は、千鳥破風、その前面が唐破風となり、二重の破風を形成し、頭貫や虹梁の部分には、龍や鳥類の彫刻が目立っています。

千住本氷川神社鳥居.jpg千住本氷川神社旧社殿.jpg

昭和45年(1970)に、社殿を新築して、上記の旧社殿は末社として、三峯神社・久須志神社・大黒天が祀られています。大黒天は千寿七福神に成ります。
千住本氷川神社新社殿.jpg

次、三番目は千住4丁目に鎮座する「氷川神社」に成ります。一度旧日光街道まで戻り、街道を北に200メートルほど歩くと、街道右手に立派なお屋敷が見えてきます。
千住4丁目、旧日光街道.jpg
「横山家住宅」です。足立区登録有形民俗文化財のこの建物は、足立区教育委員会が建てた説明板によると、<宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝えている。伝馬は、人や物資の輸送の為に、各宿場に馬負担させた江戸幕府の制度で、伝馬を負担した者には伝馬屋敷が与えられ、年貢なども免除された。横山家は、江戸時代から続く富裕な商家で、伝馬を負担していた。屋号は「松屋」で、今でいう再生紙を取り扱う地漉紙問屋であった。(後略)>
この横山家住宅の手前を東に入る路地が有ります。右折して路地に入ります。その突き当りが「長円寺」と言う、新義真言宗の寺院です。嘉永四年(1627)に、出羽湯殿山の行者、雲海がここに庵を結び、後に賢俊が開山したといいます。
長円寺.jpg
(長円寺山門)
三ヵ所目の「氷川神社」はこの長円寺の境内に、元禄四年(1691)創建されました。お寺の北隣に成ります。
氷川神社1.jpg
氷川神社社殿の左隣には、境内社の「高正天満宮」「稲荷神社」「猿田彦大神」が祀られています。
又、境内には「高正天満宮」の縁起を刻した、元治元年(1964)建立の石碑などが建っています。
千住氷川神社の社標石.jpg高正天満宮縁起碑.jpg

以上の三社の他に、かつて千住5丁目川田耕地に有った氷川神社が、荒川放水路の開鑿に伴い、移転された「千住大川町氷川神社」も有りました。
大川町氷川神社1.jpg
元々、千住五丁目の鎭守として、永仁2年(1294)に川田耕地に創建されましたが、前述の様に荒川放水路の建設工事の為に、現在地に移転しました。社殿は大正二年(1913)の造営に成ります。

新千住橋の標柱.jpg富士塚(大川町).jpg
参道入口左手に建っているのが、旧千住新橋の親柱です。又、社殿南側には「千住川田浅間神社冨士塚」が有ります。
千住新橋は、荒川放水路工事の一環として、大正13年(1924)5月竣工しています。
橋の規模は、長さ452.7m、幅7.2m、鋼板桁の近代橋です。しかし、交通量の増加や老朽化の為、昭和53年(1978)掛替撤去に成っています。
現在の千住新橋.jpg千住新橋銘板.jpg
(上の写真は、現在の千住新橋です。高欄に橋名板が付いています。)

更にもう一社、現在は氷川神社の社名では有りませんが、現在の千住宮元町に祀られている「千住神社」が有ります。
千住神社1.jpg
足立区教育委員会が設置した説明板を参照させて頂くと、<およそ一千年前、この地は仙崎という丘陵で、森林地帯であったが、延長四年(926))に稲荷の神が勧請され、仙崎稲荷神社が創建された。弘安二年(1279)、氷川神社も勧請したので、二つの神社が森林地帯の中に並び、「二ツ森」とも言われ住民の信仰を集めた。江戸の初期には、千住宿の西方にある神社ゆえ、西の森と唱えられた。明治六年(1873)、仙崎稲荷神社と氷川神社を合祀して西森神社と号し、大正四年(1915)に千住神社と改称した。(後略)>
千住神社2.jpg
ここ千住神社の境内には、千寿七福神の恵比寿様が、「願かけ恵比寿」として祀られています。千住富士として御祭神に木花咲耶比売命をお祀りする富士塚が築かれています。
恵比寿様.jpg千住富士.jpg
又、この地は永承六年(1051)源義家が奥州征伐の際、荒川(現在の隅田川千住大橋付近)を渡り、当神社に陣営し、戦勝を祈願したと伝わり、史蹟となっています。他、芭蕉句碑や防空壕跡など見所が沢山ありました。

こうしてみると、北千住駅周辺に創建された「氷川神社」5社の中では、最初、千住仲町氷川神社が延喜年間(901~923)で、現在地より南東方向に創建されました。次に千住神社の前身氷川神社が、1279年となります。次が千住大川町氷川神社で1294年、そして1307年には千住本氷川神社の前身が、牛田(現在の千住曙町)に創建され、最後が千住四丁目氷川神社で、1691年創建と言う事に成ります。それぞれの地域住民の信仰を集めて、現在に至っています。

今回の参考資料:
・「千住宿歴史ウォークガイドブック②」 NPO法人千住文化普及会発行
・「日本の伝説12中国」 日本伝説拾遺会監修 教育図書出版 山田書院編集発行
・「栃木県神社誌」 栃木県神社庁発行
・「小山市史 資料編中世」小山市発行

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