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北千住、氷川神社を巡る [歩く]

栃木市から北千住までは、東武特急を利用すれば、1時間で行けます。

北千住駅前.jpg日光街道後宿場印.jpg
(北千住駅と昨年6月に訪宿した際に入手した、「千住宿」の日光街道御宿場印)

この北千住の駅で降りて、日光道中最初の宿場町「千住宿」の街巡りをしました。
千住宿は、寛永2年(1625)に江戸幕府によって整備されました。その時の千住宿は、千住一丁目から五丁目の範囲でしたが、寛永12年(1635)に参勤交代制が敷かれると、日光道中の往来が盛んになった事で、宿の負担が増えてきていました。そのころまでに千住宿の南側に開発された掃部新田の街道筋に、商いを営む店が立ち始め、掃部宿が出来あがってきていました。
万治元年(1658)にはその掃部宿は千住宿に加えられました。この時加宿となった掃部宿の範囲は、掃部宿の南側に繋がる、千住河原町や千住橋戸町も含まれていました。
更に、万治3年(1660)には、千住宿の範囲は南に広がり、荒川(現在の隅田川)を超えて、右岸の小塚原町、中村町が加宿されて、元の一丁目から五丁目は本宿と言われました。
現在、隅田川の南側は、荒川区南千住と言う町名に成っていますが、しかし北千住という町名は有りません。現在の隅田川と北側を流れる荒川(かつての荒川放水路)とに囲まれた地域は、足立区の南端に位置し、北千住駅を中心として、多くは千住寿町とか、千住龍田町の様に「千住」を冠した町名に変更され、現在に至っています。言葉ではうまく説明できないので、北千住駅周辺の概略図を描いてみました。
北千住エリア概略図.jpg
概略図の上部を、西から東へ、そして大きくカーブして南に流れる「荒川」は、1930年(昭和5年)に完成した荒川放水路ですが、昭和40年に「荒川」の正式名称になり、概略図下部を蛇行して流れる「隅田川」は、元々は荒川の流れでしたが、度重なる氾濫から解放する為、上記荒川放水路が開鑿され、同じく昭和40年に、上流の岩淵水門から下流の名称は、正式に「隅田川」となりました。
荒川に架かる鉄橋群.jpg荒川放水路の名残.jpg
荒川に架かる鉄橋群、左側には常磐線や千代田線・つくばエクスプレスの「荒川橋梁」、右側は東武伊勢崎線の鉄橋。その橋桁部分に「東武伊勢崎線荒川放水路橋梁」の文字が、かつての名残を留めています。

概略図の左上(西新井橋南橋詰)から南南東に下がり、千住神社東方で東に進み、また南東に曲がって右下に進む、深緑色で記した線は、天正年間(1573~1592)小田原北条氏によって築かれた「熊谷堤」に成ります。荒川(現在の隅田川)の除水堤防として築かれました。当初の千住宿(本宿)は、この熊谷堤の堤内(北側)に当たります。

明治19年1月7日付けの「明細 改正東京新圖」(編輯兼出版人 井上勝五郎)を眺めてみると、日本橋から北に延びる「奥州街道」の、荒川(現在の隅田川)に架かる「大ハシ」を渡った先に、「足立郡」や「千住中組」・「千住北組」等の地名が記されたエリア―に、かつての「千住宿」の街並が道路の両側に続いています。そして目を引いたのは、鳥居の地図記号と、脇に記された「氷川社」の文字です。僅かな間隔で、街道から少し脇に入ったところに、3ヵ所有ります。

「氷川社」「氷川神社」、素戔嗚尊を祭神とするこの神社は、私の住む栃木市内には有りません。調べてみると、お隣の小山市の塚崎に1社祀られていました。
小山市氷川神社1.jpg史跡塚田館跡の碑.jpg
小山市氷川神社2.jpg
小山市塚崎は、新小山市民病院の南東方向に広がる地域で、氷川神社はその中央部に位置します。
現地を訪れましたが、神社の由来を記すものは有りませんでした。「栃木県神社誌」をひも解いても、<由緒沿革には、創立年月日は不詳だが、小山城の関係地域の集落の成り立ちなどから推察すると、鎌倉時代に創建されたのではないかと思われる。>と有るのみです。
神社の入口石の鳥居の傍らの、小山市教育委員会が建てた「史跡塚田館」と刻した標柱を元に、小山市史を調べると、「塚田館」築城年代:鎌倉時代。城主:塚田七郎宗光、塚田七郎宗貞と記され、宗光は四代小山長村の子で、塚田を称してこの館を築き、子孫が居住した。ことが掲載されていました。
それでも、なぜ氷川神社なのかは不明のままです。
栃木県全体に範囲を広げても、あと1社、さくら市に「氷川神社」が確認できるだけでした。

氷川神社について更に調べてみると、この氷川神社は武蔵國を流れる荒川流域におよそ280社も集中しているそうで、地域色の強い神社です。その総本社は、埼玉県さいたま市大宮区に鎮座する、かつての武蔵國一之宮「氷川神社」です。
氷川神社という神社名の由来について、ひとつ伝えられているのは、日本神話の中の「八俣大蛇を退治した荒神 スサノオノミコト」伝説に基づく話です。
天照大神を姉とする須佐之男命(スサノオノミコト)は乱暴なふるまいの罪で、高天原を追放され、出雲国の斐伊川上の鳥髪という大原始林の中に降り立った。そこで、老夫婦が一人の可憐な乙女を、八俣大蛇(ヤマタノオロチ)に取られることに、泣き悲しんでいるのを知り、計略をめぐらして、見事に大蛇を退治し、晴れて助けた乙女(クシナダヒメ)と一緒になった。
おそらく、毎年のように洪水を起こし、大きな被害をもたらす「荒川」を、ヤマタノオロチに見立て、それを退治したスサノオノミコトを祀ることで、その神力で、「荒川」を鎮めたいと願ったもので、出雲国の斐伊川(ヒイガワ)から、ヒカワ・・・「氷川」と言う神社の名称が付けられた。と言う説です。それから「荒川」の流域で、「氷川信仰」が広がっていったのだと。

そこで、北千住エリア―の「氷川神社」を中心に、街巡りをしました。
最初は、前出の「改正東京新圖」に記された3か所のうち、一番南側に足を運びます。
北千住駅西口を出て、線路際の道路(千路通り)を南に歩き、そこから路地を抜け、ミリオン通りに出たら左に折れ南に進むと、通りの左側、立派な玉垣をめぐらした「千住仲町氷川神社」前に到着です。約800メートルの道のりです。
千住仲町氷川神社1.jpg
この仲町氷川神社は、掃部宿の鎭守に成ります。延喜年間(901~923)には牛田寄りの元宮に祀られていたものを、元和2年(1616)石出掃部亮吉胤が、掃部堤を築く際に、現在地に遷座させたものです。社殿に向かって右手奥に、北千住エリア―の社寺に分布する、千寿七福神の弁財天が祀られている岩屋が有ります。
弁財天1.jpg弁財天2.jpg
岩屋の中の弁財天は、元禄2年(1689)の建立で、弁天像を陽刻した供養庚申塔の形態をとっています。仏教では庚申の本尊は「青面金剛」とされるので、よく庚申塔に彫られていますが、弁財天を主尊とする庚申塔は、非常に珍しいものです。足立区の登録有形文化財に成っています。

次の氷川神社は、旧日光道中(旧奥州街道)に出て北上、千住3丁目のコンビニ先を西に入る路地を覗くと、奥に背の高い木立と石の鳥居が見えます。

千住本氷川神社(せんじゅもとひかわじんじゃ)に成ります。境内内に建つ案内板によると、この神社は、<徳治2年(1307)に千葉氏によって、牛田に千葉山西光院と共に、氷川神社として創建されたという。千住が宿場町として栄え始めた江戸時代の初期、現在地に地主の土地奉納によって分社が建てられた。>のが始まりで、石の鳥居を潜った先に、旧社殿が残されています。旧社殿の向拝は、千鳥破風、その前面が唐破風となり、二重の破風を形成し、頭貫や虹梁の部分には、龍や鳥類の彫刻が目立っています。

千住本氷川神社鳥居.jpg千住本氷川神社旧社殿.jpg

昭和45年(1970)に、社殿を新築して、上記の旧社殿は末社として、三峯神社・久須志神社・大黒天が祀られています。大黒天は千寿七福神に成ります。
千住本氷川神社新社殿.jpg

次、三番目は千住4丁目に鎮座する「氷川神社」に成ります。一度旧日光街道まで戻り、街道を北に200メートルほど歩くと、街道右手に立派なお屋敷が見えてきます。
千住4丁目、旧日光街道.jpg
「横山家住宅」です。足立区登録有形民俗文化財のこの建物は、足立区教育委員会が建てた説明板によると、<宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝えている。伝馬は、人や物資の輸送の為に、各宿場に馬負担させた江戸幕府の制度で、伝馬を負担した者には伝馬屋敷が与えられ、年貢なども免除された。横山家は、江戸時代から続く富裕な商家で、伝馬を負担していた。屋号は「松屋」で、今でいう再生紙を取り扱う地漉紙問屋であった。(後略)>
この横山家住宅の手前を東に入る路地が有ります。右折して路地に入ります。その突き当りが「長円寺」と言う、新義真言宗の寺院です。嘉永四年(1627)に、出羽湯殿山の行者、雲海がここに庵を結び、後に賢俊が開山したといいます。
長円寺.jpg
(長円寺山門)
三ヵ所目の「氷川神社」はこの長円寺の境内に、元禄四年(1691)創建されました。お寺の北隣に成ります。
氷川神社1.jpg
氷川神社社殿の左隣には、境内社の「高正天満宮」「稲荷神社」「猿田彦大神」が祀られています。
又、境内には「高正天満宮」の縁起を刻した、元治元年(1964)建立の石碑などが建っています。
千住氷川神社の社標石.jpg高正天満宮縁起碑.jpg

