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栃木市藤岡町藤岡の藤岡神社 [栃木市の神社]

今日も暑い一日となりました。家の中に居ても暑くて何もする気になりません。午後には辛抱出来ず、車で出かける事に。出かけるとなればどこか目的地をと考え、今回は藤岡方面に向かいました。カーエアコンをガンガンに利かして、快適空間に変わりました。先ほどまでのベトベト肌が、サラッとしてきました。
藤岡町なら「藤岡神社」へと考え、一路県道11号線を南下します。途中分岐で右の道に入り、渡良瀬川に架かる「新開橋」を渡ります。藤岡の街中を貫く県道9号線の南の端に有る交差点、左に曲ると曹洞宗の「桂繁寺」の山門前に出る。この交差点を逆に右に曲る。
東武日光線の踏切を渡ると、道は三方に分かれ、中央の道には大きな石の鳥居が道を跨いでいる。鳥居の手前右手に、「藤岡神社」と刻した大きな石柱が建っている。
石の鳥居を潜って、真直ぐに500m程進むと、目の前に緑の木々に覆われた藤岡神社が現れます。道路脇に車を停め、境内に入ります。参道の両側に欅の大木が立っています。この欅は平成元年(1989)に栃木県名木百選に選ばれています。樹齢は400年と推定されています。
藤岡神社1.jpg
藤岡神社に付いては、「栃木縣史第三巻神社編」田代善吉著に、
≪下都賀郡藤岡町藤岡字城山に鎮座せり、祭神はイザナギノミコト、イザナミノミコト、オオヒルメムチノミコト、ツクヨミノミコト、アメノコヤネノミコト、アメノウズメノミコトとす、本社は天慶三年の創建にして昔は、六所大明神と尊称したるという。天正五年四月佐野城主佐野小太郎宗綱は、其の臣松本丹波、津布久弾正の二人に命じて、藤岡城を攻めしめた、二将は決死の士三十六騎を以て、韛沼を渡り急に城を攻めて、各所に火を放ったので、本社も兵火に罹つた。天正十八年漸く本社拝殿等の再建を成して、本村の大鎮守神として尊崇した。しかし境内荒れて神威を穢す恐れあるので、元禄七年更に社殿を大修理し、諸般の装飾を施し、完成を告げたので始めて旧観に復する事を得た。正徳二年吉田家より5神階正一位を授けらる。享和元年三月華表を建立す。文政四年に至りて神号を御告文によって、紫岡神社と改め、明治六年四月境内を4653坪と定めらる。同八年藤岡神社と改称せられた境内は古杉老樹奇松に富む、或は藤有りて風景佳である。≫と紹介されています。
藤岡神社6.jpg
参拝を済ませて、境内の中を散策しました。境内は木陰に成っているので涼しく感じます。境内は実に多くの石碑が建てられています。
藤岡神社7.jpg藤岡神社8.jpg
社殿に向かって左手、手水舎の後方に背の高い石碑が有ります。石碑上部に「鴎村先生碑」、碑文右したに岩崎清七篆額と有ります。
藤岡神社5.jpg
「鴎村先生」とは、漢学者の「森鴎村」(1864~1907)、「岩崎清七」とは、鴎村の弟子であった財界人。二人のお墓は近くの繁桂寺境内に有ります。
他に句碑も三基見られました。
「市人に いで是うらん 雪の笠」(芭蕉)
藤岡神社4.jpg
「七五三縄に 風情等しや 藤の花」(北岱)
「むかしいま 花ふさ長き 藤かつら」(作者不詳)
藤岡神社2.jpg藤岡神社3.jpg
尚、松尾芭蕉の句碑は、先ほどの繁桂寺山門前の弁天池跡にも有ります。
「名月や 池をめくりて 夜もすから」
明治前期に測量された「迅速測図」下都賀郡藤岡町の地図を見ると、この藤岡神社の直ぐ裏手(西側)には、北から南に渡良瀬川が流れています。大正七年(1918)河川改修により流路が変更となり、現在は藤岡の北側を東に流れ、渡良瀬遊水地に流れ込んでいます。元の渡良瀬川の跡は今も栃木県と群馬県との県境として残っています。「迅速測図」を見ますと地図の左側に渡良瀬川、その左岸近くに藤岡社の文字が確認できます。又渡良瀬川上部左岸に直線状に築かれた堤防は、江戸時代に苦労して築かれた堤防跡です。
今もその場所に行くと、道路の下に「葭立修理碑」と篆刻された明治二十七年(1894)建立の石碑と「愛国開墾記念碑」と大書された、昭和十年(1935)建立の石碑が建っていました。
藤岡神社9.jpg
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