大平町真弓、諏訪神社境内に建つ石碑を巡る。 [石碑]
令和六年、最初の石碑巡りは、栃木市大平町真弓の、磯山に鎮座する諏訪神社の、境内に建てられている、五基の石碑を見て廻りたいと思います。
(大平町真弓磯山の南側中腹に鎮座する諏訪神社の社殿)
(拝殿の大棟に施されている、龍の装飾が珍しいです。)
「栃木県神社誌」(昭和39年2月11日 栃木県神社庁発行)によると、
<諏訪神社 旧郷社 下都賀郡大平町(現在、栃木市大平町)真弓1,531番地
主祭神:建御名方命(タケミナカタノミコト)、境内神社:竜神社・猿田彦神社・白山神社・朏神社
由緒沿革:藤原秀郷が、平将門を征討の時、信濃国一の宮諏訪神社に祈願し、神助により勝利を得たという。それで、この神を勧請したといわれている。これが承平二巳年二月である。明治五年郷社となり、同十年村社となり、また同二十八年十二月二十四日郷社となった。>と、掲載されています。
※この諏訪神社については、2016年2月7日付けにて、公開をしておりますので、そちらもお訪ね下さい。
さて、最初に紹介する石碑は、背の高い杉木立が並ぶ、参道の中程、社殿方向を向いて右手の木立の中に、目に触れることなく建っている石碑です。
(諏訪神社参道、杉木立の並木の奥に社殿を望む)
(参道脇、木立の中に埋もれる様に建つ、最初の石碑)
碑陰には、「御大典記念 下都賀郡農會建之 後援瑞穂村」と中央に大きく刻まれています。
まず、近くによって石碑の上部の篆額を確認します。
「頌徳碑」と刻されています。揮毫された人物は、「関屋貞三郎」大正十年から昭和八年まで、第11代宮内次官を務めた、足利郡御厨町(現在足利市)出身の官僚・政治家です。
「頌徳碑」とは、功徳を褒めたたえる碑と言う事で、それではどんな人物か、碑文を確認していきたいと思います。
(頌徳碑の碑文を書き写しました。幸い私の苦手な漢文体で無く、読み移すことが出来ました。)
その人物とは、「山田健次郎」と言い、碑文によると
<山田君は東京小石川の人にして、栃木県下都賀郡瑞穂村の名家、川連氏の出、維新回天の志士、川連義路君を祖父とす、先考甲子次郎君は義路君の次男、出て山田家を嗣ぎ、拮据経営東都財界の先覚者として重きをなし・・・・(後略)>と刻されています。そして、
<我国農業の不振、農民の疲弊を憂い、大正十三年親考に謀りて其の旧郷瑞穂村農會に金三千円を贈り、同農會の事業を援助し、大正十四年其の家統を襲ぐや遺志に因り下都賀郡農會に対し、農村振興基金として金三万円を寄付せらる・・・(後略)>と続きます。
こうして寄せられた基財を以て、下都賀農會は諸般の事業を施設、多大の成果を上げることが出来たとして「山田健次郎」頌徳碑建設を議決して、御大典記念事業の一環として、この石碑が建てられたようです。
次の石碑へ向かいます。参道を進み石段を上がり、社殿に参拝してから、拝殿に向かって左手方向に進むと、道はふたてに別れ、それぞれに石の鳥居が建てられています。左手の鳥居に掲げられている「神額」に「愛宕神社」と有り、右手の鳥居には神額は掲げられていません。それぞれの鳥居の先には、小さな石の祠が祀られています。
次の石碑は右手の鳥居を潜った先、石の祠の左手手前に建っています。ちなみに脇の石の祠には「八幡宮」の幣帛が祀られていました。石碑を確認します。
鬱蒼とした杉木立の中、光が届かない為薄暗い中に石碑は建っています。篆額を確認します。
篆字体を読み解くと「戦捷築造記念之碑」と浮彫されています。揮毫されたのは、下野国宇都宮藩最後の藩主「戸田忠友」です。
碑文を見ます。
碑文は「前皇大神宮禰宜 岡吉胤」の撰。碑文を書いたのは、「郷社諏訪神社社司 大和田茂教」。
個の石碑は明治38年10月、郷社諏訪神社により建立されています。