以上の三社の他に、かつて千住5丁目川田耕地に有った氷川神社が、荒川放水路の開鑿に伴い、移転された「千住大川町氷川神社」も有りました。
大川町氷川神社1.jpg
元々、千住五丁目の鎭守として、永仁2年(1294)に川田耕地に創建されましたが、前述の様に荒川放水路の建設工事の為に、現在地に移転しました。社殿は大正二年(1913)の造営に成ります。

新千住橋の標柱.jpg富士塚(大川町).jpg
参道入口左手に建っているのが、旧千住新橋の親柱です。又、社殿南側には「千住川田浅間神社冨士塚」が有ります。
千住新橋は、荒川放水路工事の一環として、大正13年(1924)5月竣工しています。
橋の規模は、長さ452.7m、幅7.2m、鋼板桁の近代橋です。しかし、交通量の増加や老朽化の為、昭和53年(1978)掛替撤去に成っています。
現在の千住新橋.jpg千住新橋銘板.jpg
(上の写真は、現在の千住新橋です。高欄に橋名板が付いています。)

更にもう一社、現在は氷川神社の社名では有りませんが、現在の千住宮元町に祀られている「千住神社」が有ります。
千住神社1.jpg
足立区教育委員会が設置した説明板を参照させて頂くと、<およそ一千年前、この地は仙崎という丘陵で、森林地帯であったが、延長四年(926))に稲荷の神が勧請され、仙崎稲荷神社が創建された。弘安二年(1279)、氷川神社も勧請したので、二つの神社が森林地帯の中に並び、「二ツ森」とも言われ住民の信仰を集めた。江戸の初期には、千住宿の西方にある神社ゆえ、西の森と唱えられた。明治六年(1873)、仙崎稲荷神社と氷川神社を合祀して西森神社と号し、大正四年(1915)に千住神社と改称した。(後略)>
千住神社2.jpg
ここ千住神社の境内には、千寿七福神の恵比寿様が、「願かけ恵比寿」として祀られています。千住富士として御祭神に木花咲耶比売命をお祀りする富士塚が築かれています。
恵比寿様.jpg千住富士.jpg
又、この地は永承六年(1051)源義家が奥州征伐の際、荒川(現在の隅田川千住大橋付近)を渡り、当神社に陣営し、戦勝を祈願したと伝わり、史蹟となっています。他、芭蕉句碑や防空壕跡など見所が沢山ありました。

こうしてみると、北千住駅周辺に創建された「氷川神社」5社の中では、最初、千住仲町氷川神社が延喜年間(901~923)で、現在地より南東方向に創建されました。次に千住神社の前身氷川神社が、1279年となります。次が千住大川町氷川神社で1294年、そして1307年には千住本氷川神社の前身が、牛田(現在の千住曙町)に創建され、最後が千住四丁目氷川神社で、1691年創建と言う事に成ります。それぞれの地域住民の信仰を集めて、現在に至っています。

今回の参考資料:
・「千住宿歴史ウォークガイドブック②」 NPO法人千住文化普及会発行
・「日本の伝説12中国」 日本伝説拾遺会監修 教育図書出版 山田書院編集発行
・「栃木県神社誌」 栃木県神社庁発行
・「小山市史 資料編中世」小山市発行

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「嘉右衛門町通り」の私の好きな場所 [歩く]

「嘉右衛門町通り」は、栃木県内で初めて、そして今のところ唯一、「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された地域で、その中心となる通りの通称に成ります。この通りは江戸時代、京都から日光東照宮に、幣帛を奉献する為に使わされた勅使が通った為、「日光例幣使街道」と言われ、現在の道路法では、「市町村道」に当ります。管理番号で示すと「栃木市道11063号線」となります。その延長距離は約750メートルで、車で通過すれば僅か2分、歩いても10分程度で通過する通りです。

私自身は、この区域の知識は殆どありません。10代の頃は通学圏が栃西中から栃工高で、生活圏も箱森町から片柳町・境町方面が殆どでした。その頃のアルバムを開いてみると、出てきたのは「神明神社」と「妙唱寺」の写真1枚づつだけでした。高校生の頃、栃木市内の社寺を良く撮って歩いていたからです。ただ単に「点」としての関わりです。
1968年撮影神明神社.jpg1968年撮影妙唱寺.jpg
(1968年撮影、嘉右衛門町の神明神社と妙唱寺)
20代は宇都宮市に工場を持つ会社に就職しました。その為市内の情報も、入って来なくなりました。
30代になって、嘉右衛門町育ちの女性と結婚したことで、幾らか嘉右衛門町区域の情報が入ってきた程度。それからも仕事と子育てに追われた生活をしていたので、やはり生活圏は10代から変わっていませんでした。
60歳を過ぎ、会社をリタイヤ―してからです、妻と二人でよくこの嘉右衛門町の通りをウォーキングする様になったのは。この頃からやっと「線」として、この「嘉右衛門町通り」を見るようになりました。
2012年5月嘉右衛門町通り1.jpg2012年5月嘉右衛門町通り2.jpg
(2012年5月20日撮影、嘉右衛門町通りをウォーキング)

日が暮れてからのウォーキングでも、良く「嘉右衛門町通り」を歩きました。
2014年10月嘉右衛門町通りの夜1.jpg2014年10月嘉右衛門町通りの夜2.jpg
(2014年10月15日撮影、夜の嘉右衛門町通りを歩く)
暖かなオレンジ色の街灯に照らしだされた通りも良く歩きました。

特に私が魅力を感じる場所は、上に掲示した写真を見ればお解りに成ると思われますが、代官屋敷(岡田記念館)から南に行った、嘉右衛門町の通りが大きく左右にカーブする所です。
嘉右衛門町通り(日光例幣使街道)を南から入ってくると、通りが左にカーブしています。その為視界前方は通り沿いの家並みに自然と目が注がれる形になります。
日光例幣使街道嘉右衛門町通り南の入口.jpg左へカーブする通り.jpg
(2020年5月24日撮影)          (2022年12月5日撮影)
かつてはその中の一軒に釣堀を営む店舗が有りました。現在はアクセサリーとファッションのお店になっていますが、日暮、そのお店から漏れる明かりがお洒落です。
1991年黒田家付近1.jpg2017年7月嘉右衛門町通りの夜1.jpg
(1991年撮影)              (2017年7月21日撮影)
その先の景色は道路がカーブしている為、見る事は出来ません。そして一歩一歩と歩みを進めて行くと、徐々に先を見通せるポイントに至るのです。そして左へのカーブが終わって前方を望むと、今度は新たな景色が前方を塞ぎます。かつて木材商を営んでいた「天海家」の住宅です。その手前で道路は右にカーブをして、その先を見通す事は出来ません。又その場所で左に分岐する道路が有ります。
その角を左に折れていけば、すぐその先に巴波川に架かる「嘉右衛門橋」を渡り、錦町へと進んで行きます。
2020年5月嘉右門町通り1.jpg2020年5月嘉右衛門町通り2.jpg
(2020年5月24日撮影、嘉右衛門町通りを歩く)
そしてクリーニング店を過ぎると右手にカーブした通りのその先が、視界に入ってくることに成ります。
2021年2月嘉右衛門町通り2.jpg
(2021年2月21日撮影)

私が魅力を感じるこの場所の、通りの状況を説明する為には、文章では無理なので図面に表してみたいと思います。
変形S字カーブの町並み図.jpg
高校時代に買いそろえた、三角定規に分度器、そしてコンパスを取り出して、作図しました。今の若い人達ならパソコン上で作図する方法が有るのでしょうが、アナログ世代の私は紙の上に鉛筆で、線を描いていくのが一番です。
図を見て頂くと、一目瞭然で「嘉右衛門町通り」のこの場所は、変形S字カーブの状態になっています。南側の左カーブの半径は約58m、カーブしている範囲は約65度。そして約14mの直線部の先は右カーブとなる。このカーブの半径は約30m、カーブの範囲は約70度になっていました。ちなみにこの通りの幅員は約7mです。
丁度代官屋敷の門の前辺りで、カーブが終わり、そこから先の通りは、ほぼ一直線に北の方向に伸びています。
この変形S字カーブの通りが作り出す風景が魅力的なので、何かイベントが有ると、この場所に撮影ポイントを設定することが、多くなっています。
珍しく雪の降った翌朝には、早速出かけて行って撮影しました。
2018年1月雪の嘉右衛門町通り.jpg2018年1月雪の嘉右衛門町通り2.jpg
(2018年1月23日撮影、雪化粧をした嘉右衛門町通り)
栃木秋祭りで、人形山車がここ「嘉右衛門町通り」を通った時も。
秋祭り1.jpg秋祭り2.jpg
(2012年11月10日撮影、秋祭りで万町の人形山車が嘉右衛門町通りを巡行する)
2021年東京オリンピックの聖火リレーが走った時も。
2021年聖火リレー1.jpg2021年聖火リレー2.jpg
(2021年3月28日撮影、東京オリンピックの聖火リレーが、嘉右衛門町通りを通過する)

私はこの「変形S字カーブ」の中に、撮影場所を選んでいます。
この先も、この場所でこの通りの、そしてこの街の移り変わりを、記録に留めていきたい。


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栃木の街中で目に留まる巨木を探してみた [歩く]

一人でただブラブラと街中を歩いても疲ればかり感じてしまうので、歩く動機付けで、目に留まる巨木を探して見る事にしました。
大きな木が有る所と言えば、先ず考えられる場所は「公園」。
そこで早速向かったのは、旭町神明宮の南隣の「第二公園」、この公園の真ん中辺りに1本の巨木が立っています。高さはそれほどでは有りませんが、枝を四方に広げてボリューム感が有ります。
私は植物の名前を殆知りませんが、幸い脇に名前が表示されています。「くすのき」です。
第二公園のくすのき.jpg楠木の案内板.jpg

この「くすのき」は、いつごろここに植えられたものでしょうか。
私がまだ小さいころは、この場所で夏には盆踊りが行われていました。サーカスが来てここに大きなテントを張っていました。あの頃はこの「くすのき」有ったのだろうか。ここは小学生の私も良く遊びに来た所ですが、ひょうたん池や、その東側の築山の木に登ったり、神明宮裏の公園に有ったお店でもんじゃ焼きを食べたり、ともかく神社の周りを走り回っていました。忘れられないのは神社の北西側に有った遊園地、4・5種類の乗り物が有った。でもこの「くすのき」の記憶は全く無いのです。
 
