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岩舟町小野寺につたわる小野小町伝説 [石碑]

<はなのいろは うつりにけりな いたずらに わがみよにふる ながめせしまに>
小倉百人一首にもある、有名な小野小町の和歌ですね。平安時代の女流歌人で六歌仙のひとり。絶世の美人と言われ、美人の代名詞にもなっている。しかしこの小野小町は出生や没年など不明な所が多く、その為か全国各地に小野小町に関する伝説が有るのだそうです。「群書類従正編」には小野小町は小野篁の孫、出羽国司だった小野良実の娘と言われていますが、父とする良実についても、不明な点が多いと言われています。

そして、我が栃木市にも「小町の墓」などと言うものが有ります。そこは栃木市の西の端、岩舟町小野寺の里です。
小野小町の時代は、丁度慈覚大師円仁が活躍した時代に重なります。その円仁が少年時代修行をした、小野寺山大慈寺の境内、薬師堂の近くに現在、小野小町の碑が建てられています。
私が向かった日は、春の日差しも暖かく、境内には桜を始め、春の花が咲き誇っていました。
大慈寺薬師堂.jpg
(天平九年開山別格大慈寺。正面奥が薬師堂)
大慈寺境内.jpg
(春の花が咲く境内、六地蔵と鐘楼)
小町の碑.jpg
(薬師堂脇に建てられた「小町の碑」)

この「小町の碑」に関して、「小野の小町と大慈寺の薬師如来」を記した、佐野市在住の田口巳喜男さんの著書「東山道を往く」(昭和62年5月3日発行)を見つけましたので、一部抜粋させて頂きます。
<前略・・・小野小町は晩年一人旅立ち、この地で病にかかったため、大慈寺の薬師堂にこもって祈願を続けたところ、病気は全快した。その時、薬師如来の慈悲深い顔が悲しくなり、如来と同じ蓮の上へ身を投げたと云う。 小町の死を哀れんだ村人がその地にお墓を建て、供養したと云われている。今は同町の小野寺から葛生町へ通ずる道路の「西の沢の岩山」を中心に「身投げ堂」という地名が残っている。・・・後略>

この薬師堂が向く東方向150メートル先に、「小町墓」と刻した自然石が有ります。前記の「東山道を往く」に掲載されている写真を見ると、「小町の墓」と言われる石は、田圃の畔の草むらに埋もれるように転がっている唯の大きな石ころにしか見えません。
現在は写真の様に雨風をしのぐ為、東屋の中に祀られています。
小町の墓(全体).jpg
(綺麗に整備された「小町の墓」)

「小町墓」と刻された石の背後を良く見ると、何やら文字が刻まれている様に見えますが、不鮮明で判読する事は出来ません。
小町墓.jpg
(風雨から守るために、東屋状の建屋に収められた「小町の墓」)

昨年、京都市山科区小野の「随心院」を訪れました。京都市の地下鉄東西線は、その名の通り西の「太秦天神駅から、東の南禅寺近くの「蹴上駅」まで京都の街を東西に横断していますが、蹴上駅から東側終点「六地蔵駅へは方向を大きく南に変えていきます。山科・東野・椥辻と過ぎるとその名も「小野駅」とする、小野の里が有ります。小野駅を出れば随心院まで350メートル程で、歩いても5分程度で行くことが出来ます。
ここは小野小町が、仕えていた仁明天皇が嘉祥三年(西暦850年)に崩御された後、宮仕えを辞め暮らしたところと言われ、小町の屋敷跡には、「化粧の井戸(けわいのいど)」と言われる井戸が残っています。小町が朝夕この水で化粧をこらしたと伝えられています。又、随心院の裏手竹藪の中には、当時の貴公子たちから小野小町に寄せられた恋文を埋めたところと伝えられる「小町文塚」が有ります。
化粧の井戸.jpg小町文塚.jpg
(小野小町屋敷後に残る「化粧の井戸」と「小町文塚」)

尚、随心院の入口の前には、冒頭に記した小野小町の歌碑が建てられていました。
小野小町歌碑(随身院).jpg

今回参考にした資料は
・「東山道を往く」田口巳喜男著
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