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薗部用水竣功記念の碑と片柳用水之碑について [石碑]

栃木市薗部町3丁目、錦着山の南西側、永野川に架かる上人橋の南東橋詰に、栃木市水道庁舎が有りますが、その庁舎正門東側の道路脇に、高さが3メートル以上にもなろう石碑が一基建てられています。脇に聳える大きな木の枝に覆われている為、大きいのですがチョッと見逃され易い石碑です。
私も最近に成って、この石碑の存在に気付きました。
栃木市水道庁舎.jpg薗部用水竣功記念碑.jpg
(栃木水道庁舎正門の手前木の影に建つ石碑)  (木の枝で碑文が読み難くなっている)

石碑正面上部の篆額を確認すると、「薗部用水竣功記念」と刻されています。この篆額の文字は「栃木縣知事小平重吉書」と有ります。そしてその篆額の下に、「1951」の数字が大きく刻されています。この数字は更にその下に刻されている碑文より、薗部用水の竣工年であることが判明しました。
篆額部分.jpg
(石碑正面上部、篆額には「薗部用水竣功記念」、その下に「1951」の数字も)

幸い碑文は私が苦手な漢文体では無く、口語体に成っています。ただ、「ひらがな」では無く「カタカナ」が使われ、句読点の無い文章の為、少し手こずりましたが読む事が出来ました。
少し長文に成ってしまいますが、碑文の全文を記して行きます。(ひらがなに変えています。)
≪薗部町の大偉業であった耕地整理は明治三十八年成ったが安定用水の便なく不安は絶えなかった僅かに長宮約八町歩開田の為新設した俗称三角池は永野川流床の影響により湧水枯渇しその用をなさず年々用水不足の悩みは続けらん特に大正十二年関東大震災後は一層この悩みを増した遂に数十ヵ所の灌漑井の設置もみたがその負担は莫大かてて加えて農地改革に遭遇し解決不容易ならざるものがあった茲に栃木市永年の懸案にある赤津川改修は吹上村地内より分水永野川に放流の計画であることを知る斯くては当町三区用水事情は益々悪化を来たしその上洪水時の被害を併せ考え西部片柳平井の二ヶ町と共に赤津川改修反対同盟に参加し赤津川改修期成同盟と対立して運動を展開した偶栃木市会議長出井喜三郎殿同副議長大垣庄司殿栃木警防団長本澤與四郎殿この対立を案じ調停に立つ同じ想に奔走した寺内顕は分水赤津川を渇望の用水に利することに着眼し一項を加えて調停の円満解決をみる爾後分水工事進渉するに従い下田三合免長宮耕作者有志は相謀り基礎的計画を樹て各方面に交渉す然るに窃にこれを利せんとするあり事業遂行は困難を極めた茲に用水期成委員長糸井米蔵副委員長前橋泰一郎仝牛久幸一仝日高謹一郎の四氏は憤然として立ち一致協力一年に亘る寝食を忘れての東奔西走に凡ゆる障害を克服しこの間増山主一氏の後見と助力は遂に昭和二十五年十月赤津川筋に作物施設並に河川敷占用許可に成功して薗部用水誕生の緒はなつくよって薗部用水組合を結成し新たに委員二十三名を挙げ分担を定め組織的活動を開始用水取入口は赤津川改修附帯工事に用水路は土地改良工事としての要請は県当局の採択する処となり昭和二十五年十一月取入口樋門工事に着工続いて栃木県技師大阿久甲子三殿の設計監督の下に樋門排口下流水路の築溝に着手遂に昭和二十六年四月三十日鉄筋混凝土開閉式樋門及び伏越樋管二ヶ所暗渠五ヶ所延長壱千五百六十五米余待望の薗部用水は竣工した本事業に対して関係諸庁の甚大な援助と平井町の応援泉川有志の協力泉川入田用水の水利権加入の容認等々大方の御援助によって竣工をみたこの用水は今や滔々と長宮十町三合免五反田下田二十五町歩に灌漑し贔て本田全域に及ぶ幾年月悩みに悩んだ用水不安は一掃され豊に実る稲田を見る毎にこの難事業を完成された郷土の先達に敬虔な感謝の誠を捧げ農民道に癒々精進すべき絆にせんと銘して建つ≫とし、日付は≪昭和二十六年五月三日≫そして撰文は「寺内顕」氏、書は「鳩山武男」氏、碑文を刻んだのは「森戸清泉」氏と成っています。

