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関門海峡を歩いて渡ってきました。 [歩く]

本州から九州へ渡るためには、現在多くの手段が有りますが、今回は徒歩にて渡りました。ルートは、山口県下関市みもすそ川町から、福岡県北九州市門司区門司を結ぶ、関門トンネル人道で全長780メートルに成ります。
関門海峡横断記念スタンプ.jpg
両方の出入り口にてエレベーターを利用して、約55~60メートル程地下に降り、関門トンネル自動車道の下側に有る人道です。

下関側の「関門トンネル人道入口」近くには、「壇ノ浦古戦場址」が有ります。
壇ノ浦古戦場址.jpg
「安徳帝御入水之処」の石碑に、
  二位尼辞世
 今ぞ知る  みもすそ川の  御なかれ  波の下にも  みやこありとは 
                          長門本平家物語
 と刻されています。
安徳天皇御入水之処.jpg

又、源義経の「八艘飛び」の像と、対して 平知盛の「碇潜(いかりかづき)」の像が、海峡をバックに建てられています。
壇ノ浦の源平.jpg
源義経の像.jpg平知盛の像.jpg

外に、天保製長州砲が関門海峡に向って、睨みを聞かせています。
長州砲2.jpg長州砲1.jpg

関門トンネル人道入口の建物脇に、「関門隧道建設の碑」や関門国道建設事務所初代所長を務めた「加藤伴平」氏の碑などが建てられていました。
関門隧道建設の碑.jpg
加藤伴平之碑.jpg加藤伴平碑文.jpg

周辺観光はこれ位にして、関門トンネル人道へ向かいましょう。先ずエレベーターに乗って、地下約55メートルへ
下関側入口.jpg下関側エレベータ.jpg

地下のエレベータルームに来ました。
下関側.jpg
トンネルを断面下説明図が有りました。トンネル上段は自動車道、その下側に人や自転車(但し乗って通行は出来ないようです。)が通行できる構造になっています。

記念スタンプ.jpg記念スタンプ台紙.jpg
エレベータールームに記念スタンプ台が設置されていました。スタンプ台紙の下側の空白の円の部分に、左半分を下関側で押して、右半分を門司側のスタンプを押して完成するようになっています。
冒頭に乗せたスタンプ台紙が、両方で押したスタンプの完成形に成ります。
それでは、トンネルを歩く事にしましょう。トンネルは少し下り勾配で真直ぐ門司方向に伸びています。
関門トンネル人道.jpg

トンネルは全長780メートルですが、山口県と福岡県との境界までは、下関口より400メートルとなっています。中央部位まで来ると、前方の道路は登り勾配になっているのが分かります。県境に来ました。
山口・福岡境界線.jpg
下関門司境界表示.jpg
ここから前方は九州・門司に成ります。この地点は「海面下58メートル」との表示が有りました。
ここから380メートル登り勾配を歩くと門司のエレベータールームです。
ここで、スタンプ台紙に右半分を押して、エレベータで約60メートル上り地上に戻ります。
門司側エレベータ.jpg門司側入口.jpg

無事に地上に戻ってきました。ここは九州・福岡県北九州市門司区門司です。
トンネル通過に約10分間かかりました。ちなみに通行料ですが、歩きは無料でした。

門司側人道トンネル入口の建物の裏手の高台上に、立方体の形をした「慰霊碑」が建てられています。碑陰には「殉職者」52名と、「病没者」37名の名前が列記されています。
関門トンネル工事中に、事故や病気でお亡くなりになった方々を慰霊する為に、昭和33年3月8日に建設省により建立されたものです。
慰霊碑1.jpg慰霊碑の碑陰.jpg

海底のトンネルを歩いて渡るのは、最初少し不安が有りましたが、難なく関門海峡の下を渡り切りました。さて、それでは又、歩いて下関口に戻ることにします。
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旧奥州街道白澤宿を歩く [歩く]

白澤宿は江戸時代の五街道のひとつ、奥州街道18番目の宿場町で、ひとつ前の宇都宮宿で日光街道と別れた後で、鬼怒川を渡る手前に有る宿場町です。起点となる江戸日本橋より三十里(約120km)です。

栃木文化協会が発行した「栃木の街道」の七章奥州街道で、「白沢宿」は次のように紹介されています。
<白沢宿の起源については、具体的に明らかでない。享保年間に書かれた『奥州街道白沢宿駄賃定覚書』によれば、白沢宿の町割りは慶長14年(1609)にさかのぼる。ただ年代的には、なお問題を残しているように思える。白沢宿の動きは、初めは主に馬次宿で、上阿久津河岸が開かれておらず、街道も明らかでなかった。(中略) 寛文三年(1663)の白沢宿の家数は98軒、馬軒は66疋となっていた。この頃が「殊の外にぎわい申候」と言った時期でもあった。(後略)>と。

現在も宿場の中央を走る街道の両側には水路が有り、綺麗な水が流れています。街道筋の家々には、「辰巳屋」とか「高砂屋」「猪瀬屋」「住吉屋」という、かつての「屋号」が表示され、又水路には水車が何カ所か設置され、通過する人の目を楽しませています。
私もこれまで、何度もこの通りを車で通過していますが、今回はじっくりと宿場の隅から隅まで歩いて見て回りたいと思います。
宇都宮から白澤街道(旧奥州街道)を北上すると白沢の手前に、私が若かった頃アヤメと流しそうめんで有名な奈坪苑という所が有りました。今、グーグルマップで検索しても見つける事は出来ません。街道から右手に折れ雑木林の中を進んだ先に有った記憶が残っています。50年も前のことに成ります。
そんな記憶をたどっているうちに、白澤宿の入口に差し掛かって来ました、
地蔵堂.jpg

道路の右手に地蔵堂が現れました。境内に「白沢地蔵堂の伝説」の説明板が有り。お堂裏手には、「南無阿弥陀佛」と刻した石碑や宝篋印塔、五輪塔その他馬頭観世音の石塔などが建てられています。
地蔵堂裏手.jpg

地蔵堂の先から道路は大きく右にカーブをしながら下って行きます。
薬師堂の先は右にカーブしながら下っている.jpg

道路の左手に登って行く階段が有ります、「やげん坂」の説明板が建てられています。読んでみます、
<この坂は、漢方の薬種をくだく舟形の器具(薬研)に坂の形が大変似ているところから、「やげん坂」と呼ばれるようになったと言い伝えられています。また慶長十四年(1609年)白沢宿として町割ができる以前からここには、街道の道しるべとして夫婦の大きな榎があった由緒あるところです。>
やげん坂.jpg

その説明板に有った榎か分かりませんが、その先を少し行った右手に「白澤宿」と記した案内板が榎の大木の前に建てられています。そしてその右横に「江戸時代の公衆便所」だとする小屋が有ります。
白沢宿の榎.jpg江戸時代の公衆便所跡.jpg

旅する人にとっては、こうした公衆便所があったなら、大助かりだったと思います。今こうしてウォーキングを楽しんでいると、そうした思いを何度もしています。
道路左手に「水戸屋」さんとう<鬼怒のたまり漬>の店舗が有ります。道路はその先もまだ右にカーブをしながら下って行きます。
水戸屋の前から更に街道は下る.jpg

道路は信号機の有る丁字路に突き当たりました。右に曲がれば岡本街道で、奥州街道はここを左に曲がります。道路は広く両側に水路が有り現在車道と歩道の境界にもなっています。
白沢宿メイン道路(両側に水路).jpg

そして、今来た道を振り返ると坂道をずっと下りてきたことが分かります。
白沢宿南端の丁字路から今下ってきた道を振りかる.jpg

この辺が白澤宿メイン道路の南の端に当たります。ここから街道に沿って北方向に歩いて行きます。
本通りを進むと直ぐ左側に、大谷石を組んでその合せ部を漆喰で固めたような、石蔵造りの重厚な家が目に入りました。
石蔵造りの家.jpg
「堺屋」という屋号表示が付いています。元はどのような商いをしていた家だったのだろうか。

道路右側に四階建てのビルを構えた家が有ります。屋号の表示は「高砂屋」となっています。失礼して門扉越しに御庭を拝見させて頂きました。
高砂屋の表示板.jpg高砂屋の邸内.jpg
石灯籠の外に一基の石碑が目に留まりました。遠目ですが「明治天皇御休之所」と読む事が出来ます。

明治天皇御休之所.jpg

田代善吉著「栃木縣史」にて、明治天皇が白澤を訪れた記録は、「河内郡古里村大字白澤福田源太郎宅 明治九年六月十一日東北御巡幸の御時御小休所に充てさせらる、今其建物はなし、碑もなし、明治十四年八月奥羽御巡幸の際は、大田東一郎宅を御小休所に充てらる、其当時の建物存す、建碑なし」と、2回訪れている様で、こちら「高砂屋」さんがそのどちらかに当たるのか確認出来ませんでした。

