SSブログ

栃木県土木遺産にもなっている栃木元県庁堀 [栃木市の河川と橋]

今回は、私の家の近くに有る「県庁堀」について書きたいと思います。この「県庁堀」について、栃木市発行の「目で見る栃木市史」の中で、≪明治4年(1871)廃藩置県の後、栃木県令となって赴任した鍋島貞幹(道太郎・幹ともいう)は、庁舎を薗部村鶉島に建てたが、そのとき県庁の敷地に堀をめぐらしたほか、うずま川に通ずる漕渠をつくって、県庁の庁舎に直接舟がつくようにした。≫と記しています。
県庁堀(鶉橋より).jpg
(南側の県庁堀を西側に架かる「鶉橋」の上より撮影。右側は元の栃木第一小学校)
この初代県庁舎は、明治5年(1872)11月に落成しました。その後県庁は宇都宮に移されることとなりますが、この県庁の跡地は、現在、県立栃木高等学校や市立栃木中央小学校の敷地となっていますが、この堀は今も昔のままの姿を残しており、平成8年(1996)8月12日に栃木県指定文化財(史跡第51号)となりました。
県庁堀(御幸橋より).jpg
(東側の県庁堀を「御幸橋」の上から北方向を撮影)
私が子供の頃は、この県庁跡地に建てられた市立栃木第二小学校に通いました。又、夏休みには県立栃木高等学校のプールに遊びに行ったり、グラウンドを借りて少年野球の練習を行ったり、栃高のグラウンドも子供の頃の遊び場でした。高校の時は家が近くでしたが、学力的にはとても遠い存在でした。
1965年4月栃木高校正門1.jpg
(1965年4月に撮影した栃木県立栃木高等学校の正門)
そんな身近にある県庁堀ですが、実際の所詳しい事は何も分からなかったので、今回、少し調べてみました。
最初に所有する栃木の地形図を元に、県庁堀の移り変わりを見てみました。国土地理院発行の「栃木」の地形図の図歴よりピックアップして、県庁堀の部分を抜粋させて頂いて比較しています。

最初は、明治19年(1886)発行の2万分1フランス式彩色地図を見てみます。
明治19年栃木県庁堀彩色地図.jpg
(明治19年発行2万分1フランス式彩色地図「下都賀郡栃木町」より県庁堀付近を抜粋)
地図の中央部に、長方形(東西約246m・南北約315m)に仕切られた内側が明治9年(1876)12月5日本格的な庁舎が上棟して明治17年(1884)1月に宇都宮に移されるまで栃木県庁が置かれた場所に成ります。周りにめぐらされた堀が、現在も残る県庁堀です。
県庁堀西側(1982年3月)2.jpg
(西側の県庁堀を南の角から北方向を撮影。右側が元県庁敷地になります。)
県庁敷地の西側から北側、そして東側の一部のオレンジ色に着色された所は、田圃に成ります。
地図の右側を北から南に貫流する川が「巴波川」。県庁堀の南東部角付近から巴波川までつながる漕渠も描かれています。
2010年6月中之橋4.jpg
(巴波川と県庁堀の間を連絡する漕渠。中間点に架かる「中ノ橋」より東方を撮影)
明治6年(1873)9月に作成された「栃木縣廰圖」には現在の元栃木町役場庁舎の北側付近に、「揚場」と記された長方形の池が描かれていました。巴波川から漕渠を通って入って来た舟の荷物を陸揚げする場所が造られていたのです。又、「栃木縣廰圖」には県庁堀周囲5ヶ所に木橋も架けられていますが、地図には南側中央部県庁表門前と東側現「御幸橋」付近の2ヶ所しか記されていません。
清水橋.jpg清水橋(1981年).jpg
(鍋山人車鉄道が渡った箇所に架かる「清水橋」。以前の「清水橋」後ろは栃木高等学校)

次の地形図は大正6年(1917)発行の2万5千分1「栃木」より抜粋した地図です。
大正六年県庁堀.jpg
(大正6年国土地理院発行2万5千分1「栃木」の地形図より県庁堀付近を抜粋)
栃木県庁が宇都宮に移ってから30年以上が経過し、県庁堀の中にも道路が通り住宅も建て込んできています。県庁堀内の北側部分には「中學校」の文字が記されています。現在の栃木県立栃木高等学校の前身です。明治29年(1896)に「栃木県尋常中学校栃木分校」として創立。明治32年(1899)分校が独立、栃木県第二中学校と改称。明治天皇が近衛師団演習叡覧の為行幸された際、行在所としています。
明治天皇行在所の碑.jpg大本営記念碑.jpg
(栃木高等学校の敷地内に建てられた「明治天皇栃木行在所」の碑と「大本営記念」の碑)
栃木県立栃木中学校と改称したのが明治34年(1901)、現在の名称に改称したのは、昭和26年(1951)に成ってからです。
又、地図の北西方向から中学校の西側を通り、中学校の南西角から南側の道路に特殊鉄道の軌道が描かれています。中学校の東側巴波川の手前に「停車場」の地図記号が見えます。軌道は明治33年(1900)に開業した「鍋山人車鉄道」に成ります。
栃高南側道路1.jpg
(右側、栃木高等学校前の道路。昔ここを鍋山人車鉄道が通っていました。)
明治19年の地図には見られませんでしたが、県庁堀の北西部角近くに北西方向から1本の川筋が描かれています。県庁堀への水の流入口がここに有りました。元の地図を確認すると箱森の「御邊」の東側を南流する「清水川」から分水しています。私は子供の頃この分水堰付近でも良く遊んでいましたが、そんな事は何も分からなかったです。

