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栃木市藤田町の小舟観音堂 [堂々巡り]

今回は、栃木市藤田町の東の端、東隣りの久保田町と北隣りの大宮町との境界近くに建てられた「小舟観音堂」を巡ります。
小舟観音堂を、国土地理院発行二万五千分一の地形図「小金井」を使用して説明すると、中央部を思川が北から南に貫流しています。その思川の右岸、地図の中央部に「古国府(ふるこう)」の地名が見え、その南側に東西に小山市と栃木市との境界線が二点鎖線で記されています。その境界線を西に延長した所に、「小舟」の地名が記されています。昔はこの近辺に小舟村がありました。
「小金井」の地形図を参考に、この小舟周辺を略図化して、説明用に下に添付いたします。
小舟観音堂略図.jpg

小舟村の一部は、現在南西側の藤田町の一部に成っていて、観音堂は藤田町の東の端に位置する形になっています。観音堂は久保田町の集落の西外れに見えますが、久保田町は観音堂前の道路の東側の集落になります。添付した観音堂の写真は2014年4月に撮影したものですが、御堂外観の塗装をされて、鮮やかな朱色に成っていました。
小舟観音堂1.jpg
(小舟観音堂、隣りは小舟公民館)
お堂は東向き二間四面、向拝付瓦葺宝形造りの屋根を載せています。正面上部に「子育観音」と記した奉納額が、掲げられています。堂宇に向かって右手屋根の下に、数基の石仏が祀られています。
小舟観音堂2.jpg小舟観音堂3.jpg
一番大きいのが明治45年3月建之の十九夜供養塔、次に大きいのが宝永五戊子年(1708)十一月吉日の駒形青面金剛像、他は風化が激しく紀念銘等判読出来ない。
他に観音堂前の道路の向かい側に小規模の墓地が有りますが、明治初期測量の地図によると、当時は現在のお堂の前の道路は無く、墓地の東側を回り込む様に道路が通っていました。現在も藤田町と久保田町との境界は、この墓地の東側となっています。
この墓地の中に、トタン屋根を掛けた石仏が祀られています。屋根の柱には「小舟婦人会」と記されています。祀られているのは、二段の直方体の台石の上に、六地蔵を陽刻した直方体の石像です。
小舟観音堂4.jpg小舟観音堂5.jpg
総高さは170cm、幅79cm、厚さ29cm程、背面に石仏の由来らしき文言が彫られています。昭和九年旧十一月廿三日と有ります。小舟観音堂8.jpg
(六地蔵石像の背面に彫られた碑文)
話しは変わりますが、2013年10月に栃木市生涯学習課主催の「都賀三十三薬師霊場巡り」で、小山市小薬の薬師堂から栃木市田村町の「下野国庁跡」に向かう途中、この付近を通過した時、栃木市文化課のK氏より、「小舟の集落の西の道路脇に大きな自然石が立っています。なぜここに有るか分かっていないが、昔大きな石には、宗教的な物や道標として立てられたものではないか。」というような説明を受けました。
小舟観音堂7.jpg
(小舟集落の西、道路脇に立つ大きな石。写真の右奥に小舟観音堂が見える)
又、今から千年以上のこの付近を「東山道」が通っていました。ルートははっきり特定されていませんが、添付した略図の東方に「下野国庁跡」が有ります。東山道はこの「下野国庁」の南側を西から東に進み東側で思川を渡る、その状況から現在の小山市と栃木市の境界線が、東山道だったろうと言われています。
信濃国(長野県)から碓氷峠を越えて、上野国(群馬県)を通り、下野国(栃木県)の足利駅家に入り、三毳山の北麓を越えて、三鴨駅屋(現在の栃木市岩舟町新里付近)から更に東進して、大平町富田の南で、北東に向きを変え、栃木市藤田町に至る。現在も一部残るが、明治初期測量の迅速図を見ると、藤田村と久保田村の間を北東方向に斜めに通る道路が有ります。この斜めの道路を北東方向に延長した線と、先ほどの小山市と栃木市との境界線を西に延長した線との交点付近が、謎の大石が立つ場所に当たるのは、単なる偶然なのか。かっての東山道の道標だったのかもしれない。(添付図上に朱書き線を引く)
地形図を眺めていると、古代のロマンも広がって行きます。