先へ進みます。今度は道路左手に石造りの鳥居が見えてきました。
白沢宿本通り(左手に鳥居).jpg

鳥居の前まで来ました。鳥居脇に建つ標柱には「村社白髭神社」と刻されています。「村社」の文字はコンクリを埋め込んで有りますが、シッカリ確認出来ます。鳥居の先に参道が真っ直ぐ伸びて居ます。突き当たりに石段が見えます。
白髭神社参道入口.jpg
鳥居の左横の家の連子格子が昔の佇まいを見せています。屋号は「住吉屋」と掲示されています。
鳥居前の水車.jpg
手前の水路に設置された水車がゆっくりと回っています。

白髭神社に参拝をして行きたいと思います。神社境内まで結構な高さが有ります。
白髭神社参道階段.jpg白髭神社社殿.jpg

白沢宿付近の地形図を見ると、南から北に向かう街道筋に並行するように街並みの西側に南北に崖の地図記号が伸びています。白澤宿に来るとき坂を下って来ましたが、宿場の西側は台地に成っていて、神社の社殿はその台地の上に位置しているのでした。
地形図に記された標高の数値を探すと、白澤宿の信号機の有った丁字路の場所が、標高143メートル、台地の上に有る三角点の標高は159.1メートルと有り、其の標高差は16メートル程にもなっています。
その石段を登って、神社の境内へ。
社殿の前に来ると、予想外に広々としています。台地の縁に建てられていので、晴れれば東の白澤宿側は眼下に開け、遠く鬼怒川を望めそうです。
白髭神社境内からの展望.jpg

街道に戻り、先に進みます。参道入口から少し歩くと「宇都宮東警察署白沢警察官駐在所」、そして水路際に赤い郵便ポストが建っています。
駐在所の北隣りに立派な門柱の建つ家が有ります。家屋は庭の奥、庭の木に隠れて良く見えませんが、大きな屋根を持った建物が見えます。門柱の横に「本陣」と言う掲示や、ここ白澤宿から奥州街道の各宿場までの距離を表示した案内板が塀際に建てられています。
白沢宿本陣跡.jpg
ちなみに<江戸江 参拾里 四町 弐拾間(118.4km)>そして<白河宿江 拾八里 参拾四町 拾九間半(69.6km)>だそうです。

先に進みます。目の前に「関東八十八カ所霊場 第二十五番札所 真言宗智山派 明星院」と記した案内板が現れました。街道から左に折れます。その道路の奥突き当たりに寺院の建屋が見えます。
境内に入り、先ず参拝を済ませます。
明星院.jpg
本堂建屋の左側に御堂があります。御堂前方の枝垂桜は、だいぶ葉の緑が目立った来ています。

街道に戻ります。もう目の前には、宿場本通りの北の端です。通りの突き当たりは「井上清吉商店」で、清酒「澤姫」の醸造元と言う看板を掲げています。
白沢宿北の端、井上清吉商店.jpg

街道はこの突き当りから右に折れて行きます。左手の奥にお堂が見えます。薬師堂です。
薬師堂.jpg

薬師堂の右側に本陣だった「宇加地家」の立派な墓所が有ります。

「井上清吉商店」から右に折れる南東角に、小さな神社が祀られています。「經力稲荷大明神」の扁額は掲げられています。その左側の先に橋の欄干が見えます。
稲荷神社.jpg

橋を渡りましょう。この橋の名前は「九郷半橋」、そして下を流れる小川は「九郷半川」です。現在の橋は1883年に架け替えられています。
「九郷半川」は、白沢町の北隣「下ヶ橋町」にて「西鬼怒川」から取水した灌漑用水で、灌漑がおよぶところが、「下ヶ橋村」「上岡本村」「中岡本村」「下岡本村」「白沢村」「上平出村」「中平出村」「下平出村」「芦沼村」と、「石井村」の半郷を加えて、九ヵ村と半郷になるので九郷半川と称した。

橋の上から下流側を望むと、左岸の先に鳥居が見えます。チョッと寄って見たいと思います。
北野神社.jpg

その前に橋を渡った左橋詰に小さな道標らしき石柱が建てられています。
橋の袂に建つ馬頭観世音の石碑.jpg
道路側の面には<昭和二十九年二月初午 白沢甲部>と彫られています。その右側面にハッキリとは確認できませんが<馬頭観世音>らしき文字。

橋を渡った先で道路は三つの方向へ。メインの道路は左の方向へカーブしています。が、旧奥州街道は中央の真っ直ぐに北東方向に伸びる道路です。そしてもう一本は右に折れて川の左岸沿いに神社へと行く道です。今は右に折れる神社への道を選びます。
北野神社鳥居前.jpg

道路は神社の鳥居の前までです。鳥居を潜って境内の中へ神社の標柱が有りました。
「北野神社」と「須賀神社」の名前が彫られています。境内には「白沢彫刻屋台収納庫」と書かれた高さ4メートル程全面3枚のシャッターで閉じられて中は確認出来ませんが、来る途中に説明板が建てられていました。それによると、<白沢甲部彫刻屋台 明治初期に鹿沼から購入したと伝わる黒漆塗彩色彫刻屋台で、形式は宇都宮形のものです。(中略) 製作年代:天保4年(1833) 作者:彫師-富田宿 三代目磯部義兵衛(敬信)他 (後略)>と記されています。
前に、鹿沼市の彫刻屋台を見る機会が有りましたが見事な彫刻を施した屋台でした。この収納庫の中の屋台もその系統と言う事に成ります。
参考に鹿沼市彫刻屋台展示館に収納展示されてる久保町の彫刻屋台の写真を掲示します。
鹿沼久保町の屋台.jpg

機会が有れば白沢宿の、彫刻屋台も一度見てみたいと思いました。

脇を流れる九郷半川に沿って木道が設置されています。
白沢宿は西側は、高さ10メートル以上の崖で阻まれ、東側はこの川で阻まれる形になっています。
せっかくですから、川に沿って歩いて見たいと思います。
神社の先川の東側は「白沢公園」として整備がされていて、旧九郷半川と新たに整備された一直線に流れる九郷半川との間に花壇や芝生広場・雑木林・菖蒲園・水遊び場等を備えています。
天神橋.jpg

旧九郷半川沿いに設置された木道を進むと、季節柄岸辺には菜の花が群生 雑木林の木々は新緑が芽吹いています。
白沢公園.jpg
 
水車小屋も有りました。「グラウンドワーク活動センター」と言う管理棟で、トイレを拝借しました。
白沢公園水車小屋.jpg

更に旧九郷半川沿いの木道を歩いて行くと、「万年橋」と名付けられて橋の袂まで行く事と成りました。この「万年橋」の道路は、白沢宿の南側の端から南に向かう岡本街道から別れた道で、結果的に白沢宿の北の端から南の端まで戻った形となりました。
万年橋.jpg

川の右岸に須賀神社は祀られています。
須賀神社.jpg
そしてこちらの神社の前にも「白沢南彫刻屋台」と記された収納庫が有り。その前にも説明板が建っていました。<白沢南彫刻屋台 明治6年(1873)に鹿沼新町(現:麻芋町)から購入した黒漆塗彩色彫刻屋台で大型の鹿沼屋台の特徴を持っています。(後略)>
こうして観ると、白沢宿は北と南と二つの地域に分かれている様子が覗われます。
それを確認する資料を見つけました。
「栃木県の地名」(平凡社)の中に、「白沢宿」の解説が記されていて、抜粋させて貰うと<宿は南北に道路が走り、その両側に旅籠屋・茶店・商家が軒を並べ、宿の長さは南北四町半、道路中央に用水路が流れ、旅人はここで洗足して宿屋に入る。宿の中ほどの西方高台に鎮守白髭明神が祀られ、同社を境に北方が白沢村、南方が上岡本村である。>

寄り道してしまいましたが、街道歩きに戻ります。
宿場の北の端の分かれ道を真ん中の道路を進むことに、450メートル程来た所で、川を渡ります。橋の親柱に川の名称「西鬼怒川」と橋梁名「西鬼怒川橋」そして架橋年「昭和38年3月竣功」の表示を確認しました。
「西鬼怒川」についても、「栃木県の地名」では、<逆木用水ともいう。上河内村宮山田の高間木で鬼怒川から南に分流し、上小倉・今里・上田・芦沼を経て河内町に入り、下ヶ橋を南流し、東岡本で再び鬼怒川に合流する。延長約18.2キロ。鬼怒川の西部を流れるので、西鬼怒川の名が有る。西川ともいわれ、ここから元和六年(1620)御用川・九郷半川などが派生している。(後略)>

西鬼怒川橋から白沢宿方向を振返る.jpg
上の写真は橋を渡った所で、白沢宿方向を振り返って撮影したものです。写真奥の小高い台地の手前に白沢宿はひらけました。

西鬼怒川橋を渡って150メートル程進むと道路左側に広場が有り、「白沢河原」のバス停留所の看板が建ち、その奥に、「開田之碑」と大書された石碑に「白澤の一里塚址」と刻した石碑が建っています。
白沢河原の一里塚.jpg
この広場は関東自動車のバスの旋回所の様で、ここの「白沢河原」の停留所でバスは折り返して行く様です。ここから宇都宮駅西口までは、30分程です。

