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栃木市大平町伯仲の円明寺 [堂々巡り]

今回は、栃木市大平町伯仲に有る円明寺を訪問します。
円明寺に行くには、栃木市のふれあいバスがお勧めです。栃木駅から「部屋線」に乗ると、片道200円で大平町伯仲までのんびりと車窓の景色を眺めながら、行くことが出来ます。但し路線バスであちらこちらと回って行くので、所要時間は1時間弱掛かってしまいます。お急ぎの方には勧められませんが。
バスは県道252号線(蛭沼川連線)を南下し、伯仲は街中を走る旧道に入ります。旧道は小型のバスでも、対向車が来るとすれ違うのがいっぱいです。伯仲辺りはバスは自由乗降区間ですが、円明寺は「農村婦人の家前」のバス停が最寄りの場所になります。
道路左側(東側)に「農村婦人の家」や火の見櫓が有り、その南東側児童公園の東隣りに目的の円明寺は有ります。
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参道脇に「宝篋印塔」や寛政二庚戌歳(1790)の紀年銘の有る「十九夜念佛供養塔」
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それから「健康祈願の観音像」などが祀られています。
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その奥正面突き当りに間口六間向拝付瓦葺の本堂が有ります。昭和六十三年に本堂内陣の増改築、平成十五年九月に本堂屋根瓦葺き替えの工事を行っています。
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正式には「根渡山 眞鏡院 円明寺」と号し、真言宗豊山派の寺院です。本尊は大日如来です。
沿革としては、開山は足利期の頃と伝えられます。下高島の宝蔵寺の末寺でした。明治四十年(1907)に火災により焼失しました。大正九年(1920)に再建されました。
元は境内に地蔵堂が有ったようですが、今は見当たりません。先の火災で一緒に焼失をしたのでしょうか。本尊に延命地蔵菩薩も有りました。
山号の「根渡山」について、寺の西隣に有る「根渡神社」と何らかの関わりが有ると思われます。今回訪問をした際「根渡神社」の社殿が無くなっていて、小さな仮の社殿が祀られていました。
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建て替えの為かと思いましたが、家に帰ってから調べてみると、昨年(2014年)12月4日の午前8時半ころ、放火によって全焼をしたと言う記事が載っていました。残念な事です。

栃木市都賀町深沢の建憧寺 [堂々巡り]

今回は、栃木市都賀町深沢の建憧寺を訪問します。
都賀町大柿の国道293号線の北側道沿いに、四季折々の山野草が観賞できる植物園「花之江の郷」が有ります。その付近から反対側(南方)を望むと小高い山なみが広がっています。ここが天正の戦国時代に、皆川と宇都宮との宿命の戦いの舞台となった、布袋が丘城の有った要害山になります。
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手前に見えるところが標高187mになります。更に南側栃木市梓町との境界近くに、最高点標高219mが有り、南西側はゴルフ場になっています。
建憧寺はこの要害山の東麓の山懐にひっそりと有ります。
それでは建憧寺に向かいます。国道293号線に少し大きめの「大柿十字路」と呼ぶ県道37号線(栃木粟野線)との交差点が有りますが、そこから西に450m程の所、道の右側に赤い鳥居の立つ白山神社が有ります。その前に左に折れて南に向かう細い道が有るので、左折して少し行くと、白いガードレールを高欄にした小さな橋を渡ります。逆川に架かる「白山前橋」になります。
又暫らく行くと分岐になるので、右側の道を進みます。暫らく道なりに進むと、右側に一直線に西の要害山の山懐に入る道が有ります。目的の建憧寺への入口です。国道293号線から折れて約1kmの場所になります。
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正面に山門が見えます。参道右側に十九夜供養等の石仏が並んで祀られています。左側に駐車場が有ります。車を置いて山門に向かいます。
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階段を登った所山門前に、六地蔵や赤子をやさしい顔で抱く「慈母観音」の石仏が祀られています。
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山門を潜ると正面に本堂、右側に庫裏が続いています。
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左手に手水舎、その奥に鐘楼が見えます。
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まず本堂に向かい参拝を済ませます。それから境内を散策します。
本堂正面上部に掲げられている扁額には、山号の「傑岑山」と大書されています。
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建憧寺は正式には「傑岑山復生院建憧寺」と号する、曹洞宗の寺院です。「都賀町史」によると、≪建憧寺は元亀元年(1570)八月皆川広勝が天嶺呑補を招いて開山したと伝えていますが、すでに成勝は、天文十六年(1547)に没している為、年代が合いません。深沢城を築いたのが成勝であって、建憧寺が元亀元年に開山されたものならば、開基は皆川山城守俊宗、開山は天嶺呑補です。俊宗が成勝の菩提を弔うために建立したものでしょう≫
皆川城内町の「傑岑寺」は山号を「建憧山」と言います。「建憧」とは成勝の法号です。
又、本堂の虹梁や海老虹梁には見事な彫刻が施されています。
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境内も良く整備されて、緑も豊かで、静かな寺院です。
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栃木市星野町の大応寺と芳姫堂 [堂々巡り]