碑文は苦手な漢文体で、読み下せませんが、意味としては「明治37年2月、我が国はロシアに対して宣戦を布告、陸海軍の連戦連勝により、旅順や遼陽を占領、勝利を収めた。参加した兵士には氏子や信徒もいたが、郷社諏訪神社に戦勝を祈願、その霊験が有った。氏子らお金を拠出して神社へのお礼として、「標示石一基、石垣三段、石坂一所を築造」し、陸海軍人の武運栄盛を祈願した、その記念としてこの石碑を建立したと読める。碑陰には醵金された人たちの金額と芳名及び発起者の名前がビッシリと並んでいます。明治38年10月の日付が確認できます。アメリカのポーツマスにて日露講和条約が調印された翌月です。
次の石碑は更にそこから坂を上り、磯山の山頂に向かいます。山頂は岩肌が露出しています。そこに二基の石碑が建っています。
(写真左側に背の高い石碑、右側に少し小ぶりな石碑が見えます。右後方の円筒の建造物は、水槽で、昭和18年(株)日立製作所栃木工場が、この地に操業を開始した際、工場の工業用水供給の為建造され、昭和40年まで重要な役割を果たしたものです。)
まず、小さい石碑から見ていきます。
篆額部分を拡大します。
篆書体の文字にて「鳥居建設記念の碑」と刻されています。揮毫者は上記石碑と同一人物で、戸田忠友です。この時の官位は「正三位」で上記石碑の「従三位」から昇叙されていることが分かります。ちなみに戸田忠友は最終的に「従二位・勲三等瑞宝章」に昇叙されました。
碑文を確認します。
碑文を撰した人物は、栃木県師範学校長の「安達常正」漢学者で号を「外山人」。碑文を書いたのは前の「戦捷築造記念の碑」と同じく、諏訪神社社司の「大和田茂教」です。
碑文内容は、同じく漢文体で読み下すことは出来ません。ただただ理解できる地名や人物名から、推し量るに前半は郷社須賀神社の由緒が記されていることが分かるのみです。
碑陰の上部に「大正七年十月」の日付。その下方に寄付者芳名一覧、そして最下段に発起者名が並んでいます。
次に大きい方の石碑を確認します。
この石碑、今回巡った5基の石碑の中で最も日当りの良い場所に建てられています。石碑左下方に割れが認められ、碑文を書かれた人物の苗字が判読出来なくなっていました。
篆額の確認です。
篆書体で「昇格記念碑」と刻されています。揮毫をした人物は、「天穂日命(アメノホヒノミコト)の八十代の孫、出雲國造、正三位勲一等男爵、千家尊福」です。
碑陰に刻まれた文字は、苔類が繁殖して、読み取るのが大変です。読み取れた文字は、
「真弓氏子一同建之」「大正十二年十月九日」でした。
碑文を見ていきます。
これもまた漢文体です。それだけでも頭を抱えるのに、この碑文に使われている漢字自体が、見たこともない字で溢れています。旧字や異体字、更に私のパソコンでは出てこない字も有り、全文を読み下すことは、私には到底無理、ただ分かる漢字からひも解くと、碑文のおおよその内容は思い浮かんできます。
内容的には、この「郷社諏訪神社」の由緒が記されています。
篆額に刻まれた「昇格記念」とは、神社の沿革にも有ったように、ここ須賀神社は、明治5年に郷社であったが、明治10年に村社に降格、その後明治28年12月24日郷社に昇格していることから、この昇格を記念する形で、建碑されたものと思われます。
ただ、疑問に思うのは、なぜ昇格してから28年も経っての、記念碑建立となったのかです。疑問は残ります。
それでは最後、5基目の石碑を巡ります。
5番目の石碑の場所は、一度拝殿前まで戻り、今度は拝殿に向かって右手方向に進み、社殿を回り込むように、社殿の北東側の木立の中に、その石碑は建てられています。
(木立の中の石碑の前まで、石畳が敷かれています。)
何時ものように、まず「篆額」の文字を確認します。
やはり篆書体で刻まれています。が、その最初の文字が何と書かれているのか、いろいろ調べてみましたが、これという字が見つかりませんでした。「?忠碑」、形から「余」の様に見えますが、「余忠」という熟語も見つからない。
この篆額の文字を揮毫した人物は、当時の陸軍大将「鮫島重雄」です。
