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郷土の偉人、日立製作所の創業者小平浪平翁、今年生誕150年になります [石碑]

前々回、今年最初の石碑めぐりで、栃木市大平町真弓の磯山に祀られた、諏訪神社境内に建つ石碑について書きましたが、その中で磯山山頂部に残る、コンクリート製の給水塔の事について、少し触れました。
磯山山頂の貯水塔.jpg貯水塔の説明板.jpg
(栃木市大平町真弓、磯山山頂に立つ貯水塔とその説明板)

貯水塔の脇に建つ説明板の通り、<この水槽は昭和18年、株式会社日立製作所栃木工場が、この大平の地に操業を開始した際、工場の工業用水供給の為建造されたものです。>
創業を開始したのは、昭和20年(1945)に成ります。

株式会社日立製作所が、この地に工場を建設したのは、ひとりの人物の存在が有りました。
その人物こそ「(株)日立製作所」の創業者で、その当時社長であった「小平浪平」です。

小平浪平翁は、明治7年(1874)1月15日に、栃木県都賀郡合戦場宿(現在、栃木市都賀町合戦場755)の大地主の家に、父惣八、母チヨの次男として生まれました。
明治21年(1888)14歳で上京、東京英語学校(東京大学予備門)に入学。その後、現東京大学工学部を卒業。明治33年(1900)大学卒業後、秋田県の藤田組小坂鉱山に入社。その後発電事業に職場を求めた。そこで発電設備のほとんどが外国製品で占められている現実を痛感している。明治39年(1906)10月、久原からの誘いを受けて、前年久原が開業した茨城県の久原鉱業所(日立鉱山)に入社する。その後、国産技術にこだわり、明治43年(1910)日立製作所を創業、世界的企業となる礎を築き、昭和26年(1951)10月5日に、その一生を終えました。享年77歳でした。

現在、小平浪平翁が幼少期に生活した「生家」が残っています。平成30年(2018)10月に、親族より栃木市に寄贈されています。
昨年暮れに、市が主催する「小平浪平顕彰ツアー」に参加させて頂き、その生家と茨城県日立市に2021年11月にオープンした、「日立オリジンパーク」等を見学をすることが出来ました。

小平浪平翁の生家は、日光例幣使街道沿いで、合戦場郵便局の丁度向かい側に有ります。
小平浪平生誕地1.jpg
栃木の市街地から大通りを北上(栃木県道3号)、東武日光線の跨線橋を渡ると直ぐ、500メートル程で目的地の前に到着します。

小平浪平生誕地2.jpg
街道に面した門の脇に、「小平浪平生誕地」と刻した石碑が建てられています。
小平浪平生誕地碑.jpg
この碑の題字を揮毫された人物は、JX金属グループ創業者「久原房之助」、明治38年(1905)日立鉱山を開業し、日本有数の銅山に成長させた人で、前述した様に、浪平との出会いは小坂鉱山で、その後久原が日立鉱山を開業した翌年に浪平も久原に誘われ入社しています。浪平とは、上司と部下の関係に成りますが、年齢的に5歳しか離れていなかったことで、同志のような関係でもあり、支援者だったと言われています。
碑陰には、元副社長の高尾直三郎氏による碑文が刻されています。
石碑「小平浪平生誕地」の碑陰.jpg石碑「小平浪平生誕地」の碑陰(碑文).jpg
この石碑は、碑文にも記されている通り、日立製作所創業50周年を記念して、昭和35年10月5日建てられました。
門を入ると左手に母屋の玄関口が有ります。玄関に入って部屋の中を見ると、室内には多くの屏風や欄間額、そして調度品が展示されています。
室内の様子.jpg
その中に、浪平が「母親」を描いたという、直筆画を見ることが出来ました。
母屋の東側には、浪平が14歳で上京するまで、勉学に励んだとする、勉強小屋や、釣瓶井戸、浪平の父・惣八が家業の鉛丹の製造をしていた作業小屋などを、見学出来ました。
勉強小屋.jpg釣瓶井戸.jpg
作業小屋には、当時製造していた鉛丹のサンプルが展示されていました。
作業小屋.jpg鉛丹見本.jpg
ちなみに「鉛丹」とは、金属の鉛を加熱、空気中の酸素と反応させ「一酸化鉛」とし、更に加熱を加えて製造される。鉛丹は鉛中毒の危険性が高い。用途は赤色塗料や錆止め塗料として使用される。戦艦など船の底に塗り、航行性能を維持する為に使用されている。

