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幕府代官「竹垣三右衛門直温」の徳政碑 [石碑]

江戸時代も後期に入った、寛政5年(1793)8月、下野国都賀郡吹上村(現在の栃木市吹上町)に、代官陣屋が完成し、菅谷嘉平次と山口鉄五郎と言う、二人の代官が着任をしました。
又、同じ年の11月に下野国都賀郡藤岡村(現在の栃木市藤岡町藤岡)に、もう一つ在地陣屋が設置され、代官岸本武太夫と田辺安蔵とが赴任してきました。
そして、もう一人竹垣三右衛門直温が、同年7月に関東郡代付代官となっています。関東郡代の役所は江戸馬喰町に有った為、彼が当初常詰していたのはその元郡代屋敷でした。しかし、地方支配を確実に推し進める為には、どうしても現地の根拠地が必要と考え、遅ればせながら寛政9年(1797)下野国芳賀郡真岡(現在の真岡市)と、常陸国筑波郡上郷(現在のつくば市上郷)の二ヵ所に「出張陣屋」を開設しました。

彼らの目的は何であったのだろうか。その当時の下野国を始め北関東一帯で、大飢饉が発生していたのでした。その為荒廃した幕領農村の立て直しを図るために、幕領の代官仕法改革の為に、任命されたものでした。

では、そんな大飢饉の原因は何だったのか、それは遡ること丁度10年前の天明3年(1783)7月、浅間山が噴火し、北関東一帯に大量の火山灰が降りそそぎました、更に秋口に入って冷害の影響も現れ、もともと天明元年から翌2年にも、米の不作が続いていた事も重なり、北関東の農村に大きな影を落とす結果となっていたのでした。
そんな背景も有って、天明3年9月4日に、栃木町で困窮者数百人が、造酒屋に押し込み、酒桶から戸障子、畳に至るまで徹底的に打ち壊した。窮民は更に穀屋を襲い、米・麦・大豆の俵を切り散らし、古着屋をも、打ち壊しました。
こうした不穏な動きは、下野国内の各町場にも起こっていました。
その後も、天明4年から5・6・7年にかけて連続して凶作に襲われていたのでした。

そんな天明6年(1786)9月、第10代将軍徳川家治が病死し、それと共にそれまで全盛を振るっていた、田沼意次が失脚。代わって奥州白河藩主の松平定信が、政権の座に付きました。
その松平定信は、翌天明7年6月に老中首座となり、8月三ヶ年の倹約令を新規に発令しました。
更に翌年の天明8年3月には、将軍補佐の地位に就任、全国の幕領に巡見使を派遣して、農村の実情把握に努め、幕領農村の荒廃からの立て直しこそ喫緊の課題であるとして、代官仕法による改革に乗り出しています。
そして元号が寛政となった1789年9月、新たに向う5ヶ年の倹約令を発し、幕府財政の緊縮に努めています。
こうして、松平定信の陣頭指揮によって、すすめられた改革は、「寛政の改革」と言われます。
この「寛政の改革」で、幕府の直接関与をふやすことで、農村の復興と物価の安定にそれなりの成果を見せましたが、評判は決して良いものでは有りませんでした。それは、贅沢を禁止したり、情報・思想の統制強化です。あまりに息苦しい状況になったことから、寛政5年(1793)7月、松平定信は解任されました。

そのような寛政5年に、下野国の陣屋に赴任してきた幕府代官達は、松平定信が推し進めてきた、幕領農村の復興に全力でとりかかって行きました。
最初に吹上陣屋にて、活動を開始した菅谷嘉平次と山口鉄五郎(後に山口鉄五郎一人での専従代官となっています)の支配範囲は、下野国の那須・塩谷・都賀・河内の各郡と武蔵国の内に合せて五万石の幕領でした。山口代官は享和3年(1803)に、那須・塩谷郡の幕領支配の為、那須郡八木沢村(現在の大田原市親園)に出張陣屋を開設しています。