「薗部用水竣功記念」の碑.jpg碑文一部.jpg
(石碑正面の雰囲気)            (碑文の一部を撮影しました)

そして、今回はもう一基「片柳用水之碑」も併せて、石碑の内容について探りたいと思います。
「片柳用水之碑」は、栃木市片柳町二丁目に有る「いずみ公園」の北東側角部に建てられています。
いずみ公園1.jpgいずみ公園2.jpg
(いずみ公園、この下を片柳用水が流れる) (いずみ公園の表示、左奥に石碑)
こちらの石碑の存在は結構前から分かっていました。25年前に子供達を連れて、この「いずみ公園」で遊んで以来、何度か足を運んでいました。この石碑の碑陰を最初に撮った写真は1994年3月12日の日付が写り込んでいます。
この石碑が建立された時期は、碑文末尾の日付より「昭和62年(1987)4月吉日」と有り、石碑の中では比較的新しいものです。碑の正面には大きく「片柳用水之碑」、その下に「栃木市長 永田英太郎」と刻されています。そして碑陰には、「栃木県文化財保護審議会会長 日向野徳久撰、栃木市文化功労者 池澤 洸謹書」の碑文が刻されています。
片柳用水之碑(正面写真).jpg片柳用水之碑(碑陰写真).jpg
(「片柳用水之碑」の正面)             (「片柳用水之碑」の碑陰)

こちらの碑文も長文ですが、比較する為にも全文紹介したいと思います。
≪片柳用水之記≫と題されています。≪片柳用水は大皆川不動出水に源を発す。これを永野川に落し、水丈に応じ泉川村地内大口堰場に蛇籠と並杭を以て川幅一面に締切り片柳村田地五十余町歩岩出村田地六町歩の用水に分つ。片柳村は地頭所より不動尊別当宝珠院に毎年御供米二斗七升を献納するのが江戸時代からの慣習であり、岩出村用水堀に対しわが用水堀を東郷堀といい、戦国時代末期皆川俊宗がこの地を支配せし時に起源す。水路は箱森村西南端を経薗部村を縦断して片柳村に入り、江戸時代には東片柳村西片柳村の境界をなした。明治四十年大字薗部の耕地整理により同地内におては河身を変更して現況の如くなり。大正五年片柳用水組合は永野川左岸皆川村大字泉川字下元の山林一反三畝歩を購入、同地に池を掘り東郷堀水量の増加を図った。これより後開田は増加の一途を辿り、鶴巻堰御前大堰卵塔場堰杭堰塚田堰殻田堰漆田堰高堤堰を以て六十二町七反七畝を潤し用水組合員百二名に及ぶ。昭和二十四年赤津川分水工事施工に伴い用水取入口の破壊されることを危惧したが、県当局も片柳用水の重要性を認識新取入口を設置、土手敷及び赤津川川敷等約六十二メートルの間に暗渠を設け永野川の水を取入れ灌漑に支障なきを図った。さらい耕作者一同は永久施設としての確保を願い同三十一年栃木県知事に請願、県単独事業を以て電動機を設置して解決を得た。然し同三十三年頃より東郷堀流域の都市化著しく用水堀は生活用排水路と化し汚染甚だしく、鑿井して電動機を以て揚水灌漑するのやむなきにいたり水利組合の機能を喪失した。よって同六十年組合員一同相謀り片柳土地区画整理組合の事業遂行を機に都市下水道幹線水路に供し、水利組合を解散することを決議し市当局の援助を得てこれが完成を見るに至った。
嗚呼 中世末以来すてに四百余歳その間清冽な水の滾々としてこの沃野を潤し此の地を養い来たりし東郷堀はいまここに下水道と化す。まさに桑滄の変を目のあたりする思いして深き感慨に堪えず浅学を顧みずその由来を叙べる次第である。≫