見学をした日は、前日に雨が降っていた為、紅く色づいたモミジの葉が、庭に散っていて、華やかに装っていました。
浪平生家の庭1.jpg浪平生家の庭2.jpg

※現在、小平浪平生家の敷地内見学については、「栃木市役所総合政策課」に問い合わせの上、事前予約をする必要があるそうです。

生家の見学後、都賀インターから北関東自動車道を東に、更に常磐自動車道に乗り換え北上、日立市大みか町に移動。「日立オリジンパーク」内に有る、「小平記念館」や「創業小屋」の見学をしました。
日立オリジンパーク入口.jpg小平記念館1.jpg
見学の前に施設スタッフの方から、「日立オリジンパーク」の概略説明が有りました。
社員の福利厚生の為のゴルフ場.jpg
施設の南側にはゴルフ場が広がっています。この「大みかゴルフクラブ」は、小平浪平が社員の娯楽と外国賓客の接待を目的に建設したもので、昭和11年(1936)10月11日、「日立ゴルフ倶楽部」として、茨城県最初のゴルフ場として完成しています。当初は18ホールでしたが、戦争中の食料難で一部が農地化された為、現在は8ホール。隣の大学敷地も元ゴルフコースの有ったところ等、説明が有りました。小平浪平翁の理念「和を以て貴しとなす」が、ここにも現れていることがよくわかります。

小平記念館の展示ホールには、日立の企業理念や創業の精神である和・誠・開拓者精神等が、事例とともに展示紹介されています。
小平記念館4.jpg小平記念館5.jpg

復元された「創業小屋」
復元された創業小屋.jpg
建屋の中には「創業小屋」について案内が有りましたので、抜粋させて頂きます。
<1953年、創業者小平浪平より教えを受けた高尾直三郎の発案により日立製作所・海岸工場の高台に整備された創業の聖地、小平台。戦争の犠牲者を悼み、小平の偉業を伝える場として植樹された。その地に、1956年、日立製作所の源泉である、久原鉱業所日立鉱山の工作課修理工場が復元された。高尾ら創業メンバー念願の復元であり、関係者の回想と写真によって半世紀ぶりによみがえったその建物は「創業小屋」と名付けられた。(中略)2021年、創業小屋は大みかの地にうつり、新たな聖地のシンボルとして、創業の精神を未来へとつないでいる。>と。
創業小屋の内部には、1910年初の純国産5馬力誘導電動機が、実際に動く状態で展示されています。パネルの「START」ボタンを押すと、同時に大きな駆動音を発してモーターが回転、ベルトを介して横に据え付けられた「ラジアルボール盤」の主軸が回転する。こうして、今も現役で動くことを見せています。
5馬力誘導電動機実機運転.jpg純国産のモーターを作る.jpg

あらためて、小平浪平翁が偉大で、素晴らしい人であったことを、知ることが出来ました。

今回の参考資料:
・栃木市 小平浪平顕彰ツアー資料 合戦場の知名度を全国区にする会作成
・「小平浪平生誕地」リーフレット 栃木市発行
・「日立オリジンパーク」リーフレット (株)日立製作所 日立オリジンパーク発行
・「技術王国・日立をつくった男ー創業者小平浪平伝」 加藤勝美著 PHP研究所発行
・「都賀町史 歴史編」 都賀町発行
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ある陶芸家の個展を見て

