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薗部町にある記念塚 [石碑]

県立栃木女子高裏手の細い道を、西北西方向に有る薗部町の昔六辻寺の有った、六道の辻前に至る道路を進みます。今は六道の辻の南側に有る、私も大好きな「かりんとう」の製造販売を行っている、御菓子司「金桝屋」への道、と言った方が分かり易いかもしれません。
途中に細い用水路に苔生した高欄の橋が架けられていて。その橋を渡った道路の右脇に、枝ぶりの良い松が植えられた小さな塚が有ります。ここが記念塚になります。
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(中央が記念塚、右の水路が東郷堀、左手奥道路の先に六道の辻が有ります)
渡った橋は「日進橋」と云い、下を流れるのは「東郷堀」と呼ばれる農業用水路になります。
記念塚は明治38年3月に着工し、同40年3月に竣工した薗部の耕地整理事業の完成を記念して、造られたと云います。東郷堀もこの時同時に、錦着山の南麓から一直線に栃木女子高の西側に至るルートに変更開鑿されました。東郷堀の名称は、当時日露戦争において、連合艦隊司令長官として、ロシアのバルチック艦隊を破り、日本海海戦を制し日本の勝利に大きく貢献した「東郷平八郎」から命名したと云われています。
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(手前の橋が日進橋)     (東郷堀が正面奥の錦着山から真直ぐ流れて来ています)
記念塚には現在4基の石碑が建てられています。
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(塚の上には大小四基の石碑が建てられています)
塚の頂上奥に二つ建っていますが、向かって右側の背の高い石碑が一番古く、この記念塚を造った当初の、明治40年11月の建立です。石碑全体が風雨にさらされて、文字も読み難くなっています。石碑の上部に「耕地整理成功碑」と刻された題字は、当時の前第12代栃木県知事であった正五位勲三等「白仁 武(しらに・たけし)」、撰文は同じく前栃木県参事官、正六位勲五等「大城戸 宗重(おおきど・むねしげ)」、全文の書は当時の県立栃木中学校(現栃高)校長、従七位「劉須」によるものです。
その右隣りに建つのは、上部に「慰霊碑」その下に六十名の指名が並んでいます。碑陰の上部に碑文が刻されています。≪この慰霊碑は 日露戦争より大東亜戦争に際して国の為尊い人柱となった英霊の冥福を祈るとともに その功績を後世に伝え併せて永遠の平和を祈念するため全町民の協賛によって建設されたものである≫と。昭和51年7月吉日建之と有ります。
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(耕地整理成功碑の題字)         (慰霊碑の碑陰に刻された碑文)
記念塚手前正面に建つ碑は「日支事変 出征軍馬記念」、碑陰に「馬名・年齢・所有氏名」が二十二頭記されています。昭和十四年四月吉日の建立になります。そしてその隣に小さな「勝善神」の碑。大正十一年四月建之です。
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(出征軍馬記念碑)            (勝善神の碑)

私の高校時代、栃木工業高校への通常の通学路は、錦着山の南麓を通り、永野川の「上人橋」を渡るルートでしたが、昭和41年9月25日の台風26号によって、「上人橋」の一部が落橋して、通行出来なくなった為、永野川のひとつ下の「高橋」を渡る事になった為、六道の辻前を回って通学した事が有ります。
当時は全然気にしていませんでしたが、この記念塚の前の東郷堀に架かる橋と、その上流に架かる橋の名前を見ると、「日進橋」と「月歩橋」と言うもので、二つ合わせると「日進月歩」と言う四文字熟語になります。
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≪日に日に絶えず進歩する事。≫と言う意味になります。
今、この記念塚の周辺は住宅街の中に有りますが、私が通学してた頃はまだまだ住宅は少なかったです。
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(昭和42年2月19日薗部町付近)    (永野川、上人橋の修復工事が写っています)

これからの世の中、どのように変わって行くのか、ただ今の世がこの記念塚に建つ慰霊の碑や出征軍馬記念の碑に刻まれている多くの犠牲の上に有る事を忘れる事の無い様、何時までもこの美しい記念塚の姿が残る様に、今は祈るばかりです。

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