今回は栃木市の北の端、星野町に足を延ばします。
目的は、小山義政の正室よし姫の御堂が有る、大応寺を訪れる為です。
大応寺は栃木市街地から県道32号線(栃木粕尾線)を北上して、鹿沼市(旧粟野町)との境界の直ぐ手前、永野川に架かる「星野橋」を渡って直ぐに右に折れる道が有ります。入口に「星野遺跡」の案内板が立っています。右折をして250m程行くと、道路の左手「小山芳姫n御堂」と「大応寺の大ヒバ」と書かれて案内板が有ります。目的の大応寺入口です。
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道路から少し高くなった場所に本堂と庫裏が有ります。無住の様で境内は少し荒れています。
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本堂と庫裏の裏手に背の高い大きな木が1本有ります。近くに栃木市が建てた案内板が有ります。
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「大応寺の大ヒバは、高さ29.4m、直径1.4m(目通り4.4m)、推定年齢400年」と有ります。大応寺が開山されたと云われる、元和四年(1618)の頃と一致していることから、その頃に植えられた物と考えられています。
大応寺は、星野山大応寺と号し、曹洞宗の寺院です。本尊は延命地蔵菩薩です。
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小山芳姫の御堂は境内手前右手に説明板が有ります。その脇から山に向かって階段が有り、その上に小さな堂宇が見えます。
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この御堂は近年になって、「小山芳姫の墓保存会」の人達によって建てられたものです。よし姫のお墓は、大応寺の前の道を更に東に進み、寒沢林道の奥に有るという事ですが、私はまだ訪れたことが有りません。
なぜ、このような山の中に芳姫の墓が有るのでしょうか。「栃木市観光協会」のホームページの中にも、「小山よし姫の墓」の記事が載っています。「夫の元にたどり着けなかった悲劇の姫・・・。」として始まる「よし姫伝説」は良かったらそちらを参照して頂きたいと思います。
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御堂は一間四面向拝付宝形造りになっています。小さな堂宇ですが、女性を祀っているらしく、お淑やかな趣のある御堂でした。

栃木市皆川城内町の千手院 [堂々巡り]

今日は、昨日と同じ名前の千手院でも、皆川城内町の千手院を巡ります。
所在は、皆川城址の南側に有ります。
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写真で見ると千手院の堂宇の背景に、皆川城(別称:ほら貝城)の山が有ります。栃木市街地から県道75号線(栃木佐野線)で西に進み、永野川の「対嶺橋」を渡ると、皆川城内町に入ります。東北自動車道のガード下を抜けて少し行くとY字路となるので、右側の細い方の道路に入ります。この道を行くと柏倉川に架かる「観音橋」が有りますが、その観音橋の手前右手、参道の先に千手院が見えます。この観音堂は「霧降観音堂」とも呼ばれております。
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千手院の本尊は千手観世音で、昔は都賀三十三観音霊場六番札所でした。ご詠歌は「めぐり来て 千手のちかいたのむ身は まよう心を流すみな川」
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観音堂に向かって右側、緑の中に数基の石仏が祀られています。千手院の創建や由来等について資料がまだ入手出来ていませんので不明です。
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私のアルバムの中に1969年に撮影をした藁葺屋根の観音堂が写っています。背景には皆川城址とその手前に皆川中学校の木造二階建ての校舎が写っています。
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皆川中学校は現在観音堂の更に南側、県道沿いに移され、跡地には皆川公民館が建っています。

栃木市西方町金崎の千手院 [堂々巡り]

