永野川に架かる二杉橋と睦橋 [栃木市の河川と橋]
現在、栃木市街地の西域を流れる「永野川」に渡された橋梁は、錦着山西側の「上人橋」、下って「高橋」そして「睦橋」、次が県道の太平山公園線の「二杉橋」、そして「大柳橋」の5カ所です。この内明治期初期に発行された地形図の中に記された橋梁は、「睦橋」と「二杉橋」の二橋だけに成ります。
実際は仮橋の様なものが架けられていたか分かりません。明治14年(1881)12月17日付けにて、薗部村戸長の篠木惣吉より第二代栃木県令藤川為親宛てに作成された「下都賀郡薗部村・村誌」には、≪長野川渡セシ橋梁≫として下記の記載が認められます。
字岩崎
一、板橋 渡り拾間 横六尺
字坂下ヨリ錦着山通
一、板橋 渡り拾間 横六尺
字藪合ヨリ太平山道
一、板橋 渡り拾間 横四尺
字坂下同南栃木町道
一、板橋 渡り拾弐間 横六尺
これら板橋が架けられた場所が、何処に当たるのかは更に調査したいと思っています。
ここでは明治初期作成された地形図に記載された、先の二橋に付いて筆を進めたいと思います。
先ずは「睦橋」です。
現在の睦橋は、平成9年(1997)3月の橋銘板が付いています。架橋場所は明治初期の地形図上に記された架橋箇所とほぼ同一の場所に成ります。
(現在の睦橋を上流側より撮影、後方は太平山)
(睦橋東橋詰より上流側を望む。高橋と右手奥錦着山) (睦橋高欄のモニュメント)
その前の睦橋は現在の橋より下流側に、迂回する様に架けられていました。そして今回新しい橋に架け替える時に、旧橋を残したまま最初の架橋場所に戻したものと考えます。
(睦橋周辺概略図 ( )内は旧字名です)
(右のメイン道路の先に現在の睦橋、左側の細い道路の先に旧睦橋が有った)
(現在は撤去されているが、旧睦橋。1988年11月撮影)
(睦橋の脇、永野川沿いの堤道を走る西中生達)(旧睦橋の奥に新睦橋が写る写真)
次は「二杉橋」です。
(永野川上流左岸より撮影した二杉橋、西橋詰に大きく変わった鳥居が建っています)
現在の二杉橋は昭和60年(1985)3月に竣功しました。架橋箇所は、県道太平山公園線でも有る為、架け替え前と同一ですが、橋の両側に広い歩道部分を確保し、渡る人や車にやさしい橋に生まれ変わりました。
橋の西詰に道路を跨ぐ様に建てられている、太平山神社の鳥居も通過車両に考慮して一段と大きな鳥居に変更されました。
(高欄のデザインは何を表しとものか?) (現在の二杉橋の橋脚と下部構造)
昭和54年(1979)4月に、以前の二杉橋の所で大勢の釣り人が、永野川に釣り糸を垂れている光景を写真に収めていました。
(二杉橋と下流側大堰との間で釣り糸を垂れる釣り人達。後方は太平山)
(大勢の釣り人の奥に、架け替え前の二杉橋の姿が写っています。)
(二杉橋の橋脚上に陣取って釣る人も。川の上流側奥に錦着山が見える)
(1981年に撮影した架け替え前の二杉橋、左端に鳥居が覗くが小さく分かり難い)
現在の橋が架けられ位置は、架け替え前と同じ所ですが、明治初期作成の地形図に記された橋の位置と異なっています。明治初期に架けられた橋の位置は、現在位置より下流側で、橋の取り付け道路も左岸は橋詰に祀られている二杉神社の南側(現在は北側)を通っていた様です。
(二杉橋周辺概略図、二杉橋を渡って直線状に伸びる道路が、太平新道)
明治の初期にはまだ太平新道は出来ていませんでした。
その当時の二杉橋を渡る道路は、現在の西中学校の北側、そして栃木商業高等学校の南側を東西に走る道路を西に真直ぐに来て永野川の手前で二杉神社の社殿を避ける様に少し南側にカーブして、永野川を渡っていました。
「二杉橋」については、以前(2016年2月13日)にこの「巴波川日記」にて紹介しましたが、その時は架橋の場所が現在と違っていた事に気が付いていませんでしたので、今回追加して紹介しました。
※今回参考にさせて頂いた資料・文献は、
・明治前期測量2万分1フランス式彩色地図「栃木」 (財団法人日本地図センター発行)