この辺りの事を「栃木の街道」には、<白沢宿の終わった所を右折する。今の道は小川(※九郷半川)を渡ってすぐ左折していくが(※河内郵便局前の交差点)、昔の奥州街道はまっすぐ田園の中を東へと進む。西鬼怒川を渡り曲がりくねる道を行くと、松の茂った堤防が南北に尾をひく。そこは鬼怒川の堤防である。白沢宿を出て27町余(※約2,946m)で、鬼怒川の川幅は30間(※約55m)、出水の時には8町程にもなり、「川留め」もしばしば見られ、道も流れによって変わったらしい。(後略)>と、記しています。
(※印部分は筆者が参考に追記したもの)

最後に、今回白沢宿を歩いて巡ると同時に、「奥州街道白澤宿七福神めぐり」も楽しみました。その七福神の像を写真に収めましたので紹介します。
七福神めぐり案内図.jpg寿老神像.jpg
(最初の地蔵堂の境内で見つけた案内図と寿老神像)
大黒天像.jpg布袋像.jpg
(白髭神社境内に立つ大黒天像)     (明星院境内に立つ布袋像)
毘沙門天像.jpg恵比須像.jpg
(薬師堂境内に立つ毘沙門天像)     (北野神社境内に立つ恵比寿像)
弁財天像.jpg福禄寿像.jpg
(須賀神社境内に立つ弁財天像)      (白沢一里塚址に立つ福禄寿像)


今回参考にした資料:
・「栃木の街道」栃木県文化協会発行
・「栃木県の地名」平凡社発行
・「栃木縣史 第十六巻 皇族編系図編」田代善吉著
・「白澤宿ウォーキングマップ」奥州街道白澤宿の会発行
旧奥羽街道白沢宿ウォーキングマップ.jpg



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北九州市小倉の街を歩く [歩く]

北九州市小倉は、「銀河鉄道999」の作者である漫画家松本零士さんが、中学から高校時代に暮らしていました。北九州市ではそんなゆかりから、平成30年度の下水道100周年を記念して、「銀河鉄道999」のキャラクターなどを描いた、9種類のデザインマンホール蓋を制作し、JR小倉駅周辺に設置しました。
そんなニュースを聞きつけて、今回、小倉の街を訪問する計画を立て、街中を歩いて見つけてきました。
JR小倉駅.jpgモノレール.jpg
(JR小倉駅)                     (モノレールが運行している)
九州の玄関口JR小倉駅は、新幹線停車駅であり立派な駅舎で、モノレールも有ったので驚きました。
小倉祇園太鼓の像.jpg森鴎外京町住居跡.jpg
(駅南口前の小倉祇園太鼓像) (駅南口ロータリー南西側に建つ「森鴎外京町住居跡」の碑)
南口から出ると、駅前に「祇園太鼓」の像が目に入りました。小倉祇園太鼓と言えば、私が小さいころ「無法松の一生」と言う映画を見に行った記憶が有りました。
駅前のロータリーを南西方向に進み、商店街に入る辺りに1基の石碑を見つけました。
「森鴎外京町居住跡碑」の標柱と説明文を記した石碑です。碑文によると森鴎外は≪第十二師団軍医部長として赴任、明治32年6月から同35年3月まで小倉に来住した。(後略)≫との事。この石碑の建つ場所に住居が有ったそうです。
マンホール蓋と案内表示.jpg
(商店街の通路上に設置された松本零士さんのデザインマンホール蓋)
アーケードの有る商店街の通路を進むと、目的のデザインマンホール蓋が設置されていました。
昼の紫川.jpg
(北九州市小倉南区から北区を縦断して北流、響灘に注ぐ二級河川の紫川)
小倉駅南口の繁華街の西側を北流する「紫川」。川の西側に小倉城の天守閣が木々の上に姿を見せています。
八坂神社.jpg小倉城.jpg
(小倉城内に鎮座する八坂神社)      (美しく蘇えった小倉城天守閣)
北側から堀を渡り小倉城内に入ると、小倉祇園の八坂神社参道の大鳥居が建っています。鳥居の前を抜けて進むと、天守閣北東側のお堀越しに石垣の上に聳える天守を望む。
小倉城天守閣は、江戸時代の末期、1837年に失火により焼失。1959年に現在の天守閣が再建。再建60周年を迎えた2019年にリニューアルオープンしてと言い。まだ新しくなって1年も経っていないので、美しい姿を見る事が出来ました。
宮本武蔵と佐々木小次郎の像.jpg
(剣豪佐々木小次郎と宮本武蔵のモニュメント)
天守閣前の広場に建つ「宮本武蔵と佐々木小次郎」のモニュメントも、今回のリニューアルと同時位設置されたと言います。
小倉県庁跡.jpg
(小倉城公園の北側、小倉北区室町二丁目に残る「小倉県庁跡」のレトロな建物)
レトロな建物の脇に建つ案内板によると、≪廃藩置県に先立つ明治4年4月、「西街道鎮台」が小倉に設置された後、同年11月から、福岡県に合併される明治9年4月までの4年半の間、小倉県庁が有った。(中略) 明治9年4月18日に福岡県に合併された後、裁判所、警察署等を経て、現在に至る。≫と、記されていました。
常盤橋.jpg
(紫川に架かる木の橋「常盤橋」、擬宝珠を載せた親柱)
常盤橋の東橋詰に建つ「常盤橋の由来」によると、≪常盤橋は江戸時代の初め頃、小倉の城下町の東曲輪(主として町人が生活していた地域)と西曲輪(主として武士が生活していた地域)を結ぶ、重要な橋として架けられ、当初は大橋と呼ばれていました。この橋の西勢溜(橋詰)が長崎街道の起点となっていたため橋の周辺は幕府役人や旅人の宿などが立ち並んでにぎわっていました。(後略)≫という歴史の有る場所でした。そんな由来も有って、平成7年3月完成のこの「常盤橋」も昔のイメージとしての、「木の橋」として架けられた様です。
伊能忠敬測量200年記念碑.jpg
(伊能忠敬 測量200年記念碑)
木の橋「常盤橋」の東橋詰近くに、「伊能忠敬 測量200年記念碑」が有りました。
この懸念碑は、北九州市の「1級都市基準点 第2001号」ともなっています。「東経130°52′40″.497 北緯33°53′お9″.732 標高4.068m」
碑文によると≪(前略) この小倉城下・常盤橋は、九州伊能測量の始発点であり、小倉の五街道(長崎街道・唐津街道・中津街道・秋月街道・門司往還)の起点として意義深き地点である。 (後略)≫と説明されています。
火の橋.jpg海の橋.jpg
(「室町大橋」・火の橋)               (「紫川大橋」・海の橋)
紫川の小倉都心部流域に関して、100年に一度の大雨に耐えられる安全な川づくりを進めるとともに、道路や公園、市街地整備などを一体的に整備し、民間と行政が協力しながら、北九州市の顔づくりを進める、「紫川マイタウン・マイリバー整備事業が、平成2年度から平成26年度まで(河川事業は継続)が行われ、その10カ所の橋はそれぞれ、海・火・木・石・水鳥・太陽・鉄・風・音といった自然をテーマにデザインされているそうで、「室町大橋」(火の橋)は紫川で昔行われていた鵜飼の漁火をモチーフにしていて、弓状の柱の先から高さ1メートルものガスの炎が吹き出すそうです。(金・土・祝祭日の夜間、夏季19時~22時、冬季18時~22時。30分おきに10分間ずつ点火)
「紫川大橋」(海の橋)は、海にもっとも近く、潮の香りが強く感じられる橋。照明灯が船のマストを、後脚が船の舳先をイメージしてデザインされている橋だそうです。

夜の小倉の街も少し歩いてみました。
夜の小倉駅.jpg夜の小倉駅前.jpg
(夜のJR小倉駅)                    (JR小倉駅前)
夜の紫川.jpg
(イルミネーションの光で、名実ともに「紫川」が現れました)
夜の小倉城.jpg
(暗闇の中に浮かび上がる小倉城天守閣)

小倉の街を歩き回り、9種類のデザインマンホール蓋を写真に収めることが出来ました。
マンホール蓋01.jpgマンホール蓋02.jpgマンホール蓋03.jpg
マンホール蓋04.jpgマンホール蓋05.jpgマンホール蓋06.jpg
マンホール蓋07.jpgマンホール蓋08.jpgマンホール蓋09.jpg

街歩きの総歩数は、23,542歩になりました。
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早春の皆川城内町を歩く [歩く]

今日は、栃木市郊外の皆川城内町を歩いてきました。朝から良く晴れ、青空が広がっています。それでも空気がまだチョッピリ冷たく感じますが、歩くには丁度良い感じです。
皆川城址南麓の公民館駐車場に車を止め、持明院から東宮神社、傑岑寺を巡って来ました。
皆川城内町の早春1.jpg
(持明院への途中、白山台近くで最初の春色を見つけました。)