今回は、栃木市西方町金崎の千手院を巡ります。
千手院の所在は、旧日光例幣使街道が西方町金崎の市街地を南から北に通っていますが、東武日光線の東武金崎駅の入口交差点から一つ北側の交差点(三叉路)を西への通りに入ります。
細い道路ですが、バイパス道路が出来るまではこの通りが、国道293号線でした。暫らく進むと東武日光線の踏切に出ますが、その手前右側にフェンスの架けられた広場が有ります。「西方地区児童公園」の表示が出ています。踏切の手前の細い交差点を右に折れると、公園への入口が有り、門柱に「真言宗智山派 愛宕山千手院」と表示が出ています。
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広場の南側には、滑り台や鉄棒、シーソーなどの遊具が備わった児童公園。北側は公民館風の建物、アルミサッシの雨戸が閉ざされています。その前に立札が建っていて「本堂・御本尊地蔵菩薩」と説明がされています。その建屋の西隣に大きな石造りの観音立像が祀られてます。
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東側の塀際には六地蔵尊や十九夜塔など多くの石仏が並べて祀られています。
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境内の北東部に南向き一間四面向拝付瓦葺、宝形造りの堂宇が祀られています。堂宇の前に「御札堂」と記した立札が有ります。
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千手院は金崎の愛宕神社の別当寺でした。この愛宕神社は、愛宕大権現といい慶長十八年(1613)に当時の領主藤田能登守が鮎田播磨に新田を開く様に命じた時、村の乾(北西)の方角に防火の神として勧進したと言います。時を同じくして一寺を建立したのが千手院で別当寺として社務を執行していました。
明治元年(1868)新政府は神道から仏教色を排除する事を目的に神仏分離令を布告した為、千手院はこの時期に愛宕神社と切り離されましたが、廃寺とはならず現在まで続いています。

栃木市吹上町の帰西庵尼寺 [堂々巡り]

今回巡るのは、栃木市吹上町の帰西庵尼寺です。
所在は、吹上町の南西の端で、帰西庵尼寺の西側を南北に通る道路の西側は皆川城内町に、そして境内の南側は野中町に接しています。
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(境内西側の道路から撮影)
帰西庵尼寺を中心として形成された集落は「松原」ですが、なぜ現在の様に三町に分かれたのか。まだ理解していません。
明治前期測量の地図を見ると、松原の集落を抜ける道路に、「従出流村至栃木町道」と記載されています。この頃はまだ現在の県道32号線(栃木粕尾線・別称鍋山街道)はまだ有りませんでした。
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(昭文社発行地図「栃木市」を参考に松原周辺を略図化)
薗部村の六道の辻から錦着山の西側を通り、新井の天満宮(明治の地図には八幡社となっている)を回り込んで、松原の集落を抜け、北北西に向かい、尻内を抜けて出流へ向かう。かっての栃木市街地から北の寺尾方面に向かう幹線道路脇に、この帰西庵尼寺は建てられたのでした。
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(松原の集落を抜ける道路は、現在も結構自動車の往来が多くなっています)

堂宇は西向き二間四面宝形造りです。堂宇前には桜の木が有ります。
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堂宇に向かって左側道路脇に、青面金剛の文字塔が一基建っています。上部に日・月そして下部に三猿が陽刻されています。
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又、右側の塀際には多くの石仏が祀られています。手前の自然石には馬頭観世音、寛政九丁巳年(1797)と刻されています。その下に「松原村中」と有ります。
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それらの石仏の奥に高く積まれた石の台座の上に、「阿弥陀如来」と刻まれた石碑が有ります。上部に大きく阿弥陀如来座像が線刻されています。
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(線刻された阿弥陀如来坐像部分)
堂宇の南側側面に約80cm四方の銅板が取り付けられています。
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銅板に記されている内容は、この堂宇の屋根を修繕した事業内容についてであった。その内容は、
≪二百有余年の伝統ある松原在住千手観世音が十二支に依る午歳の御開帳に当たり観音堂屋根の損傷を目の当たり拝見、平成元年に松原部落皆様の決議により葺き替え工事にと歩み、とどこうりなく実践此処に御開帳の祭典を記念し、松原の益々の発展と氏子各位のご健勝を折念し記録と致します。≫平成二年十一月吉日の日付になっています。

