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栃木市鍋山町の西方寺 [堂々巡り]

今回は、栃木市鍋山町の西方寺を巡ります。
西方寺は山号を極楽山と号する、曹洞宗の寺院です。
天正年間(1573~1591)の建立と伝えられます。又、開山は慶長17年(1612)、久山舜長と伝えています。建立年と開山時期が10年以上ずれていますが、詳細は分かりません。
開山の久山舜長は、文亀二年(1502)開創の旧田沼町栃本の大明山本光寺の第10世にて、天正十二年(1584)旧田沼町飛駒の妙高山永台寺に飛駒町屋、根小屋城の小野兵部の請に応じて来化あった。この時永台寺は臨済宗から曹洞宗に改宗されました。又、慶長二年(1597)には桐生市梅田町の大慈山碧雲寺を開山しています。その後も、元和九年(1623)に同じ栃本の宝珠山泉龍寺の改宗開山等、その名を見る事が出来ます。
それでは、なぜ久山舜長が西方寺の開山となったのか、これは私の想像になりますが、西方寺の南側にそびえる標高467mの蓬莱山の中腹に築かれた、不摩城(秋葉城・部屋子城とも呼ばれる)に、関係していると考えます。この城を築いたのは、藤姓足利氏からの分かれの「足利七郎有綱」と云われます、仁安二年(1167)です。その後養和二年(1182)、有綱は佐野に移り、佐野氏を名乗ります。有綱の後の不摩城には、五男の木村信綱がなり、代々信綱の子孫が居城しています。この不摩城も慶長十七年(1612)佐野信吉が、佐渡金山事件に関連して改易となった為、佐野城と共に廃城に成ってしまいます。
不摩城は、南の皆川や東の宇都宮に対する、佐野氏の守りの拠点となっていました。したがって、田沼に居た久山舜長大和尚が請われて鍋山の地に来られ、開山したものと思われます。
現在、西方寺境内の直ぐ南側に、県道202号線(仙波鍋山線)の鍋山新道が、永野川東側の県道32号線(栃木粕尾線)大久保バイパスまで接続されましたので、非常に便利になりました。
山門前の道路脇に駐車場が有ります。山門右側に六地蔵が並んでいます。
西方寺6.jpg
山門と本堂の間に新しい礼拝堂の様な建物が建てられています。建物の両側にはたくさんのお地蔵さんが一列に並んで祀られています。
西方寺4.jpg西方寺5.jpg
その奥に本堂が有ります。
西方寺2.jpg西方寺3.jpg
1969年に西方寺を山門前から撮影した写真が残っていました。
西方寺7.jpg
さすがにすっかり様変わりをしています。
西方寺1.jpg
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