持明院山門脇の枝垂桜は、まだまだ色ずくのは先の様です。参道の石段を登りお参りをして、高台に有る本堂前から広がる関東平野を望むと、青空の先、地平線上に筑波の霊峰から北に連なる足尾山や加波山が霞んで見えていました。
筑波山遠望.jpg
(持明院の本堂前から望む関東平野)

そこから東宮神社に向かいましたが、こちらはまだ春の訪れを見つけられませんでした。
東宮神社2.jpg東宮神社1.jpg
(東宮神社本殿)                 (東宮神社拝殿)

東宮神社から表参道をへ出て、県道栃木佐野道を渡り、更にその南を流れる藤川を渡って、栃木特別支援学校の前へ、そこから田園地帯を西に真っ直ぐ伸びる道路を歩いていきます。
そこから見る皆川城址は、まだ冬の装いのままでした。
皆川城址遠望.jpg
(冬の装いが残る皆川城址)

道路の突き当たり、山の中腹に建つ傑岑禅寺へ、趣のある山門を潜って本堂前へ。杉木立に囲まれた山の東面は陽だまりに成っているのか、梅の老木には春の色が溢れていました。
皆川城内町の早春2.jpg皆川城内町の早春3.jpg
皆川城内町の早春4.jpg
 
今日の歩行数は、10,369歩になりました。
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広島県呉市の市街地で、戦艦大和のデザインマンホール蓋を巡りました [歩く]

広島県呉市と言えば、明治の初めに鎮守府が置かれ、先端技術を集積した軍港都市。戦艦大和が建造された地としても有名です。
今回、その呉市を訪れ市街地を歩いて、戦艦大和をデザインしたマンホール蓋を探して、撮影して来ました。
市街地を歩くと、街中に川が流れ、そこに幾つもの橋が架けられています。私の好きな街の風景です。おのずと川沿いを歩く事に。
呉市の街並みは明治初期に海軍が、鎮守府と工廠を併設させ、水道や鉄道と言った社会基盤の整備を進めた為、三方を山に囲まれ、瀬戸内海に続く入江に注ぎ込む、「堺川」と「二河川」のふたつの川の河口近に出来た平坦地に、道路が碁盤の目の様に直交する、街並みが広がっています。

JR呉駅前から北東に一直線に伸びた「今西通り」を中心線として、左右対称に二つの川が並行して流れています。駅前を横断する国道31号を左に320メートル程行くと、「二河川」に架かる「二河大橋」。右に315メートル程行くと、「堺川」に架かる「昭和橋」へ。その先、呉郵便局前交差点を左に320メートル程行くと、「二河橋」へ。右に316メートル程行くと「堺橋」。といった具合に成っています。
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(広島県呉市、JR呉駅周辺道路と河川概略図)

栃木市に住む私は、街中を縦断して流れる「巴波川」とそこに架かる多くの橋、そしてその橋の名前に興味を持ちました。
巴波川はその源流の一つ、川原田町の白地沼から藤岡町の渡良瀬遊水地内で、渡良瀬川に合流するまでの間に、現在、人道橋を含め49橋架けられています、その間の距離はおよそ24.5キロメートルとすると、平均の橋間距離は約491メートル。栃木の市街地(栃木外環道の「蟹田橋」から栃木小山線に架かる「平成橋」までの間)だけを考えると、その流域距離は約3キロメートル、そこに19橋架かっていますから、平均橋間距離は約167メートルということに成ります。
呉市の「堺川」を見ると、市街地(河口から相生橋まで)だけですが、流域距離は約1878メートル、その間の橋の数は17ヵ所ですから、平均橋間距離はおよそ110メートルですから、歩いていると次々と橋が現れるので、つい夢中になってしまいます。

今回歩いたのは「堺川」に沿って、「亀山橋」から「花見橋」までです。その480メートルの間で6つの橋を鑑賞出来ました。一番気に入った橋は「堺橋」、昭和7年(1932)の架橋と言う。昭和42年(1967)まで路面電車の「呉市でん」が上を走っていたそうです。
堺橋1.jpg堺橋2.jpg
(堺川に架かる「堺橋」、下流側左岸より)     (堺橋の欄干と親柱)

「五月橋」の親柱の上にはガス燈が有ります、とても洒落た形状をしていて、現在も夜になるとオレンジ色の暖かい光を放っているそうで、点灯した様子を見て見たかったです。
五月橋1.jpg五月橋2.jpg
(堺川に架かる「五月橋」の欄干と親柱)  (親柱の上にはモダンなデザインのガス灯)

その五月橋の右岸橋詰に、戦艦「大和」の主錨の複製が展示されていました。
寸法は、全高5.472メートル、全幅2.834メートル、重量15トンと説明が有りました。
戦艦大和の主錨.jpg戦艦大和主錨寸法.jpg
(重量感あふれる戦艦大和の主錨)

それでは、その戦艦大和をデザインしたマンホール蓋が設置されていると言う、美術館通りに向かいます。
堺川を渡り南東方向へ進むと、アケードの有る商店街、そこも通りすぎると広い道路に出ます。国道185号です。右折して国道を南西方向に進むと、JR呉線のガードが見えてきます。そのガード下を抜けると、道路左手にワインレッドの3階建てのビルの前へ。旧呉海軍下士官兵集会場(青山クラブ)の建物で、現在は「海上自衛隊呉集会所」です。建物の外壁には、アニメ映画「この世界の片隅に」の風景や人物などが描かれています。
旧青山クラブビル.jpgアニメの風景画.jpg
(旧呉海軍下士官兵集会場の建物)   (アニメ映画「この世界の片隅に」のワンカット)

そのビルの前を過ぎ、左に折れると目的の「美術館通り」。赤レンガ敷きの広い歩道に街路樹が並び、多くの彫像作品が展示されています。
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(呉市立美術館への案内表示)       (「美術館通り」 日本の道100選の一つ)

「美術館通り」入口に早速、戦艦大和を描いた二枚のマンホール蓋が設置さえていました。
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そのまま歩道を歩いていくと次々と違うデザインのマンホール蓋が見つかりました。
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呉美術館前に「日本の道100選」を示す碑が建てられています。
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美術館通りの端に、「入船山」「旧呉鎮守府長官官舎」の表示を付けた趣のある門扉が有ります。「入船山記念館」です。
入船山記念館.jpg時計塔.jpg
(「入船山記念館」の門扉)                 (旧呉海軍工廠塔時計)
長官官舎.jpg
(旧呉鎮守府司令長官官舎)

「入船山記念館」入口付近の歩道にも、戦艦大和のマンホール蓋は設置されていました。
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「美術館通り」の端まで来ましたが、ここまで見つけたマンホール蓋は8枚です。10枚有るというので、記念館の人に尋ねると、残りの2枚は少し離れた「呉海軍墓地」近くに有ると言われたので、思い切ってそちらも尋ねる事にしました。
呉海軍墓地標柱.jpg多くの慰霊碑が建つ墓地.jpg
(呉海軍墓地標柱)(墓地内には多くの艦艇と共にした戦没者の為の慰霊碑が建っている)
戦艦大和慰霊碑.jpg呉海軍墓地の沿革碑.jpg
(戦艦大和戦死者之碑)             (「呉海軍墓地の沿革」碑) 

近くの道路上に目指した最後の2枚のマンホール蓋を発見しました。
このデザインは、戦艦大和の最後の姿を描いたものだと言います。
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戦艦大和のデザインマンホール蓋を探しながら、かつての軍港として発展した呉市の街を僅かながら垣間見た感じです。

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日光田母沢御用邸記念公園から二荒山神社・東照宮を巡る [歩く]

一昨日、「歴史と文化を歩く会-栃木-」9月例会で日光市を訪れ、田母沢御用邸記念公園から二荒山神社そして東照宮などを歩いて巡りました。
東武日光線の電車で日光を訪れるのは5年ぶりに成ります。いつもは車で奥日光へ行く為に、日光の市街地は素通りする事が多くなっています。
まずは、駅前のバス乗り場から「中禅寺温泉行」のバスに乗って、田母沢御用邸記念公園へ。バスの中は外国人観光客の人達で結構混雑をしていました。さすがにユネスコ世界文化遺産の日光です。
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(東武日光駅前バスターミナルから)     (田母沢御用邸のお車寄から建物内に入る)

田母沢御用邸記念公園(平成15年に国の重要文化財に指定されています)を訪れるのは私は今回初めてです。前から来たかった所です。65歳以上は入園料が無料との事、徳をした感じになりました。建物の入口で背負っているリュックを預け、カメラと案内パンフレットだけを持って見学開始です。
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(御用邸の中庭)                 (御玉突所)
この御用邸には部屋数が106室も有ると言います。全てが公開されているわけで有りませんが、それでも一部屋一部屋をジックリ見学していたら、時間がいくら有っても足りません。
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(謁見所 玉座が据えられています)    (御学問所の丸窓)

