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巴波川に架かるもう一つの雷電橋 [栃木市の河川と橋]

巴波川に架かるもう一つの雷電橋は、小山市の中里に有ります。丁度巴波川に西側から永野川が合流している点の上流側250mの場所となります。
この場所は、国土地理院2万5千分の1の地図ですと「下野藤岡」になりますが、一番古い発行でも昭和39年11月です。その前の状況を確認するには、明治前期測量2万分1フランス式彩色地図になります。その中の「栃木県下野国寒川郡中里村及下都賀郡伯仲村」の地図にて、現在の小山市中里地域の明治19年頃の様子を知る事が出来ます。
現在架かっている「雷電橋」は平成3年(1991)3月竣工です、橋の親柱のデザインが雷のお光の形になった洒落た物です。現在の橋に架け替えられる前は、少し下流側にコンクリート桁橋の「雷電橋」が架かっていました。
2013年中里雷電橋2.jpg1980年頃中里雷電橋1.jpg
(現在の橋の親柱)      (以前の橋、1980年に撮影)
明治19年の地図をあらためて見ると、中里村付近の巴波川の蛇行の様子が水の流れを矢印で記していることからも、見て取れます。大きく北向きに迂回をしていた部分は今は田畑に変わっています。又、現在の川の流れとなった蛇行部のショートカット部分に工場の地図記号が有り、「烟突」や「紙質製造所」の文字が読めます。なぜここに工場が作られたのか、疑問が湧いてきます。現在はその様な昔を偲ぶ物は見当たりません。小山市の歴史も知りたくなりました。
巴波川永野川合流点略図.jpg
※上図は、現在のグーグル地図を元に河川と道路を転写した概略図に、明治19年測量の「迅速測量図」の河川と道路の状況を上書きし、その変遷を比較しやすく試みたものです。
明治19年の河川をピンク色で、同じく道路を赤色の破線にて表しました。

話しが横道にそれました。なぜここに架けられた橋の名前が「雷電橋」と名付けられたのか。付近を見ても雷電神社が見当たりません。ただ、この地方は水田を中心として生計を立てていたが、雷や雹そして大雨に伴う川の氾濫などの自然災害は死活問題となる。逆に雨が降らなくても農産物の成長を妨げます。その為に群馬県や栃木県南部地方では雷電信仰が盛んになっていました。特に群馬県邑楽郡板倉には関東地方に点在する雷電神社の総本社格と言われる、「板倉雷電神社」が鎮座しており、我が栃木市にも大きな雷電講が組織されていました。安政年間に結成された「安政講」や「同盟講社」です。
毎年旧暦の4月1日は必ずこの「板倉雷電神社」にお参りをして、御札を迎えていました。
明治41年に同盟講は「水舎」を寄進しています。雷電神社の花崗岩の玉垣もこれらの雷電講が寄進しています。
ここ中里から板倉雷電神社までは、歩いて3時間ほどの距離に有り、「雷除け」や「雹嵐除け」のお願いをしていた物と思われます。
私も先日、お参りをしてきました。境内には蠟梅の木が沢山の蕾を持っていました。社殿もとても立派な建物で極彩色の彫刻も見ごたえが有りました。
板倉雷電神社0.jpg板倉雷電神社1.jpg
今年は自然災害の少ない年になればと祈ります。






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