篆額の意味はこれ以上分からないので、碑文を見ていきたいと思います。
碑文の冒頭に名前が出てきます、「川連義路」です。最初の石碑に出てきた名前です。最初の頌徳碑の人物「山田健次郎」の祖父に当たる人物です。
やはり漢文体ですが、分かるところを読んでみたいと思います。
<川連義路君、通称は虎一郎、父は義種、母は富田氏、天保13年7月、下野国都賀郡真弓村で、代々関宿領の庄屋の家に生まれました。>
<文久の初め、江戸に出て、儒学を大橋正順より究する。>
<藤田信らが、太平山に立てこもった時、お金や食料を贈り応援をし、自ら江戸に出て必要な武器を買い付け、帰って来た時、すでに藤田信らは立ち去って、筑波山に行っていた。君は同志に合流しようとしたが、事が露呈して阻まれ、江戸に逃げたが、幕使に捕らえられ、洲崎において首を刎ねられ、屍は海中に投棄されてしまった。>
<元治元年八月三日、享年僅か23歳であった。>
<関宿藩主、それを伝え聞き、大変心を痛め、長男の義直に家を継がせ、次男の義次に扶持米2人扶持を付けた。>ここの理解は誤訳が有るかも。
<明治22年11月、朝廷はその忠勤に対し靖国神社に合祀された。>
<大正4年11月、今上天皇の即位の儀式において、従五位を贈られた。>
<里人、こうした彼の行いを徳とし、郷里の誉をいつまでも伝えようと、産土神の祠の傍らに、建碑することを欲した。>
このような内容と読み解いたが、他にも上手く読み解けない部分も多い。
碑陰には、「大正十一年十月九日 大字真弓一同建之」と刻まれております。
今、磯山の山頂に立つと、北西に太平の山並みを、更にその北奥に男体山や日光連山の山々を望み、眼下には改良復旧工事を進める、永野川を見ることが出来ます。
今年1年、また石碑の漢文体に、無い頭を悩ませそうです。今回も辞書と首っ引きで、碑文に向かいました。
今回参考にした資料:
・栃木県神社誌 (昭和39年2月11日 栃木県神社庁発行)
・栃木県市町村誌 (昭和30年8月20日 栃木県町村会発行)
(大平町真弓磯山の南側中腹に鎮座する諏訪神社の社殿)
(拝殿の大棟に施されている、龍の装飾が珍しいです。)
「栃木県神社誌」(昭和39年2月11日 栃木県神社庁発行)によると、
<諏訪神社 旧郷社 下都賀郡大平町(現在、栃木市大平町)真弓1,531番地
主祭神:建御名方命(タケミナカタノミコト)、境内神社:竜神社・猿田彦神社・白山神社・朏神社
由緒沿革:藤原秀郷が、平将門を征討の時、信濃国一の宮諏訪神社に祈願し、神助により勝利を得たという。それで、この神を勧請したといわれている。これが承平二巳年二月である。明治五年郷社となり、同十年村社となり、また同二十八年十二月二十四日郷社となった。>と、掲載されています。
※この諏訪神社については、2016年2月7日付けにて、公開をしておりますので、そちらもお訪ね下さい。
さて、最初に紹介する石碑は、背の高い杉木立が並ぶ、参道の中程、社殿方向を向いて右手の木立の中に、目に触れることなく建っている石碑です。
(諏訪神社参道、杉木立の並木の奥に社殿を望む)
(参道脇、木立の中に埋もれる様に建つ、最初の石碑)
碑陰には、「御大典記念 下都賀郡農會建之 後援瑞穂村」と中央に大きく刻まれています。
まず、近くによって石碑の上部の篆額を確認します。
「頌徳碑」と刻されています。揮毫された人物は、「関屋貞三郎」大正十年から昭和八年まで、第11代宮内次官を務めた、足利郡御厨町(現在足利市)出身の官僚・政治家です。
「頌徳碑」とは、功徳を褒めたたえる碑と言う事で、それではどんな人物か、碑文を確認していきたいと思います。
(頌徳碑の碑文を書き写しました。幸い私の苦手な漢文体で無く、読み移すことが出来ました。)
その人物とは、「山田健次郎」と言い、碑文によると
