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栃木市錦町の向島八幡 [栃木市の神社]

今日は朝からシトシトと雨が降り続いて、肌寒い一日となってしまい、何処にも出かける事が出来ず、一日ただ本を読んだり、テレビを見たりして、時間を潰していました。
そんな事とは全く関係も無く、今回は栃木市錦町(以前の住所は入舟町)の向島八幡宮を訪問します。
巴波川に架かる大川橋の近くの、木立の中にその社は有ります。
大川橋の西詰、巴波川の川沿いを通る道の脇に、石の鳥居と「向島八幡宮」と大書された石碑が建っています。
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鳥居を潜ると、立派な狛犬が祀られています。狛犬を載せた台石には「国家安全」と「武運長久」の文字が彫られています。
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その先に少し小ぶりの石の鳥居が有って、その鳥居と社殿との間、丁度社殿の真正面前に大きな木が有ります。
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境内には他に杉の木や銀杏の木も有り、秋には境内一面黄色に染まります。
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(2013年12月7日撮影、鳥居の前に立つ幟旗「正一位向島稲荷大明神」は八幡宮社殿の隣りに祀られている神社の物になります。)
八幡宮の社殿は小ぶりながら見事な造りです。社殿の前両側に建つ石灯籠に「長谷川氏」と有ります。
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当所は徳川末期頃より、明治初年にかけて長谷川藤助氏が管理をしていたので、俗に藤助山と云われてました。神社の創建は不明ですが、古老の言によると、「鎌倉時代に祠を建てて祀ったものでしょう」と、又一説には源義家奥州へ下向の途中、当所にて幾線かの河の流れ渡に当たり、僅かの間此の丘に駒を休め、神を祀るにふさわしき地なりと、仰せられるにより、後年里人祠を建て、八幡を勧進したと言われております。その後度々修築し、徳川末期よりそろそろ荒れはじめ、その後甚だしくなりましたのを現在の管理人、長谷川調七氏が大正三年四月改築、九州宇佐八幡を更に勧進、今日に及んでいます。
≪栃木名所旧蹟物語 大浦倉蔵編より引用いたしました。≫
長谷川調七氏は明治40年10月1日発行栃木縣営業便覧を見ると、栃木町大通り万町にその名が載っております。「書肆出井書店 長谷川調七」。 「肆」と言う漢字は音読みで「シ」、訓読みでは「つらねる、みせ」となります。尚、長谷川調七は昭和初期の栃木町長で、昭和初期の大不況の時、生活困窮者の救済事業として太平山遊覧道路新設と言う一大事業を提案して、昭和七年から九年(1932~1934)にかけて、総延長4kmの道路を完成させました。遊覧道路の途中、国学院高校側からの道との合流点の場所を、「長谷川平」と呼び、「長谷川調七」氏の記念碑が建っています。又、長谷川調七氏は第三代栃木市長としても、栃木市発展に尽くされています。
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