次に、市街地に有る公園と言えば、巴波川左岸に平成3年2月に完成した室町の「うずま公園」。この公園にも大きな木が複数植えられていますが、目に留まるのは川の直ぐそばでスラット真直ぐに天に向かて伸びる1本の木です。残念ですが周辺にこの木の名前を記したものが見当たりません。「杉」でしょうか。この木、以前年末にLED電球によりクリスマスツリーの様なイルミネーションになってもいました。
うずま公園1.jpgうずま公園2.jpg
<LED電球で飾った写真は、平成24年12月に撮影したものです。>
この公園には他にも大きな木が目に留まりました。噴水池もあり、遊具やベンチも整備されていて、市民の憩いの場になっています。

外に大きな木が見られる街中の公園としては、少し市街地から離れますが、城内町にある「栃木城址公園」が有ります。栃木第四小学校の東側に残る館城の跡に整備された公園で、現在土塁と堀の一部が整備されて残っており、その脇に大きな木が、目に留まりました。
栃木城址公園.jpg

他に大きな目立つ木と言えば、入舟町の栃木市立文学館(元栃木町役場庁舎)の脇に聳える「ヒマラヤ杉」でしょうか。
市立文学館脇のヒマラヤ杉.jpg

街の中を歩いていると、「え! こんな所に」と思うのが、室町の若松理容所の脇の路地を西に少し入った道路脇に1本のイチョウの木が有ります。
若松理髪店裏.jpg室町のイチョウの木.jpg

そしてもう一ヶ所、倭町の大通りに面した「LA PORETビル」の裏手に立つ木。
倭町の木.jpg

更に、本町の個人のお屋敷の敷地中に、ボリューム満々の巨木が、目に留まります。
本町の巨木.jpg
住宅地の中にこれは目を引きます。欅の木でしょうか。

最後は嘉右衛門町に有る欅の巨木になります。代官屋敷で知られる岡田嘉右衛門邸の庭の北東隅に聳える巨木です。
岡田嘉右衛門邸内の欅.jpg樹齢500年の欅.jpg
この欅は、栃木の街中に有って唯一、市の天然記念物として指定された木に成ります。
その全景をなかなか写す事が出来ません。幹の根元に「欅・樹齢500年」と記したプレートが有りました。写真は以前見学した際に、撮影したものです。今回は裏手の道から確認してきました。

この日歩いた歩数は、14,261歩になりました。





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旧奥州街道の佐久山宿を巡る [歩く]

奥州街道は、江戸時代に整備された五街道の一つです。私はこれまで「白沢宿」と「喜連川宿」を歩いて来ています。そして、今回は喜連川と大田原との間に開けた「佐久山宿」を、歩いて巡ってきましたので、紹介したいと思います。
11月11日に佐久山を訪れた時、丁度御殿山公園(佐久山城跡)では、もみじ祭りが行われていました。
御殿山公園もみじ祭り1.jpg御殿山公園もみじ祭り2.jpg
公園内に立てられた説明板によると、<佐久山城跡:文治3年(1187)、那須資隆の次男泰隆が築城し、佐久山氏を称し居住しました。のち永禄6年(1563)、子孫の佐久山義隆は、一族の福原資孝(大田原資清の次子)に滅ぼされ廃城となりました。(中略) 元禄15年(1702)福原資倍が佐久山城の一部を補修し山麓に陣屋を構え、四つ谷の地から移りました。以降福原氏が居住し、明治2年(1869)に福原資生が版籍を奉還するまで続きました。
現在は御殿山公園と呼ばれ、公園内の楓(土佐楓)は、土佐の山内氏から養子となり文政2年(1819)に家督を継いだ福原資敬がもたらしたものと伝えられています。>と、有りました。

公園内は「イロハモミジ」が、真っ赤に色付いて実に綺麗です。ただ植物に疎い私は、説明板に有った「楓」と「もみじ」の見極めが出来ません。

紅葉を堪能した後、奥州街道の佐久山宿入口から歩いて見ました。
佐久山宿は、栃木文化協会発行の「栃木の街道」の中で、次のように紹介されています。
<喜連川より二里三十町の地、昔から「狭山」とも、「作山」とも言われ、地形的に山と言うよりむしろ丘陵が連なる地域に入ってくる。丘陵が北の箒川におちる河岸段丘と思われる地帯、川と丘陵の間に細長く発達した地域に宿場町「佐久山」がある。>

佐久山宿の概略地図を、佐久山地区公民館にて頂いた、佐久山の観光案内マップ「知ってっけ佐久山」を参考に作ってみました。
旧佐久山宿概略図.jpg
地図上方に「箒川」が西から東へと流れています。一方地図の下方は御殿山公園などが有る丘陵地帯が横に連なっています。この丘陵地帯の標高は220メートル程度で、箒川右岸の水田地帯の標高が、170メートルであるから、丘陵地帯の比高は50メートル前後と言う事に成ります。
その丘陵地帯の北麓に沿って、佐久山の宿場が発達したことが見て取れます。
箒川の河原から佐久山を望む.jpg
上の写真は、箒川左岸より「御殿山公園」方向を写したものです。低い丘陵地帯が横に連なっています。あの丘陵の手前に佐久山の街並みが有ります。左端に写る橋は「岩井橋」に成ります。

喜連川より北上して来た「奥州街道」は、佐久山宿の入口でこの丘陵地帯を越えて行く必要が有ります。その前坂を越えてきたところ、旧奥州街道(概略図で破線で記した道)沿い左手を少し奥まった所に堂宇が見えます。「観音堂」です。入口脇に六地蔵の他「馬頭観世音」「勝善神」と刻した石碑が、ずらっと並んでいます。境内に「水準点 191.667M 観音堂境内」の表示板が有りました。
観音堂.jpg
観音堂の裏手、墓地の先に県道48号が抜けています。
観音堂入口前から少し坂を下ったところ、今度は道路の右脇に丘陵を上る石段が目に留まりました。
観音堂前から北に下って行く.jpg

石段の左脇に大きな自然石に「二十三夜塔」と刻んだ石塔が有ります。側面に「文化十二乙亥年十一月吉日」の日付。西暦では1815年に成ります。
虚空蔵堂参道石段.jpg二十三夜塔.jpg

丘の上にトタン板を葺いたこじんまりした堂宇が建っています。観光案内マップには「虚空蔵山」と記され、卍の地図記号が付いています。
虚空蔵堂.jpg

寛延四年(1751年)に記された「武奥増補行程記」の中に、奥州道中佐久山宿を描いた絵図が残されています。その中でここ前坂付近を描いた部分を見てみると、前坂を登って下った付近に「くわん音」と赤い鳥居と石段を上った上に「星の宮ノ社有」と記されています。おそらくこれが現在に残る「観音堂」であり「虚空蔵堂」に当ると思われます。星の宮と虚空蔵菩薩は一体で、我が栃木市の太平山神社の「星宮神社」の建屋が御堂の様式となっているのも、同様にかつての神仏習合の名残です。
上記絵図には、前坂を下った所に「咲山入口」と有り、木戸が描かれています。

現在は、坂を下ってくると街道は左手に鍵の手に曲がって行きます。曲がった先が佐久山宿の本通りです。
佐久山宿入口枡形.jpg

鍵の手に曲がる角附近に「なまこ壁」の蔵が左右に建っています。
なまこ壁の蔵2.jpgなまこ壁の蔵1.jpg

鍵の手を左に折れると、いよいよ佐久山宿の本通りに入ってきました。少し歩いて行くと、左後ろから先程の観音堂裏手を抜けてきた県道と合流します。その合流点から県道を少し戻った所から、山側に入る道を進み、左手高台へ上がる石段を上ると、立派なお堂が正面に現れます。「薬師堂」です。
薬師堂.jpg

参道の脇に「薬師堂改修由来」と題した石碑が建てられています。
<抑々当薬師ハ延宝七巳未年(約三百年前)佐久山城主福原内匠頭資清公ニヨッテ創建セラレシモノ、本尊薬師如来ハ、浄瑠璃世界(天上ノ理想境)ヲ建設スト言ワレル佛ニテ、特ニ眼病ニハ霊験灼カトノ信仰ヨリ往時ハ遠近ヲ問ワズ陸続トシテ参詣者ノ絶エルコト無カリシト言ウ、・・・・(後略)>
延宝七年は江戸時代の初期、西暦1680年に当る。

街道に戻ります。佐久山宿の本通りを西進すると、直ぐ小さな橋を渡ります。親柱を確認すると、「大橋」跨ぐ水路は「用水」とだけ記されています。「昭和三十七年三月竣功」の銘板も付いています。
佐久山宿下町大橋付近.jpg

この用水は南側の丘陵地帯から流れ出て、街道を横切って佐久山宿の北側に沿って西から東に流れている「佐久山川」に落ちています。その佐久山川は東に流れ、北側をほぼ並行して流れている箒川に合流していきます。少し横道にそれて用水に沿って町の北裏に沿って流れる佐久山川の様子を見ておきます。
用水路を下る.jpg

前に記した「武奥増補行程記」の佐久山宿を描いた絵図を眺めると、絵図右端に高欄を持つ板橋が描かれています。そして描かれている川の流れに「逆川」と記されています。なぜ「逆川」と有るのか、関東地方栃木県の河川は概ね、川の流れは北から南へ、又、西から東へと流れていますから、南側から北に向かって流れている水の流れは「逆川」と呼ばれたものと思われます。

宿場の町並みを南から北側に流れた「用水路」は、街並みの北側の外れで西から流れて来た川に合流して、東に向かって流れて行きます。国土地理院発行の佐久山の地形図には「佐久山川」の名称が記されています。
佐久山川.jpg
上の写真は「佐久山川」左岸にて上流側(西方向)に向って撮影したものです。写真左側の木立の先に佐久山の町並みが有り、右側は水田が広がりその先(北側)に箒川が流れています。

親園佐久山バイパス工事中.jpg
上の写真は、佐久山川沿いから北側に向った写したもので、工事中の道路は「親園佐久山バイパス」です。田んぼの先に「箒川」が左から右に流れています。

