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子供の頃にチョッとタイムスリップした様な [建物]

昨日は道路の脇にまだ残雪が残る、八ヶ岳のふもと「南清里」に車を走らせました。中央自動車道の須玉I.Cで降り、八ヶ岳の東側山麓を北上する国道141号線で清里方面へ向かい、途中「道の駅 南きよさと」にて休憩。駐車場の案内板の周辺マップで、「三代校舎」の文字が気になりました。場所も道の駅から近くなので寄る事にしました。
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(三代校舎の建つ場所から望む、八ヶ岳)
三代校舎は八ヶ岳を背にする、山梨県北杜市須玉町下津金に建つ、明治学舎・大正学舎・昭和学舎という、三時代の学校の校舎が現存する所で、今も農業体験施設やレストラン・パン工房などとして活用されています。
明治学舎は、日本で現存する最古の擬洋風学校建築のひとつとして、山梨県指定有形文化財になっています。
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(三代校舎。右奥が明治学舎、手前は大正学舎、その手前の昭和学舎は写っていません)
近くに掲示された説明板によると、≪旧津金学校の藤村式校舎は、明治7年着工、明治8年10月21日に落成した。甲府市にある陸沢学校などと共に現存する日本最古の年代の擬洋風建築です。擬洋風建築とは、明治のはじめ西洋建築を強く志向しながらも技術的には日本の建築技術で建てられた建物の総称で山梨では、当時、近代化を奨励した藤村県令(知事)にちなみ藤村式と呼ばれています。校舎は大正校舎とともに諏訪神社のもとの境内にあり、学校を建てる前、村の共有地で村の中心であったこの場所が選ばれました。規模は県か最大、創建から今日まで同じ場所に有ります。≫と記されています。
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(擬洋風建築の明治学舎)
正面入口で入場料200円を払い、スリッパに履き替えて校舎の中へ。入口左側青いドアの向こうは「カフェ明治学校」が営業している様です。ドアの横に古いオルガンが置いてあります。白い鍵盤を指で押すと、予想以上に大きな音が鳴りました。今までの静かな空間が一瞬で壊れる様で、慌てて指を放しました。
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(明治学舎の入口、二階への階段が見える)(アンティークなオルガン、音はシッカリ鳴ります)
目の前の二階への急な階段を注意して登ります。二階には昔の教室の様子が復元されています。小学校低学年生が使用したような高さの低い机や椅子が並んでいます。
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(昭和30年代の教室を復元したものと、説明が有りました)
南側の窓には障子が嵌っていて、柔らかい光が室内を照らします。壁際にはお習字の作品が並べて貼られていました。
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(障子越しの光りの中に木の温もりが浮き上がります)
他の部屋には、昔の小学校などで使われていた懐かしい教材や備品が展示されていて、自分の小学生の頃の思い出がふとよみがえってきます。
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(私もこれで日食や月食のしくみを学びました)(パンツ姿で乗った。あの頃はガリガリだった)
明治学舎の西隣に建つのは大正学舎です。校舎の前には何故か「野口英世像」が建てられていました。
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(大正学舎、今は農業体験実習などが行われています)(校舎前に建てられた野口英世の像)
明治学舎と大正学舎との間の裏手に諏訪神社社殿が祀られていましたので、参拝をして来ました。社殿前に大きな石碑が建てられています。正面に「古宮の城迹」と大きく刻されています。どのような史跡なのか碑陰に説明文が有りました。
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(裏手高台に鎮座する諏訪神社社殿)       (社殿前の「古宮の城迹」の碑)

≪此の地は 甲斐国志が記す古宮の城迹である 戦国時代の頃 武田家に仕えて甲信の国境警護に任した武士団 津金衆の旗頭津金氏歴代の居城・・・・≫ そして、≪室町後期文明年間 常陸佐竹氏の一族薩摩守胤義とその子美濃守胤秀が 武田信昌を慕って来甲し 戦功により津金郷に封せられ 苗字も佐竹を津金と改めた・・・・≫と記しています。ただ津金氏の先祖については他にも説が有るようです。
時代は移って明治となり、明治学制の頒布に伴って、この古宮の城迹に明治8年新しく津金学校が建てられ、≪星霜115年の今尚儼存している。≫と結んでいます。≪平成四年四月吉日 氏子一同建之≫

八ヶ岳の南麓のこの地にて、僅かな時間でしたが、遠い昔の思い出を呼び起こすような、小さい頃に戻ったような気持ちに浸ることが出来ました。
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