昭和40年頃の栃木市の風景 [懐かしい写真]
昭和40年と言えば、もう半世紀も前になります。
その頃の栃木市は田畑が多く、広々とした風景が多かった。高い建物などもほとんど無かった。
その頃の私は家のカメラを持ち出しては、栃木の町の中を、所構わず写真を撮っていました。
ですから、今になって残っている写真を見ても、どこを撮ったものか思い出せない風景が沢山有ります。
時々町を歩いていて、「あ!ここを撮っていた」と面影が残る風景に出合う事が有ります。
今回紹介する写真の中にも勘違いをしている物も有るかも知れません。出来るだけ確かの写真を添付いたしました。
(1965年3月、栃木西中学校遠景) (1965年10月、栃西中テニスコート)
(1963年7月、太平山遊覧道路よりゴルフ場を) (1965年9月、栃木自動車教習所)
私が自動車教習所に通っていたころは、本当に混んでいました。1月の寒い朝早く行って受け付けないと、待ち時間が長くて大変でした。
(1967年2月、薗部町一丁目より太平山を) (同日、永野川右岸より。奥には高橋が。)
(1965年9月、吹上中学校遠望) (1965年12月、新井町にて)
(1965年12月、大岩橋付近の永野川) (1965年12月、二杉橋付近の永野川)
(1965年10月、柳橋町付近) (1968年10月、日限富士浅間神社の鳥居)
柳橋町の写真は、今の芳賀耳鼻咽喉科医院付近から北の方向を撮影したもので、今は住宅が密集して、遠くを見通す事など到底できません。はるか遠くに日光連山がうっすらと写っていました。
その頃の栃木市は田畑が多く、広々とした風景が多かった。高い建物などもほとんど無かった。
その頃の私は家のカメラを持ち出しては、栃木の町の中を、所構わず写真を撮っていました。
ですから、今になって残っている写真を見ても、どこを撮ったものか思い出せない風景が沢山有ります。
時々町を歩いていて、「あ!ここを撮っていた」と面影が残る風景に出合う事が有ります。
今回紹介する写真の中にも勘違いをしている物も有るかも知れません。出来るだけ確かの写真を添付いたしました。
(1965年3月、栃木西中学校遠景) (1965年10月、栃西中テニスコート)
(1963年7月、太平山遊覧道路よりゴルフ場を) (1965年9月、栃木自動車教習所)
私が自動車教習所に通っていたころは、本当に混んでいました。1月の寒い朝早く行って受け付けないと、待ち時間が長くて大変でした。
(1967年2月、薗部町一丁目より太平山を) (同日、永野川右岸より。奥には高橋が。)
(1965年9月、吹上中学校遠望) (1965年12月、新井町にて)
(1965年12月、大岩橋付近の永野川) (1965年12月、二杉橋付近の永野川)
(1965年10月、柳橋町付近) (1968年10月、日限富士浅間神社の鳥居)
柳橋町の写真は、今の芳賀耳鼻咽喉科医院付近から北の方向を撮影したもので、今は住宅が密集して、遠くを見通す事など到底できません。はるか遠くに日光連山がうっすらと写っていました。
2015-02-04 23:32
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