寄り道しました。街道に戻ります。
街道の脇に、東と西に少し離れていますが、二基の新しく建てられた石碑が有ります。どちらの石碑も佐久山出身の偉人の顕彰碑です。
街並みの東側に建つのが「豊道春海翁生誕之地」の碑。そして西側、郵便局左側に建てられた「村上英俊翁生誕之地」の碑で、共に道路の南側に建ち、北に面しているため撮影は逆光状態、石碑が黒御影石で鏡面仕上げが施されている為、周りの風景が写り込み、石碑の題字が読みにくくなってしまいます。

豊道春海翁生誕之地碑.jpg豊道春海翁碑説明板.jpg
上の写真は、豊道春海(ぶんどうしゅんかい)翁の顕彰碑正面を写したもので、「豊道春海翁生誕之地」と刻まれ、翁の顔写真と「心花」でしょうか、翁の書が刻まれています。
また、碑陰には<明治十一年(1878)九月一日那須郡佐久山町(現大田原市佐久山)の川上家に生まれる 幼名寅吉 上野寛永寺春性院住職篠原守慶大僧正につき得度出家受戒 法名慶中 坊号を常応坊慶中と改め僧籍に入る 次いで牛込行元寺豊道妙澄尼に請われ豊道家を嗣ぐ・・・・(後略)>等の、経歴が刻まれています。

村上英俊翁生誕之地碑.jpg村上英俊翁碑説明板.jpg
二基目の石碑正面には、<村上英俊翁生誕之地>と中央に大きく刻まれています。
碑陰には、<文化八年(1811)四月八日 佐久山宿(現大田原市佐久山)本陣佐野屋の主人村上松園の長男として生まれる 幼名は貞介 江戸に出て唐津藩の儒者大野鏡湖に師事して漢学を 篠山藩の侍医足立長雋に師事して医学を学ぶ 文政十一年(1828)津山藩侍医宇田川榕庵に師事し 蘭学を学ぶ 妹が信州松代藩主真田幸貫世子幸良の側室となった縁で 弘化元年(1844)頃松代藩に仕官 佐久間象山から火薬製造法について意見を求められ スウェーデンの化学者ベルセリウスの化学書を読む必要性を説く オランダから購入された化学書がフランス語で書かれていたため 象山のすすめもありフランス語を独学で学ぶ 約二年の苦難の末 嘉永三年(1854)解読なる・・・・(後略)>と、その経歴が刻まれています。

ここ佐久山の地から出た二人の偉人を、知ることが出来ました。

丁度この二基の石碑の中ほどの位置、道路北側に新しい公衆便所が有ります。こうして街歩きをする身にとって最高にありがたい施設です。そのさらに奥に堂宇が有ります。観光マップには「大日堂」として出ています。
大日堂.jpg

前出の「武奥増補行程記」の佐久山宿の絵図には、中町の北側に「安楽寺」の文字が見えますが、現在は残っておらず、この「大日堂」のみが残っています。尚、頂いた観光マップには「大日堂」の横に「大ケヤキ」と有り、その写真も掲載されています。お堂の前に「天然記念物佐久山のケヤキ」と刻んだ標柱が立っているものの、近くにそれらしい大木は見当たりません。お堂裏手にケヤキに付いての説明板などが立てられているだけです。
大日堂の大ケヤキ.jpg
写真下側に写る石碑には、<県指定文化財「佐久山長宗寺大日堂のけやき」樹勢回復治療事業記念 無事 平成十二年九月七日 佐久山長宗寺大日堂 住職 照教代>

平成十二年に樹勢の回復治療が施されたことが分かりますが、残念ながら現在「大ケヤキ」の姿を見る事は出来なくなってしまいました。

街道を更に西に進んで行くと、郵便局の先に左に入る道路が有り、その道に入って行くと、道路が左にカーブしていく辺りで、道路右側に真直ぐ高台に向かう石段が有り、石段の上に朱塗りの山門が見えます。石段登り口両側石柱に、「月江山」「實相院」と有ります。
実相院山門.jpg実相院鐘楼.jpg

実相院は前出の「武奥増補行程記]佐久山宿の絵図にも「実相院」と記されています。
境内の案内板に由来が記されていました。
<月江山慈雲寺実相院と号す。曹洞宗 永享年間(約五百五十年前)福原氏の娘、この地に尼寺を創建し、実相庵と称し、後に実相院と改称される。永禄十一年(1568)福原家累代の菩提所となり、寺録を受く。文化五年(1808)火災により、山門及び本堂に安置せる仏像四体を残し、大伽藍は全焼した。文政四年(1821)本堂伽藍の再建工事が竣工した。現在の堂宇がそれである。>
山門は大田原市の指定文化財であるが、何か被災をしたのか、屋根部分がブルーシートに覆われていました。尚、梵鐘は昭和三十八年(1963)人間国宝 長野垤志先生の作で、口径81.8糎(センチメートル)・総高114糎・重量680瓩(キログラム)有ります。

再び街道に戻り西に進んで行くと、道路は二股に分かれます。ここで鍵の手に右手に少し下りながら進む道路が、県道48号(奥州街道)で、大田原市街に向かいます。
佐久山宿西の枡形.jpg
一方左側で真直ぐ西に向かう道路は県道52号(日光街道)です。矢板方面 国道4号に向います。

鍵の手を右に曲がった先、道路左側に又一つ寺院の大屋根が見えてきました。
入口の両サイドに建つ門柱に、「川越山無量壽院」「淨土眞宗本願寺派 正淨寺」とあります。
この寺院は、江戸末期の嘉永三年(1850)に出版された「下野国誌」にも記されています。
本堂の建つ境内部は、街道から相当低くなっています、それだけに真正面に見える本堂の大屋根が大きく感じます。
正淨寺本堂.jpg正淨寺鐘楼.jpg

境内の西側に松尾芭蕉翁の句碑 <花の陰謡に似たる旅寝哉> が建てられていました。
芭蕉句碑.jpg

この寺の「川越山」の山号には、次のような話が伝わっています。(大田原市史より引用)
<川越阿弥陀如来:七百年ほど昔、奥州に向かう親鸞聖人が佐久山宿岩井町の孫八と言う者の家へ泊った。孫八は上人から法話を聴いて聖い心になり、翌朝上人が立去った後、上人を慕ってその後を追った。が、既に上人は二僧を従えて、箒川を渡っていた。孫八は川越しにもう一夜の宿をとるように願った。ふり返った上人は記念の品にと孫八に帛を持って来させ、川の対岸に立って筆をとり、空中に何か書いていたが、此岸で孫八が拡げている帛には、上人の一筆ごとに阿弥陀像が描かれて行った。孫八は尊像を家に置くのは畏れ多いと、近くにささやかな小堂を建てて安置、これが今の川越山無量寿院正浄寺の始まりである。>と。

奥州街道はこの先で「箒川」を渡ります。「武奥増補行程記」の佐久山宿の絵図を見ると、佐久山宿を出た先に、川に橋の絵が描かれています。川には「伯耆川 水清」と書かれています。この「伯耆」の読み方が分からなかったので、手元の広辞苑を開いて調べたところ、これで「ほうき」と読むと出ていました。<旧国名、今の鳥取県の西部>と有りました。そしてその「伯耆川」の街道筋に板橋の絵が描かれています。
箒川を渡ると、いよいよ那須野ヶ原に歩みを進める事となります。
佐久山宿を後にして、奥州街道は北に進み次の宿場「大田原宿」に向かうこととなります。

今回、佐久山宿を歩いて来ましたが、この佐久山宿は以前歩いた「白澤宿」と、地理的条件が似通っているように感じました。
白澤宿も、坂を下って、左に折れると宿の本通り。左側の町並みの裏手は丘陵地帯、そして街並みの右側裏手には小河川(白沢宿は九郷半川)が流れている。宿の出口は鍵の手で右に折れて行き、其の後大きな川(白沢宿は鬼怒川)を渡る。ただ佐久山宿は遠かったです。高速道路を使っても移動だけで、往復2時間もかかってしまい、歩く時間が十分に取れなかったのが残念でした。

参考資料:
・栃木の街道 栃木県文化協会発行 
・奥州道中ー大田原の街道と宿場= 大田原市那須与一伝承館編集発行
・奥州街道 歴史探訪・全宿駅ガイド 安倍 甲発行
・大田原市史 史料編 大田原市発行
・ちゃんと歩ける日光街道 奥州街道 八木牧夫著



 

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壬生用水について [歩く]

壬生町城址公園の西側周辺を歩いていると、「御用水通り」と称する散策路の説明板が目に留まりました。<壬生用水を利用した歴史的散策路>との事で、その「壬生用水」について説明文には、<壬生用水の起源は、江戸時代の万治二年(1659)三浦志摩守が検地の際に、黒川の当山の地から水を引き入れ、壬生城内の防火用水とともに、その末流を田に引き入れたことに始まると言われています。>と記されています。
御用水の流れ.jpg
御用水通りの説明板.jpg
(御用水通りの案内掲示板)

取水地とされる、<黒川の当山の地>とは、壬生の市街地の東側、東雲公園内を南流する黒川を上流に遡ること約7km、北隣の鹿沼市北赤塚(かつての都賀郡赤塚村)です。ここで、黒川右岸から取水された「壬生用水」は、そこから「日光道中壬生通」の街道脇に沿って壬生の城下まで流れていきます。
稲葉一里塚を流れる壬生用水.jpg稲葉の一里塚の説明板.jpg
(壬生町稲葉、「日光道中壬生通」現在の国道352号西側沿いを流れる壬生用水と「稲葉の一里塚」)

壬生城下の日光口(現在の国道352号と壬生バイパスとの交差点角のコンビニ店辺り)にて街道から南に外れ、バイパス東側「御用水通り」の入口付近で分流して、一つの流れはかつての「壬生城三の丸」の西側に沿って南流します。それが最初に記した「御用水」として整備、現在もその姿を止めています。
もう一つの流れは現在の壬生寺の南西部付近にて、日光道中壬生通りの南側から街道中央に流れ出て、道路中央を水路となって、東に流れて城下北東部にて、右(南方向)に折れる街道に従って、その中央を南流していきます。
壬生通りの現在.jpg
(壬生の市街地中央を南北に走る「日光道中壬生通」を北から南に向かって撮影)

