巴波川の源流を訪ねる [栃木市の河川と橋]
栃木市蔵の街観光の一翼を担っているのが、町の中央部を北から南へ縦貫して流れる巴波川(うずまがわ)です。
そして、その中心となっている所が「幸来橋」(こうらいばし)からひとつ下流の「巴波川橋」の間、左岸に続く黒塀と土蔵造りの「塚田歴史伝説館」です。
この場所には江戸時代より栃木河岸が開かれた。一方対岸は片柳河岸となりました。今でも幸来橋辺りの右岸一帯は「湊町」その上流には「入舟町」と言う町名が残っています。水運による川舟がここまで遡上していた名残です。
栃木は巴波川の舟運による物資の集散地となり、江戸との交易を通じて、文化や経済の発展をしてきたのでした。
それでは、今回のタイトル「巴波川の源流」がどこなのか流れを遡りたいと思います。
市街地の北、栃木バイパス道路が巴波川と交差する点に「蟹田橋」が有ります。この橋下流側の橋の欄干は有りますが、上流側は最近県道37号線(栃木粟野線)の新道が丁度この橋の所に接続された為、欄干は取り払われ、新道側に架かる新しい橋「新蟹田橋」と一体の橋に変わりました。
巴波川はこの新道の西側を道路と並行して流れています。
上流の栃木市総合運動公園の前を東西に走る市道(通称国体道路)に架かる「高瀬橋」までの間、巴波川の右岸には洪水対策のための遊水地が設けられています。川の堤防の高さを低くした「越流堤」が二か所ありました。巴波川の水位が高くなった時堤防の低い部分から遊水地に流して、一時的に水を溜めて置く様になっている訳です。
遊水地の西にちょっとした林が見えます、雷電神社です。
「高瀬橋」の上流側で巴波川は東の方に曲りとちの木病院の南側から東側に回り込む様に流れています。
途中粟野街道(新道)に架かる「新高瀬橋」の下をくぐり、旧道に架かる「新藤沼橋」をくぐります。とちの木病院の南側には歩行者の「ふるさと橋」も架かっています。
「新蟹田橋」「高瀬橋」「新高瀬橋」「新藤沼橋」「ふるさと橋」の竣工年を見ると、下流側から上流に向かって2003年から毎年1橋づつ竣工している。この間粟野街道の新道開通と巴波川の河川改修が実施されたことが覗える。以前の巴波川は「高瀬橋」上流側より東に折れ、現在より少し南側を流れていました。今も旧河川跡と「旧粟野街道に「藤沼橋」が認められます。
更に上流に向かうと、とちの木病院の北東部辺りに巴波川の水を一部平柳町方面に分水する水門が有りました。
その上流部で巴波川はゆっくり左右に蛇行して市営川原田東団地の東側を流れる。
巴波川を更に遡ると合戦場と吹上町とを結ぶ市道に架かる「二股橋」のすぐ上流部で左右に分岐している。左側の流れが巴波川の本流になります。
栃木市の地図を確認すると、巴波川はここで大きく右方向(北東)に曲るところで沼地として描かれる。現地を確認した時には沼は涸れ草原になっていました。以前はここに湧水が有ったのだろう。枯れ野の前に案内板が設置されて、ここに有った沼は「白地沼(しらじぬま)」でこの辺一帯は「標茅が原(じめじがはら)」と呼ばれ、平安時代より東国の歌枕として都まで聞こえた名所だったとの事。今は住宅地化してしまい、その面影は無くなっていました。
当然、巴波川水運はこの「白地沼」の一湧水の水量で賄われるものでは無い、巴波川が栃木市街地に流れ着くまでに行く幾つかの支流の水を合わせている。むしろ支流の方が十分な水量を蓄えていたと思われる。
その一つが「赤津川」です。今までの寺院巡りで何度か登場しているこの「赤津川」は鹿沼市(旧粟野町)との境を成す大倉山(454.8m)の南麓、西方町眞名子男丸にその源を発する。
赤津川は南流して都賀町大柿に入る。ここで今度は西方町眞名子真上から、谷倉山(599.4m)南東麓の水を集めた「逆川」の流れを合わせる。
都賀町富張を南下、東北自動車道の栃木都賀ジャンクションの西側を南流、吹上町・野中町・箱森町を蛇行して流れ、小平町で巴波川の右岸から合流していた。
又、もう一河川「荒川」と言う川が巴波川に大量の水を供給している。
この荒川の源流は西方町の小倉堰から「思川」の水を取水して西方町や都賀町で幾つもの用水掘りに分水しては又集まりつつ、多くの水田に農業用水として利用されている。
これらの河川が川原田町の栃木市総合運動公園東側の芝生公園にて集まり、箱森町で南流する巴波川の右岸側から合流している。(合流点は第三小学校北側「原ノ橋」の上流100m近辺です)
こうして多くの小河川を合わせた巴波川であったが、明治期には台風による増水等で栃木の街中は、大洪水に何度も見舞われている。
昭和に入って栃木の町から洪水の被害を防ぐ目的で上記の「赤津川」を吹上町の「新田橋」の所から真直ぐ南に掘削して錦着山の北西部にて永野川につなぐ「赤津川分水路」を通しています。
箱森町内を流れていた「赤津川」は現在「旧赤津川として以前の河川跡を残しています。
