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栃木・鍋山人車鉄道のルートを探る。 [歩く]

明治から大正・昭和前期、栃木町停車場と下都賀郡寺尾村大字鍋山(現栃木市鍋山町)の間に軌道を敷設して、鍋山より産出された肥料石灰を栃木停車場まで輸送した「鍋山人車鉄道」が有りました。
私の家はその箱森町の旧鍋山街道沿いに有りましたが、私が生まれた頃はすでにルートも変更となり、何も面影は残っていませんでした。
この鍋山人車鉄道のルートが載っている資料を探して、最初栃木市史を確認すると、資料編近現代Ⅱに「鍋山人車鉄道」の資料が載っておりましたが、ルートを図示したものは有りません。そこで「栃木県鉄道史話」を確認すると、鍋山人車鉄道の路線変更前後のルートを併記した略図が掲載されていました。
更に詳しいルートを確認する為に国土地理院発行の地形図を調べてみると、2万5千分1「栃木」の最初の発行は大正6年に成りますが、それには旧鍋山街道に沿って、特殊鉄道で一軌の地図記号と「鍋山人車鐡道」の文字が記されています。確認出来るルートは北側から「千塚」「野中」「箱森」から栃木中学校(現栃高)の西側を通る、旧鍋山街道に沿っています。そして栃木中学校の南側を東に進み巴波川の手前に停車場の地図記号が有り、地図上で確認できるのはここまでに成ります。ルートの変更がされたのは昭和5年以降ですから、変更後のルートを見るにはそれ以降の地形図に成ります。
大正6年発行の次の「栃木」の地形図は昭和7年発行の物に成りますが、これには大正6年と同じルートのままで、名称が「鍋山石灰手押軌道」と変わっています。この昭和7年発行の修正図の大正6年発行の地形図との大きな変更点は、東武鉄道日光線が追記された事です。
次に発行されたのは昭和22年ですが、この地形図にも鍋山人車鐡道は最初のルートのまま変わっていません。名称は昭和7年の物と同じです。この昭和22年の発行は「鉄補」が目的で、変更点は東武鉄道の宇都宮線が追記されたものでした。
更に次の昭和40年発行の地形図を確認すると、そこにはすでに人車鐡道は無くなっていました。昭和35年には鍋山人車鉄道は廃止に成っていました。2万5千分1の地形図では変更後のルートを記したものは、作成されていませんでした。
又、2万5千分1の栃木の地形図は、北は千塚迄しか有りません。千塚より北の仲方や尻内以北は「下野大柿」の地形図に依る事に成りますが、この地域の最初の発行は昭和46年まで有りません。
2万5千分1の地形図をあきらめ、少し粗くなりますが5万分1の地形図「栃木」で確認すると、一番古い明治42年発行の物に旧鍋山街道に沿って「鍋山人車鉄道」の軌道を確認できます。軌道上にいくつかの停車場も確認できます。そこは北側から「下川原」「尻内」「千塚」そして「野中」の4ヶ所です。
次に昭和32年発行を見て見ますと、名称が「鍋山石灰用軌道」となって、ルートは「野中」の街並みの北側で旧鍋山街道から外れ、南に折れ「野中」の街並みの西側を通り、錦着山の東側から栃木女子高等学校の東側に進み、更に南に直進して片柳を通って栃木駅の西側に達しています。
軌道のルート変更が行われたのは「野中」から「栃木駅」の間に成ります。この部分を国土地理院発行5万分1の「栃木」の地形図を参考にして、軌道の変更前後が比較出来る様略図を作成してみました。
鍋山人車鉄道新旧ルート比較略図.jpg
(鍋山人車鉄道新旧ルート比較略図、 旧ルートは黒色、新ルートは赤色にて表示)
新しい軌道は野中町の増山ストアーの西側を通り、とりせん栃木店の東側を抜けて、栃木女子高校の東の交差点の所から南に抜ける細い道に入り、アルス幼稚園の東側を通って、栃木商工会議所の東を抜けて栃木駅の西側の石灰積込場に達するルートをほぼ確認出来ました。
この今回確認出来た新ルートを歩いて来ました。
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