絨毯の柄、照明器具のデザイン、襖や杉戸に描かれている絵、そして「釘隠し」や「襖引手」などの錺金物の細工など時間を忘れて見入ってしまいます。
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御用邸7.jpg御用邸6.jpg
(御用邸の周囲は緑が溢れていて、心が静まる思いです)

後の予定も有り1時間ほど見学して、御用邸記念公園を出て、道路を渡った先に有る「釈迦堂」を見学することに。釈迦堂への参道入口脇に「殉死之墓」と刻した標柱が建てられています。
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(釈迦堂表門にて)           (釈迦堂 素朴な味わいが感じられます)

参道を進むと表門の手前に「釈迦堂」の説明板が有りました。冒頭部分を抜粋します。
≪釈迦堂【栃木県指定有形文化財】 この釈迦堂はもと「妙道院」の本堂で、以前は境内に数多くの建造物が有りました。元来、妙道院は天海大僧正が寛永5年(1628)に仏岩谷に創建し山内の菩提寺としていたものを寛永17年(1640)、現在地に移建したものです。妙道院自体は明治の神仏分離の際に途絶えました。≫

釈迦堂に向かって左手横を回りこんで奥に進むと、苔むした多くの石仏と、大きな卵塔が数多く並んでいます。更にその奥へ進んでいくと石造りの柵に囲まれた中に、高さが3メートルを超し、厚さが30センチメートル程有る巨大な墓碑が幾つも並んで建てられています。
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(釈迦堂本堂西側には苔むした石仏が)  (徳川家光の殉死者の墓碑が並ぶ)

「史跡 釈迦堂殉死の墓及び譜代家臣の墓」と刻した標柱が建てられていました。これらの墓碑は、徳川三代将軍家光の殉死者5名と、初代家康及び二代将軍秀忠の譜代家臣19名のものです。
釈迦堂の境内の中は、何か時間が止まっている様な静寂感が有りました。

釈迦堂を後にして次に向かった所は、田母沢御用邸記念公園の東側に広がる古い街並みを歩きました。
ここは、西町地区と称する地域で、本町・匠町・安川町・花石町・久次良町が含まれます。今回散策した通りは「御用邸前通り」と称する道を中心に歩きました。
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(連子格子の家)                 (道路拡張の為に庇切りされた家)

この通りは、田母沢御用邸の正門に通ずる通りで有った。御用邸が整備された時に、この西町地区も整備が行われ、碁盤の目の様に街並みが出来上がっています。時には京都の街を歩いている様な雰囲気も感じられました。西から東に下り坂と成っている町を、下ったり登ったり、通りを変えて歩き浄光寺に。
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(浄光寺入口、手洗盥の龍)          (推定樹齢550年の檜)

日限地蔵尊の信仰篤い「還源山 妙覺院 淨光寺」は≪古くは日光一山の香華院(菩提寺)で仏岩にあった往生院と、光明院座主(現在の輪王寺の前身)延応2年(1240)創立の淨光坊が、寛永17年(1640)に合併して現在の地に移転し、淨光寺と号するようになった。≫(「とちぎの天台の寺めぐり」天台宗栃木教区宗務所編 下野新聞社発行を参考抜粋させて頂きました。)
境内には「日光山最古の梵鐘」など多くの寺宝や文化財が有り、もっと時間をかけて見学をさせて頂きたく思いました。

浄光寺を出て目の前の道を真っ直ぐ東に有る「磐裂神社」まで歩きます。この通りに沿って流れる水路の脇に、丸い石升の簡易水道が設置されています。水源は上流に有る湧水で、蛇口からは冷たい水が噴き出していました。
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(石升の簡易水道が有る通りを歩く) (石升の吐出口の栓を抜くと冷たい水が噴き出す)

次に向かったのは、下野国一之宮「日光二荒山(ふたらさん)神社」です。
「御鎮座由緒」について、神社社務所発行の「ふたらさん」より抜粋させて頂くと、≪二荒山神社は男体山(古く二荒山という)を御神体山として奈良時代に奉祠されたお社です。「奥宮」は天応二年(782)に創建され、その二年後に「中宮祠」が中禅寺湖畔に創建されました。≫という、由緒深い神社に成ります。

二荒山神社1.jpg二荒山神社2.jpg
(社号標柱)                      (大鳥居)
こちらも見どころが多すぎて、時間がいくら有っても足りそうも有りませんが、神社の方に案内して貰い、説明を聞くことが出来ました。現在本殿(八棟造り)世界文化遺産は修復工事の真っ最中との事で、工事の様子も少し見学することが出来ました。

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(日光二荒山神社拝殿:重要文化財)
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(二荒霊泉)                      (遥拝所)

昼食もそこそこににして、東照宮に向かいました。
境内には外国人観光客や修学旅行でしょうか、黄色い帽子を被った小学生の団体が何組も、案内人の説明をメモしたり、陽明門をバックにクラス毎に記念写真を撮ったりしていました。
東照宮石の鳥居.jpg五重塔.jpg
(石鳥居:重要文化財)                (五重塔:重要文化財)

東照宮を訪れたのは、今から50年以上も前の事です。
石鳥居(1968年).jpg東照宮にて(1968年5月).jpg
(50年以上前に撮影した日光東照宮の風景)

陽明門や神厩舎など最近修復が完了したところなので、復活した極彩色の姿を堪能する事が出来ました。かつて訪れた際は、モノクロフィルム36枚撮りを1本使うことも無かったのに、今回東照宮だけでシャッターを200回以上押しました。ともかく修復された東照宮は見るものすべてが、まぶしく輝いていました。

三猿2.jpg陽明門.jpg
(神厩舎・三猿:重要文化財)            (陽明門:国宝)
眠り猫.jpg奥社宝塔.jpg
(眠り猫:国宝)                        (徳川家康公の墓所:重要文化財)

奥宮(祭神、徳川家康公の墓所)への石段は登りは疲れて休み休みでした、改めて体の衰えを思い知らされましたし。そんな石段を駆け下りて行く小学生を見ていて、足を踏み外したら下まで転がり落ちて大怪我をしてしまうのにと、心配になりました。身軽な子供たちはそれでも石段を飛び下りるように、私の横をすり抜けて行きました。

しばらくすると少し雲行きが怪しくなって来たので、急いで東武日光駅に戻って行きました。
今回は世界文化遺産の有る町、日光を歩き、国宝や重要文化財を生で鑑賞し、改めて日光の素晴らしさを感じた一日となりました。
今回の総歩数は19,400歩でした。
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日光例幣使街道、犬伏宿周辺を歩く [歩く]

今日は、日光例幣使街道の宿場の一つ、犬伏宿周辺の神社仏閣などを歩いて巡ってきました。
「歴史と文化を歩く会-栃木-」の6月例会で、20名のメンバーが参加しました。
昨日は一日激しい雨が降り続いていた為、今日の天気を心配していましたが、開けてみれば雨も止んで、曇り空で日差しが遮られている為、暑くもならず絶好のウォーキング日和となりました。
私の住む栃木市には日光例幣使街道の13宿の内、「富田宿」・「栃木宿」・「合戦場宿」・「金崎宿」の4つの宿が有りますが、今回向かった佐野市にも「天明宿」と「犬伏宿」の2つの宿場が有りました。
「天明宿」周辺は、昨年12月の例会で歩いていますので、今回の「犬伏宿」はそれに続くものです。
堀米付近略図.jpg犬伏宿概略絵図.jpg
(今回歩いた犬伏宿周辺の様子を資料の古地図を基に概略図に描いてみました)

栃木駅に集合してJR両毛線にて佐野駅へ。佐野駅北口を出てさっそく犬伏宿に向かいます。
最初に向かったのは犬伏上町の台元寺です。
台元寺1.jpg台元寺2.jpg
(犬伏上町に入るとすぐ道路の右手に佐野百観音のお寺、台元寺です)
台元寺は佐野市仏教会が2015年5月31日に発行した小冊子「縁 出会いにありがとう」の中で、≪佐野厄よけ大師(惣宗寺)第13世三海大僧正が慶長6年(1601)3月創立。県重要指定文化財であり、佐野ブランド認定寺院である「佐野百観音」は天明鋳物で造られ、100箇所ある日本百観音霊場全ての観音さまを一ヶ所で参拝することができる。≫と、紹介をしています。しっかりと参拝をさせて頂きました。

