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庭の蝋梅が見頃に成っています [草花]

昨日は大寒でした。毎日寒い日が続いていますが、我家の庭の隅の蝋梅は見頃を迎えています。
蝋梅1.jpg
青空の元に、透き通るような黄色の花、近づいて写真を撮っていると、甘い香りに包まれてきます。
蝋梅2.jpg
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栃木市柳原町に建つ「天皇駐蹕之所」の碑 [石碑]

今回は、栃木市の東の端、柳原町に建てられた「天皇駐蹕之所」の碑を紹介します。
実は、この石碑の所在を前々から探しておりました。今から4年前に成りますが、このブログにて栃木市内に建てられている明治天皇・大正天皇の御行幸関係の石碑を掲載していましたが、文献には記録が有るものの、私がその所在を確認出来ていなかった石碑のひとつが、この柳原町に建てられた石碑でした。
柳原町に建つ石碑.jpg
(やっと確認が出来た柳原町の「天皇駐蹕之所」の碑)

この石碑は、明治32年11月15日から4日間に架けて、栃木を中心に東は壬生町、西は岩舟町小野寺にて行われた、近衛師団機動演習に際して、明治天皇が御行幸御統監された市内各地の場所に建てられた石碑の一基に成ります。

この時、明治天皇がご宿泊された行在所は、現在の栃木県立栃木高等学校(当時は栃木第二中学校)でしたが、その際御宿泊された建物が現在も「記念館」として、構内に保存されています。
明治天皇栃木行在所.jpg

又、栃高の構内には明治天皇がご宿泊された記念として石碑も建てられました。
校門を入って右奥に向かうと、南側塀際に「明治天皇栃木行在所」と刻した石柱が建てられています。昭和12年12月に史蹟として文部大臣指定を得た翌年昭和13年7月に建てられたものです。
明治天皇栃木行在所の碑.jpg
又、その先を進むと木の傍らに「聖井之蹟」と刻された石碑が建てられています。明治天皇ご宿泊の際、御膳水に供した構内の井戸を明治45年夏に校舎増築の為埋める事と成り、その経緯を刻して建てられた石碑です。(明治天皇は明治45年7月30日に崩御なされています。)
聖井之蹟の碑.jpg

又、校門を入って左側に整備された「洗心苑」の西奥に「聖駕駐蹕碑」と大書された石碑が建てられています。揮毫された人物は、「元帥侯爵山縣有朋書」と石碑左隅に刻されています。
聖駕駐蹕碑.jpg
(これらの聖蹟については、2018年4月25日に「栃木県立栃木高等学校の構内に建つ明治天皇御聖蹟」として公開しています)

この時の明治天皇の御行幸の様子を時系列的に記すと。
明治32年11月15日、午後1時15分宮城から御出門した明治天皇が栃木駅に御着されたのは、夕日が太平山の陰にまさに隠れようとする前の午後4時30分でした。暫時休憩の後、御料の御馬車にて途中道筋に整列した栃木町民らに迎えられ、栃木第二中学校に行幸遊ばされました。
この日の天候はどんなだったか、「栃木市史」に「天皇の行幸」として当時まとめられた資料が掲載されていますので、抜粋させて頂きます。
<この日は珍らしくも打続ける連旬の秋晴、いやが上にも霽れ渡りて、天高く気朗かに、太平の山は鬱として嵯峨たる昭代の盛挙を頌するが如く、巴波の川は浄くして洞徹たる、市民の忠誠無二を表するに似たり。 以下略>
従って、夕暮れ時に差し掛かっていたものの、行在所となる栃木第二中学校に向かわれる、明治天皇が乗られた御料の馬車の列を、途中の道筋にて整列し奉送迎する町民にも、ハッキリ目にする事が出来たと思もわれます。

翌、11月16日は、午前9時に行在所を御出門。この日は岩舟方面での演習を御観戦。始め三毳山の北端舌状台地となる新里の山麓(通称天狗山)にて、佐野方面より進軍する南軍と北軍との激戦をご覧なられた。その時天皇が野立ちされた所に、それを記念して碑が建てられました。現在は両毛線の線路脇に小野寺公園が有りますが、石碑は残念ながら有りません。ただ公園の片隅の草むらに、その石碑の残骸が横たわっているだけです。
小野寺公園の草むらに眠る石碑残骸.jpg
(この石碑については、2018年5月22日に「草むらに埋もれる石碑の残骸」として公開しています)

その後、新里の御野立所より岩船山鷲巣兜山(通称坊主山)に移動して御観戦され、その場で御昼食としています。この御野立所にもそれを記念して石碑が建てられています。こちらも現在は「兜山公園」として整備されています。
岩舟鷲巣兜山の記念碑.jpg
(この石碑についても、2018年4月9日に「御野立記念の碑 栃木市岩舟町鷲巣」にて公開しています)

