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栃木市皆川城内町に有る持明院 [堂々巡り]

栃木市皆川城内町の持明院に7歳から15歳までの少年時代、修行をしていた一人の若き僧が居りました。名前を「玄宥(げんゆう)」と言います。
享禄二年(1529)吹上城主膝附宗長の子として生まれ、7歳のとき皆川持明院の宥日僧都の弟子となりました。
玄宥はやがて新義真言宗の東山紀伊国(和歌山県)の根来山円明寺の智積院にはいり、日秀僧正の教えを受け、更に奈良の東大寺・興福寺、近江国(滋賀県)の三井寺や比叡山延暦寺などを訪ね仏教の諸派を学び、28歳の若さで師の日秀のあとを継いで智積院主となりました。
しかし、根来寺は教育機関で有ると共に、大量の鉄砲や多くの僧兵を抱え、巨大な軍事力を有していたことから、天正十三年(1585)豊臣秀吉による紀州征伐が起こりました。
玄宥は高野山に逃れ、その後真言宗系の京都の高雄山神護寺や醍醐寺三宝院などに身を寄せ、やがて京都の北野二に住みました。
慶長五年(1600)秀吉亡き後、徳川家康から智積院再興の許可が出され、翌年慶長六年に京都東山の豊国神社境内の坊舎と土地を寄進され、智積院は再興されました。玄宥は智積院再興一世となりました。智積院は真言宗智山派の総本山です。
玄宥は智積院再興から4年後の慶長十年(1605)11月14日、77歳で没しました。

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などと、よしみを通じて、たくみに天下の大勢に順応して、戦国の時代を乗り切った皆川広照の陰には、この玄宥がいたのでした。
目で見る栃木市史.jpg
(「目で見る栃木市史」ふるさとより出た智積院中興開山第一世、を参考にしました)

この持明院は皆川城の鬼門除けとして、皆川の領主「長沼紀伊守秀光」の四男栄賢が、嘉吉二年(1442)に柏倉地内に有った寺を移祀した。と寺伝に有ります、中央大日に不動明王、東方阿しゅくに降三世明王、南方宝生に軍茶利明王、西方無量寿に大威徳明王、北方不空威就に金剛夜叉の五大尊像を祀りました。
正式には「別峰山 持明院 光厳寺」と号する、真言宗豊山派の寺院になります。
白山台や東宮神社などとともに、皆川城の一部を形成していました。

強風を押して出かけました、県道75線(栃木佐野線)を皆川城内町に向かい、永野川に架かる「対嶺橋」を渡ります。この時期の永野川は、川底をあらわに露出させております。
東北自動車道の下を潜ると直ぐ先に右に入る道が有ります。「栃木市聖地公園」の案内板の下に「持明院」の入口を知らせる案内板が立っています。
右折して道なりに進むと500m程で、持明院の山門の前に出ます。自転車を道路脇に置いて、山門を潜り本堂への階段を登ります。
持明院0.jpg持明院1.jpg
途中に石仏や赤子を抱いた地蔵尊、更に大仏も建っています。
持明院2.jpg持明院8.jpg
本堂は最近新しく立て替えられました。
持明院4.jpg持明院5.jpg
境内には丁度梅の花が満開でした。これから桜が咲くと又一段と華やかになります。
持明院10.jpg持明院11.jpg


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