栃木市大塚町の薬師堂 [堂々巡り]

今回は、栃木市大塚町癸生東坪に有る薬師堂を巡ります。
この薬師堂は元、真言宗豊山派「神明山真如院弘性寺」のものでした。弘性寺の開山は僧俊雅。享禄二年(1529)より正徳三年(1713)まで続いていました。檀家の人達は信仰心が厚く、寛文十二年(1672)に地蔵尊を建立、元禄十五年(1702)に薬師堂を建立。天下安穏・家内安全・厄病退散・五穀豊穣を祈願したと云われます。
正徳三年(1713)廃寺となりましたが、檀信徒によりその後も守られてきましたが、明治十四年(1881)、小倉川(現・思川)大洪水により流失してしまいました。しかし、薬師堂・地蔵尊は流失を免れ、その後も地元の人達によって守り続けられてきました。
本尊の鋳造(銅製)薬師如来座像は、昭和59年3月30日に栃木市の指定有形文化財(工芸品)となっています。
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この薬師堂、通称「峯薬師堂」と呼ばれています。その所在は、宇都宮街道の旧道が思川に架かる「保橋」に差し掛かる手前に、左に入る細い道が有ります。両側を大谷石の塀が架かっているので、通過するのに圧迫感有ります。その細い道を真直ぐ450m程進むと、田圃の中に交差点が有ります。そこを今度は右折して北に進むと、道路は一度左に折れ直ぐまた右に折れます。その先の突き当りの前方に小さな堂宇が見えてきます。
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宝形造りの屋根を載せた、南向き一間四面の小さいお堂です。お堂に向かって右手脇にこれも小さい、六体のお地蔵さんが並んでいます。
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この薬師堂の後方に見える雑木の向こう側には、思川が流れています。

栃木市宮町の石観世音堂 [堂々巡り]

今回巡るお堂は、昨日に続き栃木市吹上地区、宮町に有る石観世音堂です。
お堂の建つ場所は、昨日の大森薬師堂の南西方向、永野川を越えた西側に連なる小高い山の東麓になります。国土地理院発行二万五千分一の地形図「栃木」を見ると、永野川に架かる「宮の橋」を渡る道路を西の山に向かった、宮町の西のドン詰まりに寺院記号「卍」が表示されています。ちなみに昨日の大森薬師堂は、地形図には記載が有りません。
最近は、永野川に架かる「宮の橋」周辺、特に永野川左岸は約1kmの「宮の桜堤」として、桜の時期には大勢の花見客が訪れる様になっています。
石観世音堂9.jpg石観世音堂10.jpg
「宮の橋」を渡って西の山に向かいます。山沿いには白壁土蔵の並ぶ立派な農家が点在しています。道路は狭く車1台がが通れる程度で、少し登り坂になります。
石観世音堂7.jpg石観世音堂6.jpg
牛舎の前を過ぎて行くと、道路は行き止まり。左手奥の平らに開けた場所に、入母屋造りの屋根に向拝を付け銅板葺、二間四面のお堂が見えます。
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お堂の前に変わった形の石灯篭が、参道の左右に建っています。
石観世音堂2.jpg石観世音堂3.jpg
左側には「奉納石燈籠一基 安永五丙申天」、右側には「奉納御宝前 嘉永五壬子年九月吉日建之」下側に奉納者指名がぐるり回りに彫られています。安永五年は西暦1776年で江戸時代中期、嘉永五年は西暦1852年で江戸時代後期です。
お堂正面上部には「石観世音堂」の扁額が掲げられ、正面格子窓の奥に大きな石が祀られています。
石観世音堂4.jpg石観世音堂8.jpg
石に観音像が彫られているのか、この石自体を観音像に見立てているのか、遠目から判断できません。
手を合わせ参拝を致しました。
このお堂の由来等は分かりませんが、地元の方の信仰として守り伝えられて来ているものと思われます  

大森町の薬師堂 [堂々巡り]