昨年の秋、ある陶芸家の個展の案内状が、郵送されてきました。
最初はその差出人に、ピンときませんでした。「誰からだろうか」と。 そして、案内状を読んでいるうちに、思い当たりました。
昨年の夏ごろだったか、栃木市湊町「お茶の小井沼」の店舗と蔵を使って、行われていた、その陶芸家の作品展を見に行き、記帳をして来た事が有りました。
この作家の作品は、チョッと変わっていて、お茶碗や花瓶などと言うものでは無く、私たちが家庭で日常的に使っている、例えば「ノートパソコン」とか、「文房具」などを、実物大でその形状を再現させているのです。
今回の案内状には、自転車が、それも本物と見間違うようなリアルさ。その作品に興味を抱いて、見に行ってきました。作品「自転車」.jpg

個展「私」の会場は、「大久保分校スタートアップミュージアム」という、栃木県足利市大久保町にある、廃校を改築した美術館です。その住所からグーグルマップで検索して、行ってきました。
展示会場の旧大久保分校.jpg

場所は、足利フラワーパークの西方、田園地帯の真ん中、分校の敷地の南側には「尾名川」と言う小河川が流れ、そこに架かる「分校橋」を渡っていく。車を校庭跡に止め、展示会場の校舎に入りました。

初めに目を引いたのは、廊下に架かっている「カーテン」です。
廊下のカーテン.jpg
これも作品です。本当にカーテンそのものです。ふと開いて窓の外の風景を見たくなります。そこにはどのような風景が広がっているのか。

教室の中に入ります。有りました、案内状に出ていた「自転車」です。
作品「自転車」3.jpg作品「自転車」2.jpg

作者が8年間乗り続けた自転車を、実寸サイズで作られているそうです。とても土をこねて、成型して焼いた「陶器」とは思えません。
私が子供の頃、家は自転車店を営んでいました。その為、ついつい細かいところを観察していました。
「フレーム」は婦人用。「ハンドル」はセミアップタイプ、お洒落なかご付で、フルカバーチェーンケース、まさに昭和の自転車です。
でも、車輪のスポークが有りません。自動車のタイヤに付いているホイルの役目をする。車軸とタイヤを連結する部品です。
子どもの頃、この自転車の車輪の組み立てを手伝いました。車軸側のハブとタイヤ側のリムとを、スポークで連結させるのですが、これは結構慣れるまでは難しかったです。
組み立てたホイルを父が、スポークの張りを調整して、車輪がブレずに回転するようにします。次の写真が「ホイールの調整作業」です。
1975年9月スポークの張り調整.jpg

スポークは細い金属製の部品ですから、陶器で再現することは困難でしょうが、考えてみると作者の意図はもっと深い気がします。
この自転車の作品は、動いている、走っている所を表現しているからです。
見ると、止まっている時、倒れないように後輪に付いた「スタンド」を下ろしますが、この作品はそのスタンドも上がっています。走っているからです。その時車輪は回転をしている為、スポークは見えなくなっているはずです。これでリアルだったのです。

他の作品も見てみます。
バケツに注ぐ.jpg如雨露に注ぐ.jpg

バックに注いじゃう!.jpg脱ぎ捨てられた靴下.jpg

とても陶器とは思えない作品が並んでいました。

案内状によると、この個展は2月2日(日)までだそうです、金・土・日・祝の10:00~17:00の開館ですから、残すところ今週末と来週末だけに成っています。
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大平町真弓、諏訪神社境内に建つ石碑を巡る。 [石碑]

令和六年、最初の石碑巡りは、栃木市大平町真弓の、磯山に鎮座する諏訪神社の、境内に建てられている、五基の石碑を見て廻りたいと思います。
諏訪神社拝殿.jpg
(大平町真弓磯山の南側中腹に鎮座する諏訪神社の社殿)
拝殿大棟の竜の装飾.jpg
(拝殿の大棟に施されている、龍の装飾が珍しいです。)