・村誌 下都賀郡薗部村
・薗部乃里 (大塚紀子著)
・Google マップ
実際は仮橋の様なものが架けられていたか分かりません。明治14年(1881)12月17日付けにて、薗部村戸長の篠木惣吉より第二代栃木県令藤川為親宛てに作成された「下都賀郡薗部村・村誌」には、≪長野川渡セシ橋梁≫として下記の記載が認められます。
字岩崎
一、板橋 渡り拾間 横六尺
字坂下ヨリ錦着山通
一、板橋 渡り拾間 横六尺
字藪合ヨリ太平山道
一、板橋 渡り拾間 横四尺
字坂下同南栃木町道
一、板橋 渡り拾弐間 横六尺
これら板橋が架けられた場所が、何処に当たるのかは更に調査したいと思っています。
ここでは明治初期作成された地形図に記載された、先の二橋に付いて筆を進めたいと思います。
先ずは「睦橋」です。
現在の睦橋は、平成9年(1997)3月の橋銘板が付いています。架橋場所は明治初期の地形図上に記された架橋箇所とほぼ同一の場所に成ります。
(現在の睦橋を上流側より撮影、後方は太平山)
(睦橋東橋詰より上流側を望む。高橋と右手奥錦着山) (睦橋高欄のモニュメント)
その前の睦橋は現在の橋より下流側に、迂回する様に架けられていました。そして今回新しい橋に架け替える時に、旧橋を残したまま最初の架橋場所に戻したものと考えます。
(睦橋周辺概略図 ( )内は旧字名です)
(右のメイン道路の先に現在の睦橋、左側の細い道路の先に旧睦橋が有った)
(現在は撤去されているが、旧睦橋。1988年11月撮影)
(睦橋の脇、永野川沿いの堤道を走る西中生達)(旧睦橋の奥に新睦橋が写る写真)
次は「二杉橋」です。
(永野川上流左岸より撮影した二杉橋、西橋詰に大きく変わった鳥居が建っています)
現在の二杉橋は昭和60年(1985)3月に竣功しました。架橋箇所は、県道太平山公園線でも有る為、架け替え前と同一ですが、橋の両側に広い歩道部分を確保し、渡る人や車にやさしい橋に生まれ変わりました。
橋の西詰に道路を跨ぐ様に建てられている、太平山神社の鳥居も通過車両に考慮して一段と大きな鳥居に変更されました。
(高欄のデザインは何を表しとものか?) (現在の二杉橋の橋脚と下部構造)
昭和54年(1979)4月に、以前の二杉橋の所で大勢の釣り人が、永野川に釣り糸を垂れている光景を写真に収めていました。
(二杉橋と下流側大堰との間で釣り糸を垂れる釣り人達。後方は太平山)
(大勢の釣り人の奥に、架け替え前の二杉橋の姿が写っています。)
(二杉橋の橋脚上に陣取って釣る人も。川の上流側奥に錦着山が見える)
(1981年に撮影した架け替え前の二杉橋、左端に鳥居が覗くが小さく分かり難い)
現在の橋が架けられ位置は、架け替え前と同じ所ですが、明治初期作成の地形図に記された橋の位置と異なっています。明治初期に架けられた橋の位置は、現在位置より下流側で、橋の取り付け道路も左岸は橋詰に祀られている二杉神社の南側(現在は北側)を通っていた様です。
(二杉橋周辺概略図、二杉橋を渡って直線状に伸びる道路が、太平新道)
明治の初期にはまだ太平新道は出来ていませんでした。
その当時の二杉橋を渡る道路は、現在の西中学校の北側、そして栃木商業高等学校の南側を東西に走る道路を西に真直ぐに来て永野川の手前で二杉神社の社殿を避ける様に少し南側にカーブして、永野川を渡っていました。
「二杉橋」については、以前(2016年2月13日)にこの「巴波川日記」にて紹介しましたが、その時は架橋の場所が現在と違っていた事に気が付いていませんでしたので、今回追加して紹介しました。
※今回参考にさせて頂いた資料・文献は、
・明治前期測量2万分1フランス式彩色地図「栃木」 (財団法人日本地図センター発行)
・村誌 下都賀郡薗部村
・薗部乃里 (大塚紀子著)
・Google マップ
2018-09-03 22:34
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