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巴波川の舟運に付いて [栃木市の河川と橋]

このブログの名前にも使っている「巴波川(うずまがわ)」は栃木市の中心市街地を流れる、利根川水系の一級河川で、歴史的には江戸時代の初期より始まった舟運によって、この町を商業都市として大きく発展をさせたのです。
現在は自動車の普及と全国をネットワークで結ぶ高速自動車専用道をはじめとする、道路網の整備により、かっての舟運は見る影も有りませんが、蒸気機関の無かった明治初期以前は、大量の物資を一度に運ぶことが出来た舟運は、優れた運送手段でした。関東平野では利根川と荒川の二大河川を中心に各所に舟運での荷捌きを行う「河岸(かし)」が造られました。
栃木県においては、利根川の支流となる「渡良瀬川と鬼怒川、及びその支流に多くの河岸が発達しています。巴波川沿岸の河岸としては、下流側から部屋河岸・新波河岸、本澤河岸、沼和田河岸、栃木河岸・片柳河岸、そして遡航終点となる平柳河岸です。
巴波川舟運6.jpg
(巴波川舟運の遡航終点となる、平柳河岸付近)
途中の本澤河岸は現在小山市となりますが、その他の河岸は全て栃木市に成ります。
巴波川舟運3.jpg
(本澤河岸付近で巴波川は大きく蛇行しています。小山市下河原田「本郷橋」付近)
川の流れを利用して上流から下流へ物資等を運搬する、たとえば山奥から伐採した木材や竹材などを、筏に組んで運ぶ、「筏流し」が昔から行われています。しかし、逆に下流から上流に向かって、舟により物資を運ぶという事は、自然の流れに逆らう事ではないかと。それも蒸気機関がまだなかった江戸時代においてです。ちょっと考えると、荷車や馬車で運搬する方が良いのではと考えます。
「鬼怒川ライン下り」の舟も下流からスタート地点に戻すために、トラックに載せて運んでいます。
巴波川を利用した栃木の河岸では、栃木から江戸には米や大麻、薪炭、そして鍋山の石灰等を運んでいました。そして、江戸から栃木には、糖、干鰯、酒・酢・油などを運んでいたそうです。
巴波川舟運5.jpg
(現在栃木観光の中心にもなっている、栃木河岸跡付近。幸来橋の上より下流左岸を写す)
栃木県文化協会が発刊した「栃木の水路」の中で、うずま川舟運について≪栃木町河岸は、舟積問屋といっても、部屋・新波両河岸までの小下ケ河岸であり、小船に積んで両河岸まで積下げ、同所で大船に積み換えて江戸方面へ送り、江戸方面からの荷物も大船でこの両河岸まで送られて来たものを、小船に積み換えて栃木河岸まで運んだ。また関東構造盆地の中心部に近い中請積換河岸、部屋・新波の標高約16メートル、遡航終点の栃木河岸は標高約45メートル、その差約29メートル、約19.25キロメートルのあいだを流れるのだから、その傾斜は微弱である。しかし、昔は栃木河岸の下流にてもいたるところ湧水が有り、それがまた水流に力を与えていたから、水の流れは案外速かった。安政六年(1859)巴波川通船出入につき「荷主村々嘆願書」にも、「栃木川岸より部屋河岸迄を上川と唱え、早瀬の川筋にて」といっている。そのような川であったから、部屋・新波の両河岸で小船に積み換えて、綱を曳いて上らねばならなかった。≫ と、説明しています。
巴波川舟運2.jpg
(大平町下高島「宝蔵寺」付近より上流側を望む。奥に太平山の山並みが広がる)
この中で、「その傾斜は微弱である」と有りますが、実際どの程度の勾配だったのか、私も地形図の上で検証を行ってみました。
栃木河岸の有った「幸来橋」から、部屋・新波両河岸跡の間で考えると、
 ①幸来橋の地点は、東経139°43′53″ 北緯36°22′44″ 標高45m
 ②部屋・新波両河岸跡は、東経139°42′49″ 北緯36°16′6″ 標高16m
より、この2点間の直線距離は12.37km 比高は29mですから、2点間の平均勾配は2.3m/kmとなります。しかし実際の巴波川の流路は大きく蛇行している為、2点間の流路の延長距離を計測すると、約18.48kmでしたので、河床勾配は1.57m/kmとなりました。
(※ここで2点間の流路延長距離の18.48kmは明治前期測量の迅速図の巴波川の流路を、キルビメーターを使って測定したもので、最新の地形図に載っている巴波川の流路は、河川改修等で蛇行が解消されてきている為、15.75kmまで短くなってきております。)
巴波川舟運7.jpg
(30年以上愛用している、キルビメーター)
こうして、うずま川舟運は舟を綱で曳いて遡航する事で成り立っていたのでした。現在も栃木の街の中を流れる巴波川の両岸には手綱道が残っています。
巴波川舟運4.jpg
(河合町熊野神社の脇を流れる巴波川。川岸に手綱道が伸びる)

尚、巴波川の支流、「永野川」はなぜか河岸が造られておりません。理由は永野川は冬の渇水期、河床がむき出しとなり、水の流れが全く見られなくなってしまう為、舟運に利用できなかったようです。
巴波川舟運1.jpg
(皆川城内町で永野川に架かる「対嶺橋」上より下流側を望む)
ちなみに永野川の中流域に位置する「皆川」という地名の語源について、この地を流れる「永野川」が水の流れない「水無川」だった事からとする、説も有るようです。


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