次の地形図は昭和40年(1965)発行の2万5千分1「栃木」より抜粋した地図です。
昭和40年県庁堀.jpg
(昭和40年国土地理院発行2万5千分1「栃木」の地形図より県庁堀付近を抜粋)
県庁堀が見ても分からなくなってしまいましたが、実際は以前のままの姿を留めています。「中學校」の表示が「栃木高校」に変わっています。北側の錦町の通り、そして西側の鍋山街道筋にも住宅街が出来て、田圃が少なくなってきています。鍋山人車鉄道の軌道も見えません。昭和35年(1960)にすでに廃止されています。栃高の南側の地図記号「文」は私が入学した頃の姿をした「市立栃木第二小学校」で北側の長い建物が3階建の教室棟、前が2階建の管理棟。その南側県庁堀を隔てて建っているのが「市立栃木第一小学校」です。
1965年4月栃一小正門.jpg1963年栃二小全景.jpg
(1964年頃の栃木第一小学校と栃木第二小学校の校舎)
この地図にはまだ「旧栃木市役所庁舎や中央公民館の建物は有りません。市役所を示す地図記号◎は、大正10年(1921)11月に竣工した「元栃木町役場庁舎」に付けられています。栃木が市制を施工した年は昭和12年(1937)4月1日ですが、この時はまだ「大宮村」「皆川村」「吹上村」「寺尾村」「国府村」の編入前の事です。
夕暮れの市役所別館1.jpg
(2009年撮影、夕暮れ時の元栃木町役場庁舎正面。2年前まで栃木市役所別館でした。)

次の地形図は昭和49年(1974)発行の2万5千分1「栃木」より抜粋した地図です。
昭和49年県庁堀.jpg
(昭和49年国土地理院発行2万5千分1「栃木」の地形図より県庁堀付近を抜粋)
第一小と第二小の様子は変わっていませんが、第二小の校庭に道路が出来、その南側の県庁堀との間に大きな建物が二つ現れています。右側が前「栃木市役所庁舎」で、左側が元「栃木中央公民館(後、栃木市民ホール)」です。私が丁度第二小に通っている時で、校庭を取られたと思っていました。
1963年市役所前通り.jpg
(1963年撮影の元栃木市役所前通り。奥の建物は元の栃木中央公民館です。)
栃木高校の文字が無くな新地図記号の高校「〇の中に文」に変わっています。此の頃に成ると県庁堀の西側の田圃もすっかり住宅地に変わっています。

次の地形図は平成9年(1997)と平成25年(2013)発行の2万5千分1「栃木」より抜粋した地図です。
平成9年県庁堀.jpg平成25年県庁堀.jpg
(平成9年、平成25年国土地理院発行2万5千分1「栃木」の地形図より県庁堀付近を抜粋)
地図も三色刷となって川、水路が青色で表示され、巴波川もはっきり判る様になりました。又、県庁堀と巴波川とを結ぶ漕渠の途中から分流して南に流れ、巴波川倭橋下流右岸の「会橋」の所で巴波川に合流する「入舟川(井上堀)もはっきり確認出来る様になりました(※県庁堀・漕渠・入舟川の分流部分が実際とは違っていますが、細かい事ですから目をつぶります。)。
ただ県庁堀は実際長方形の西側と南側しか表示されていません。尚、県庁堀に流れ込む水路もはっきり見えて来ました。箱森町の特養ホーム「レユーナ」の裏手を流れて県庁堀に落ち込んでいます。
県庁堀西北角4.jpg県庁堀西北角1.jpg
(県庁堀北西部に流れ込む水路。奥に特養ホーム「レユーナ」が見える。)
平成9年と25年の地図上の変化は、新しい地図記号博物館「横山郷土館」や老人ホーム「レユーナ」が使われています。元第一小の学校の記号が無くなりました。平成22年(2010)4月1日第二小と統合して、新しく栃木市立栃木中央小学校として開校、2年後の平成24年に元の第二小の敷地に新しい校舎が落成しています。
栃木中央小学校(2015年4月12日).jpg
(栃木市立栃木中央小学校の新校舎)

県庁堀に現在架かっている橋を見ると、昭和6年(1931)竣工の「御幸橋」の親柱に「元縣廳堀」と刻まれていますが、新しく架け替えられた「清水橋」や「鶉橋」の親柱には、「県庁堀川」と表示されています。以前栃木市と栃木県栃木土木事務所により建てられた説明板に、「県庁堀川について」記されていました。一部を転載させて頂きます。
≪県庁堀川は、旧赤津川分水堰付近を源とし、(旧)市役所南側を通って、入舟川と分かれて巴波川に合流する流域面積約1.26k㎡の河川で、堀の周りは約1,100mあります。この川は、栃木市に栃木県庁が設置された明治5年ごろ、県庁周辺の洪水対策、および物資の輸送路として掘られた歴史を持つ堀割(ほりわり)で、昭和45年に栃木市の文化財に指定されています。≫と記されていました。
元県庁堀親柱.jpg県庁堀川親柱.jpg
(県庁堀に架かる御幸橋の親柱と清水橋の親柱の河川名表示。)

平成26年(2014)2月10日この県庁堀内に有った栃木市役所本庁舎が、福田屋百貨店栃木店跡地に移転をしました。使われなくなった旧庁舎は近い将来解体をされ、そこに又新しい施設が造られるでしょう。それでもこの県庁堀は何時までも歴史の証人として残されていきます。
元市役所庁舎2.jpg
(役目を終えた県庁堀内の旧市役所本庁舎。2013年8月に撮影)






nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0