これら2基の石碑の共通点及び相違点は何か、「薗部用水」と「片柳用水」は何処に有ったのか、二つの石碑の碑文の中には幾つかの地名が出て来ています。まず「薗部用水」の碑文の中には、「薗部町」「長宮」「三角池」「赤津川」「永野川」「下田」「三合免」「平井町」「泉川」「五反田」などが確認出来ます。一方「片柳用水」の碑文には、「大皆川」「泉川村」「片柳村」「岩出村」「宝珠院」「東郷堀」「箱森村」「薗部村」「赤津川」などの地名が確認出来ます。
これらの地名の位置関係を知る為、一枚の概略図を用意しました。
石碑の建立場所.jpg
(薗部町周辺概略図 今回紹介する2基の石碑の建つ場所も図中に記しました。)

概略図には「永野川」「赤津川」「東郷堀」「片柳用水」の川筋がどのように流れているか知る事が出来ます。しかし、ここには「薗部用水」が何処なのか記載されていません。それは私自身が今もって「薗部用水」の位置を確認出来ていないからです。
「薗部用水竣功記念」の碑文の中には、「薗部用水」の位置を示す内容は記されていません。それは碑文を撰文された方が、石碑建立発起人のひとりであり、薗部町用水組合の顧問と云う立場の人物で、薗部用水を知り尽くしていた為、特に碑文に記すまでも無かった、むしろこの「薗部用水」を竣功に至るまでの多くの難問を解決しつつ、完成に導いた経過を碑文に刻んで後世に伝え残したかった気持ちの表れと考えられます。
現在の薗部町は、昭和45年の住居表示変更実施により薗部町一丁目から四丁目と分かれていますが、明治14年の「下都賀郡薗部村 村誌」によると、その頃の薗部村の範囲は以下の様に記されています。
  一、 東ハ下都賀郡栃木町ト巴波川ヲ以界ス
  一、 西ハ同郡岩出村ト沢切ヲ以界ス
  一、 南ハ同郡片柳村ト太平道ヲ以界ス
  一、 北ハ同郡箱森村ト片柳村用水堀を以界ス
村誌・下都賀郡薗部村(表紙).jpg薗部村誌(村の境界).jpg
(下都賀郡薗部村 村誌の表紙)       (薗部村村誌の冒頭部分抜粋)

その当時薗部村の東は巴波川まで有りました。昭和12年に栃木町から栃木市と成った時にそれまで薗部町の字であった、「字鶉島」辺りが「入舟町」「錦町」に、「字祝町」辺りが「祝町」、「字藤宮」「字柳橋」「字三ツ橋」辺りが「柳橋町」と成り、栃木市薗部町から分かれています。
「薗部用水竣功記念」の碑文に出てくる地名にその当時の字名が現れています。先の「村誌」末尾に明治初期の薗部村の地図が折り込まれて添付されています。以下その地図の一部を抜粋添付します。
薗部村村誌折込図(一部抜粋).jpg
(薗部村村誌の末尾に折り込み添付されている地図の抜粋)
地図左側に太い濃い蛇行線で描かれているのが永野川、右上に斜めに太く直線的に描かれているのが「田沼道」、現在の栃木県道75号(栃木佐野線)、その間地図の中央部を上から下へ細かく蛇行している太い線が「片柳村用水堀」に成ります。地図上部に位置する「箱森村」との境界と成っています。
少し文字等が読めない為、薗部町六道付近の主な字名を記した概略図を作成しました。描いた道路状況は明治前期測量の迅速測図を参考にしています。
旧薗部村の主な字名分布.jpg
(明治初期の薗部村の主な字分布概略図)

