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ぬかり沼川(栃木市)について [栃木市の河川と橋]

栃木市嘉右衛門町通りの東裏通り沿いに、一本の細い水路が北から南に流れています。
水源を確認する為に流れを北に遡って行くと、大町に鎮座している大杉神社の社殿裏手の小さな沼に行き着きます。
大杉神社.jpg大杉湧水池.jpg
(大町、大杉神社)         (大杉神社社殿裏手に残る湧水池、左側が神社境内)
現在は確認できませんが、以前は沼のいたる所から水が湧き出る「湧水池」でした。
流れはその沼から大杉神社境内の西側に沿って南流、境内の南西部で道路の西側に移り、道路に沿って真っすぐに水路が続いています。
ぬかり沼川1.jpgぬかり沼川2.jpg
(大杉神社の南西部で道路西側脇を南流する水路)  (水路護岸の石垣)
水路は道路と共に県道32号線を渡り、嘉右衛門町と昭和町との境界の道路の西側を進み、以前ヤマサ味噌の樽洗い場の前へ。
ぬかり沼川3.jpg
(現在は塀がかかっていますが、ここに以前ヤマサ味噌工場の樽洗い場が有りました。)
樽洗い場の南側の交差点の先で南に向かう道路は二股に分かれています。水路はここで西側の道路の東側へと移っています。そしてその水路を境界として東側は昭和町から泉町へと変わっています。
ぬかり沼川4.jpg
(樽洗い場の南側交差点の先で南に向かう道路は2本に分かれています。)
東側の狭い道路を進んで行くと、途中道路右手に鳥居が建てられています。鳥居の奥に祠が有って「朝日辨財天」と記した扁額が掲げられています。
朝日弁財天1.jpg朝日弁財天2.jpg
(朝日辨財天の祠がひっそりと建てられています。)
この辨財天の祀られている路地を中心とした範囲に、昔から「弁天自治会」という小さな自治会が組織されています。
2本に分かれた道路はそのままほぼ並行して南に、水路もその間を道路に沿って続いています。
岡田嘉右衛門邸の裏手(東側)を抜けると、水路にコンクリート製の高欄を付けた小さな橋が架けられています。親柱はコンクリートが欠けたり相当傷んでいますが、橋名が刻されています。「大泉橋」と読めます。別の親柱に「昭和二年九月竣功」の文字が残っていました。
ぬかり沼川5.jpg大泉橋.jpg
(道路に沿って流れる水路前方に橋の高欄)(親柱は傷んでいますが「大泉橋」と読めます)
私が子供の頃、この橋を渡った東側の道路の両側に八百屋や魚屋が有ってその店の間を抜けると「白百合座」と言う映画館が有りました。
大泉橋の脇を抜けて水路に沿って南に歩きます。道路はこの先で右側から来た嘉右衛門町通りと合流。そして万町交番から西に、巴波川に架かる「泉橋」へ向かう道路との交差点に合わさります。水路は交差点を南に抜け、櫻井源右衛門商店の北西角部の水門の元へ流れます。
水門.jpg
(万町の北の端、櫻井源右衛門商店、裏手の水門)
水門の手前で、万町交番前交差点から西に向かう道路の下を水路は潜りますが、ここで水路に架かる橋の高欄は南側は以前のコンクリート製が水門の所に残っています。この橋の名称は現在何も記されていませんが、以前は「門脇橋」とか「柳景橋」と呼ばれていた事が有った様です。
「門脇橋」は江戸時代、栃木宿の北の門(木戸)が有った事から、門の脇に架かる橋という事で、「門脇橋」と呼ばれたと考えられますが、「柳景橋」は橋の袂に柳の木でも有ったのかも知れません。明治40年発行の「栃木営業便覧」の中には、「柳景橋」の名前が記されています。
水門を抜けた水路は西に方向を変え、「萬盛橋」の下を潜り蚤の市通りへ続く道路の西側を又向きを南に変えて流れて行きます。以前この萬盛橋の南西橋詰に「大黒屋」と言う食堂が有り、そして櫻井商店の南隣りには、ここにも映画館が有りました。小さかった頃は両親に連れられてナイトショーを良く見に来ていました。この映画館が東映の時代劇を上映していて、子供心にチャンバラに夢中になっていました。
食堂も映画館も現在は更地に変わってしまいました。
水路は少し暗渠の下を流れますが、旧道が右手に分かれる所で、旧道に沿って又姿を現しています。
ぬかり沼川6.jpg
(蚤の市道路から西に分岐する旧道に沿って流れる水路)
旧道は少しカーブをして、文化食堂の東側から福富写真館の東側へと流れ、現在の市役所の西側付近で、蚤の市通りの西側を暗渠化して姿を消します。
ぬかり沼川7.jpg
(栃木市役所の裏手、蚤の市道路の下へ流れて行く水路)
ぬかり沼川8.jpg
(写真右手前、市役所の駐車ビルの南側で巴波川に合流する水路の口が見えます)

この大町の大杉神社裏手から市役所駐車ビルの南側で巴波川に合流する水路について、河川名が何か有るのか、役所にて伺った所、「ぬかり沼川」と言う名称を教えて頂けました。
「ぬかり沼川」の「ぬかり沼」とは、現在は無くなっていますが、江戸時代の文化二年(1805)二月、栃木町明細書上帳の中に、≪大ぬかり沼より落ち口字内善橋 一、土橋壱ヶ所 但し長さ弐間余 横巾九尺 右橋普請修覆共に栃木町に而仕候≫(栃木市史資料編近世279頁)、そして次の頁にも≪一、用水 是は大ぬかり沼より出水、町中を相流用水并に町東裏田地用水に而 右沼より拾丁余過下町東裏に而巴波川江流落申候、尤渇水之節は当町より軒別に罷出、沼浚い仕候≫などと、「ぬかり沼」と言う名前が認められます。
更に、文化三年(1806)中山道例幣使道分間延絵図には、栃木宿の北の木戸外に「大ぬかり沼」の絵が描かれております。
この絵図から「ぬかり沼」の場所を推測すると、現在の岡田嘉右衛門邸の裏手(東側)から朝日辨財天が祀られている辺りに有ったものと考えられます。

「栃木郷土史」にも「ぬかり沼」に関する記事が有りました。
≪栃木中央の貫流も、万福寺用水も、その源は大杉新田の大ぬかり沼であるが、明和6年(1769)4月に 原宿・大杉新田・嘉右衛門新田・平柳村・栃木町などの名主と町の年寄などが協力して、196本の杭を打ち込んで構築したものである≫
「大ぬかり沼」は用水の水源確保の為に人工的に造られたため池だったものの様です。明治17年に発行された「迅速測図」の栃木の地図には、この沼の形跡は認められません、唯一筋の水路が現在とほぼ同じルートで描かれているのみです。
「ぬかり沼」が何時埋め立てられて、姿を消したのか私はまだ確認できていません。
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