<山田君は東京小石川の人にして、栃木県下都賀郡瑞穂村の名家、川連氏の出、維新回天の志士、川連義路君を祖父とす、先考甲子次郎君は義路君の次男、出て山田家を嗣ぎ、拮据経営東都財界の先覚者として重きをなし・・・・(後略)>と刻されています。そして、
<我国農業の不振、農民の疲弊を憂い、大正十三年親考に謀りて其の旧郷瑞穂村農會に金三千円を贈り、同農會の事業を援助し、大正十四年其の家統を襲ぐや遺志に因り下都賀郡農會に対し、農村振興基金として金三万円を寄付せらる・・・(後略)>と続きます。
こうして寄せられた基財を以て、下都賀農會は諸般の事業を施設、多大の成果を上げることが出来たとして「山田健次郎」頌徳碑建設を議決して、御大典記念事業の一環として、この石碑が建てられたようです。
次の石碑へ向かいます。参道を進み石段を上がり、社殿に参拝してから、拝殿に向かって左手方向に進むと、道はふたてに別れ、それぞれに石の鳥居が建てられています。左手の鳥居に掲げられている「神額」に「愛宕神社」と有り、右手の鳥居には神額は掲げられていません。それぞれの鳥居の先には、小さな石の祠が祀られています。
次の石碑は右手の鳥居を潜った先、石の祠の左手手前に建っています。ちなみに脇の石の祠には「八幡宮」の幣帛が祀られていました。石碑を確認します。
鬱蒼とした杉木立の中、光が届かない為薄暗い中に石碑は建っています。篆額を確認します。
篆字体を読み解くと「戦捷築造記念之碑」と浮彫されています。揮毫されたのは、下野国宇都宮藩最後の藩主「戸田忠友」です。
碑文を見ます。
碑文は「前皇大神宮禰宜 岡吉胤」の撰。碑文を書いたのは、「郷社諏訪神社社司 大和田茂教」。
個の石碑は明治38年10月、郷社諏訪神社により建立されています。
碑文は苦手な漢文体で、読み下せませんが、意味としては「明治37年2月、我が国はロシアに対して宣戦を布告、陸海軍の連戦連勝により、旅順や遼陽を占領、勝利を収めた。参加した兵士には氏子や信徒もいたが、郷社諏訪神社に戦勝を祈願、その霊験が有った。氏子らお金を拠出して神社へのお礼として、「標示石一基、石垣三段、石坂一所を築造」し、陸海軍人の武運栄盛を祈願した、その記念としてこの石碑を建立したと読める。碑陰には醵金された人たちの金額と芳名及び発起者の名前がビッシリと並んでいます。明治38年10月の日付が確認できます。アメリカのポーツマスにて日露講和条約が調印された翌月です。
次の石碑は更にそこから坂を上り、磯山の山頂に向かいます。山頂は岩肌が露出しています。そこに二基の石碑が建っています。
(写真左側に背の高い石碑、右側に少し小ぶりな石碑が見えます。右後方の円筒の建造物は、水槽で、昭和18年(株)日立製作所栃木工場が、この地に操業を開始した際、工場の工業用水供給の為建造され、昭和40年まで重要な役割を果たしたものです。)
まず、小さい石碑から見ていきます。
篆額部分を拡大します。
篆書体の文字にて「鳥居建設記念の碑」と刻されています。揮毫者は上記石碑と同一人物で、戸田忠友です。この時の官位は「正三位」で上記石碑の「従三位」から昇叙されていることが分かります。ちなみに戸田忠友は最終的に「従二位・勲三等瑞宝章」に昇叙されました。
碑文を確認します。
碑文を撰した人物は、栃木県師範学校長の「安達常正」漢学者で号を「外山人」。碑文を書いたのは前の「戦捷築造記念の碑」と同じく、諏訪神社社司の「大和田茂教」です。
碑文内容は、同じく漢文体で読み下すことは出来ません。ただただ理解できる地名や人物名から、推し量るに前半は郷社須賀神社の由緒が記されていることが分かるのみです。
碑陰の上部に「大正七年十月」の日付。その下方に寄付者芳名一覧、そして最下段に発起者名が並んでいます。
次に大きい方の石碑を確認します。
この石碑、今回巡った5基の石碑の中で最も日当りの良い場所に建てられています。石碑左下方に割れが認められ、碑文を書かれた人物の苗字が判読出来なくなっていました。
