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壬生町の精忠神社境内に建つ「畳塚碑」 [石碑]

栃木県壬生町の市街地中心部に、かつての壬生城の一部が残っています。その城跡の北西部に「精忠神社」が有ります。
精忠神社の門.jpg
(精忠神社入口に建つ御門)

精忠神社の拝殿.jpg
(精忠神社拝殿)

入口の門の脇に立てられた神社の案内板によると、「精忠神社」の祭神は、精忠霊神(鳥居彦右衛門元忠公)に成ります。
この神として祀られる「鳥居彦右衛門元忠」とは、どのような人物だったのでしょうか。2019年に発行された「壬生藩」中野正人・笹崎明著(現代書館)を借りると、<鳥居元忠は忠吉の三男として天文八年(1539)三河国渡(渡里とも、愛知県岡崎市)に生まれた。長兄忠宗は渡合戦で戦死、次兄仁蔵(本翁)は出家していたので元忠が家督を継いだ。 十三歳の天文二十年、今川氏の庇護下にあった当時十歳の竹千代(家康)に近侍するため父に従って駿府に赴いた。><家康の幼少期からの側近>でした。
其の後、常に家康の元に居て、戦乱の世を家康のために忠義を尽くした。その遺功により譜代大名鳥居家の家祖として崇拝されてきました。
正徳二年(1712)、近江国水口より壬生藩へと国替えとなった鳥居忠英(ただてる)は、壬生城の隅に壬生氏の祖「鳥居元忠」を祀りました。
そして、寛政十一年(1799)神祇官領吉田家より「精忠霊神」の神号をうけています。

その「精忠神社」社殿の丁度真後ろに、「畳塚碑」と篆額に刻した石碑が建てられています。
畳塚碑1.jpg
(社殿の真後ろ、玉垣に囲まれて建つ「畳塚碑」)

畳塚碑2.jpg畳塚碑3.jpg
(石碑の上部「篆額」に刻された「畳塚碑」の文字は、正五位子爵鳥居忠一が揮毫しています。)

この石碑が建てられた時期は、碑陰に<即位式御大典紀念大正四年十一月>の記載が有りますから、大正四年(1915)十一月十日に京都御所紫宸殿にて行われた「即位の礼」を紀念してその時に建てられたと思われます。

この石碑が建てられた場所には、鳥居元忠が慶長五年(1600)の伏見の戦いで自刃した時、その血で染まった畳を石函に入れて納められています。この血染めの畳はその後、関ヶ原の戦いで勝利し、天下を取った徳川家康が、江戸城中の伏見櫓の階上に置いて、登城する諸大名に鳥居元忠の忠義を手本として示していました。
王政復古によって江戸城が明け渡され事で、壬生藩の所蔵する事となり、鳥居氏の壬生上稲葉赤見堂邸にて保管され、その後明治17年鳥居氏の旧臣等が謀って、石函に入れ精忠神社の裏に納め「畳塚」と称していました。
「畳塚」案内板.jpg
(「畳塚」の手前に建つ説明板)

石碑の碑文にはそれらの経緯が記されていますので、書き写しました。
畳塚碑(碑文).jpg

この碑文を見ると<元忠>の文字は見えません。
碑文冒頭に出てくる、<我鳥居氏中宗龍見公>に見える<龍見>が<元忠>の戒名の院号のようです。
漢文で記されている為、読み砕くのは私にとっては困難な作業で、お手上げ状態です。
一つ一つ単語の意味を調べて、そこから文章全体の意味を推し量るのが一杯で、間違って解釈をしているかも知れません。
例えば単語の意味を見ると、「中宗」は「中興の主」・「殉國」は「国のために命をなげ出す事」・「藺席」は「リンセキ(むしろ)」・「斑斑」は「まだらなさま」などなど。
漢字自体も「旧字体」が多く使われ、読むこともままならず、書き写す事が出来ただけで、少し満足感が味わえました。
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