今回は、栃木市大森町の薬師堂を訪れます。
大森町は北側仲方町との境に有る「サントリー梓の森工場」と、南東側吹上町との境に有る「吉野工業所」との間に位置し、標高183.5mの鴻巣山の南西となります。現在は県道32号線(栃木粕尾線)と山裾との間に新しい住宅が広がっていますが、昭和の頃までは県道沿いは水田が多く、人家は山沿いに分布していました。
そんな山沿いに、鹿島大明神や薬師堂が造られているのでした。
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薬師堂は昔から有る農家の間の道を入ると、山裾に隠れるように建っておりました。
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周辺には竹藪も有り。境内には近所の墓地の他、十九夜供養の石仏が祀られております。
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大森薬師堂5.jpg大森薬師堂7.jpg
堂宇は南西向き二間四面向拝付瓦葺、西日を浴びて輝いている様です。
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正面欄間にご詠歌を記した額が奉納されていました。
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≪御詠歌 「大森の昇りて拝む薬師尊、まへる人みわ利勝あるべし≫

佐貫石仏と観音橋 [堂々巡り]

今回は栃木市から飛び出して、塩谷郡塩谷町に有る佐貫の石仏を巡ります。
塩谷町の南の端、南隣りの日光市との境界をなす鬼怒川の左岸(北側)に成ります。宇都宮市からは県道77号線(宇都宮船生高徳線)を北上、鬼怒川に架かる「佐貫観音橋」を渡り、橋の北詰にて左に入る道を進むと、道路の右側に岩肌をむき出しにした高さ64mの大岩がそびえています。ここが大正十五年に国の史跡に指定された、佐貫の石仏です。
現在、そそり立つ岩肌は風化が著しく、「大日如来坐像」を線刻したと言う仏像の姿は、ハッキリ確認できません。
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(大日如来坐像が線刻された大岩。脆い凝灰岩の為、風雨や草苔による壁面劣化が進む)
磨崖仏の右上辺りに、奥の院大悲窟と称する小洞窟が有り、今年(2015年)の3月15日に136年ぶりに開帳されたという新聞記事を読みました。見るとその洞窟の入り口を塞ぐ板戸が真新しくなっていました。
この「大日如来坐像」が線刻された、通称「観音岩」の下部左右には祠が有ります。磨崖仏に向かって左側の祠は、「白龍洞」と呼ばれる洞窟内にあり、木造の御堂が建てられています。
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(磨崖仏に向かって左脇下部の洞窟入口と、脇に祀られている石仏)
右側の祠は二枚の「立岩」が目前に立ち、その背後の洞窟内に小さな石造りの祠が有ります。
観音岩頂上部には天然物とも人工物とも判らない「亀の子岩」が載っていますが、見ると本当に亀の形に見えて感心します。
佐貫石仏3.jpg佐貫石仏2.jpg
(少し離れた西側から見た観音岩頂部。左側の一番上に亀が甲羅から首を伸ばし上げた姿が)
尚、現在佐貫観音院は正式には「福聚山宝珠院東海寺別院観音院」と号し、真言宗智山派になります。江戸時代までは「岩戸山慈眼寺観音院でしたが、明治初期の廃仏毀釈によって慈眼寺は廃寺に成っています。
私が今回訪問したのは4月7日でしたが、「佐貫観音橋」が3月15日に開通した後でした。この新しい橋は従来の「観音橋」の下流側約120mの位置に平成20年から工事が進められていました。
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(新しく開通した佐貫観音橋、左岸橋詰より撮影)
今回の訪問で、始めに以前の「観音橋」に向かいましたが、すでに封鎖されて渡れなくなっていました。
初めて来たときは、この観音橋を渡るときに前方左手に磨崖仏の大岩が見え、その光景を写真に撮りたかったのでしたが、橋の幅が狭く渡る事に必死だった覚えが有ります。そこで前回は助士席に載ってフロントガラス越しに観音橋と磨崖仏の大岩の撮影をしていました。
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(2011年8月17日に観音橋上より撮影)
今回も再度撮影しようと考えていましたが、残念ながら叶いませんでした。
この「観音橋」の北詰に「観音橋竣功記念碑」の大きな石碑が建っています。昭和30年1月吉日、栃木縣知事小平重吉書と有ります。
佐貫石仏5.jpg佐貫石仏6.jpg
(2015年4月に左岸より撮影)        (観音橋左岸橋詰に建つ竣功記念碑)
ただ、観音橋北側の親柱脇に取り付けられた橋の銘板には「昭和30年5月竣功」となっています。又、南側親柱脇の銘板には「1962年2月(昭和37年)」となっていて、日付が異なっています。
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(観音橋左岸親柱の橋銘版)          
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 (観音橋右岸親柱の橋銘板)
これは橋の北側と南側の構造の違いにも関係する事なのか分かりませんが、少し調べてみると昭和34年の台風による洪水の為一部が流出し、通行が不能になった為修復工事を行い昭和37年2月に鉄筋コンクリートの橋が道路幅員4.5mとなって完成しています。と云う訳で、現在の橋の銘板と以前の橋の銘板が共に残っている為と思われます。