ただ、日光道中壬生通りの街道中央を流れる水路は、かつて有った高札場の前辺りまで来た所で、左に折れて街道から離れて行ってしまいます。(現在の松本内科医院とみぶ薬局の間の路地がその水路跡ではないかと考えられます。)
松本内科医院南側の路地.jpg
(壬生通りから東に外れた「壬生用水」が流れたと思われる路地)

最近「日光道中壬生通分間延絵図」第一巻(平成2年9月発行)を、偶然見る機会が有り、「壬生宿」の様子を確認しましたが、そこには下稲葉村方面から街道の西側に沿って南流してきた水路は、壬生宿の北の入口(日光口)付近にて、街道の右側(南側)から街道の中央に流出て、街道の中央をそのまま流れ、壬生宿の南の入口(江戸口)近くの、壬生の一里塚付近で左(東方向)に折れ、街道から外れる姿で描かれています。すなわち、壬生宿の北の入口から、南の入口まで一本の水路が流れる様に描かれています。が、実際は違っていました。

壬生城址公園内に建つ「壬生町立歴史民俗資料館」の展示物の中、何枚もの壬生城下を描いた古地図が目に留まりました。その中の一枚、精忠神社に伝来された「壬生城下絵図」を見ると、「日光壬生通り」の道路中央を流れる水路がハッキリと確認することが出来ます。
壬生町立歴史民俗資料館.jpg
(右端が壬生町立歴史民俗資料館。中央の建物は図書館)

その絵図に依ると、日光口辺りで分岐し南流した「御用水」が壬生城の西側から南側へと流れ、豊栖院の北側を東西に抜ける通りを東流しました。
豊栖院.jpg

そこから南東の壬生交番北側に抜ける通りに沿って流れ、日光道中壬生通りに流れ出し、街道の中央水路となって南流、壬生宿の南の入口に有る「壬生一里塚」まで流れ、そこで左(東方向)に折れて街道から外れ、最終的に黒川に戻っています。
壬生一里塚.jpg

どうも文章で説明する事は苦手なので、今回の壬生城下における「壬生用水」の流れるルートを、概略図にしてみました。
壬生城下での壬生用水の流路概略図.jpg
この概略図は、先に紹介した誠忠神社伝来の「壬生城下絵図」を参考にしています。
略図の左上隅部分が「日光口」です。現在の「本丸一丁目交差点角のコンビニ店」辺りに成ります。
ここまで、上稲葉・下稲葉と日光道中壬生通(国道352号)の西側に沿って南流してきた「壬生用水」は、壬生バイパスを渡った辺りで二つの流れに分岐します。
そして一方は街道に戻って、壬生通り中央の水路を東に流れていきます。
もう一方の流れは南に向きを変え、かつての壬生城三の丸の西側に沿って南流しています。この部分が現在「御用水通り」としてかつての「壬生用水」を再現し、ベンチや東屋を設置して歴史を感じながら楽しく歩ける散策路として整備されています。
御用水通り1.jpg
御用水通り2.jpg

大手門通りを過ぎた用水は、流れを蛇行させつつ南東方向に流れていきます。
七曲り.jpg
(流れの向きを南東方向に変える壬生用水)
南門通りに出てきた壬生用水.jpg
(蛇行して来た壬生用水は、南門通りの西側に出てきました)

南門通りに出てくると、少し南流した後東方向に曲り、豊栖院北側を東西に抜ける「御長屋通りに沿って、東方向に流れていきます。
御長屋通り.jpg
(現在の御長屋通り、もちろん水路は有りません)

御長屋通りの途中から、壬生交番北側に出る通りを抜けて、日光道中壬生通に出てきた後は、壬生通りの中央を流れ真直ぐ南流して、壬生一里塚前まで流れて行き、一里塚の所で東に折れそこからは道路の東側に沿って、最後黒川に落ち合います。

話は少し変わりますが、昭和56年2月、「ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 栃木」が㈱国書刊行会から発行されました。編著者は栃木市の郷土史家で高校教師の日向野徳久さん。
私はその時早速その本を入手しました。その本の中「街並み」として、明治10年頃の栃木市大通りの写真が掲載されていて、道の中央に水路が流れている様子が写っています。添え書きに<一間幅の堀は、大通り(例幣使街道)の中央を通り、岩舟石できちんと組み、両側に洗い場が設けられていた。>と記されています。その隣のもう一枚の写真には、<明治16年、福島県令三島通庸が、栃木県令兼務として着任すると、さっそく大通りの堀を道の両側に流れるよにする工事が行われた。これにより堀は三尺幅となった。・・・>と、その工事中の写真も掲載されています。
その頃の私の考えは、道路の中央の水路の状況は不自然で、三島県令が堀を道路の両サイドに変えたのは、栃木町の特徴と捉えていましたが、実際は江戸時代の多くの宿場町では、街道の中央に堀を作って用水を流すのは一般的だったと知るのは、ずっと年を重ねた後に成ります。

今回、見ることが出来た「日光道中壬生通分間延絵図」を見ると、「壬生宿」の外に「楡木宿」・「鹿沼宿」・「奈佐良宿」にも街道中央を用水が流れていました。宿場でない「上稲葉村」も同様でした。
ただしそれは絶対的なもので無く、「飯塚宿」は確認できませんでした。

そうして見ると、明治16年に三島県令が発した、道路中央の堀を、道路両サイドに変更させる指示は、栃木町だけの事では無かったことが今となって分かりました。
いろいろ教えてくれる「壬生用水」でした。

栃木市は、明治の初めに「片岡寫眞館」が出来たことで、こうした明治初期からの、街の姿を写真で確認できることは、とても素晴らしい事だと改めて考えさせられました。近現代の歴史を知る貴重な財産です。
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関門海峡を歩いて渡ってきました。 [歩く]

本州から九州へ渡るためには、現在多くの手段が有りますが、今回は徒歩にて渡りました。ルートは、山口県下関市みもすそ川町から、福岡県北九州市門司区門司を結ぶ、関門トンネル人道で全長780メートルに成ります。
関門海峡横断記念スタンプ.jpg
両方の出入り口にてエレベーターを利用して、約55~60メートル程地下に降り、関門トンネル自動車道の下側に有る人道です。

下関側の「関門トンネル人道入口」近くには、「壇ノ浦古戦場址」が有ります。
壇ノ浦古戦場址.jpg
「安徳帝御入水之処」の石碑に、
  二位尼辞世
 今ぞ知る  みもすそ川の  御なかれ  波の下にも  みやこありとは 
                          長門本平家物語
 と刻されています。
安徳天皇御入水之処.jpg

又、源義経の「八艘飛び」の像と、対して 平知盛の「碇潜(いかりかづき)」の像が、海峡をバックに建てられています。
壇ノ浦の源平.jpg
源義経の像.jpg平知盛の像.jpg

外に、天保製長州砲が関門海峡に向って、睨みを聞かせています。
長州砲2.jpg長州砲1.jpg

関門トンネル人道入口の建物脇に、「関門隧道建設の碑」や関門国道建設事務所初代所長を務めた「加藤伴平」氏の碑などが建てられていました。
関門隧道建設の碑.jpg
加藤伴平之碑.jpg加藤伴平碑文.jpg

周辺観光はこれ位にして、関門トンネル人道へ向かいましょう。先ずエレベーターに乗って、地下約55メートルへ
下関側入口.jpg下関側エレベータ.jpg

地下のエレベータルームに来ました。
下関側.jpg
トンネルを断面下説明図が有りました。トンネル上段は自動車道、その下側に人や自転車(但し乗って通行は出来ないようです。)が通行できる構造になっています。

記念スタンプ.jpg記念スタンプ台紙.jpg
エレベータールームに記念スタンプ台が設置されていました。スタンプ台紙の下側の空白の円の部分に、左半分を下関側で押して、右半分を門司側のスタンプを押して完成するようになっています。
冒頭に乗せたスタンプ台紙が、両方で押したスタンプの完成形に成ります。
それでは、トンネルを歩く事にしましょう。トンネルは少し下り勾配で真直ぐ門司方向に伸びています。
関門トンネル人道.jpg

トンネルは全長780メートルですが、山口県と福岡県との境界までは、下関口より400メートルとなっています。中央部位まで来ると、前方の道路は登り勾配になっているのが分かります。県境に来ました。
山口・福岡境界線.jpg
下関門司境界表示.jpg
ここから前方は九州・門司に成ります。この地点は「海面下58メートル」との表示が有りました。
ここから380メートル登り勾配を歩くと門司のエレベータールームです。
ここで、スタンプ台紙に右半分を押して、エレベータで約60メートル上り地上に戻ります。
門司側エレベータ.jpg門司側入口.jpg

無事に地上に戻ってきました。ここは九州・福岡県北九州市門司区門司です。
トンネル通過に約10分間かかりました。ちなみに通行料ですが、歩きは無料でした。

門司側人道トンネル入口の建物の裏手の高台上に、立方体の形をした「慰霊碑」が建てられています。碑陰には「殉職者」52名と、「病没者」37名の名前が列記されています。
関門トンネル工事中に、事故や病気でお亡くなりになった方々を慰霊する為に、昭和33年3月8日に建設省により建立されたものです。
慰霊碑1.jpg慰霊碑の碑陰.jpg

海底のトンネルを歩いて渡るのは、最初少し不安が有りましたが、難なく関門海峡の下を渡り切りました。さて、それでは又、歩いて下関口に戻ることにします。
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旧奥州街道白澤宿を歩く [歩く]

白澤宿は江戸時代の五街道のひとつ、奥州街道18番目の宿場町で、ひとつ前の宇都宮宿で日光街道と別れた後で、鬼怒川を渡る手前に有る宿場町です。起点となる江戸日本橋より三十里(約120km)です。