翌、11月17日は午前8時行在所御出門、壬生方面に御馬車にて御行幸され壬生町今井の小丘より思川河原にての演習を御観戦され、壬生小学校にて御昼食を召される。午後は再び思川(小倉川)に戻り、川の中央柳原河原に於いて除隊式及び観兵式を執行せられた。
この時明治天皇が御野立された所を記念として、石碑が建てられた訳ですが、その場所を確認するのに、周辺の様子が長い時間の経過により大きく変化した事で容易に見る事が出来ない場所と変わってしまったのです。
太陽光パネルに囲まれた石碑.jpg
現在は周りに太陽光発電用パネルが設置されて閉鎖されています。地元の人に案内して頂き、やっと探し求めていた石碑を確認することが出来ました。
柳原町に建つ石碑2.jpg
そこには、「天皇駐蹕之所」(反対面には「明治三十二年十一月十七日」)と刻した一辺が370mm、高さ約3,400mmの石柱1基と、その左後方に高さが1,950mmで横幅が230mm、奥幅が320mmの石柱1基が建っています。こちらの小さい石碑の周囲四面には全面にビッシリと文字が刻まれています。おそらくこれらの記念碑建立に当って寄附をされた人達の名前と思われます。
柳原町に建つ石碑3.jpg柳原町に建つ石碑4.jpg
幅230mmの面には10行18段にその側面(320mm)には14行18段に並んで刻まれています。
正面となる西側と南側面は何んとか名前を読み取れますが、東面と北面は影となって、判読が困難です。
確認出来た地名を列挙すると、「大字平川」「大字合戦場」「大字升塚」「大字栃木」「倭町中」「大字大宮」「大字北赤塚」「「宇都宮市」「大字鹿沼」「大字吹上」「小字今井」等広範囲に亘っています。
判別できない面も有りますが、推定八百名程に成るものと思われます。
尚石碑の横には、「水神宮」と刻した石碑や石の祠も祀られています。ここもかつては思川の河川敷に当たる場所であった証なのでしょうか。

演習の後長谷川師団長より各将校に向かって一時間にわたる講評が有り、是に於いて明治天皇から 「演習に就いては師団長の講評に同意す将校下士卒等益勉励せよ」との御勅語を下し賜った。
その後行在所に戻ると又直ぐ、栃木尋常小学校内の陳列館に行幸遊ばされた。
この時の様子を栃木市史から抜粋させて頂くと、
<壬生地方の演習及び除隊式は、早朝より午後四時に達し、この日は生憎風強く寒意深かりしにも拘わらず、范々たる小倉川原の間にて久しく御馬を橋上に立てさせられ、ここかしこに馳せ進ませられたれば、ご疲労も左こそと察せられたるに、御帰途直に陳列館に入御ありしは市民一同の感涙せし所なり、以下略>
と記されています。

この時、栃木県各物産古書画陳列館と成り、明治天皇が行幸を遊ばされた栃木尋常小学校(現在の栃木中央小学校)には、記念の碑が建てられたと、田代善吉著「栃木縣史」の「明治天皇御聖蹟」に次のように記されています。
<第二小学校に行幸物産陳列品天覧遊ばさる、其記念碑は
 (表面) 御駐輦記念之碑
 (裏)   明治三十二年十一月十七日
        明治三十八年十一月十七日建之
 栃木市にて毎年其記念日には、官民一般栃木市第二尋常高等小学校に参集して、厳なる記念式を挙行す> と。

翌11月18日午前9時10分、行在所御出門御還幸の旨迎出され、4日間の行幸の日程を終えました。

今回柳原町に建てられた石碑の所在を、やっと確認出来ましたが、実はまだその所在が確認できていないのが、私の母校でもある元栃木第二小学校に建てられていたとする上記の石碑に成ります。

現在栃木中央小学校の校庭の南西の隅に、昔の校名が刻まれた、破損してしまった校門の石柱などと共に、一基の石碑が危険防止を目的に横に寝かせて保管されています。
栃二小の旧門柱1.jpg栃二小の旧門柱2.jpg
栃木中央小校庭隅に横たわる石碑.jpg
(上の石碑については、2018年5月16日に「栃木中央小学校の校庭隅に横たわる石碑」として公開しています)
この石碑は探している物とは違います。この石碑は大正天皇が大正七年十一月に陸軍特別大演習の為行幸された際に、十七日午後、栃木第二尋常高等小学校の校庭にて演習に参加した各将校を集め、御講評された。その場所となった所を記念して建てられた石碑に成ります。
この石碑にもエピソードが有ります。この石碑戦後に一度地中に埋めて隠されていたものなのです。
ですから、私が探している明治天皇の記念碑も同様に、戦後地中に埋めてしまったのではないかと。
でもそれでは、昭和42年に大正天皇の記念碑を掘り起こした際に一緒に掘り出さなかったのか疑問が残ります。私の中ではまだなぞとして残っています。

今回の参考資料
・栃木県立栃木高等学校同窓会、平成21年1月1日発行。「栃高の旧跡」
・田代善吉著、昭和47年3月30日発行。「栃木縣史 第十六巻 皇族編系図編」
・「栃木市史 史料編 近現代Ⅰ」 昭和56年3月31日 栃木市発行。

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