そして、その中心となっている所が「幸来橋」(こうらいばし)からひとつ下流の「巴波川橋」の間、左岸に続く黒塀と土蔵造りの「塚田歴史伝説館」です。
この場所には江戸時代より栃木河岸が開かれた。一方対岸は片柳河岸となりました。今でも幸来橋辺りの右岸一帯は「湊町」その上流には「入舟町」と言う町名が残っています。水運による川舟がここまで遡上していた名残です。
栃木は巴波川の舟運による物資の集散地となり、江戸との交易を通じて、文化や経済の発展をしてきたのでした。
それでは、今回のタイトル「巴波川の源流」がどこなのか流れを遡りたいと思います。
市街地の北、栃木バイパス道路が巴波川と交差する点に「蟹田橋」が有ります。この橋下流側の橋の欄干は有りますが、上流側は最近県道37号線(栃木粟野線)の新道が丁度この橋の所に接続された為、欄干は取り払われ、新道側に架かる新しい橋「新蟹田橋」と一体の橋に変わりました。
巴波川はこの新道の西側を道路と並行して流れています。
上流の栃木市総合運動公園の前を東西に走る市道(通称国体道路)に架かる「高瀬橋」までの間、巴波川の右岸には洪水対策のための遊水地が設けられています。川の堤防の高さを低くした「越流堤」が二か所ありました。巴波川の水位が高くなった時堤防の低い部分から遊水地に流して、一時的に水を溜めて置く様になっている訳です。
遊水地の西にちょっとした林が見えます、雷電神社です。
「高瀬橋」の上流側で巴波川は東の方に曲りとちの木病院の南側から東側に回り込む様に流れています。
途中粟野街道(新道)に架かる「新高瀬橋」の下をくぐり、旧道に架かる「新藤沼橋」をくぐります。とちの木病院の南側には歩行者の「ふるさと橋」も架かっています。
「新蟹田橋」「高瀬橋」「新高瀬橋」「新藤沼橋」「ふるさと橋」の竣工年を見ると、下流側から上流に向かって2003年から毎年1橋づつ竣工している。この間粟野街道の新道開通と巴波川の河川改修が実施されたことが覗える。以前の巴波川は「高瀬橋」上流側より東に折れ、現在より少し南側を流れていました。今も旧河川跡と「旧粟野街道に「藤沼橋」が認められます。
更に上流に向かうと、とちの木病院の北東部辺りに巴波川の水を一部平柳町方面に分水する水門が有りました。
その上流部で巴波川はゆっくり左右に蛇行して市営川原田東団地の東側を流れる。
巴波川を更に遡ると合戦場と吹上町とを結ぶ市道に架かる「二股橋」のすぐ上流部で左右に分岐している。左側の流れが巴波川の本流になります。
栃木市の地図を確認すると、巴波川はここで大きく右方向(北東)に曲るところで沼地として描かれる。現地を確認した時には沼は涸れ草原になっていました。以前はここに湧水が有ったのだろう。枯れ野の前に案内板が設置されて、ここに有った沼は「白地沼(しらじぬま)」でこの辺一帯は「標茅が原(じめじがはら)」と呼ばれ、平安時代より東国の歌枕として都まで聞こえた名所だったとの事。今は住宅地化してしまい、その面影は無くなっていました。
当然、巴波川水運はこの「白地沼」の一湧水の水量で賄われるものでは無い、巴波川が栃木市街地に流れ着くまでに行く幾つかの支流の水を合わせている。むしろ支流の方が十分な水量を蓄えていたと思われる。
その一つが「赤津川」です。今までの寺院巡りで何度か登場しているこの「赤津川」は鹿沼市(旧粟野町)との境を成す大倉山(454.8m)の南麓、西方町眞名子男丸にその源を発する。
赤津川は南流して都賀町大柿に入る。ここで今度は西方町眞名子真上から、谷倉山(599.4m)南東麓の水を集めた「逆川」の流れを合わせる。
都賀町富張を南下、東北自動車道の栃木都賀ジャンクションの西側を南流、吹上町・野中町・箱森町を蛇行して流れ、小平町で巴波川の右岸から合流していた。
又、もう一河川「荒川」と言う川が巴波川に大量の水を供給している。
この荒川の源流は西方町の小倉堰から「思川」の水を取水して西方町や都賀町で幾つもの用水掘りに分水しては又集まりつつ、多くの水田に農業用水として利用されている。
これらの河川が川原田町の栃木市総合運動公園東側の芝生公園にて集まり、箱森町で南流する巴波川の右岸側から合流している。(合流点は第三小学校北側「原ノ橋」の上流100m近辺です)
こうして多くの小河川を合わせた巴波川であったが、明治期には台風による増水等で栃木の街中は、大洪水に何度も見舞われている。
昭和に入って栃木の町から洪水の被害を防ぐ目的で上記の「赤津川」を吹上町の「新田橋」の所から真直ぐ南に掘削して錦着山の北西部にて永野川につなぐ「赤津川分水路」を通しています。
箱森町内を流れていた「赤津川」は現在「旧赤津川として以前の河川跡を残しています。
2014-10-31 21:56
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