栃木文化協会が発行した「栃木の街道」の七章奥州街道で、「白沢宿」は次のように紹介されています。
<白沢宿の起源については、具体的に明らかでない。享保年間に書かれた『奥州街道白沢宿駄賃定覚書』によれば、白沢宿の町割りは慶長14年(1609)にさかのぼる。ただ年代的には、なお問題を残しているように思える。白沢宿の動きは、初めは主に馬次宿で、上阿久津河岸が開かれておらず、街道も明らかでなかった。(中略) 寛文三年(1663)の白沢宿の家数は98軒、馬軒は66疋となっていた。この頃が「殊の外にぎわい申候」と言った時期でもあった。(後略)>と。

現在も宿場の中央を走る街道の両側には水路が有り、綺麗な水が流れています。街道筋の家々には、「辰巳屋」とか「高砂屋」「猪瀬屋」「住吉屋」という、かつての「屋号」が表示され、又水路には水車が何カ所か設置され、通過する人の目を楽しませています。
私もこれまで、何度もこの通りを車で通過していますが、今回はじっくりと宿場の隅から隅まで歩いて見て回りたいと思います。
宇都宮から白澤街道(旧奥州街道)を北上すると白沢の手前に、私が若かった頃アヤメと流しそうめんで有名な奈坪苑という所が有りました。今、グーグルマップで検索しても見つける事は出来ません。街道から右手に折れ雑木林の中を進んだ先に有った記憶が残っています。50年も前のことに成ります。
そんな記憶をたどっているうちに、白澤宿の入口に差し掛かって来ました、
地蔵堂.jpg

道路の右手に地蔵堂が現れました。境内に「白沢地蔵堂の伝説」の説明板が有り。お堂裏手には、「南無阿弥陀佛」と刻した石碑や宝篋印塔、五輪塔その他馬頭観世音の石塔などが建てられています。
地蔵堂裏手.jpg

地蔵堂の先から道路は大きく右にカーブをしながら下って行きます。
薬師堂の先は右にカーブしながら下っている.jpg

道路の左手に登って行く階段が有ります、「やげん坂」の説明板が建てられています。読んでみます、
<この坂は、漢方の薬種をくだく舟形の器具(薬研)に坂の形が大変似ているところから、「やげん坂」と呼ばれるようになったと言い伝えられています。また慶長十四年(1609年)白沢宿として町割ができる以前からここには、街道の道しるべとして夫婦の大きな榎があった由緒あるところです。>
やげん坂.jpg

その説明板に有った榎か分かりませんが、その先を少し行った右手に「白澤宿」と記した案内板が榎の大木の前に建てられています。そしてその右横に「江戸時代の公衆便所」だとする小屋が有ります。
白沢宿の榎.jpg江戸時代の公衆便所跡.jpg

旅する人にとっては、こうした公衆便所があったなら、大助かりだったと思います。今こうしてウォーキングを楽しんでいると、そうした思いを何度もしています。
道路左手に「水戸屋」さんとう<鬼怒のたまり漬>の店舗が有ります。道路はその先もまだ右にカーブをしながら下って行きます。
水戸屋の前から更に街道は下る.jpg

道路は信号機の有る丁字路に突き当たりました。右に曲がれば岡本街道で、奥州街道はここを左に曲がります。道路は広く両側に水路が有り現在車道と歩道の境界にもなっています。
白沢宿メイン道路(両側に水路).jpg

そして、今来た道を振り返ると坂道をずっと下りてきたことが分かります。
白沢宿南端の丁字路から今下ってきた道を振りかる.jpg

この辺が白澤宿メイン道路の南の端に当たります。ここから街道に沿って北方向に歩いて行きます。
本通りを進むと直ぐ左側に、大谷石を組んでその合せ部を漆喰で固めたような、石蔵造りの重厚な家が目に入りました。
石蔵造りの家.jpg
「堺屋」という屋号表示が付いています。元はどのような商いをしていた家だったのだろうか。

道路右側に四階建てのビルを構えた家が有ります。屋号の表示は「高砂屋」となっています。失礼して門扉越しに御庭を拝見させて頂きました。
高砂屋の表示板.jpg高砂屋の邸内.jpg
石灯籠の外に一基の石碑が目に留まりました。遠目ですが「明治天皇御休之所」と読む事が出来ます。

明治天皇御休之所.jpg

田代善吉著「栃木縣史」にて、明治天皇が白澤を訪れた記録は、「河内郡古里村大字白澤福田源太郎宅 明治九年六月十一日東北御巡幸の御時御小休所に充てさせらる、今其建物はなし、碑もなし、明治十四年八月奥羽御巡幸の際は、大田東一郎宅を御小休所に充てらる、其当時の建物存す、建碑なし」と、2回訪れている様で、こちら「高砂屋」さんがそのどちらかに当たるのか確認出来ませんでした。

先へ進みます。今度は道路左手に石造りの鳥居が見えてきました。
白沢宿本通り(左手に鳥居).jpg

鳥居の前まで来ました。鳥居脇に建つ標柱には「村社白髭神社」と刻されています。「村社」の文字はコンクリを埋め込んで有りますが、シッカリ確認出来ます。鳥居の先に参道が真っ直ぐ伸びて居ます。突き当たりに石段が見えます。
白髭神社参道入口.jpg
鳥居の左横の家の連子格子が昔の佇まいを見せています。屋号は「住吉屋」と掲示されています。
鳥居前の水車.jpg
手前の水路に設置された水車がゆっくりと回っています。

白髭神社に参拝をして行きたいと思います。神社境内まで結構な高さが有ります。
白髭神社参道階段.jpg白髭神社社殿.jpg

白沢宿付近の地形図を見ると、南から北に向かう街道筋に並行するように街並みの西側に南北に崖の地図記号が伸びています。白澤宿に来るとき坂を下って来ましたが、宿場の西側は台地に成っていて、神社の社殿はその台地の上に位置しているのでした。
地形図に記された標高の数値を探すと、白澤宿の信号機の有った丁字路の場所が、標高143メートル、台地の上に有る三角点の標高は159.1メートルと有り、其の標高差は16メートル程にもなっています。
その石段を登って、神社の境内へ。
社殿の前に来ると、予想外に広々としています。台地の縁に建てられていので、晴れれば東の白澤宿側は眼下に開け、遠く鬼怒川を望めそうです。
白髭神社境内からの展望.jpg

街道に戻り、先に進みます。参道入口から少し歩くと「宇都宮東警察署白沢警察官駐在所」、そして水路際に赤い郵便ポストが建っています。
駐在所の北隣りに立派な門柱の建つ家が有ります。家屋は庭の奥、庭の木に隠れて良く見えませんが、大きな屋根を持った建物が見えます。門柱の横に「本陣」と言う掲示や、ここ白澤宿から奥州街道の各宿場までの距離を表示した案内板が塀際に建てられています。
白沢宿本陣跡.jpg
ちなみに<江戸江 参拾里 四町 弐拾間(118.4km)>そして<白河宿江 拾八里 参拾四町 拾九間半(69.6km)>だそうです。

先に進みます。目の前に「関東八十八カ所霊場 第二十五番札所 真言宗智山派 明星院」と記した案内板が現れました。街道から左に折れます。その道路の奥突き当たりに寺院の建屋が見えます。
境内に入り、先ず参拝を済ませます。
明星院.jpg
本堂建屋の左側に御堂があります。御堂前方の枝垂桜は、だいぶ葉の緑が目立った来ています。

街道に戻ります。もう目の前には、宿場本通りの北の端です。通りの突き当たりは「井上清吉商店」で、清酒「澤姫」の醸造元と言う看板を掲げています。
白沢宿北の端、井上清吉商店.jpg

街道はこの突き当りから右に折れて行きます。左手の奥にお堂が見えます。薬師堂です。
薬師堂.jpg

薬師堂の右側に本陣だった「宇加地家」の立派な墓所が有ります。

「井上清吉商店」から右に折れる南東角に、小さな神社が祀られています。「經力稲荷大明神」の扁額は掲げられています。その左側の先に橋の欄干が見えます。
稲荷神社.jpg

橋を渡りましょう。この橋の名前は「九郷半橋」、そして下を流れる小川は「九郷半川」です。現在の橋は1883年に架け替えられています。
「九郷半川」は、白沢町の北隣「下ヶ橋町」にて「西鬼怒川」から取水した灌漑用水で、灌漑がおよぶところが、「下ヶ橋村」「上岡本村」「中岡本村」「下岡本村」「白沢村」「上平出村」「中平出村」「下平出村」「芦沼村」と、「石井村」の半郷を加えて、九ヵ村と半郷になるので九郷半川と称した。

橋の上から下流側を望むと、左岸の先に鳥居が見えます。チョッと寄って見たいと思います。
北野神社.jpg

その前に橋を渡った左橋詰に小さな道標らしき石柱が建てられています。
橋の袂に建つ馬頭観世音の石碑.jpg
道路側の面には<昭和二十九年二月初午 白沢甲部>と彫られています。その右側面にハッキリとは確認できませんが<馬頭観世音>らしき文字。

橋を渡った先で道路は三つの方向へ。メインの道路は左の方向へカーブしています。が、旧奥州街道は中央の真っ直ぐに北東方向に伸びる道路です。そしてもう一本は右に折れて川の左岸沿いに神社へと行く道です。今は右に折れる神社への道を選びます。
北野神社鳥居前.jpg

道路は神社の鳥居の前までです。鳥居を潜って境内の中へ神社の標柱が有りました。
「北野神社」と「須賀神社」の名前が彫られています。境内には「白沢彫刻屋台収納庫」と書かれた高さ4メートル程全面3枚のシャッターで閉じられて中は確認出来ませんが、来る途中に説明板が建てられていました。それによると、<白沢甲部彫刻屋台 明治初期に鹿沼から購入したと伝わる黒漆塗彩色彫刻屋台で、形式は宇都宮形のものです。(中略) 製作年代:天保4年(1833) 作者:彫師-富田宿 三代目磯部義兵衛(敬信)他 (後略)>と記されています。
前に、鹿沼市の彫刻屋台を見る機会が有りましたが見事な彫刻を施した屋台でした。この収納庫の中の屋台もその系統と言う事に成ります。
参考に鹿沼市彫刻屋台展示館に収納展示されてる久保町の彫刻屋台の写真を掲示します。
鹿沼久保町の屋台.jpg