「栃木県神社誌」(昭和39年2月11日 栃木県神社庁発行)によると、
<諏訪神社 旧郷社 下都賀郡大平町(現在、栃木市大平町)真弓1,531番地 
 主祭神:建御名方命(タケミナカタノミコト)、境内神社:竜神社・猿田彦神社・白山神社・朏神社 
 由緒沿革:藤原秀郷が、平将門を征討の時、信濃国一の宮諏訪神社に祈願し、神助により勝利を得たという。それで、この神を勧請したといわれている。これが承平二巳年二月である。明治五年郷社となり、同十年村社となり、また同二十八年十二月二十四日郷社となった。>と、掲載されています。
※この諏訪神社については、2016年2月7日付けにて、公開をしておりますので、そちらもお訪ね下さい。

さて、最初に紹介する石碑は、背の高い杉木立が並ぶ、参道の中程、社殿方向を向いて右手の木立の中に、目に触れることなく建っている石碑です。
諏訪神社参道.jpg
(諏訪神社参道、杉木立の並木の奥に社殿を望む)
頌徳碑(参道脇).jpg
(参道脇、木立の中に埋もれる様に建つ、最初の石碑)
碑陰には、「御大典記念 下都賀郡農會建之 後援瑞穂村」と中央に大きく刻まれています。

まず、近くによって石碑の上部の篆額を確認します。
「頌徳碑」篆額部分拡大.jpg
「頌徳碑」と刻されています。揮毫された人物は、「関屋貞三郎」大正十年から昭和八年まで、第11代宮内次官を務めた、足利郡御厨町(現在足利市)出身の官僚・政治家です。
「頌徳碑」とは、功徳を褒めたたえる碑と言う事で、それではどんな人物か、碑文を確認していきたいと思います。
頌徳碑(碑文).jpg
(頌徳碑の碑文を書き写しました。幸い私の苦手な漢文体で無く、読み移すことが出来ました。)

その人物とは、「山田健次郎」と言い、碑文によると
<山田君は東京小石川の人にして、栃木県下都賀郡瑞穂村の名家、川連氏の出、維新回天の志士、川連義路君を祖父とす、先考甲子次郎君は義路君の次男、出て山田家を嗣ぎ、拮据経営東都財界の先覚者として重きをなし・・・・(後略)>と刻されています。そして、
<我国農業の不振、農民の疲弊を憂い、大正十三年親考に謀りて其の旧郷瑞穂村農會に金三千円を贈り、同農會の事業を援助し、大正十四年其の家統を襲ぐや遺志に因り下都賀郡農會に対し、農村振興基金として金三万円を寄付せらる・・・(後略)>と続きます。
こうして寄せられた基財を以て、下都賀農會は諸般の事業を施設、多大の成果を上げることが出来たとして「山田健次郎」頌徳碑建設を議決して、御大典記念事業の一環として、この石碑が建てられたようです。

次の石碑へ向かいます。参道を進み石段を上がり、社殿に参拝してから、拝殿に向かって左手方向に進むと、道はふたてに別れ、それぞれに石の鳥居が建てられています。左手の鳥居に掲げられている「神額」に「愛宕神社」と有り、右手の鳥居には神額は掲げられていません。それぞれの鳥居の先には、小さな石の祠が祀られています。
愛宕神社鳥居.jpg八幡宮鳥居.jpg

次の石碑は右手の鳥居を潜った先、石の祠の左手手前に建っています。ちなみに脇の石の祠には「八幡宮」の幣帛が祀られていました。石碑を確認します。
戦捷築造記念之碑.jpg
鬱蒼とした杉木立の中、光が届かない為薄暗い中に石碑は建っています。篆額を確認します。
「戦捷築造記念之碑」篆額部分拡大.jpg

