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壬生用水について [歩く]

壬生町城址公園の西側周辺を歩いていると、「御用水通り」と称する散策路の説明板が目に留まりました。<壬生用水を利用した歴史的散策路>との事で、その「壬生用水」について説明文には、<壬生用水の起源は、江戸時代の万治二年(1659)三浦志摩守が検地の際に、黒川の当山の地から水を引き入れ、壬生城内の防火用水とともに、その末流を田に引き入れたことに始まると言われています。>と記されています。
御用水の流れ.jpg
御用水通りの説明板.jpg
(御用水通りの案内掲示板)

取水地とされる、<黒川の当山の地>とは、壬生の市街地の東側、東雲公園内を南流する黒川を上流に遡ること約7km、北隣の鹿沼市北赤塚(かつての都賀郡赤塚村)です。ここで、黒川右岸から取水された「壬生用水」は、そこから「日光道中壬生通」の街道脇に沿って壬生の城下まで流れていきます。
稲葉一里塚を流れる壬生用水.jpg稲葉の一里塚の説明板.jpg
(壬生町稲葉、「日光道中壬生通」現在の国道352号西側沿いを流れる壬生用水と「稲葉の一里塚」)

壬生城下の日光口(現在の国道352号と壬生バイパスとの交差点角のコンビニ店辺り)にて街道から南に外れ、バイパス東側「御用水通り」の入口付近で分流して、一つの流れはかつての「壬生城三の丸」の西側に沿って南流します。それが最初に記した「御用水」として整備、現在もその姿を止めています。
もう一つの流れは現在の壬生寺の南西部付近にて、日光道中壬生通りの南側から街道中央に流れ出て、道路中央を水路となって、東に流れて城下北東部にて、右(南方向)に折れる街道に従って、その中央を南流していきます。
壬生通りの現在.jpg
(壬生の市街地中央を南北に走る「日光道中壬生通」を北から南に向かって撮影)

ただ、日光道中壬生通りの街道中央を流れる水路は、かつて有った高札場の前辺りまで来た所で、左に折れて街道から離れて行ってしまいます。(現在の松本内科医院とみぶ薬局の間の路地がその水路跡ではないかと考えられます。)
松本内科医院南側の路地.jpg
(壬生通りから東に外れた「壬生用水」が流れたと思われる路地)

最近「日光道中壬生通分間延絵図」第一巻(平成2年9月発行)を、偶然見る機会が有り、「壬生宿」の様子を確認しましたが、そこには下稲葉村方面から街道の西側に沿って南流してきた水路は、壬生宿の北の入口(日光口)付近にて、街道の右側(南側)から街道の中央に流出て、街道の中央をそのまま流れ、壬生宿の南の入口(江戸口)近くの、壬生の一里塚付近で左(東方向)に折れ、街道から外れる姿で描かれています。すなわち、壬生宿の北の入口から、南の入口まで一本の水路が流れる様に描かれています。が、実際は違っていました。

壬生城址公園内に建つ「壬生町立歴史民俗資料館」の展示物の中、何枚もの壬生城下を描いた古地図が目に留まりました。その中の一枚、精忠神社に伝来された「壬生城下絵図」を見ると、「日光壬生通り」の道路中央を流れる水路がハッキリと確認することが出来ます。
壬生町立歴史民俗資料館.jpg
(右端が壬生町立歴史民俗資料館。中央の建物は図書館)

その絵図に依ると、日光口辺りで分岐し南流した「御用水」が壬生城の西側から南側へと流れ、豊栖院の北側を東西に抜ける通りを東流しました。
豊栖院.jpg

そこから南東の壬生交番北側に抜ける通りに沿って流れ、日光道中壬生通りに流れ出し、街道の中央水路となって南流、壬生宿の南の入口に有る「壬生一里塚」まで流れ、そこで左(東方向)に折れて街道から外れ、最終的に黒川に戻っています。
壬生一里塚.jpg

どうも文章で説明する事は苦手なので、今回の壬生城下における「壬生用水」の流れるルートを、概略図にしてみました。
壬生城下での壬生用水の流路概略図.jpg
この概略図は、先に紹介した誠忠神社伝来の「壬生城下絵図」を参考にしています。
略図の左上隅部分が「日光口」です。現在の「本丸一丁目交差点角のコンビニ店」辺りに成ります。
ここまで、上稲葉・下稲葉と日光道中壬生通(国道352号)の西側に沿って南流してきた「壬生用水」は、壬生バイパスを渡った辺りで二つの流れに分岐します。
そして一方は街道に戻って、壬生通り中央の水路を東に流れていきます。
もう一方の流れは南に向きを変え、かつての壬生城三の丸の西側に沿って南流しています。この部分が現在「御用水通り」としてかつての「壬生用水」を再現し、ベンチや東屋を設置して歴史を感じながら楽しく歩ける散策路として整備されています。
御用水通り1.jpg
御用水通り2.jpg

大手門通りを過ぎた用水は、流れを蛇行させつつ南東方向に流れていきます。
七曲り.jpg
(流れの向きを南東方向に変える壬生用水)
南門通りに出てきた壬生用水.jpg
(蛇行して来た壬生用水は、南門通りの西側に出てきました)

南門通りに出てくると、少し南流した後東方向に曲り、豊栖院北側を東西に抜ける「御長屋通りに沿って、東方向に流れていきます。
御長屋通り.jpg
(現在の御長屋通り、もちろん水路は有りません)

御長屋通りの途中から、壬生交番北側に出る通りを抜けて、日光道中壬生通に出てきた後は、壬生通りの中央を流れ真直ぐ南流して、壬生一里塚前まで流れて行き、一里塚の所で東に折れそこからは道路の東側に沿って、最後黒川に落ち合います。

話は少し変わりますが、昭和56年2月、「ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 栃木」が㈱国書刊行会から発行されました。編著者は栃木市の郷土史家で高校教師の日向野徳久さん。
私はその時早速その本を入手しました。その本の中「街並み」として、明治10年頃の栃木市大通りの写真が掲載されていて、道の中央に水路が流れている様子が写っています。添え書きに<一間幅の堀は、大通り(例幣使街道)の中央を通り、岩舟石できちんと組み、両側に洗い場が設けられていた。>と記されています。その隣のもう一枚の写真には、<明治16年、福島県令三島通庸が、栃木県令兼務として着任すると、さっそく大通りの堀を道の両側に流れるよにする工事が行われた。これにより堀は三尺幅となった。・・・>と、その工事中の写真も掲載されています。
その頃の私の考えは、道路の中央の水路の状況は不自然で、三島県令が堀を道路の両サイドに変えたのは、栃木町の特徴と捉えていましたが、実際は江戸時代の多くの宿場町では、街道の中央に堀を作って用水を流すのは一般的だったと知るのは、ずっと年を重ねた後に成ります。

今回、見ることが出来た「日光道中壬生通分間延絵図」を見ると、「壬生宿」の外に「楡木宿」・「鹿沼宿」・「奈佐良宿」にも街道中央を用水が流れていました。宿場でない「上稲葉村」も同様でした。
ただしそれは絶対的なもので無く、「飯塚宿」は確認できませんでした。

そうして見ると、明治16年に三島県令が発した、道路中央の堀を、道路両サイドに変更させる指示は、栃木町だけの事では無かったことが今となって分かりました。
いろいろ教えてくれる「壬生用水」でした。

栃木市は、明治の初めに「片岡寫眞館」が出来たことで、こうした明治初期からの、街の姿を写真で確認できることは、とても素晴らしい事だと改めて考えさせられました。近現代の歴史を知る貴重な財産です。
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