又、藤岡陣屋にて、活動を開始した岸本武太夫と田辺安蔵(田辺は寛政9年に病気の為にやめて、以後は岸本の一人支配となっています)の支配範囲は下野と下総・上野の三ヶ国にわたり、202村約六万石に及んでいます。岸本代官は荒廃の著しい芳賀地方の農村復興に尽くすため、寛政11年(1799)12月、芳賀郡東郷村(現在の真岡市東郷)に出張陣屋を設置しています。

そして、今回注目する代官「竹垣三右衛門直温」は、関東郡代付代官として支配範囲はさらに広く、文化4年(1807)には下野・武蔵・安房・上総・下総・常陸の六ヶ国、535ヶ村約八万四千石となり、広大な地域に分散していました。
竹垣代官は当初は江戸の馬喰町の役所に詰めていましたが、支配地の情勢をつぶさに見ていくには、現地に根拠地を設ける必要が有ると、寛政9年(1797)特に荒廃の著しい下野と常陸の両国に、真岡陣屋(現在の真岡市台町字城内)と、上郷陣屋(現在の茨城県つくば市上郷)を設置して、竹垣自身が半月ごとに陣屋を往復して、地域復興に力を注いでいました。

そこで、竹垣三右衛門直温が開設した出張陣屋が有った、真岡市とつくば市周辺を巡って、竹垣代官の遺蹟を見てきました。
先ずは、真岡市台町城山公園内に建つ「真岡陣屋阯」の石碑を見てみます。
真岡陣屋址の碑.jpg真岡陣屋址の説明板.jpg

石碑の正面には、上部に小さめに「二宮先生」、そしてその下側に大きく「遺蹟 真岡陣屋阯」と刻されています。真岡市街地の東側を縦断するように流れる「五行川」の右岸に大きな恵比寿像の建つ、大前神社の川の対岸(左岸)近くに建てられている、「遺蹟 東郷陣屋阯」の石碑も正面上部に、「二宮先生」の文字が刻まれています。真岡陣屋は竹垣代官が、そして東郷陣屋は岸本代官が開設した所ですが、後に二宮金次郎が利用している為、両方とも二宮先生の遺蹟として石碑が建てられています。確かに二宮金次郎(尊徳)の知名度の方が高いですし、建立したのが「栃木県尊徳会 下野桜町遺跡保存会」によるものですから。
幸い脇に建てられた説明板で、竹垣代官や岸本代官の関わりが記されていますからよかったです。

次に向かったのは、城山公園の南側。行屋川右岸に有る、曹洞宗梵音山(ぼんおんざん)真岡院(しんこういん)海潮寺(かいちょうじ)の境内に建てられた、「竹垣君徳政碑」(真岡市指定有形文化財)になります。
竹垣代官徳政之碑(海潮寺境内).jpg
石碑の脇に、真岡市教育委員会が掲示した説明板が有りました。それに依りますと、<真岡代官竹垣三右衛門(直温)の徳をたたえ、その支配下に有った18ヶ村の人々が協力して建てたものである。碑文は、太田元貞(加賀藩の儒者、錦城と号する)が撰し、河三亥 江戸の人市河米庵(書家)が書いたものである。後略>
竹垣君徳政之碑2(海潮寺境内).jpg海潮寺山門.jpg
石碑が建てられている「海潮寺」は、行屋川に架かる「施無畏橋」を渡った右岸に位置し、立派な山門が迎えてくれます。この山門の屋根は、大谷石の瓦で葺かれており、栃木県指定有形文化財となっています。

竹垣三右衛門が真岡陣屋と同時に開設した、常陸国筑波郡の上郷陣屋周辺にも、竹垣代官の善政に対し「徳政碑」を建立顕彰しています。それは上記「海潮寺」に建てられた石碑と同様の物が、二基確認されているので、確認する為現在のつくば市上郷に向いました。