篆字体を読み解くと「戦捷築造記念之碑」と浮彫されています。揮毫されたのは、下野国宇都宮藩最後の藩主「戸田忠友」です。
碑文を見ます。
戦捷築造記念之碑(碑文).jpg
碑文は「前皇大神宮禰宜 岡吉胤」の撰。碑文を書いたのは、「郷社諏訪神社社司 大和田茂教」。
個の石碑は明治38年10月、郷社諏訪神社により建立されています。
碑文は苦手な漢文体で、読み下せませんが、意味としては「明治37年2月、我が国はロシアに対して宣戦を布告、陸海軍の連戦連勝により、旅順や遼陽を占領、勝利を収めた。参加した兵士には氏子や信徒もいたが、郷社諏訪神社に戦勝を祈願、その霊験が有った。氏子らお金を拠出して神社へのお礼として、「標示石一基、石垣三段、石坂一所を築造」し、陸海軍人の武運栄盛を祈願した、その記念としてこの石碑を建立したと読める。碑陰には醵金された人たちの金額と芳名及び発起者の名前がビッシリと並んでいます。明治38年10月の日付が確認できます。アメリカのポーツマスにて日露講和条約が調印された翌月です。

次の石碑は更にそこから坂を上り、磯山の山頂に向かいます。山頂は岩肌が露出しています。そこに二基の石碑が建っています。
磯山山頂域に建つ石碑.jpg
(写真左側に背の高い石碑、右側に少し小ぶりな石碑が見えます。右後方の円筒の建造物は、水槽で、昭和18年(株)日立製作所栃木工場が、この地に操業を開始した際、工場の工業用水供給の為建造され、昭和40年まで重要な役割を果たしたものです。)

まず、小さい石碑から見ていきます。
鳥居建設記念之碑(磯山山頂).jpg
篆額部分を拡大します。
「鳥居建設記念之碑」篆額部分拡大.jpg
篆書体の文字にて「鳥居建設記念の碑」と刻されています。揮毫者は上記石碑と同一人物で、戸田忠友です。この時の官位は「正三位」で上記石碑の「従三位」から昇叙されていることが分かります。ちなみに戸田忠友は最終的に「従二位・勲三等瑞宝章」に昇叙されました。
碑文を確認します。
鳥居建設記念之碑(碑文).jpg
碑文を撰した人物は、栃木県師範学校長の「安達常正」漢学者で号を「外山人」。碑文を書いたのは前の「戦捷築造記念の碑」と同じく、諏訪神社社司の「大和田茂教」です。
碑文内容は、同じく漢文体で読み下すことは出来ません。ただただ理解できる地名や人物名から、推し量るに前半は郷社須賀神社の由緒が記されていることが分かるのみです。
碑陰の上部に「大正七年十月」の日付。その下方に寄付者芳名一覧、そして最下段に発起者名が並んでいます。

次に大きい方の石碑を確認します。
昇格記念碑(磯山山頂).jpg
この石碑、今回巡った5基の石碑の中で最も日当りの良い場所に建てられています。石碑左下方に割れが認められ、碑文を書かれた人物の苗字が判読出来なくなっていました。
篆額の確認です。
「昇格記念碑」篆額部分拡大.jpg

篆書体で「昇格記念碑」と刻されています。揮毫をした人物は、「天穂日命(アメノホヒノミコト)の八十代の孫、出雲國造、正三位勲一等男爵、千家尊福」です。
碑陰に刻まれた文字は、苔類が繁殖して、読み取るのが大変です。読み取れた文字は、
「真弓氏子一同建之」「大正十二年十月九日」でした。
碑文を見ていきます。
昇格記念碑(碑文).jpg
これもまた漢文体です。それだけでも頭を抱えるのに、この碑文に使われている漢字自体が、見たこともない字で溢れています。旧字や異体字、更に私のパソコンでは出てこない字も有り、全文を読み下すことは、私には到底無理、ただ分かる漢字からひも解くと、碑文のおおよその内容は思い浮かんできます。
内容的には、この「郷社諏訪神社」の由緒が記されています。
篆額に刻まれた「昇格記念」とは、神社の沿革にも有ったように、ここ須賀神社は、明治5年に郷社であったが、明治10年に村社に降格、その後明治28年12月24日郷社に昇格していることから、この昇格を記念する形で、建碑されたものと思われます。
ただ、疑問に思うのは、なぜ昇格してから28年も経っての、記念碑建立となったのかです。疑問は残ります。