残念ながら帰西庵尼寺の由緒等の資料については、これまでの所何も入手できていません。今後機会があったら調べてみたいと思っています。

栃木市今泉町一丁目の毘沙門堂 [堂々巡り]

今回は栃木市今泉町一丁目の毘沙門堂を訪れます。
毘沙門堂の有る場所は、県道44号線(栃木二宮線)の道路沿い、丁度「コープ栃木店」の南側に位置します。
東西18m、南北13mのほぼ長方形の境内、周りをブロック塀で囲み、東側に出入り口が有る。
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お堂はほぼ東向き、二間四面屋根は宝形造りにて向拝付瓦葺です。
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お堂の手前左右に宝篋印塔、北面塀際にずらっと、十九夜供養塔や青面金剛像などが並べて祀られています。
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建立年月日は不明です。神田町の宝樹寺の所有となっています。
境内に並ぶ石仏等の紀年銘を読むと、「庚申塔」(文字塔)に寛政十二庚申四月吉日と読めます。1800年になります。又、隣りの「青面金剛塔」(文字塔)には元文六辛酉年二月大〇日、右下に「今泉村」左下に「早乙女氏」と彫られている。しかし元文六年を検索するとこの年は寛保元年となる。西暦で言うと1741年となるが、おそらくこの石塔を製作した時はまだ元文だったのかもしれない。
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他の石仏を見ても、「元禄十二巳卯三月」(1699年)、寛政五癸丑十月吉日」(1793年)と有る所から、この毘沙門堂の創建は江戸時代中期のものと考えられます。
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地元古老に依れば、往古より今泉住民によって維持管理がされてきました。昔から住民の信仰のよりどころとして親しまれてきました。言い伝えによれば、昔阿弥陀寺にあり、十九夜様には女性たちがお堂にお篭りをしたと言います。後に阿弥陀寺は火災により焼失したと云われています。
現在の御堂は従来のものを昭和63年に改造、境内や堀等も同時に整備したと言います。
毘沙門天は、仏教における天部の仏神で、持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊となる武神です。
江戸時代以降は、特に勝負事にご利益が有るとして、崇められています。

栃木市柏倉町の大楽院 [堂々巡り]

今回は、栃木市柏倉町の大楽院を巡ります。
大楽院は皆川城内町から西へ、佐野市田沼に抜ける県道126号線(栃木田沼線)の道路沿いに有ります。
大楽院の由来について、田代善吉著「栃木縣史」から引用させて頂きます。
≪下都賀郡皆川村大字南柏倉の明神山麓に有る。鹿園山大楽院と号す。真義真言宗豊山派に属す。中本寺格である。本寺は嵯峨天皇の御代弘仁年中(810~823)に弘法大師御巡錫の節草庵を結びし所として、天安年中(857~858)智泉上人伽藍を創立す。後世に至り、後奈良天皇の享禄三年(1530)五月火災に罹り、堂宇悉く焼失してより、爾来衰微せしが寛永八年(1631)十二月、長譽上人之を再興した。天和二年(1682)五十六世宥榮法印の時、大和初瀬寺小池坊の末寺となる。≫と有り、古くからの寺院です。
本尊は阿弥陀如来になります。
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山門の右側に十九夜供養塔が屋根の架けられた小屋に祀られています。
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道路から少し高台に位置する為、山門まで少し登り坂になっています。
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山門を抜けると境内に宝篋印塔が建っています。緑に包まれた静かなたたずまいの寺院です。
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話しは少し横道にそれますが、大楽院前の道路、県道126号線は栃木田沼線と有りますが、西に進むと栃木市の西の端、佐野市葛生との境界近くの山の上に祀られている、琴平神社の参道登り口付近で、道路は県道は県道210号線(柏倉葛生線)となってしまいます。
昭文社発行の「栃木市」の都市地図を眺めてみると、大楽院前付近には≪126≫と有りますが、琴平神社の北側を通って旧葛生町に抜ける道路には≪210≫となっています。
≪126≫の行先を探してみると、小野寺から旧葛生町に入る県道282号線(中岩舟線)にて峠を抜けて佐野市中町に有る「中運動公園」の北側に、≪126≫の記載が有ります。
以前は柏倉町からここ旧葛生町中に道路が通っていたようです。
明治前期測量の二万分一フランス式彩色地図「栃木縣下野国下都賀郡柏倉村」を見ると、琴平神社の山の東麓、神社参道登り口付近で、皆川方面から来た道路は、山の北側と南側を回り込む様に分岐していて、南側を回り込む道路に「従栃木町至葛生町道」との表示がされています。
その昔は琴平神社の南側を通るこの道がメインだったようです。県道126号も県道210号も1961年4月1日に県道指定に成っていますから、意外と最近までこのルートで車が通っていたのかも知れません。
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(栃木県道126号線不連続部説明略図)