次に見学をしたのは「光徳寺」です。街道を東に進み犬伏中町と下町の境となる交差点を右に入ります。南に少し進むと右手に「西蓮寺」、その山門前を過ぎた先、道路の左側の現れる山門が「光徳寺」になります。
光徳寺1.jpg光徳寺2.jpg
(山門を潜り光徳寺境内へ)               (天満宮の祠横に神木の「びゃくしん」)
上記の小冊子には、≪当寺は唐沢山の城主藤原藤太秀郷の娘富士姫と家臣の柏崎光徳(藤原道真良臣の一人)との悲恋の末、富士姫が佐野の川瀬(犬伏中町のお姫河原)に身を投じ、この事を光徳聞き富士姫を探すと水中に金像の弥陀の護身仏あり(関川町三杉川)、光徳弥陀の金像を引揚げ本尊とし一宇を建立す。光徳がその後出家し富士姫の菩提を弔う。秀郷これを聞きさらに一寺を建立し東明山天幡院光徳寺と号す(光徳寺縁起より)光徳寺はこのように千年余の昔から地域に根ざした寺です。≫と、紹介されています。
又、境内には「ふるさと佐野100選」の、「光徳寺のびゃくしん」が有ります。光徳寺開基の柏崎光徳のお手植えの神木として伝えられている。常緑喬木で中国や朝鮮に多く、わが国には少なく貴重なものであり、昭和34年に市の天然記念物に指定されています。

街道に戻り更に東に進むと、道路右手に市立犬伏小学校が。この場所にはかつて犬伏宿の本陣が有った跡となりますが、その面影を残すものは何も有りません。小学校前の街道に渡した歩道橋を登り、犬伏宿北側の脇道を北進して「大庵寺」へ向かいます。
歩道橋の上から犬伏宿の街道を眺めることに。
犬伏宿の通り(東).jpg
(東方向を望む。道路右手が犬伏小学校、街道奥突き当たりの小丘が米山古墳)
犬伏宿の通り(西).jpg
(西方向を望む。手前信号機交差点を左方向に入った所が「光徳寺」になります。)

大庵寺への参道入口角に「南無阿弥陀仏」と陰刻した常夜灯が建てられています。参道を進んで山門を潜ると駐車場の有る境内へ。境内には多くの石仏や石碑が建てられています。
大庵寺1.jpg大庵寺2.jpg
(街道からの入口に建つ常夜灯)           (緑豊かな大庵寺境内)
大庵寺3.jpg
(多くの石仏を見学する歩く会メンバー)

次に向かうのは犬伏町の鎮守「鷲宮神社」です。一度街道に出て、西方向に歩き犬伏上町に戻り、そこで北に進む道に入ります。道路の前方に鳥居が覗いています。街道から鳥居までは約300メートル程有ります。その途中で道路右手に風情のある塀が現れました。鷲宮神社の社務所の様です。門扉を入ったすぐ右手に「史跡大桝塚古墳と刻された石の標柱が建っています。
鷲宮神社への道.jpg大桝塚古墳の標柱.jpg
(鷲宮神社社務所の風情ある塀。道路奥に鳥居が)  (史跡大桝塚古墳の標柱)
「大桝塚古墳」はこの標柱の当方に見える小丘。説明によると≪この古墳は2段に築かれた方墳で、周囲の平地に濠跡と思われる低地があり、その外側に小土手の一部が残っている。盗掘の跡がなく、よく保存されている。大きさは、下段底部の径36.3m、上部の径25.4m、高さ5.45mである。≫と成っています。

鳥居の方へ進むと、次第に鳥居が大きくなってきます。鳥居を潜って社殿前に向かいます。
鷲宮神社鳥居.jpg鷲宮神社.jpg
(鷲宮神社参道入り口に建つ石の鳥居)     (境内にはご神木となる見事な杉の木が)
「鷲宮神社の杉」は「ふるさと佐野100選」にも成っています。≪樹高約20m、直径1.5m、樹齢は約600年≫との説明が有りました。

最後に向かったのは堀米町、天明宿から北上した街道が突き当たった場所に建つ「妙顕寺」です。
妙顕寺1.jpg妙顕寺2.jpg
(一直線に伸びる犬伏宿の街道の西側の端に位置する日蓮宗の寺院「妙顕寺」)
先の小冊子によると、≪当山の草創は、永仁二年(1294)中老僧天目上人の開創。唐沢城家老若田部源五良光盛公の屈請により一宇を創し、山を開本と称し寺を妙顕と号す。是即ち本国土妙一時開顕の意なり。慶長七年(1602)唐沢城天明春日山移築に際し当山も春日山城鬼門除として現地に移る。妙顕寺は日蓮宗の由緒寺院、本山の称号で呼ばれる。≫と、紹介されています。
又、「佐野市観光協会・佐野市観光立市推進課」の発行する、佐野観光ルートガイドの小冊子「佐野めぐり」の中で、≪妙顕寺本堂の扁額「開本山」は甲申事件で日本に亡命した金玉均の書によるもの≫との、紹介がされています。
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(左、井伊家と右、藤原家の累代尊霊供養の石碑)  (「金玉均」書による「開本山」の扁額)
堀米町と井伊家との関係は、寛永10年(1633)近江彦根藩領となり、万治2年(1659)には堀米村に彦根藩佐野領15ヵ村を取り仕切る彦根藩の陣屋が置かれた事によります。日光例幣使街道が整備されると堀米町は犬伏町の加宿となっています。嘉永6年(1853)3月日光社参の帰途領内を巡視した井伊直弼は、当地に有った飯売旅籠を全廃させることも有りました。天応寺には井伊直孝・直澄・直弼の墓碑が有ります。(「角川日本地名大辞典9栃木」より抜粋)

妙顕寺を後にして、佐野駅に戻りました。
本日も多くの発見が有りました。歩いた総歩数は、15,572歩になりました。
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小山市の摩利支天塚・琵琶塚の両古墳から天平の丘公園周辺を歩く [歩く]

今日、「歴史と文化を歩く会-栃木-」の5月例会にて、小山市の摩利支天塚と琵琶塚の二つの前方後円墳から、下野市の天平の丘公園周辺を歩いて巡ってきました。
まず栃木の街から、歩き始める思川に架かる大光寺橋近くまで、栃木市のふれあいバスを利用して移動しました。
ふれあいバス.jpg大光寺橋プレート.jpg
(思川に架かる大光寺橋近くまでバスで移動)  (大光寺橋から美田東部頭首工を望む)
大光寺橋を渡って歩くのは、現在の橋が完成した渡り初めの日(2016年3月12日)に歩いた以来です。
現在、栃木県ではアフターデスティネーションキャンペーンに合わせて「とちぎ橋カード」24種類を配布していますが、その1枚にこの「大光寺橋」が栃木市で初めてカード化されています。
又、同じく今年小山市が市内の土地改良区が管理している「土地改良施設」の写真をカード化して配布した中に、ここ大光寺橋上流部に設置されている「美田東部頭首工」も有ります。
橋カード.jpg土地改良施設カード.jpg
(大光寺橋のとちぎ橋カード)        (美田東部頭首工の小山市土地改良施設カード)
大光寺橋のカードの写真は、上空からのアングルで、手前が新しい橋でその上流側に、前の橋が写っています。更にその後方に美田東部頭首工も見えます。現在は中央の古い大光寺橋は解体撤去されて無くなっています。このカードの写真は貴重な一枚です。
また、こうしたカードは多くの貴重な情報を提供してくれます。カードの裏面にその施設の構造や歴史など色々な豆知識が載っています。

横道にそれました元に戻します。大光寺橋を渡りきると下野市に入ります。道路の左手に寺院が見えてきます。浄土真宗本願寺派紫雲山蓮華寺です。本堂の手前右側の掲示板に「親鸞聖人花見ヶ岡大蛇済度之縁起」の紹介が有りました。
蓮華寺.jpg大蛇済度の物語.jpg
(紫雲山蓮華寺)                 (掲示板にて見える、大蛇済度之絵伝)

ここから車道から分かれ、右手の細い野道に入ります。「関東ふれあいの道」になります。
関東ふれあいの道1.jpg関東ふれあいの道2.jpg
(入口に建てられた道しるべ)          (途中にも「関東ふれあいの道」の道標が)
20分ほど雑木林や田畑の中の細い道を進むと、再び車道に出ます。県道18号です。この道は「旧日光西街道(壬生通り)」になります。ここを南方向に歩くと早々に道路の両側に小さな塚が現れます、「飯塚一理塚」です。
飯塚一里塚(東).jpg飯塚一里塚(西).jpg
(史跡、飯塚一里塚・東側)                (史跡、飯塚一里塚・西側)
一里塚を過ぎると、街道の東側田畑の先、杉木立が林立する中に、滑らかな曲線を描く前方後円墳が見えてきます。今回の目的地のひとつ、「琵琶塚古墳」です。
日光西街道より琵琶塚古墳を望む.jpg
(旧日光西街道壬生通りから眺める琵琶塚古墳、木立の中に緩やかな曲線を覗かせている)

