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石橋を巡る旅。鹿児島市 [橋梁]

これまで、長崎や熊本の石橋を見て来ましたが、今回は鹿児島県の「石橋記念公園」を訪れました。
日本国内での石造りアーチ橋の歴史は浅く、江戸時代以降に成ります。その石橋の多くが九州7県に分布しています。その分布の状態を、手元に有る工学博士太田静六氏が著わした「眼鏡橋」という著書から引用させて貰いますと、<江戸期から明治末までに限定すると、一番多いのは熊本県で150橋前後、次は鹿児島県だが、その数は半分以下に減って70橋位。3番目は大分県の約50橋、4番目は長崎県の約35橋、次いで福岡県は25橋位、宮崎県は約6橋と愈々少なく、最低は佐賀県の約5橋である。>と、記されています。そして又、大正期以降を見ると、<大正から昭和にかけての橋が大変多いのが大分県である。大分県には大正から昭和にかけての橋が200橋近くも有るらしい。>と、こんな分布状況になっています。

それでは今回見る鹿児島県の石造りアーチ橋は、「甲突川五石橋」と称された石橋五つの内の三つです。
甲突川は薩摩藩の城下町・鹿児島市内を北から南へ縦断して錦江湾に流入する周辺第一の大河で、江戸時代の末期、弘化2年(1845)から嘉永2年(1849)に、「新上橋」(弘化2年)・「西田橋」(弘化3年)・「高麗橋」(弘化4年)・「武之橋」(嘉永元年)・「玉江橋」(嘉永2年)と、毎年架けられています。

しかし、平成5年(1993)8月6日、集中豪雨による洪水で五石橋の内「武之橋」と「新上橋」が流失。鹿児島市街地約1万2千戸が浸水する大災害が発生してしまいました。
かつて長崎の大洪水で多くの石橋を失ったのと同様です。
歴史的に貴重な石橋を保存しようと、流失を免れた3橋を移転保存する為、翌年の平成6年から同11年にかけて、石橋の調査解体、復元と慎重に進め、石橋3橋が一体となった公園として平成12年「石橋記念公園」として、稲荷川の河口近くに開園したものです。

最初は「西田橋」です。
西田橋(右岸下流側より).jpg
先の著書「眼鏡橋」には、
<甲突五橋のうち最も重要な橋で、出水の関所を通って城内に入る表玄関に当たる。参勤交替を始めとして、島津公が渡る橋も常に西田橋である。それ故、五橋のうち西田橋だけは堂々とした勾欄の親柱の全部に青銅の擬宝珠を付けて格式と威厳を誇る。>と、説明されています。
架橋された年は、弘化3年(1846)で公園に移築された三橋では一番古い橋です。
橋長は49.5m、幅員6.2m、4連アーチ橋で、建設費も「甲突川五石橋」で一番高く7,127両と言われています。
西田橋(右岸橋詰より).jpg
橋面敷石は上の写真に見える通り、「斜め敷き」で、整然と敷かれています。橋を渡った先、左岸橋詰近くに立派な御門が建っています。「西田橋御門」です。
西田橋左岸に建つ御門.jpg
現地に建てられた説明文には、<城下の武士や町人、領内を通過する旅人は、御門脇の番所で改めを受けて通行していました。御門は、明治5年(1872)の天皇行幸際に撮られた写真に写っていますが、その後西南戦争で焼失したと思われます。> 現在の門は、発掘調査で確認された橋との位置関係を保って、写真や遺構、市内の仙巌園門などを参考に復元的に整備したものだそうです。

二つ目の橋は、「高麗橋」です。高麗橋(右岸上流側より).jpg
下流から二番目の橋なので、橋長も一番下流側に架けられた「武之橋」(橋長:71.0m・流失)に次ぐ長さで、54.9m有ります。幅員は5.4mで「西田橋」同様、4連アーチ橋に成ります。
高麗橋は、弘化4年(1847)の創建以来、その時々の実情に合わせて、橋面勾配の改修や水道管の添架、昭和20年から30年頃は戦災や通行する自動車による破損に対する改修が行われていました。
移設後の現在の形状は、明治末から大正末期の姿に復元されました。
高麗橋(右岸橋詰より).jpg

最後、三つ目は「玉江橋」です。
玉江橋(右岸上流側より).jpg

甲突五石橋で最後に架けられた橋で、甲突川の一番上流に有りました。石橋の形状は前記の2橋と同じで四連アーチ橋ですが、城下町郊外で通行量も少ない為か、橋長は50.7mですが幅員は4.0mと狭く、建設費も他の橋と比較しても格段に安く、1,560両でした。
玉江橋(左岸橋詰より).jpg
橋面敷石の形状は「乱張り」と、造りもやや粗末に見えます。

公園内の三つの石橋を見た後、公園の北側に有る多賀山公園に登り、東の海上に聳える桜島を眺めましたが、その時は山頂部に雲がかかって良く見えませんでした。
桜島(多賀山公園より).jpg

高麗橋近くに「岩永三五郎之像」と表示された石造が建てられており、その脇に「岩永三五郎顕彰の由来」を刻した石碑が有りました。
松永三五郎像.jpg松永三五郎顕彰の由来.jpg

岩永三五郎は、前著「眼鏡橋」によると、
<岩永三五郎は肥後の石工だが、島津藩に招かれて城下町・鹿児島市内を貫流する甲突川に、いわゆる甲突五橋を架けたことから、熊本より寧ろ鹿児島で有名になった。この点、同じ城下町でも熊本では、鹿児島と違い江戸時代を通じて市街を流れる白川を始めとする主な河川には一つの石橋も架けられなかったので、名工・三五郎も反って地元の熊本市内で腕を振るうことが出来なかったのは面白い>と、記しています。

鹿児島市の公園に移設保存された石橋、四連アーチ橋の立派な石橋でした。

今回参考にした資料は
・「眼鏡橋 日本と西洋の古橋」 工学博士太田静六著 理工図書株式会社発行
・石橋公園内説明案内板等
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