最初の石碑は、小貝川左岸に祀られている「金村別雷神社」の境内に建てられていました。
竹垣代官徳政之碑(金村別雷神社境内).jpg
この石碑は、竹垣代官が職を辞して没した翌年の文化12年(1815)、地元の有志によって建立されました。碑文は、江戸の書家で儒学者でもあった「亀田鵬斎」が撰文及び揮毫しています。
竹垣代官徳政之碑正面.jpg金村別雷神社社殿正面.jpg
金村別雷神社は、承平元年(931)、領主豊田氏が京都上賀茂社の分霊を守護神としてまつったと、伝えられます。
石碑正面に、「竹垣君徳政之碑」と刻されています。石碑には真岡海潮寺に建つ石碑同様、竹垣代官が行った善政の内容を記した碑文が刻されています。共に漢文体なので、私には読み下す事は出来ませんでした。

もう一つは、金村別雷神社から北東の方向約4.5km、つくば市今鹿島の集落内の小路の脇に建てられていました。この石碑も正面は「竹垣君徳政之碑」と有りました。が、こちらは碑文は有りません。ただ石碑左側面に「明治二十五年辰八月建」と、建立年が刻まれています。(西暦では1892年となります)
竹垣代官徳政之碑(今鹿島)).jpg
竹垣君徳政之碑正面(今鹿島)).jpg竹垣代官徳政之碑側面(今鹿島)).jpg
この石碑、なぜ金村別雷神社境内に建つ石碑から、77年も経ってから建立することに成ったのか、その背景はチョッと興味が有ります。
それだけ、竹垣三右衛門代官は、その地方の人達に慕われ続けていたのかもしれません。

さて次に、上郷陣屋の有った場所に行ってみました。現在は便利な世の中に成ったもので。携帯電話アプリのグーグルマップで「上郷陣屋跡」と打ち込んで検索すると、地図上にその場所が表示され、ナビ機能にすれば、現在地から目的の場所まで誘導してくれます。

ただ、現地を訪れても、「上郷陣屋」に関する掲示物は、何もありませんでした。
つくば市上郷陣屋跡1.jpgつくば市上郷陣屋跡2.jpg

私が出向いたのは、丁度桜が満開となった3月下旬でした。上郷陣屋跡は現在、角内農村集落センターの建物が建っています。その一角に「瀧大権現」が祀られています。
この場所には、人足寄場も有りました。この施設は松平定信の寛政の改革の一つとして実施されたもので、火付盗賊改の長谷川平蔵が提案して、寛政2年(1790)2月に石川島に設置された。常陸国筑波郡上郷村に人足寄場を開設し、石川島の支署的存在として制度化されるのは、」寛政4年(1792)と言われる。
竹垣三右衛門が、ここ上郷に出張陣屋を設けたとするのは、寛政9年となっているが、ここにはそれ以前から代官陣屋があった事に成ります。
ただ、この人足寄場を育て上げたのも、やはり竹垣代官でした。彼はこの寄場の運営にも、尽力を尽くしていたのでした。

今回、寛政の改革を現場で推し進める為、北関東に派遣された3人の幕府代官の内、竹垣三右衛門の遺蹟を辿ってみました。他の二人の代官については、以前にこのブログの中で、角度は異なりますが紹介して来ています。
・農民から慕われた、幕府代官「山口鉄五郎高品」(2023年2月27日)
・下野国都賀郡藤岡の陣屋で活躍した幕府代官「岸本武太夫」(2023年4月6日)

ここで、彼ら3人の足跡が確認できる場所を、簡単に地図上にプロットしてみました。
三人の代官の関係地マップ.jpg

山口鉄五郎代官の関係地は、緑色にて表示。(3ヶ所)
岸本武太夫代官の関係地は、黄色にて表示。(6ヶ所)
竹垣三右衛門代官の関係地は、白色にて表示。(5ヶ所)

興味が有りましたら、是非現地を訪れてみてください。車等の移動手段の無い時代、彼ら代官の支配範囲の広さは、驚くしかありません。

今回参考にした資料:
・栃木県史 通史編5 近世2 栃木県史編さん委員会編 栃木県発行
・ウィキペディア 「竹垣直温」
・知られざる江戸時代中期200年の秘密 島崎 晋著 ㈱実業之日本社発行





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