栃木市千塚町の平等院 [堂々巡り]

今回訪れるのは、栃木市千塚町の平等院です。
正式には「大悲山 平等院 大安寺」と号する、真言宗豊山派の寺院です。本尊は大日如来。建久二年(1191)三月の建立と伝えています。
平等院の位置説明用の栃木市千塚町の概略図を作成しました。
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地図の右上に斜めに少し見えている広い道路が、県道32号線(栃木粕尾線・通称鍋山街道)で、その下に有る学校が「栃木市立千塚小学校」で、八角錐の屋根の塔を備えたクリーム色ベースの童話本の中の建物の様な目立つ校舎の北側を西に続く広い道路を進みます。
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暫らく行くと永野川に架かる「千塚橋」に出ますので、渡って100m程の所の交差点を左の細い道に入り、道なりに進むと目的の平等院の参道前に出ます。
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私が最初に平等院を訪れたのは2013年9月28日、丁度お寺では、大施餓鬼会が執り行われていて、本堂は檀家の皆さんが、参集しておりました。
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本堂に向かって左手に、東向き間口三間奥行二間半、向拝付の堂宇が建っています。正面欄間に「千手観世音」の扁額が掲げられています。
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お堂の北側には歴代住職のお墓があります。
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又、本堂の裏手には、昨日紹介した鍋山町西方寺のブログの中で載せた、不摩城を築いた「戸矢子七郎有綱」の墓が有ります。
平等院4.jpg
先ほどの歴代住職の墓の脇の石碑が有り、その碑文の冒頭に≪為中性院殿前関白有綱大禅定門菩提建久二年三月佐野左衛門尉藤原実綱戸室郷に建立、開祖道元禅師中興尊永和尚大永三年七月移転≫と刻まれています。
佐野左衛門尉実網は、佐野氏の祖戸矢子有綱の菩提の為に、安蘇郡戸室(現佐野市戸室町)に道元を開山と仰いで、曹洞宗大悲山平等院大安寺を建立しました。院号、平等院とは有綱が若き日軍功をたてた、宇治の平等院に因んだもの。これを大永三年(1523)に尊永和尚が現在の所に移したものです。当時はやはり曹洞宗でしたが、現在は真言宗です。
大永三年と云えば、皆川宗成と宇都宮忠綱とが川原田合戦を行った年です。平等院の有る千塚町はかって、戸矢子保に属していた所で佐野氏の勢力圏で有った為、この拠点強化の為にここに平等院を移したものと云われている。(都賀町史から引用させて戴いました)
この平等院は「都賀三十三薬師霊場第四番札所」になっていました。現在は明らかでは有りません。

栃木市鍋山町の西方寺 [堂々巡り]