栃木市岩舟町静の浄蓮寺 [堂々巡り]

今回は、栃木市岩舟町静に有る、浄蓮寺を訪ねます。
浄蓮寺の場所説明用の略図を見ると北側を横に走っている国道50号線の「岩舟町静」の歩道橋の有る交差点を藤岡方面に曲り、最初の分岐を左に入り、次の交差点で右手の広い道路へ、後は道なりに進むと道路の右側に浄蓮寺の入口前に出ます。
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(岩舟町静の浄蓮寺案内略図)
道路脇、瓦葺の塀の前に「真言宗豊山派 醫王山 浄蓮寺」と記した石柱が建てられている。
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門を入ると駐車場。駐車場の先、垣根を抜けると境内、垣根の入口右側に「十九夜念仏供養」と彫られた台石の上に「六臂如意輪観音像の丸彫りが載っています。安永八年(1779)に建てられたものです。
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又、入口左側には大きな石碑が有ります。「医王山寶泉院浄蓮寺講堂建設碑文」と題し、浄蓮寺の由来から講堂庫裡の建設の経緯等が刻されています。
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境内に入ります。中央に立派な大木が、枝を広げています。その北側に先ほどの石碑に記された講堂が建っています。
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講堂に向かって、講堂の右隣りに庫裏、左隣に間口三間瓦葺の堂宇、棟の両端に髪を逆立たせ、角と牙も厳めしい鬼瓦が睨みを利かせている。正面に扁額が掲げられているが、字が薄くて読み難いが、「大日如来」と読める。参拝を済ませる。
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境内の南西部にも堂宇が建っている。新しく建てられた、宝形造り、二間四面東向き銅板葺の屋根の上に露盤と宝珠。正面入口の上に「薬師如来」の扁額、額の左右に下り竜と登り竜の彫刻が付いている。
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境内入口に有った石碑の碑文によると、浄蓮寺は古くは薬師如来を本尊とし、社口の地に創建され「医王山蓮乘院浄蓮寺と称した。その後足利義政時代(1449~1473)、現在の本尊金剛界大日如来を安置すると伝う。慶安年間(1648~1651)天台宗から真義真言宗に改宗しました。その後寛文五年(1665)神仏分離政策により、星宮の別当蓮乘院は廃却され、新地(現在地)に法蓮上人により開山されました。
慶応三年(1867)、十六代宥坊の時廃仏毀釈により、はからずも廃寺となりましたが、明治三十一年(1898)富山村玉正寺末寶泉院を、元浄蓮寺の跡地に移し、旧寺号の浄蓮寺と改め設立が認可されました。

境内は広々として良く整備されています。


栃木市藤岡町甲の浄光院 [堂々巡り]

今日は久しぶりに、栃木市藤岡町甲の浄光院を訪れます。
所在は、県道168号線(静藤岡線)沿い、三鴨保育園の直ぐ北側、道路の東側に浄光院の入口が有ります。入口に立つ石柱に「醫王山」「浄光院」と記されています。真言宗豊山派の寺院です。
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車でそのまま入ると、奥に駐車場が有ります。
浄光院では、現在本堂の立て替え工事が行われておりました。大きな伽藍の屋根が姿を現してきています。
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(2015年5月25日撮影、本堂立て替え工事中です)
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(2014年3月2日撮影、立て替え前の本堂の姿です)
本堂左手に建つ東向き二間四面、向拝付瓦葺の堂宇は以前のままです。
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堂宇の南側には、色々な石仏が並んで祀られています。手前で一番大きな青面金剛像は一面六臂、延宝三年(1675)の年号が認められます。
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境内には水子子育の観音像や立派な宝篋印塔等が有ります。
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工事中の境内ですが、いつものように色とりどりの草花が咲いておりました。
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