明治14年の薗部村村誌に「片柳村用水堀」の存在が確認出来ましたが、それではもう一つの石碑「片柳用水之碑」の碑文から、その実態を検証して行きたいと思います。
碑文は≪片柳用水は大皆川不動出水に源を発す。≫と云う文言から始まっています。この片柳用水の源流と云う「大皆川不動出水」の場所は何処なのか、碑文に≪片柳村は地頭所より不動尊別当宝珠院に毎年御供米二斗七升を献納するのが江戸時代からの慣習であり・・・≫と記されています。宝珠院は現在も大皆川町に有る天台宗の寺院で、感應山寶珠院皆川寺といい、嘉祥三年(850)慈覚大師円仁の開基と伝えられています。現在その本堂に向かって左手方向に「不動堂」が建てられています。
宝珠院.jpg不動堂.jpg

御堂の正面右に「不動尊由来」と題した説明額が掲示されています。そこに、
≪この不動尊は、寶珠院住僧義寛和尚の建立で(年代不詳)はじめ東大皆川地区にあった。「不動裏」「御手洗」の地名が残っている。ところが年月を経て老朽化したので、明治40年(1907)現在地に移築、再び倒壊のおそれが出たため、平成元年(1989)当山檀徒と大皆川町信徒の皆様の浄財により新築再建されました。≫と記されています。元々「大皆川不動出水」はこの不動尊を冠した出水で、現在はその名残を見る事は出来ません。ただ、明治19年8月の作成された迅速測図「栃木縣下野國下都賀郡皆川城内村」を見ると、千塚・宮方面から南流して来た永野川の流れが、南側岩出村の舌状台地に阻まれ流れを大きく東に変える内側に位置する大皆川村の中ほど、55と朱書きされた等高線の境に、小さな湖沼が描かれています。それから流れ出した水路が永野川の左岸をほぼ並流し、その先にて錦着山の裾野に沿って西側から南側へと流れ、元栃木県令別荘の所で錦着山東側から流れて来た「風野堀」と合わさり、薗部村地内を流れる「片柳村用水堀」へと繋がっています。
現在は少し流路は変わっていますが、大皆川町の南側を永野川の左岸に沿って東に流れ泉川町に入り、「タキザワハム泉川工場」の北側を流れ、赤津川に架かる「九反田橋の西側で永野川に落ちている水路が、かつての「大皆川不動出水」からの流れに相当するものと思われます。
現在の風景を流れに沿って追ってみます。
大皆川不動出水跡付近.jpg
①明治前期測量地図に現れていた湧水地の有ったと推定される付近。写真左奥の大きな瓦屋根が覗いていますが、宝珠院本堂の屋根に成ります。
大皆川の水路.jpg
②大皆川町の南を流れる永野川の左岸の田圃。写真左側に永野川の土手が見えます。又、写真右奥に皆川城址となる「城山」。明治前期作成の地図に現れている水路は、田圃の北のへり55メートル等高線の下を東に流れていました。
大皆川の水路2.jpg
③水路は雑草が生い茂る荒地を抜け泉川町方向に流れています。写真右奥に「タキザワハム泉川工場」の建屋が見えます。
泉川町の水路.jpg
④タキザワハム泉川工場の北側を流れて、工場東側に流れて来ました。
赤津川九反田橋.jpg
⑤永野川と赤津川との合流点近く、赤津川に架かる「九反田橋」。大皆川町から流れて来た水路は写真左奥に写る赤く塗られた水門を潜り永野川に落ちて行きます。手前に写る水門は赤津川分水路の新たな「片柳用水」の取入口です。
東郷堀取入口.jpg
⑥上の取入口から入った水は、土手の下を潜って東側に抜けて来ます。その先は土手と田圃の間を暗渠に成って流れています。
東郷堀暗渠部出口.jpg
⑦暗渠部を抜けて再び顔を見せた水路。永野川の左岸土手の東側を土手に沿って南に下って流れています。水路の先に錦着山が見えます。
しかしこれは現在の姿、風景です。「片柳用水之碑」では、大皆川不動出水から流れ出した水を、≪これを永野川に落し、水丈に応じて泉川村地内大口堰場に蛇籠と並杭を以て川幅一面に締切り・・・≫そして片柳村と岩出村のそれぞれの取り分で分けたと記しています。一度永野川の流れに落して、改めて永野川から取り入れていたので先の明治前期に作成された水路とは流れが異なっています。
それでは永野川へ何処で落として、何処で取水したのか。大皆川不動出水は何処に有ったのか。