今回は、栃木市鍋山町の西方寺を巡ります。
西方寺は山号を極楽山と号する、曹洞宗の寺院です。
天正年間(1573~1591)の建立と伝えられます。又、開山は慶長17年(1612)、久山舜長と伝えています。建立年と開山時期が10年以上ずれていますが、詳細は分かりません。
開山の久山舜長は、文亀二年(1502)開創の旧田沼町栃本の大明山本光寺の第10世にて、天正十二年(1584)旧田沼町飛駒の妙高山永台寺に飛駒町屋、根小屋城の小野兵部の請に応じて来化あった。この時永台寺は臨済宗から曹洞宗に改宗されました。又、慶長二年(1597)には桐生市梅田町の大慈山碧雲寺を開山しています。その後も、元和九年(1623)に同じ栃本の宝珠山泉龍寺の改宗開山等、その名を見る事が出来ます。
それでは、なぜ久山舜長が西方寺の開山となったのか、これは私の想像になりますが、西方寺の南側にそびえる標高467mの蓬莱山の中腹に築かれた、不摩城(秋葉城・部屋子城とも呼ばれる)に、関係していると考えます。この城を築いたのは、藤姓足利氏からの分かれの「足利七郎有綱」と云われます、仁安二年(1167)です。その後養和二年(1182)、有綱は佐野に移り、佐野氏を名乗ります。有綱の後の不摩城には、五男の木村信綱がなり、代々信綱の子孫が居城しています。この不摩城も慶長十七年(1612)佐野信吉が、佐渡金山事件に関連して改易となった為、佐野城と共に廃城に成ってしまいます。
不摩城は、南の皆川や東の宇都宮に対する、佐野氏の守りの拠点となっていました。したがって、田沼に居た久山舜長大和尚が請われて鍋山の地に来られ、開山したものと思われます。
現在、西方寺境内の直ぐ南側に、県道202号線(仙波鍋山線)の鍋山新道が、永野川東側の県道32号線(栃木粕尾線)大久保バイパスまで接続されましたので、非常に便利になりました。
山門前の道路脇に駐車場が有ります。山門右側に六地蔵が並んでいます。
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山門と本堂の間に新しい礼拝堂の様な建物が建てられています。建物の両側にはたくさんのお地蔵さんが一列に並んで祀られています。
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その奥に本堂が有ります。
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1969年に西方寺を山門前から撮影した写真が残っていました。
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さすがにすっかり様変わりをしています。
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栃木市大平町下皆川の光盛寺 [堂々巡り]

今回訪問するのは、栃木市大平町下皆川の光盛寺です。
大平町史に、光盛寺は山号を「寿福山」と号する、日蓮宗の寺院です。開基は「大運阿闍梨日調聖人」、開山は「慈光院日辰大徳」、本尊は「十界大曼陀羅」と載っておりました。沿革には、≪当山はもと千葉県興津にあり、大本山池上本門寺貫主大運阿闍梨日調聖人の兼務寺であった。明治十六年(1883)当地に慈光院日辰大徳発願して一宇を建立したが、当時新たに寺号公称が認可されず、その為興津在の光盛寺の寺号を譲り受けたものである。当山は開山以来、主として祈祷修法をもって布教伝道に専従し、近郷より多くの改宗檀信徒を帰依せしめて現在に至っている。≫
日調聖人(1428~1501)は池上本門寺第8世になります。
光盛寺の場所は、太平山の東麓を永野川に架かる「二杉橋」の西側交差点から南に進み、JR両毛線大平下駅方面に向かう道路を行くと、臼井産婦人科病院が道路右側に有りますが、光盛寺はこの病院の丁度裏手になります。光盛寺の南隣りには、明治元年創業の大平酒造(株)が有り、蔵造りの建物や高い煙突が目印になります。
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大平酒造(株)の脇に参道が伸び、少し高くなった場所に本堂が望めます。
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本堂に参拝して境内を散策します。
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境内社の並びに、見慣れない石像が祀られています。石像の足元に柄杓が置かれているのは、これで石像に水をあげるという事なのでしょうか。
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今後調べてみたいです。宿題を残して光盛寺を後にしました。


栃木市岩舟町静和の東光寺 [堂々巡り]

今回は、栃木市岩舟町静和の東光寺を巡ります。
東光寺は岩舟町になりますが、所在を説明するのは、東武日光線の新大平下駅からが、説明しやすい所です。新大平下駅の南、県道311号線が通る東武日光線の踏切から、線路の東側に沿って南に向かう道路を1.2km程行きます。そこで東武日光線の踏切を渡り、線路の西側に出て、300m西に行くと道路右手に、大きな銀杏の木とその脇に朱塗りのお堂が見えてきます。ここが今回の目的地「東光寺」です。
「しずわでら幼稚園」が併設されていますので、平日は園児に注意していく必要が有ります。今回私は先日の日曜日に訪問をしました。
道路から境内入口まで50m程入ります。道路右側に駐車場が有りますので、ここに車を停めます。
境内の入口の左右に石仏が祀られています。
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右側「十九夜供養塔、寛政十年(1798)の建立。左側は丸彫りの半跏地蔵菩薩が石柱台座の上に乗っています。享保三年(1718)の建立です。丁度これら石仏の後ろ側に、寺号を刻した石柱が重なってしまっています。
境内に入ります。残念ながら現在本堂は新築工事中で有りませんでした。「東光寺本堂新築工事工程表」が掲示されていました。それによると、工期は平成26年6月から平成30年12月20日となっています。お寺の建物を建て替えるのは大変なんですね。
境内南西部に先ほど道路から見えた薬師堂が有ります。鮮やかな朱塗りの柱、白い壁東向き三間四面向拝付銅板葺の屋根、屋根の反り具合が美しいです。参拝を済ませます。正面上部に「薬師如来」の扁額が掲げてあります。
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薬師堂に向かって堂宇の左横に宝篋印塔が一基建っています。「文化改元龍躔甲子十月吉旦」と刻されています。
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東光寺は正式には「薬王山 千手院 東光寺」と号し、真言宗豊山派の寺院です。
開山は祐光、弘治二年(1556)の建立と「栃木縣史」(田代善吉著)に載っておりました。天正二年(1574)の頃、須藤筑後守真行自ら信仰する所の薬師如来を安置して堂を創建したと云われます。
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薬師堂の前には大きな銀杏の木が植えられており、2013年の11月末に訪れた時は、見事に黄葉をしておりました。
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栃木市岩舟町新里の龍鏡禅寺 [堂々巡り]

