SSブログ

北関東の小藩主皆川広照、小田原城に籠城するも。 [堂々巡り]

先日、富士・箱根を旅行した帰り道、小田原城へ立ち寄った。
昨年の栃木市の皆川公民館にて開催された学習講座「秀吉の天下統一と皆川広照」を受講していたので、どんな所か興味が有った。
しかし、現地に行ってみるも観光客や「報徳二宮神社」への初詣・参拝客で周辺の駐車場は満車状態、小田原城の周りをぐるぐる回ってしまった。幸い朱塗りの橋「学橋」前の駐車場に入ることが出来た。

ジックリと見る時間が無かったので、正規登城ルートで天守閣まで歩いて、鑑賞するにとどまった。
正面入口となる「馬出門土橋」を渡って「馬出門(うまだしもん)」を潜ると「馬屋曲輪(うまやぐるわ)」に出ます。「馬出門」は二の丸正面に位置する重要な門という事です。平成21年に復元されました。
小田原城0.jpg小田原城1.jpg
次に「住吉橋」と言う高欄に擬宝珠を配した白木の橋渡ると「銅門(あかがねもん)」と言う桝形門がどっしりした感じで出迎えてくれます。「銅門」と言う名前は、大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられた事が由来との事です。
小田原城3.jpg小田原城4.jpg
「銅門」を抜けると広い場所に出ます。ここには藩主の居館の「二の丸御屋形」が有った場所との事。本丸との間に空堀が有り、朱塗りの橋が架けられています。
小田原城4.jpg小田原城5.jpg
橋の手前に蠟梅の木や梅の木が数本有、梅の蕾が開き始めていました。
小田原城6.jpg小田原城7.jpg
橋を渡り石段を登ると、「常盤木門(ときわぎもん)」の前に出ました。この門は本丸の正面に当たる為、重要な防御拠点として他の門と比べても大きく、堅固に造られているそうです。「常盤木門」と言う名の由来は、門の傍らに立つ松(常盤木)にちなんで、小田原城の永久不変の繁栄を願って、この名が付けられたと伝えられているそうです。そしてここを潜るといよいよ本丸です。高々と天守閣がそびえ立っています。
小田原城8.jpg小田原城9.jpg
「天守閣」は3重4階の天守櫓に、付櫓・渡櫓を付した複合式天守閣で、地上38.7m鉄筋コンクリート造で、現在内部は歴史資料展示施設になっているそうです。今回時間が無かった為、外観だけの鑑賞です。

城内に「小田原合戦攻防図」が掲示されています。
天正18年(1590)3月、豊臣秀吉は全国の諸将約18万の大軍を率いて陸と海の両方から小田原攻めを開始しました。これに対して北条側は約5万の兵を置き籠城戦法で対抗しました。
攻防図は小田原城を包囲する豊臣軍の布陣と籠城する北条軍の武将の名が記されています。
小田原城の西、早川の石垣山に城を築き長期戦に備える秀吉。東側には徳川家康の陣、北には織田信雄、羽柴秀勝、羽柴秀次など。南の海側からは長宗我部、毛利らの水軍。まさに蟻の這い出る隙も無いほどの有様です。
一方籠城軍に、北条氏政・氏直の父子らの名前に列して下野国皆川藩主「皆川広照」の名前も記されていました。
この戦で皆川広照は武士の義理(広照は北条氏政の養女と結婚をしていた)により100人の家来たちと共に小田原城に入り「竹ノ下口を守っていたとされています。(攻防図に竹ノ下口の場所は記されていませんでしたが)
しかし、皆川広照は小田原城が秀吉に包囲され始めた4月8日に、家来たちと共に城から抜け出して、家康軍に降伏をしました。結局その7月11日北条氏は滅びる事となりました。

なぜ皆川広照は一度北条側に付きながら、いざという時になって豊臣側に降伏したのでしょうか。
この裏切りと取れる行動は戦国時代を生き残る為、当時の小藩は常に自分の身の置き所に苦慮していたのでしょう。歴史上もこうした話は良く聞かれます。戦でどちらが勝っても負けても、自分の御家の存続を考え、兄弟や親子が敵味方に分かれたりしています。
「寄らば大樹の陰」で、優勢な方になびく事は有る面仕方ありません。
それより前、天正9年(1581)11月に皆川広照はその当時まさに日の出の勢いであった「織田信長」に名馬三頭を献上しています。それに対し徳川家康から広照宛に「織田信長に馬を贈った事が成功であった」と書かれた手紙が来ています。
北関東の小国と言えど広く日本の大勢を必死に読んでいなければならなかったのでしょう。

天正12年(1584)北条氏政は8万の大軍を率いて下野国に攻め込んでいます。
北条氏政の軍は、岩船山を攻め落とし、翌年には太平山をも占領しました。その為皆川広照は北条軍を皆川城の目と鼻の先である草倉の地(栃木市志鳥町)で食い止めようとして、非常に激しい合戦を繰り広げました。全皆川軍の兵力の約1割(241人)が戦死をしています。
現在、草倉の地には戦死をした人々の墓が有り「千人塚」と呼ばれています。
結局、この戦は三ヶ月にわたりましたが勝負がつかず、天正14年(1586)徳川家康の提案で停戦となり、その条件として皆川広照と北条氏政の養女が結婚することになったのでした。

こうした過去の関係も皆川広照が早い時期に小田原城を抜けだした一因になっていたのかも知れません。
そうして戦国時代を一生懸命に生き伸びて行ったのです。

これらの話は、昨年の皆川公民館にて開催された学習講座で学んだ内容でした。






nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0