栃木市図書館で「角川 日本地名大辞典9栃木県」(角川書店)の「大皆川村」のページを調べると、≪村の東端字不動裏に不動堂があり・・・≫と記しています。確かに先に記載した宝珠院不動堂の「不動尊由来」に中でも≪はじめ東大皆川地内にあった。≫と、記していましたから、不動出水も大皆川のもっと東方向、泉川との境近くに有った事に成ります。
大正6年7月発行の2万5千分1栃木の地図の永野川の流れに沿って大皆川と泉川の境界付近を虫眼鏡で追ってみたが、やはり地形図にはそれらしい沼や永野川への落ち口も確認出来ませんでした。ただその下流にて、永野川右岸から岩出村方向に向かって水路が描かれています。又、更にその下流永野川左岸、現在のさくら保育園の辺りから、錦着山西側から南側に伸びる水路が描かれています。
これらが片柳用水之碑に有る「岩出村用水堀」と「東郷堀」だと一人確信しました。
それから「角川 日本地名大辞典」でもう一つ発見しました。それは「泉川村」のページの中に≪大皆川村の湧水から引いた三ツ又堀≫です。この堀が先に私が思い違いをした、大皆川村から泉川村を流れ現在の九反田橋の近くで永野川に落ちる水路であると。

話しは少し変わります。「片柳用水之碑」の碑文では、≪岩出村用水堀に対しわが用水堀を東郷堀といい、戦国時代末期皆川俊宗賀この地を支配せし時に起源す。≫と、片柳用水堀の名前を「東郷堀」と伝えていますが、前に記している様に明治前期までは、「片柳村用水堀」と有り、まだ「東郷堀」とはなっておりません。
「東郷堀」と云う名称は、明治38年3月起工して明治40年3月に竣功した大事業、薗部町耕地整理に伴い、これまで錦着山の南麓から東方向に箱森村との境を流れ、かつての字五反田から、字亀甲渕、そして字下田方向に流れ、現在の栃女高辺りの字御前ノ木の東側を南流、片柳村に流れ込んでいた流路を、現在の様な直線状の水路に変更しています。
薗部町記念塚から錦着山方向.jpg錦着山よりの東郷堀.jpg
(薗部町記念塚手前、東郷堀に架かる日進橋上より)(錦着山上より東郷堀を望む)

この耕地整理事業以前の薗部村の農地は道路が網の目状に入り組んだ状況でしたが、耕地整理にて区域内の道路を明治24年に初代栃木町長根岸政徳の尽力によって改修された太平新道を基準に、並行直角に整備しています。合わせて区域内の水路も同様に変更され、片柳村用水堀も現在の様に、錦着山南麓より直線状に進み、太平新道に直角に交わるルートに成りました。しかし太平新道を越えた南側は耕地整理の区域外の為、水路は太平新道に沿って栃女高の前を東進して、字御前ノ木の南東端で従来の用水堀に繋がれ、太平新道を潜り南側の現在の片柳郵便局の東横から、片柳村の従来の水路を流れる形に成ったものと思われます。
旧片柳用水(女子高東).jpg女子高南側の片柳用水.jpg
(栃女高の東側に暗渠と成って残る旧片柳用水) (栃女高の南側を流れる片柳用水)