今回は、栃木市岩舟町新里の龍鏡禅寺を訪れます。
龍鏡禅寺も場所を説明するのは結構難しいです。岩舟町新里は、JR両毛線岩舟駅の北側、岩船山の南麓を東西に走る道路を西に向かって進むと、大平町西山田のぶどう団地を抜ける下都賀西部広域農道の下を抜けます。その先の集落が新里の中心部で、道路は狭く曲がりくねっていますが、道なりに進むと、道路の左側に岩舟新里郵便局が有ります。その先80m程で右側に「龍鏡禅寺」と記した門柱が有り、その奥に山門が見えます。が、車で来た場合は手前に右に入る道が有るので、右折して100m程進むと、左側に龍鏡禅寺の東側の入口が有るので、そこを入ると駐車場になります。
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南側の山門から入って参拝します。山門前は昔両側に参拝者相手のお店が有ったような感じですが、今はみんなシャッターが下りています。
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山門には山号の「東應山」と大書した扁額が掲げられています。山門は黒塗りで、禅寺らしい趣が有ります。
山門を潜ると、左側に東向き二間四面瓦葺のお堂が建っています。
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お堂の手前に石仏が数基並んでいます。舟形光背に六臂青面金剛像、延宝八庚申年(1680)の建立。又、その横にがっしりした自然石の正面に大きく「庚申」の文字を刻んだ、庚申塔など重厚感が有ります。
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境内を先に進むと右側に、真新しい鐘楼が有ります。今年(2015年)3月20日に落慶したばかりの立派な鐘楼です。私が前回訪問した時は、鐘楼は無く基礎部分の石積だけが残った状態でした。
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本堂に向かいます。間口七間奥行六間、向拝付瓦葺入母屋造り、高欄の付いた立派な本堂です。
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参拝を済ませました。正面の引き戸が20cmほど開かれていて、参拝者が奥の仏様を見られるよう心づかいがされています。
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正式には「東應山 龍鏡禅寺」と号して、臨済宗建長寺派の寺院です。お寺の由来を田代善吉著の「栃木縣史」によると、≪当寺は後伏見天皇正安年中(1299~1301)の創立にして、鎌倉建長寺前住持賜妙慈弘済国師一山寧大和尚を開山とす、或は曰ふ、後二條天皇の嘉元年中(1303~1305)に僧一山寧国師の創建せし所なりと云う、いずれにしても五年ほどの差なれば建立したる年代は略察せらる≫と有ります。≪後三十四世樞峯要東堂和尚の示寂せし以来二十余年間専住の住職欠員たりし為堂宇久しく荒廃せり、元亀二年(1571)の頃、佐野宗綱これを再興せしか、≫その後、≪明治三十四年法類寺院及び壇徒の盡力により、或は信徒の浄財を以って改築を企画し、明治三十四年四月十六日竣工、寺堂の面目を一変した。≫と記されております。尚、現在の本堂は平成になってから再建をされたものと思われます。境内の横に「龍鏡寺本堂再建寄進者芳名」を刻した石碑が建てられています。「平成四年四月吉日」と記されています。まさに由緒ある寺院です。