篆額の確認です。
篆書体で「昇格記念碑」と刻されています。揮毫をした人物は、「天穂日命(アメノホヒノミコト)の八十代の孫、出雲國造、正三位勲一等男爵、千家尊福」です。
碑陰に刻まれた文字は、苔類が繁殖して、読み取るのが大変です。読み取れた文字は、
「真弓氏子一同建之」「大正十二年十月九日」でした。
碑文を見ていきます。
これもまた漢文体です。それだけでも頭を抱えるのに、この碑文に使われている漢字自体が、見たこともない字で溢れています。旧字や異体字、更に私のパソコンでは出てこない字も有り、全文を読み下すことは、私には到底無理、ただ分かる漢字からひも解くと、碑文のおおよその内容は思い浮かんできます。
内容的には、この「郷社諏訪神社」の由緒が記されています。
篆額に刻まれた「昇格記念」とは、神社の沿革にも有ったように、ここ須賀神社は、明治5年に郷社であったが、明治10年に村社に降格、その後明治28年12月24日郷社に昇格していることから、この昇格を記念する形で、建碑されたものと思われます。
ただ、疑問に思うのは、なぜ昇格してから28年も経っての、記念碑建立となったのかです。疑問は残ります。
それでは最後、5基目の石碑を巡ります。
5番目の石碑の場所は、一度拝殿前まで戻り、今度は拝殿に向かって右手方向に進み、社殿を回り込むように、社殿の北東側の木立の中に、その石碑は建てられています。
(木立の中の石碑の前まで、石畳が敷かれています。)
何時ものように、まず「篆額」の文字を確認します。
やはり篆書体で刻まれています。が、その最初の文字が何と書かれているのか、いろいろ調べてみましたが、これという字が見つかりませんでした。「?忠碑」、形から「余」の様に見えますが、「余忠」という熟語も見つからない。
この篆額の文字を揮毫した人物は、当時の陸軍大将「鮫島重雄」です。
篆額の意味はこれ以上分からないので、碑文を見ていきたいと思います。
碑文の冒頭に名前が出てきます、「川連義路」です。最初の石碑に出てきた名前です。最初の頌徳碑の人物「山田健次郎」の祖父に当たる人物です。
やはり漢文体ですが、分かるところを読んでみたいと思います。
<川連義路君、通称は虎一郎、父は義種、母は富田氏、天保13年7月、下野国都賀郡真弓村で、代々関宿領の庄屋の家に生まれました。>
<文久の初め、江戸に出て、儒学を大橋正順より究する。>
<藤田信らが、太平山に立てこもった時、お金や食料を贈り応援をし、自ら江戸に出て必要な武器を買い付け、帰って来た時、すでに藤田信らは立ち去って、筑波山に行っていた。君は同志に合流しようとしたが、事が露呈して阻まれ、江戸に逃げたが、幕使に捕らえられ、洲崎において首を刎ねられ、屍は海中に投棄されてしまった。>
<元治元年八月三日、享年僅か23歳であった。>
<関宿藩主、それを伝え聞き、大変心を痛め、長男の義直に家を継がせ、次男の義次に扶持米2人扶持を付けた。>ここの理解は誤訳が有るかも。
<明治22年11月、朝廷はその忠勤に対し靖国神社に合祀された。>
<大正4年11月、今上天皇の即位の儀式において、従五位を贈られた。>
<里人、こうした彼の行いを徳とし、郷里の誉をいつまでも伝えようと、産土神の祠の傍らに、建碑することを欲した。>
このような内容と読み解いたが、他にも上手く読み解けない部分も多い。
碑陰には、「大正十一年十月九日 大字真弓一同建之」と刻まれております。
今、磯山の山頂に立つと、北西に太平の山並みを、更にその北奥に男体山や日光連山の山々を望み、眼下には改良復旧工事を進める、永野川を見ることが出来ます。
今年1年、また石碑の漢文体に、無い頭を悩ませそうです。今回も辞書と首っ引きで、碑文に向かいました。
今回参考にした資料:
・栃木県神社誌 (昭和39年2月11日 栃木県神社庁発行)
・栃木県市町村誌 (昭和30年8月20日 栃木県町村会発行)