機会が有れば白沢宿の、彫刻屋台も一度見てみたいと思いました。

脇を流れる九郷半川に沿って木道が設置されています。
白沢宿は西側は、高さ10メートル以上の崖で阻まれ、東側はこの川で阻まれる形になっています。
せっかくですから、川に沿って歩いて見たいと思います。
神社の先川の東側は「白沢公園」として整備がされていて、旧九郷半川と新たに整備された一直線に流れる九郷半川との間に花壇や芝生広場・雑木林・菖蒲園・水遊び場等を備えています。
天神橋.jpg

旧九郷半川沿いに設置された木道を進むと、季節柄岸辺には菜の花が群生 雑木林の木々は新緑が芽吹いています。
白沢公園.jpg
 
水車小屋も有りました。「グラウンドワーク活動センター」と言う管理棟で、トイレを拝借しました。
白沢公園水車小屋.jpg

更に旧九郷半川沿いの木道を歩いて行くと、「万年橋」と名付けられて橋の袂まで行く事と成りました。この「万年橋」の道路は、白沢宿の南側の端から南に向かう岡本街道から別れた道で、結果的に白沢宿の北の端から南の端まで戻った形となりました。
万年橋.jpg

川の右岸に須賀神社は祀られています。
須賀神社.jpg
そしてこちらの神社の前にも「白沢南彫刻屋台」と記された収納庫が有り。その前にも説明板が建っていました。<白沢南彫刻屋台 明治6年(1873)に鹿沼新町(現:麻芋町)から購入した黒漆塗彩色彫刻屋台で大型の鹿沼屋台の特徴を持っています。(後略)>
こうして観ると、白沢宿は北と南と二つの地域に分かれている様子が覗われます。
それを確認する資料を見つけました。
「栃木県の地名」(平凡社)の中に、「白沢宿」の解説が記されていて、抜粋させて貰うと<宿は南北に道路が走り、その両側に旅籠屋・茶店・商家が軒を並べ、宿の長さは南北四町半、道路中央に用水路が流れ、旅人はここで洗足して宿屋に入る。宿の中ほどの西方高台に鎮守白髭明神が祀られ、同社を境に北方が白沢村、南方が上岡本村である。>

寄り道してしまいましたが、街道歩きに戻ります。
宿場の北の端の分かれ道を真ん中の道路を進むことに、450メートル程来た所で、川を渡ります。橋の親柱に川の名称「西鬼怒川」と橋梁名「西鬼怒川橋」そして架橋年「昭和38年3月竣功」の表示を確認しました。
「西鬼怒川」についても、「栃木県の地名」では、<逆木用水ともいう。上河内村宮山田の高間木で鬼怒川から南に分流し、上小倉・今里・上田・芦沼を経て河内町に入り、下ヶ橋を南流し、東岡本で再び鬼怒川に合流する。延長約18.2キロ。鬼怒川の西部を流れるので、西鬼怒川の名が有る。西川ともいわれ、ここから元和六年(1620)御用川・九郷半川などが派生している。(後略)>

西鬼怒川橋から白沢宿方向を振返る.jpg
上の写真は橋を渡った所で、白沢宿方向を振り返って撮影したものです。写真奥の小高い台地の手前に白沢宿はひらけました。

西鬼怒川橋を渡って150メートル程進むと道路左側に広場が有り、「白沢河原」のバス停留所の看板が建ち、その奥に、「開田之碑」と大書された石碑に「白澤の一里塚址」と刻した石碑が建っています。
白沢河原の一里塚.jpg
この広場は関東自動車のバスの旋回所の様で、ここの「白沢河原」の停留所でバスは折り返して行く様です。ここから宇都宮駅西口までは、30分程です。

この辺りの事を「栃木の街道」には、<白沢宿の終わった所を右折する。今の道は小川(※九郷半川)を渡ってすぐ左折していくが(※河内郵便局前の交差点)、昔の奥州街道はまっすぐ田園の中を東へと進む。西鬼怒川を渡り曲がりくねる道を行くと、松の茂った堤防が南北に尾をひく。そこは鬼怒川の堤防である。白沢宿を出て27町余(※約2,946m)で、鬼怒川の川幅は30間(※約55m)、出水の時には8町程にもなり、「川留め」もしばしば見られ、道も流れによって変わったらしい。(後略)>と、記しています。
(※印部分は筆者が参考に追記したもの)

最後に、今回白沢宿を歩いて巡ると同時に、「奥州街道白澤宿七福神めぐり」も楽しみました。その七福神の像を写真に収めましたので紹介します。
七福神めぐり案内図.jpg寿老神像.jpg
(最初の地蔵堂の境内で見つけた案内図と寿老神像)
大黒天像.jpg布袋像.jpg
(白髭神社境内に立つ大黒天像)     (明星院境内に立つ布袋像)
毘沙門天像.jpg恵比須像.jpg
(薬師堂境内に立つ毘沙門天像)     (北野神社境内に立つ恵比寿像)
弁財天像.jpg福禄寿像.jpg
(須賀神社境内に立つ弁財天像)      (白沢一里塚址に立つ福禄寿像)


今回参考にした資料:
・「栃木の街道」栃木県文化協会発行
・「栃木県の地名」平凡社発行
・「栃木縣史 第十六巻 皇族編系図編」田代善吉著
・「白澤宿ウォーキングマップ」奥州街道白澤宿の会発行
旧奥羽街道白沢宿ウォーキングマップ.jpg



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北九州市小倉の街を歩く [歩く]

北九州市小倉は、「銀河鉄道999」の作者である漫画家松本零士さんが、中学から高校時代に暮らしていました。北九州市ではそんなゆかりから、平成30年度の下水道100周年を記念して、「銀河鉄道999」のキャラクターなどを描いた、9種類のデザインマンホール蓋を制作し、JR小倉駅周辺に設置しました。
そんなニュースを聞きつけて、今回、小倉の街を訪問する計画を立て、街中を歩いて見つけてきました。
JR小倉駅.jpgモノレール.jpg
(JR小倉駅)                     (モノレールが運行している)
九州の玄関口JR小倉駅は、新幹線停車駅であり立派な駅舎で、モノレールも有ったので驚きました。
小倉祇園太鼓の像.jpg森鴎外京町住居跡.jpg
(駅南口前の小倉祇園太鼓像) (駅南口ロータリー南西側に建つ「森鴎外京町住居跡」の碑)
南口から出ると、駅前に「祇園太鼓」の像が目に入りました。小倉祇園太鼓と言えば、私が小さいころ「無法松の一生」と言う映画を見に行った記憶が有りました。
駅前のロータリーを南西方向に進み、商店街に入る辺りに1基の石碑を見つけました。
「森鴎外京町居住跡碑」の標柱と説明文を記した石碑です。碑文によると森鴎外は≪第十二師団軍医部長として赴任、明治32年6月から同35年3月まで小倉に来住した。(後略)≫との事。この石碑の建つ場所に住居が有ったそうです。
マンホール蓋と案内表示.jpg
(商店街の通路上に設置された松本零士さんのデザインマンホール蓋)
アーケードの有る商店街の通路を進むと、目的のデザインマンホール蓋が設置されていました。
昼の紫川.jpg
(北九州市小倉南区から北区を縦断して北流、響灘に注ぐ二級河川の紫川)
小倉駅南口の繁華街の西側を北流する「紫川」。川の西側に小倉城の天守閣が木々の上に姿を見せています。
八坂神社.jpg小倉城.jpg
(小倉城内に鎮座する八坂神社)      (美しく蘇えった小倉城天守閣)
北側から堀を渡り小倉城内に入ると、小倉祇園の八坂神社参道の大鳥居が建っています。鳥居の前を抜けて進むと、天守閣北東側のお堀越しに石垣の上に聳える天守を望む。
小倉城天守閣は、江戸時代の末期、1837年に失火により焼失。1959年に現在の天守閣が再建。再建60周年を迎えた2019年にリニューアルオープンしてと言い。まだ新しくなって1年も経っていないので、美しい姿を見る事が出来ました。
宮本武蔵と佐々木小次郎の像.jpg
(剣豪佐々木小次郎と宮本武蔵のモニュメント)
天守閣前の広場に建つ「宮本武蔵と佐々木小次郎」のモニュメントも、今回のリニューアルと同時位設置されたと言います。
小倉県庁跡.jpg
(小倉城公園の北側、小倉北区室町二丁目に残る「小倉県庁跡」のレトロな建物)
レトロな建物の脇に建つ案内板によると、≪廃藩置県に先立つ明治4年4月、「西街道鎮台」が小倉に設置された後、同年11月から、福岡県に合併される明治9年4月までの4年半の間、小倉県庁が有った。(中略) 明治9年4月18日に福岡県に合併された後、裁判所、警察署等を経て、現在に至る。≫と、記されていました。
常盤橋.jpg
(紫川に架かる木の橋「常盤橋」、擬宝珠を載せた親柱)
常盤橋の東橋詰に建つ「常盤橋の由来」によると、≪常盤橋は江戸時代の初め頃、小倉の城下町の東曲輪(主として町人が生活していた地域)と西曲輪(主として武士が生活していた地域)を結ぶ、重要な橋として架けられ、当初は大橋と呼ばれていました。この橋の西勢溜(橋詰)が長崎街道の起点となっていたため橋の周辺は幕府役人や旅人の宿などが立ち並んでにぎわっていました。(後略)≫という歴史の有る場所でした。そんな由来も有って、平成7年3月完成のこの「常盤橋」も昔のイメージとしての、「木の橋」として架けられた様です。
伊能忠敬測量200年記念碑.jpg
(伊能忠敬 測量200年記念碑)
木の橋「常盤橋」の東橋詰近くに、「伊能忠敬 測量200年記念碑」が有りました。
この懸念碑は、北九州市の「1級都市基準点 第2001号」ともなっています。「東経130°52′40″.497 北緯33°53′お9″.732 標高4.068m」
碑文によると≪(前略) この小倉城下・常盤橋は、九州伊能測量の始発点であり、小倉の五街道(長崎街道・唐津街道・中津街道・秋月街道・門司往還)の起点として意義深き地点である。 (後略)≫と説明されています。
火の橋.jpg海の橋.jpg
(「室町大橋」・火の橋)               (「紫川大橋」・海の橋)
紫川の小倉都心部流域に関して、100年に一度の大雨に耐えられる安全な川づくりを進めるとともに、道路や公園、市街地整備などを一体的に整備し、民間と行政が協力しながら、北九州市の顔づくりを進める、「紫川マイタウン・マイリバー整備事業が、平成2年度から平成26年度まで(河川事業は継続)が行われ、その10カ所の橋はそれぞれ、海・火・木・石・水鳥・太陽・鉄・風・音といった自然をテーマにデザインされているそうで、「室町大橋」(火の橋)は紫川で昔行われていた鵜飼の漁火をモチーフにしていて、弓状の柱の先から高さ1メートルものガスの炎が吹き出すそうです。(金・土・祝祭日の夜間、夏季19時~22時、冬季18時~22時。30分おきに10分間ずつ点火)
「紫川大橋」(海の橋)は、海にもっとも近く、潮の香りが強く感じられる橋。照明灯が船のマストを、後脚が船の舳先をイメージしてデザインされている橋だそうです。

