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太平山神社表参道あじさい坂中ほどに建つ田村律之助胸像 [石碑]

栃木市の太平山神社表参道、連祥院(六角堂)を左手に見て、通称あじさい坂を230m程登った所、右ての木立の中に石段が有りその少し高くなっている場所に一基の胸像が建っているのが見えます。
あじさい坂から少し脇に入った所に有る胸像が載る台座正面に「田村律之助翁之胸像」と刻した石板が取り付けられています。
田村律之助像1.jpg田村律之助像3.jpg
台座の上の胸像はネクタイを締めた洋装、均整の取れた目鼻立ち、口髭の下の唇は横真一文字に閉じていますが、何か少し微笑んでいる様に見えます。
台座のうしろ側に「田村律之助翁」の経歴を記した銅板が付けられ、その下側に発起者名、建立年月日等が台座に直接刻されています。
田村律之助像2.jpg田村律之助像4.jpg
発起者の名前には「栃木県農会」を筆頭に県内各郡農会等が名前を連ねています。「農会」とは現在の「JAで最近まで農協(農業協同組合)」
建立は「昭和10年12月15日」その後に、彫刻家鈴木賢二作、石工藤沼庄三郎刻と刻まれています。「鈴木賢二」は栃木市の郷土玩具・土産品「巴波の鯰」や「火防の獅子」の考案者としても知られる栃木市出身の彫刻家です。
田村律之助像5.jpg
田村律之助の経歴を記した文を読むと最後の部分に、≪茲に其偉業を偲び故旧後輩相謀り銅像を建設し以て專ら追慕の情を表す。≫と記しています。現在台座に載るのは石像に成っていますが、最初に建立された時は、台座の上に立ち姿の田村律之助翁の銅像でした。しかし、先の戦争のさなか、金属回収により供出されたのでした。日向野徳久編「ふるさとの思い出写真集・明治大正昭和・栃木」の中に、№251「田村律之助銅像」と題し、台座の上に立つ田村律之助翁の姿とそれを仰ぎ見ている数名の人物が写った写真が掲載されています。横に≪田村律之助は水代村(大平町)の人、日本の明治・大正期における農業改良の大先駆者で、下野農林会を興し、大正10年ジュネーブの万国労働会議には日本資本家側代表として活躍した。この銅像は栃木市の生んだ彫刻家鈴木賢二の作であり、太平山の一名物となったが、戦争中金属回収により供出された。≫との説明文が添えられています。

ここ太平山あじさい坂には多くの参拝者やハイカーが登って行きます。現在も丁度秋の紅葉シーズンで「太平山もみじまつり」が11月30日まで開催されています。
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