そしてこの耕地整理の完成の後、出来上がった堀に付いて「片柳堀」という事も有りましたが、丁度日露戦争も終わりになり、最後に大勝利を得た、露軍バルチック海軍を撃滅した日本海軍司令官東郷平八郎閣下の名を残したいと、耕地整理事務所のメンバーの発言で異議なく「東郷堀」と名付けられたというエピソードが、栃木市老人クラブ連合会の伝承作業として作成された「栃木市の社寺Ⅱ」の中に記されています。
私はその資料の中に記された「一文」に、又、多くの疑問を抱く事に成りました。その一文とは、
≪この堀は阿部氏の屋敷(旧栃木県令別荘跡)の南端から箱森町との境を流れて片柳町の用水堀に灌ぐ堀で薗部町の用水には使用できなかったのです。≫と記されているのです。
薗部町の中央部を縦貫する「東郷堀」を流れる用水を、地元薗部町は利用できない。それでは薗部町の用水はどうしていたのか。と? 一方、薗部用水イコール東郷堀だ、という話も耳にします。まだまだ調べたいことは山積みです。

「薗部用水竣功記念」の碑が建立されたのは、昭和26年5月3日と碑文最後に刻されています。この年同様に赤津川分水工事も竣功しています。そこには薗部用水の取入口を赤津川改修附帯工事とするなど歩調を合わせて進めた内容も碑文に見えます。そしてこの事業の中で≪関係諸庁の甚大な援助と平井町の応援泉川有志の協力泉川入田用水の水利権加入の容認等々大方の御援助によって・・・・≫と記された通り、「泉川入田用水の水利権を得られたことが、どんな影響をもたらしたのか、農業経験の無い私にとって用水の水利権は、なかなか理解が困難な問題として残ってしまった。

今、薗部町1・2・3丁目及び片柳町1・2丁目の区域は宅地開発が進み、農地は点在する程度の住宅街に変わっています。
薗部町に残る水田.jpg
(薗部町1丁目地内に残る田んぼ。写真中央奥に正覚寺 右端に錦着山)

「片柳用水之碑」の碑文の最後で以下の様に結んでいます。
≪嗚呼 中世末以来すでに四百余歳その間清冽な水の滾々としてこの沃野を潤し此の地を養い来たりし東郷堀はいまここに下水道と化す。まさに桑滄の変を目のあたりする思いして深き感慨に堪えず浅学を顧みずその由来を叙べる次第である。≫
農業用水路としての役目を終えた「東郷堀」には、今殆んど水は流れていません。ただ降雨後の雨水の排水路とし、今後も地域の為に残って行くのでしょう。
東郷堀の現在2.jpg東郷堀の現在1.jpg
(現在の薗部町記念塚脇の東郷堀)    (今、すっかり水が消えた東郷堀)

今、片柳町2丁目いずみ公園の下流域、新しい住宅の建ち並ぶ中、整備され真直ぐと流れる水路沿いの桜並木、春には水路をピンクに染めていました。
片柳用水と桜1.jpg片柳用水と桜2.jpg
(元片柳用水路沿いの桜並木 2014年3月撮影)

「薗部用水」と「片柳用水」の2基の石碑、その碑文の中で多くの事を語っています。そして私に多くの疑問を抱かせました。やがてこれらの石碑も風化し文字も薄れ、忘れ去られるのかも知れません。

(参考資料)
薗部村村誌・栃木市史(通史編)・とちぎの天台の寺めぐり(天台宗栃木教区宗務所編)・わが町さんぽ(長沼英雄著)・銀治のブログⅢ歴史と文化を歩く(夢野銀次著)・栃木市の社寺Ⅱ(栃木市老人クラブ連合会編)・明治前期測量2万分1フランス式彩色地図「下都賀郡栃木町と皆川城内村」(日本地図センター)・日本地名大辞典(角川書店)・2万5千分1栃木地形図(大正6年7月30日・大日本帝国陸地測量部・現国土地理院発行)
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