夜の小倉の街も少し歩いてみました。
夜の小倉駅.jpg夜の小倉駅前.jpg
(夜のJR小倉駅)                    (JR小倉駅前)
夜の紫川.jpg
(イルミネーションの光で、名実ともに「紫川」が現れました)
夜の小倉城.jpg
(暗闇の中に浮かび上がる小倉城天守閣)

小倉の街を歩き回り、9種類のデザインマンホール蓋を写真に収めることが出来ました。
マンホール蓋01.jpgマンホール蓋02.jpgマンホール蓋03.jpg
マンホール蓋04.jpgマンホール蓋05.jpgマンホール蓋06.jpg
マンホール蓋07.jpgマンホール蓋08.jpgマンホール蓋09.jpg

街歩きの総歩数は、23,542歩になりました。
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早春の皆川城内町を歩く [歩く]

今日は、栃木市郊外の皆川城内町を歩いてきました。朝から良く晴れ、青空が広がっています。それでも空気がまだチョッピリ冷たく感じますが、歩くには丁度良い感じです。
皆川城址南麓の公民館駐車場に車を止め、持明院から東宮神社、傑岑寺を巡って来ました。
皆川城内町の早春1.jpg
(持明院への途中、白山台近くで最初の春色を見つけました。)

持明院山門脇の枝垂桜は、まだまだ色ずくのは先の様です。参道の石段を登りお参りをして、高台に有る本堂前から広がる関東平野を望むと、青空の先、地平線上に筑波の霊峰から北に連なる足尾山や加波山が霞んで見えていました。
筑波山遠望.jpg
(持明院の本堂前から望む関東平野)

そこから東宮神社に向かいましたが、こちらはまだ春の訪れを見つけられませんでした。
東宮神社2.jpg東宮神社1.jpg
(東宮神社本殿)                 (東宮神社拝殿)

東宮神社から表参道をへ出て、県道栃木佐野道を渡り、更にその南を流れる藤川を渡って、栃木特別支援学校の前へ、そこから田園地帯を西に真っ直ぐ伸びる道路を歩いていきます。
そこから見る皆川城址は、まだ冬の装いのままでした。
皆川城址遠望.jpg
(冬の装いが残る皆川城址)

道路の突き当たり、山の中腹に建つ傑岑禅寺へ、趣のある山門を潜って本堂前へ。杉木立に囲まれた山の東面は陽だまりに成っているのか、梅の老木には春の色が溢れていました。
皆川城内町の早春2.jpg皆川城内町の早春3.jpg
皆川城内町の早春4.jpg
 
今日の歩行数は、10,369歩になりました。
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広島県呉市の市街地で、戦艦大和のデザインマンホール蓋を巡りました [歩く]

広島県呉市と言えば、明治の初めに鎮守府が置かれ、先端技術を集積した軍港都市。戦艦大和が建造された地としても有名です。
今回、その呉市を訪れ市街地を歩いて、戦艦大和をデザインしたマンホール蓋を探して、撮影して来ました。
市街地を歩くと、街中に川が流れ、そこに幾つもの橋が架けられています。私の好きな街の風景です。おのずと川沿いを歩く事に。
呉市の街並みは明治初期に海軍が、鎮守府と工廠を併設させ、水道や鉄道と言った社会基盤の整備を進めた為、三方を山に囲まれ、瀬戸内海に続く入江に注ぎ込む、「堺川」と「二河川」のふたつの川の河口近に出来た平坦地に、道路が碁盤の目の様に直交する、街並みが広がっています。

JR呉駅前から北東に一直線に伸びた「今西通り」を中心線として、左右対称に二つの川が並行して流れています。駅前を横断する国道31号を左に320メートル程行くと、「二河川」に架かる「二河大橋」。右に315メートル程行くと、「堺川」に架かる「昭和橋」へ。その先、呉郵便局前交差点を左に320メートル程行くと、「二河橋」へ。右に316メートル程行くと「堺橋」。といった具合に成っています。
呉市街地の道路と橋 概略図.jpg
(広島県呉市、JR呉駅周辺道路と河川概略図)

栃木市に住む私は、街中を縦断して流れる「巴波川」とそこに架かる多くの橋、そしてその橋の名前に興味を持ちました。
巴波川はその源流の一つ、川原田町の白地沼から藤岡町の渡良瀬遊水地内で、渡良瀬川に合流するまでの間に、現在、人道橋を含め49橋架けられています、その間の距離はおよそ24.5キロメートルとすると、平均の橋間距離は約491メートル。栃木の市街地(栃木外環道の「蟹田橋」から栃木小山線に架かる「平成橋」までの間)だけを考えると、その流域距離は約3キロメートル、そこに19橋架かっていますから、平均橋間距離は約167メートルということに成ります。
呉市の「堺川」を見ると、市街地(河口から相生橋まで)だけですが、流域距離は約1878メートル、その間の橋の数は17ヵ所ですから、平均橋間距離はおよそ110メートルですから、歩いていると次々と橋が現れるので、つい夢中になってしまいます。

今回歩いたのは「堺川」に沿って、「亀山橋」から「花見橋」までです。その480メートルの間で6つの橋を鑑賞出来ました。一番気に入った橋は「堺橋」、昭和7年(1932)の架橋と言う。昭和42年(1967)まで路面電車の「呉市でん」が上を走っていたそうです。
堺橋1.jpg堺橋2.jpg
(堺川に架かる「堺橋」、下流側左岸より)     (堺橋の欄干と親柱)

「五月橋」の親柱の上にはガス燈が有ります、とても洒落た形状をしていて、現在も夜になるとオレンジ色の暖かい光を放っているそうで、点灯した様子を見て見たかったです。
五月橋1.jpg五月橋2.jpg
(堺川に架かる「五月橋」の欄干と親柱)  (親柱の上にはモダンなデザインのガス灯)

その五月橋の右岸橋詰に、戦艦「大和」の主錨の複製が展示されていました。
寸法は、全高5.472メートル、全幅2.834メートル、重量15トンと説明が有りました。
戦艦大和の主錨.jpg戦艦大和主錨寸法.jpg
(重量感あふれる戦艦大和の主錨)

それでは、その戦艦大和をデザインしたマンホール蓋が設置されていると言う、美術館通りに向かいます。
堺川を渡り南東方向へ進むと、アケードの有る商店街、そこも通りすぎると広い道路に出ます。国道185号です。右折して国道を南西方向に進むと、JR呉線のガードが見えてきます。そのガード下を抜けると、道路左手にワインレッドの3階建てのビルの前へ。旧呉海軍下士官兵集会場(青山クラブ)の建物で、現在は「海上自衛隊呉集会所」です。建物の外壁には、アニメ映画「この世界の片隅に」の風景や人物などが描かれています。
旧青山クラブビル.jpgアニメの風景画.jpg
(旧呉海軍下士官兵集会場の建物)   (アニメ映画「この世界の片隅に」のワンカット)

そのビルの前を過ぎ、左に折れると目的の「美術館通り」。赤レンガ敷きの広い歩道に街路樹が並び、多くの彫像作品が展示されています。
案内表示.jpg美術館通り.jpg
(呉市立美術館への案内表示)       (「美術館通り」 日本の道100選の一つ)

「美術館通り」入口に早速、戦艦大和を描いた二枚のマンホール蓋が設置さえていました。
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そのまま歩道を歩いていくと次々と違うデザインのマンホール蓋が見つかりました。
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呉美術館前に「日本の道100選」を示す碑が建てられています。
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美術館通りの端に、「入船山」「旧呉鎮守府長官官舎」の表示を付けた趣のある門扉が有ります。「入船山記念館」です。
入船山記念館.jpg時計塔.jpg
(「入船山記念館」の門扉)                 (旧呉海軍工廠塔時計)
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(旧呉鎮守府司令長官官舎)

「入船山記念館」入口付近の歩道にも、戦艦大和のマンホール蓋は設置されていました。
呉市07.jpg呉市08.jpg

「美術館通り」の端まで来ましたが、ここまで見つけたマンホール蓋は8枚です。10枚有るというので、記念館の人に尋ねると、残りの2枚は少し離れた「呉海軍墓地」近くに有ると言われたので、思い切ってそちらも尋ねる事にしました。
呉海軍墓地標柱.jpg多くの慰霊碑が建つ墓地.jpg
(呉海軍墓地標柱)(墓地内には多くの艦艇と共にした戦没者の為の慰霊碑が建っている)
戦艦大和慰霊碑.jpg呉海軍墓地の沿革碑.jpg
(戦艦大和戦死者之碑)             (「呉海軍墓地の沿革」碑) 

近くの道路上に目指した最後の2枚のマンホール蓋を発見しました。
このデザインは、戦艦大和の最後の姿を描いたものだと言います。
呉市09.jpg呉市10.jpg

戦艦大和のデザインマンホール蓋を探しながら、かつての軍港として発展した呉市の街を僅かながら垣間見た感じです。

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