それでは最後、5基目の石碑を巡ります。
5番目の石碑の場所は、一度拝殿前まで戻り、今度は拝殿に向かって右手方向に進み、社殿を回り込むように、社殿の北東側の木立の中に、その石碑は建てられています。
□忠碑.jpg
(木立の中の石碑の前まで、石畳が敷かれています。)
何時ものように、まず「篆額」の文字を確認します。
「□忠碑」篆額部分拡大.jpg
やはり篆書体で刻まれています。が、その最初の文字が何と書かれているのか、いろいろ調べてみましたが、これという字が見つかりませんでした。「?忠碑」、形から「余」の様に見えますが、「余忠」という熟語も見つからない。
この篆額の文字を揮毫した人物は、当時の陸軍大将「鮫島重雄」です。

篆額の意味はこれ以上分からないので、碑文を見ていきたいと思います。
余忠碑(碑文)更新.jpg

碑文の冒頭に名前が出てきます、「川連義路」です。最初の石碑に出てきた名前です。最初の頌徳碑の人物「山田健次郎」の祖父に当たる人物です。
やはり漢文体ですが、分かるところを読んでみたいと思います。
<川連義路君、通称は虎一郎、父は義種、母は富田氏、天保13年7月、下野国都賀郡真弓村で、代々関宿領の庄屋の家に生まれました。>
<文久の初め、江戸に出て、儒学を大橋正順より究する。>
<藤田信らが、太平山に立てこもった時、お金や食料を贈り応援をし、自ら江戸に出て必要な武器を買い付け、帰って来た時、すでに藤田信らは立ち去って、筑波山に行っていた。君は同志に合流しようとしたが、事が露呈して阻まれ、江戸に逃げたが、幕使に捕らえられ、洲崎において首を刎ねられ、屍は海中に投棄されてしまった。>
<元治元年八月三日、享年僅か23歳であった。>
<関宿藩主、それを伝え聞き、大変心を痛め、長男の義直に家を継がせ、次男の義次に扶持米2人扶持を付けた。>ここの理解は誤訳が有るかも。
<明治22年11月、朝廷はその忠勤に対し靖国神社に合祀された。>
<大正4年11月、今上天皇の即位の儀式において、従五位を贈られた。>
<里人、こうした彼の行いを徳とし、郷里の誉をいつまでも伝えようと、産土神の祠の傍らに、建碑することを欲した。>
このような内容と読み解いたが、他にも上手く読み解けない部分も多い。
 
碑陰には、「大正十一年十月九日 大字真弓一同建之」と刻まれております。

今、磯山の山頂に立つと、北西に太平の山並みを、更にその北奥に男体山や日光連山の山々を望み、眼下には改良復旧工事を進める、永野川を見ることが出来ます。
磯山山頂からの展望1.jpg

今年1年、また石碑の漢文体に、無い頭を悩ませそうです。今回も辞書と首っ引きで、碑文に向かいました。


今回参考にした資料:
・栃木県神社誌 (昭和39年2月11日 栃木県神社庁発行)
・栃木県市町村誌 (昭和30年8月20日 栃木県町村会発行)




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蝋梅三景 [自然の恵み]

昨日の夕方から雪が降りだし、今朝は雪景色の中に有りました。
令和6年最初のブログは、庭に咲く「蝋梅」を三景掲載します。

第1景:昼の光の中で。1月10日12時頃、撮影
午前の蝋梅.jpg午前の蝋梅2.jpg

第二景:夕日に照らされて。1月12日16時頃、撮影
午後の蝋梅.jpg午後の蝋梅2.jpg

第三景:雪を載せて。1月14日10時頃、撮影
雪と蝋梅.jpg雪と蝋梅2.jpg
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