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歴史の町、壬生を歩く [歩く]

昨日、「歴史と文化を歩く会-栃木」のメンバーと、「歴史の町、壬生を歩く」として、壬生町で最近結成されたと言う観光ボランティアガイドの方々の案内で、約2時間の街中歴史めぐりを行いました。
「壬生町城址公園」現地集合という事で、途中コンビニで今日の昼食用おにぎり2個を買って、車を走らせた。すでに殆んどの参加者が到着し、壬生町の観光ボランティアの方々も集まっていました。
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(壬生城址公園正面入口、堀に架かる橋)(公園内に有る壬生町立図書館・歴史民俗資料館)
最初に城址公園内に有る、「壬生町立歴史民俗資料館」において丁度開催されている、「鳥居元忠-山城伏見ノ別レ-」展を観覧、予備知識を得てから、ガイドさんの案内で出発しました。

最初は、城址公園の北西部に祀られている、「精忠神社」に向かいました。
精忠神社1.jpg精忠神社2.jpg
(精忠神社本殿)                  (精忠神社拝殿正面に掲げられた扁額)
この「精忠神社」は、祭神として「鳥居彦右衛門元忠公」をお祀りしています。
「鳥居元忠公」は、徳川家康の竹馬の友として幼少時代から親交が深く、また忠義を誓った武将でした。≪慶長5年(1600)徳川家康の命を受け、伏見城の主将として、西軍の城攻めを死守し自刃しました。関ヶ原の戦いの前哨戦でした。その後、徳川の世となると元忠公の戦功を徳川家は嘉し、長男忠政を磐城で10万石、のち山形で24万石を遇された≫と、社殿前の説明板に記されています。
社殿の裏手に回ると、丁度本殿の後に当たる場所に、玉垣に囲まれた石碑が建っています。
精忠神社3.jpg精忠神社4.jpg
手前に建てられた説明板に、「畳塚」について記されています。
先に記したように、鳥居元忠公は伏見城の攻防戦の末、城内にて自刃をしています。この元忠の忠義を賞賛した家康は、自刃のさいの血に染まった畳を江戸城の伏見櫓の階上に置き、登城する諸大名に彼の忠義を偲ばせたと言われています。その後、明治に至り江戸城が明け渡されたため、ゆかりの深い現在の地に納められ、「畳塚」と称えその上に記念碑が建立されました。

精忠神社を後にして、北に進み国道352号を渡った所に有る「紫雲山壬生寺」に向かいました。
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(紫雲山壬生寺の山門前)           (壬生寺境内の慈覚大師御産湯井)
壬生寺は、慈覚大師円仁の御生誕地として言われ、境内には慈覚大師産湯の井戸が有ります。慈覚大師円仁の誕生の地と言うと、我が栃木市の岩舟町三毳山東麓下津原の盥坪にも、誕生の地が有ります。
又、壬生寺は毎年3月、盛大に節分祭が行われる事でも有名になっています。

次は壬生城主の菩提所、壬生の古刹「向陽山常楽寺」へ。
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(向陽山常楽寺)         (常楽寺本堂前でボランティアガイドさんの説明を聞く)
ここ常楽寺は、室町中期の寛正3年(1462)、壬生初代城主「壬生筑後守胤業公」が、寺領26石を寄進して創建した曹洞宗の寺院。壬生氏が絶えて後も壬生城主と成った「鳥居忠英公」の帰依を受けて、鳥居家の菩提寺として篤く護持されてきました。
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(壬生家歴代の墓前で説明を受ける)     (鳥居家累代の墓) (蘭学医齊藤昌太郎の墓)
長い歴史のある寺院に相応しく、「鳥居忠英公」の肖像画や文書類の歴史資料や、壬生家歴代の墓地や鳥居家墓地、壬生藩の蘭学医「齊藤玄昌」一門の墓地等の史跡など説明を頂きました。

次は壬生の市街地中央を縦貫する、「日光道中壬生通」を横断して、市街地の東側を流れる黒川の右岸へ移動します。
東雲公園1.jpg東雲公園2.jpg
(黒川右岸にて説明を聞く、後方の橋は「東雲橋」) (この黒川両岸は東雲公園は桜の名所)
黒川のほとりで「東雲公園」の説明をボランティアガイドさんから聞きます。まだ桜が咲くまでは間が有りますが、私も毎年「東雲の桜」を見に来ています。写真は2015年4月1日に撮影したものです。私の勤め先は宇都宮市に有った関係で、壬生町は通勤時に毎日通っていました。バイパス道路が開通する前は現在の「東雲橋」の少し下流に有った「旧東雲橋」の上で、車中より黒川堤に連なる桜の並木を堪能しました。
この黒川堤の桜並木は、東雲橋の更に上流、バイパス道路に架かる「神代橋」の橋詰まで連なっています。

桜堤を下流に向かって歩くと、右手に壬生町の総氏神、総鎮守と称えられる「雄琴神社」の森が迫っています。東雲さくら橋の橋詰から堤から離れ神社の中に入ります。
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(雄琴神社の二の鳥居前で説明を聞く)     (銅製の「二の鳥居」根巻の唐獅子)
≪雄琴神社は寛治5年(1091)天照大神、天武天皇、舎人親王を祭神に鎮守府将軍清原武則の子孫保定によって創建されたと伝え、藤森神社と称していました。文明元年(1469)壬生に初めて城を築いた壬生彦五郎胤業がその祖である小槻今雄公を合祀し、社殿を建て替え社号を雄琴神社と改めました。また、現在の社殿は天和5年(1685)から三ヶ年をかけて時の城主三浦壱岐守が造営寄進したもの≫と、雄琴神社の由来を記した案内板が建てられていました。

再び市街地の中央を縦貫する道路に戻ります。この道は小山市の北で日光街道から分かれ、日光街道の西側を北上して、壬生の町を抜けて鹿沼市の南、楡木にて金崎宿から北上してきた、日光例幣使街道を合わせて、日光に向かう「日光道中壬生通」に成ります。
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(壬生町中心道路、現在「蘭学通り」と命名されている)(道路沿いに建つ蘭学通りの説明板)
実学を奨励した壬生藩主、鳥居忠挙がこの地に蘭学を導入し、多くの蘭学者を輩出しました。
日光社参の帰路、日光道中壬生通を利用する将軍家も有り。その際壬生に宿泊をした為、壬生藩としては万一の事態を想定して、優秀な医師を江戸から呼び寄せたのではないかとの事です。
≪明治初年の地図を見ると、石崎鼎吾、五十嵐順知、齊藤元昌、渡辺元良、勾坂玄皐(以上蘭方医)、神戸察(漢方医)の6人の名前が確認出来る通り、街道沿いに多くの蘭方医が開業し活躍した事が覗えます。≫との説明が有りました。

ここから出発地の壬生城址公園へ戻りました。穏やかな天候に恵まれ、興味深い「歴史の町・壬生を歩く」の企画を終了しました。多くの資料や写真を準備頂き説明して下さった観光ボランティアガイドの皆さんに感謝です。楽しい時間を過ごす事が出来ました。

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