琵琶塚古墳を横目に、まずはその先に有る同じく前方後円墳の「摩利支天塚古墳を目指して歩きます。

摩利支天塚古墳の頂上には、摩利支天尊を祀った社殿が建てられており、登り口には石の鳥居も建てられています。
摩利支天塚古墳入口.jpg摩利支天塚古墳上に建つ社殿.jpg
(摩利支天塚古墳登り口前に建つ鳥居)  (墳頂に祀られた社殿に向かう石段)
摩利支天塚古墳について、登り口に建つ説明文を紹介すると、
≪摩利支天塚古墳は、隣接する琵琶塚古墳とともに県内で最大の規模を誇る大形の前方後円墳です。後円部の墳頂には後年になって摩利支天社が祠られ、今に至っています。墳丘は自然の微高地を利用して築かれたもので、その周囲には幅20mを越える大規模な周湟がめぐらされています。(中略) この古墳の築造年代は、5世紀末から6世紀初頭と推定されます。(後略)≫
      墳形:前方後円墳  全長:約117m 
      前方部:幅約75m、高さ約7m 
      後円部:直径約70m、高さ約10m 
      昭和53年7月21日、国の史跡に指定されています。
摩利支天塚古墳説明板.jpg摩利支天塚古墳を降りる.jpg
(摩利支天塚古墳の説明板)            (摩利支天塚古墳を後にするメンバー)

次にすぐ北側に有る、琵琶塚古墳に向かいました。
琵琶塚古墳説明板.jpg琵琶塚古墳に登る.jpg
(琵琶塚古墳の説明板)                (琵琶塚古墳を登る)
この古墳は先の摩利支天塚古墳より前の、大正15年2月24日に国の史跡に指定されました。
築造年代は6世紀前半で摩利支天塚古墳に次ぐものと考えられていると、記されています。
古墳の規模は 墳形:前方後円墳  全長:約123m 
          前方部:幅約70m、高さ約9m 
          後円部:直径約75m、高さ約11m 
この日、これらの古墳には多くの見学者が訪れていました。
琵琶塚古墳を見学する小学生達.jpg
(琵琶塚古墳を見学する小学生達)
琵琶塚古墳を降りる.jpg
(琵琶塚古墳を下りる)
東方向からの琵琶塚古墳.jpg
(東方向から望む琵琶塚古墳全容)

昨年(2018)4月にこの琵琶塚古墳の近くに開館した、「国史跡摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館」を見学して、下野市の天平の丘公園へ向かいます。
古墳資料館.jpg古墳資料館展示室.jpg
(史跡摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館)     (古墳資料館展示室内)
天平の丘公園は、雑木林の中に広がっていました。まず名前が気になる「紫式部の墓」の元に向かいました。
天平の丘公園1.jpg紫式部の墓.jpg      
(天平の丘公園の案内板が有りました)    (「紫式部の墓」と言われる五輪の塔)
「紫式部の墓」と言われる五輪の塔は、鎌倉時代の様式。この地方の豪族が供養塔として建立したものと言われています。この付近は「紫」という地名であることから、そのように言われるようになったと、説明板に記されていました。
天平の丘公園の中を歩いていると、木々の緑が木漏れ日に輝いて気持ちの良い風景に包まれたようです。
天平の丘公園2.jpg 
(天平の丘公園の中は木漏れ日に輝く木々の緑が目に優しかった)

その後は「下野風土記の丘資料館」を見学し、国分寺跡を通ってスタート地点の大光寺橋を目指しました。
しもつけ風土記の丘資料館.jpg大光寺橋.jpg  
(しもつけ風土記の丘資料館)         (スタート地点の大光寺橋を渡る)

本日の歩数は、17,126歩(約1km)でした。
今回の参加者17名、全員最後まで元気で歩き通しました。
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2019年の元旦、いつもの年と変わらぬ一日を過ごす。 [歩く]

明けましておめでとうございます。
2019年1月1日、我家では例年と変わらぬ、穏やかな一日で迎えました。と言うものの実は少し違う、例年家族四人が揃って新年を迎えるのだが、娘が年末年始の休みを利用して旅行に行ったため、親としては少し不安な日々を過ごしている。
一人欠けると倅としては退屈になると思ったのか、何を考えてかジグソーパズルを買って里帰りをして来ました。昨夜はNHKの紅白歌合戦を観戦しながら、年越しそばを頂いた。
今朝は起きられれば初日の出を見ようかと思いきや、目覚めたのは7時を回っていました。新聞を取りに東向きの玄関のドアを開けると、眩しいほどの太陽の光が射しこんで来ました。思わず玄関先で初日の出を拝んでいました。
元旦の我家の行事は、ニューイヤー駅伝のテレビを見ながら、御屠蘇とお雑煮を頂く。今年は食事の後テレビを見ながら、ジグソーパズルに取り掛かる事に。絵柄は正月らしく「富士山」、パッケージから500ピースを取り出す、先ずは簡単な周囲のピースを並べて枠を完成そこから中に攻め込む。
しかしピースはどれも同じに見える。早々に絶望感が広がる。こんなのとても無理だ。年寄りには根気が欠如して来ている。後は倅に任せて届いた年賀状を見て、出していなかった人への年賀状を印刷。その間ジグソーパズルの富士山の姿が徐々に姿を現してきています。午後一時ごろには残り少なくなったピースが面白いように隙間を埋めて遂に完成しました。
ジグソーパズル「富士山」.jpg
(500ピースのジグソーパズルで見せる「朱に染まる絶景富士」)

ニューイヤー駅伝を見終えてから、初詣に出掛けます。朝から御屠蘇を頂いているので車は利用できませんから、例年通り歩いて神明宮へ向かうことに。昨日からずっと飲んだり食べたりで、運動不足気味に成っていますから、少し歩く必要が有ります。まずは新栃木駅前の郵便局へ回り、年賀状を投函。そこから駅東へ抜け、今泉保育園前から神田町へ。杢冷川の東雲橋を渡りそこから真直ぐ進むと目的の神明宮に至る。
神明宮は拝殿前から参拝者の列が伸びています、最後尾は昨年と同等大鳥居の所。
午後3時40分に列の後に付きます。行列のその先の神明宮拝殿の大屋根が新春の西陽を受けています。
初詣「神明宮」.jpg
(2019年最初の西陽を受ける神明宮拝殿の大屋根)

初詣を済ませて一路我が家への道を戻ります。歩いていると薄っすらと汗をかいて来ました。風も無く穏やかな新年の初ウォーキング。今日の歩数は11,217歩でした。
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佐野市を、天明宿中心に歩いて巡って来ました。 [歩く]

今日は「歴史と文化を歩く会-栃木」の12月例会で、メンバーなど17名と、お隣佐野市に出掛けて、天明宿を中心に史跡や神社・仏閣などを歩いて巡りました。
コースは、JR佐野駅から城山公園⇒観音堂⇒安蘇沼氏古城跡⇒オシドリ伝説の歌碑⇒金町通り・金吹通り⇒宝龍寺⇒金山神社⇒観音寺⇒惣宗寺(厄除け大師)⇒例幣使街道⇒JR佐野駅です。
佐野の街にはラーメンを食べに良く出かけていますし、3年程前には例幣使街道を歩いて、佐野の街を西から東へ横断した事も有りますが、今回のコースでは初めて行く場所が殆んどでした。
最初の「城山公園」は、駅の北側に隣接する史跡公園です。JR両毛線と東武佐野線とが乗り入れる駅舎は、平成15年(2003)に橋上駅に建て替えられた為、改札口を出た所の南北自由連絡通路を、北口「城山公園方面」に進むと、直接城山公園の芝生の広場に出る事が出来ます。
佐野駅.jpg南北連絡通路.jpg
(橋上駅舎の佐野駅)          (南北自由連絡通路、正面奥が北口、城山公園方面)

この公園は「佐野城跡」と言う佐野市の指定史跡に成っており、「ふるさと佐野100選」の案内板によると、≪三の丸・二の丸・本丸・北出丸の4つのゾーンからなる。明治22年9月、公園として開設された 春日岡城跡・佐野城跡とも言われるが、城は未完成のまま廃城となる。本丸の高さは約55.8m 南北約305m、東西約110m≫と記されています。
史跡佐野城址の碑.jpg佐野城址説明板.jpgふるさと佐野100選.jpg
(史跡 佐野城跡の碑) (佐野城跡案内板)         (ふるさと佐野100選案内碑)

ここで20分程自由散策と成りましたが、ここでそんなに時間取るのと始め思いましたが、園内を巡ると意外と広く、案内板の説明文を読んだり、石碑を見て歩くとあっと言う間に出発の時間に成っていました。
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(二の丸・本丸間の空堀に架かる橋)      (本丸・北出丸間の空堀に架かる橋)

次の目的地「観音堂」に向け城山公園を後にします。途中、久保町に有る真言宗豊山派の「金成院」と「西宮(蛭子)神社」に立ち寄り、その由緒沿革等を記した記念碑等を確認しました。
金成院.jpg蛭子神社.jpg
(久保町の遍明山金成院本堂)           (久保町の西宮神社、蛭子神社とも)

金成院の由来については境内に建てられた「山内整備事業記念碑」より抜粋すると、≪抑 大日如来を本尊とする金成院は、明治41年金胎寺・成就院・光明寺が合寺して成立した。金胎寺は、はじめ小野寺保に「八幡山松樹院金胎寺」として創建されたが、天文年間佐野秀綱により吉水郷に移され、更に元亀2年秀綱の曾孫昌綱によって再建されたと伝える。慶長7年唐沢山城主佐野信吉は、幕命により春日岡(城山公園)に新たな築城の工を起こし、天命の街割りを行った。金胎寺もその一環として吉水郷より現在地に移築された。(中略) 成就院は金胎寺第三世妙慶の開山になる寺であり、光明寺は朝日森天満宮別当で金胎寺の隠居寺であった。(後略)≫と記されていました。
西宮(蛭子)神社の説明板によると、「蛭子」には「ヒルコ」とルビがふられています。その下に「えびす様」と成っています。由緒沿革には≪(前半略) 当地西宮神社は「栃木県神社誌」によると大永3年(1523年)今から486年前、佐野根古屋青柳(今の栃本)に勧進したのが始まり唐沢城主佐野盛綱が祭るその後、唐沢の居城が春日岡(城山公園)に移るに伴い、東組屋敷に祭る。(中略) 元和2年(1616年)393年前小山城主本多上野介正純に給れ、翌元和3年社は正純の命により安蘇沼北久保に所替となる(現在地) (後略)≫と有りました。

西宮神社より東方向に向かう細い道を進むと観音山公園への登り坂に成ります。この小丘の東側中腹に引地山日向寺観音堂とその北隣りに日枝神社が祀られています。
この観音堂が栃木県内に分布する、「下野坂東三十三観音霊場」のひとつ、第二十七番札所・富岡の「引地山観世音」に成ります。栃木市の三級山近龍寺(二十四番)や出流山満願寺(二十九番)なども同じ霊場に入っています。
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(富岡町、引地山日向寺観音堂の彫刻)     (富岡町、日枝神社の彫刻)

≪後醍醐天皇の頃、富士泉応院の法師が天皇より賜わった観音像を同天皇の子、護良親王の死を悲しんだ南の局が泉応院から譲りうけて祀ったのが始まりで、当時は山の西に草庵を建て根光寺と言った。根光寺は南朝方であることから、北朝方の足利氏ににらまれ、本尊は沼に捨てられてしまった。その後越名の漁夫の網にかかり、阿武塚沼のほとりに安置されたが、阿曽沼の殿様に毎夜観音様が夢枕に立ち、元の所に帰りたいと云うので、永享三年富岡の岩山に移し、引地山日向寺観音堂と成りました。≫と伝えられます。
お隣に建つ日枝神社社殿ともども向拝部虹梁の龍の彫刻がなかなか立派な物です。

次の目的地は県道67号(桐生岩舟線)を横断して、南側の浅沼町へ向かいます。
ここに鎌倉時代に阿曽沼出羽守広綱が創建したと云う、浅沼八幡宮が有ります。社殿に向かい境内の右隅に一基の大きな石碑が建てられています。「佐野市指定史跡 阿曽沼城之跡」と刻され、その碑陰には朗々と歌われる詩歌の如き碑文が刻まれています。
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(浅沼八幡宮社殿)                    (佐野市指定史跡 阿曽沼城之跡の碑)
碑文冒頭部を抜粋してみます。≪今ひらけゆく浅沼のあたり、むかし佐野庄阿曽沼郷の地、火山灰洪積地のはて、黒々とした沈黙をたたえる水面を、おしどりの遊ぶ、安蘇の沼のほとりであった。 鎌倉に源氏の幕府はじめられようとする十二世紀末、阿曽沼城は阿曽沼民部四郎広綱によってこの地に築かれ、以来四百年 戦国のおたけび山野を駆けるさなかまて、城の盛衰は、阿曽沼氏歴代とともにあり、その哀歓は、浅沼の地と人とともにあった。・・・(後略)・・・≫

そしてこの境内のいっかくに建てられた、「おしどり塚歌碑」も見学しました。
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(浅沼八幡宮境内のおしどり塚歌碑) (ふるさと佐野100選「おしどり塚歌碑」)

ふるさと佐野100選「おしどり塚歌碑」説明文によると、≪自然石を使った碑面に「日くるればさそいしものを 安蘇沼のまこもがくれの ひとりねぞうき」とあり、裏面には天保2年(1831)とある。碑はもと相生町の千鳥が渕にあったが、明治年間に現在地へ移したものといわれ、昭和44年市の有形文化財に指定された。≫

佐野市の鳥に指定され、佐野駅前広場のモニュメントとして、この目地を訪れる人を迎え送る。又、佐野市の下水道のマンホール蓋の中央に描かれる、「おしどりのつがい」の姿がこの地に有る事を今回知る事が出来ました。
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(佐野駅前広場のおしどりのモニュメント)  (佐野市街地に設置されているマンホール蓋)

次はいよいよ「天明宿」へ入ります。
佐野東高校(元の佐野女子高)の脇を抜け、金屋下町・金吹町・金屋仲町と右に左に通りを抜けて、大祝町の宝龍寺へと歩を進めます。
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(金屋仲町の元影澤医院の建物)     (国登録文化財の日本基督教団佐野教会)
影澤医院の建物は現在「日本クリケット協会」の本部と成っています。佐野市は、「クリケットのまち佐野」・「日本のクリケットの聖地」を目指して活動を展開しています。

細い路地をくねくねと歩きやっと次の目的地、大祝町の宝龍寺に到着。ここの見学は市指定文化財の「銅造阿弥陀如来座像」です。
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(大祝町の宝龍寺)                   (宝龍寺境内の銅造阿弥陀如来座像)
この阿弥陀如来座像は横に立てられた説明文によると、元禄七年(1694)天明の鋳工 丸山孫衛門尉藤原信次の作。像の高さは409cm。
この後に見学した、金井上町の観音寺に有る、同じく「銅造阿弥陀如来座像」は、寛文九年(1669)斎藤伝七郎久重、太田小左衛門尉藤原秀次、大川久兵衛藤原信正等三人の天明鋳物師たちの合作。
像の高さは313cm。こちらも市指定文化財に成っています。
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(金井上町の観音寺)                  (観音寺境内の銅造阿弥陀如来座像)

金井上町の観音寺への途中、「かねがみさま」と呼ばれて、鋳物師たちの信仰を集めていた「金山神社」にも立ち寄りました。
金山神社.jpg金山神社本殿.jpg
(金山神社拝殿正面扉に施された彫刻)       (金山神社本殿の彫刻)

観音寺の次に訪れたのは、西隣りに当たる「惣宗寺」です。佐野厄除け大師の名前で広く知られている寺院で、毎年正月三箇日の初詣には大勢の初詣客で大混雑となります。私もこれまで何度も訪れていますが、今回の参拝させて頂きました。
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(惣宗寺本堂の大伽藍)            (佐野東照宮社殿は県の有形文化財に指定)

最後の見学地は、又天明宿の町並みを見ながら、金井上町から大和町・天明町を歩き、大蔵町の星宮神社に向かいます。途中江戸街道では2階建て蔵造り、外壁は黒漆喰の呉服商の旧店舗「太田邸」や、昭和2年築の洒落た洋館「小島邸」を、そしてかつての日光例幣使街道(現県道67号)にて、江戸後期から明治に建てられた見世蔵が軒を連ねている風景を見せています。これは同じ例幣使街道の宿場町として栄えた「栃木の町並みにも共通するものです。
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(太田邸の見世蔵を見学するメンバー)         (小島邸の洒落た洋館)
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(日光例幣使街道に見世蔵が並ぶ)     (土蔵の屋根のハナブカに土佐の文字)

栃木市の多くの見世蔵の屋根、鬼瓦の前にちょこんとついている「ハナブカ」、目的は良く理解していませんが装飾のひとつと思います、現在の味噌饅頭店「新井屋」の屋根のハナブカを見ると「土佐」と読める。これはこの建物が旧土佐屋薬局の一つの名残りと思われます。
この味噌饅頭店の横の道を北に進んで行くと大蔵町の星宮神社に突き当たります。

星宮神社銅造鳥居.jpg星宮神社拝殿.jpg
(星宮神社の銅造鳥居を見学する)     (星宮神社拝殿)
星宮神社の銅造鳥居は、≪享保二十乙卯年(1735)三月金屋町総鋳物師棟梁大工職という刻名がある。天明鋳物の名匠たちが協力し、天明宿の総氏子が奉納した明神鳥居である。昭和33年に市の有形文化財に指定された。高さ424cm、柱周囲106.05cm≫(ふるさと佐野100選説明文より)

ここから佐野駅まで戻り解散と成りました。
今回佐野市天明宿を巡り、あらためて天明は鋳物の街であることを実感しました。市内のいたる所に鋳物の作品を見る事が出来ました。今回天候にも恵まれ気持ち良く歩く事が出来ました。本日の私の総歩数は20,092歩に成りました。
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(佐野の街中に建つ天明鋳物製の公衆電話ボックス)
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