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白鳥、撮って来ました [自然の恵み]

風も無く穏やかな日差しの下、川面に遊ぶ白鳥の姿を撮って来ました。
優雅に泳ぐ白鳥.jpg

撮影した場所は鹿沼市と壬生町との境近くの黒川、予想以上に群れる白鳥。この時期にしては豊富な水量が流れる黒川。遠く下流側流れの先に筑波山が見えます。
黒川で遊ぶ白鳥の群れ.jpg

白鳥が群れ遊ぶ川の直ぐ上流側に架かる黒川橋。川の右岸河原に駐車場となる十分なスペースが有り、川岸近くに三脚を構え、望遠レンズで白鳥の様子を、写真に収めようと数人のアマチュアカメラマンの方々が陣取りをしています。
白鳥を見つめるアマチアカメラマン.jpg

静だった風景が突然、白鳥の群れが騒然となりました。数匹の白鳥が泣き叫んで川面を駆け回っています。
それに合わせてカメラマンたちが一斉にカメラのシャッターを切り初め、連写してそのチャンスを写真に捕らえています。
水上をかける白鳥.jpg

でも次の瞬間、あの喧騒は何だったのか、また元の静かな風景の戻っています。
川岸近くの流れの静かな所では、多くの白鳥がゆったりと羽を休めています。
この白鳥達は、何時か又、北の空に戻って行くのでしょう、今はその長旅の為の休養を十分にとって置いて欲しいものです。
羽を休める白鳥の群れ.jpg
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京都タワーに初めて登りました

今、新型コロナウイルスによる第6波の大きなうねりの中にいます。
先週、無事に3回目のワクチン接種を受けましたが、生活は週に2から3回近くのスーパーにて当座の食材を買ってくるだけの自粛生活を、続けています。
外出がままならない昨今、今回は昨年の11月下旬の紅葉真っ盛りの京都に旅行した時の京都タワーについて書かせて貰います。
その当時は感染状況も収まり、京都府の感染者数も毎日10人以下、ゼロの日も有ったので、そのチャンスに京都に向かいました。
迎えてくれるのは京都駅前に聳え立つ「京都タワー」です。
私が初めて京都に旅行したのは、今から50年以上も前に成ります。高校の修学旅行で関西の京都・大阪・奈良そして四国香川を巡った最初の日です。当時はすでに東海道新幹線が走っていましたが、それは帰路のお楽しみで往路は在来線で京都に向かいました。ですから京都駅に着いた時は日も暮れて、駅から迎えのバスで宿泊先に向かいました。
その際にライトアップされた京都タワーの姿を初めて見ました。その姿はろうそくの様に白く輝いていました。私の京都で最初に撮った写真がその時の京都タワーでした。
京都タワー(1968).jpg

その後も、京都には何度か足を運びましたが、その都度京都タワーを横目に、東山方面や嵐山方面の観光スポットに直行するものでした。
そこで昨年11月の旅行で初めてその京都タワーに登ってみました。ただ昼間他を観光した後で、受付では間もなく入場終了時間に成りますよとの事でしたが、ともかく今回は登る選択をしました。
京都タワー(2021).jpg

チケット代金大人800円を払い、最上階展望室へのエレベーターに。

京都タワー展望室.jpg
展望室5階はブルーとオレンジの照明が。そこから360度広がる京都の夜景が神秘的に感じてきます。
展望室をずっと1周して回る。円盤に乗って地上を見ている様。そんな夜景の光の中に観光スポットを探します。

ライトアップされた東寺.jpg

ライトアップされた五重塔を確認。京都駅の西南西方向、東寺です。塔の右方向に東寺の伽藍が同じくライトアップされて輝いて見えます。紅葉のライトアップです。おそらく大勢の見物客がその明かりの中にいるのでしょう。昼間、その東寺を訪れました。講堂の中に展開する立体曼荼羅。檀上中央の大日如来を中心に5体の如来。その右側には金剛波羅蜜を中心に5菩薩。反対側には不動を中心に五大明王。その他壇四隅の四天王など全部で二十一体の像が安置された世界がそこに有りました。

ぐるっと回って東の方向奥にオレンジに輝く空間から真っ暗な空に向かって一筋のサーチライトの光の線が伸びています。清水寺です。
ライトアップされた清水寺.jpg

清水寺もライトアップにより浮かび上がる紅葉を見る為、大勢の人が夕暮れ前から詰めかけていました。私が訪れた時は丁度太陽が西の山に隠れるころで、京都の街は夕闇が迫り、京都タワーがそんな闇の中にすっと立っていました。
清水の舞台から見た京都タワー.jpg

周囲が暗くなると、清水寺の紅葉はライトアップの明かりで、輝きを増してきます。新しくなった清水の舞台には、そんな紅葉を見ようと見物客が溢れ、ビューポイントを求めて人の波がゆっくりと動いています。
その清水の舞台の先に白く光る京都タワーが有りました。
清水の舞台と京都タワー.jpg

今の新型コロナ感染拡大が終息したら、またゆっくりと訪れたいものです。



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栃木県壬生町に建てられた明治天皇関係石碑を巡る。 [石碑]

今年最初に公開した「栃木市柳原町に建つ石碑」は、明治32年11月に現在の栃木県立栃木高等学校を行在所として実施された、近衛師団機動演習の3日目、栃木市と壬生町との境、小倉川(思川)の河川敷を中心に展開された演習の最後に、演習講評と除隊式に望まれた明治天皇が御野立ちに成った場所を記念して、当時の地元柳原村民を中心に建立されたものですが、同日、明治天皇の行幸を得た壬生町側においても、同様に記念の碑が建てられています。
今回はそんな壬生町における明治天皇行幸に関する、記念の碑を巡りたいと思います。

現地を訪れる前に、いつものように田代善吉著「栃木縣史」の16巻、「皇族・系図編」より、明治天皇御聖蹟の章から壬生町について確認をすると、3基の石碑が掲載されています。それらの石碑が建てられた場所は
①壬生小学校、②壬生町大字今井、③壬生町大字下山の三か所と記されています。
1番の壬生小学校の場所は直ぐ分かりますが、2番・3番は大字名までしか記されていませんので、石碑の建てられた場所を特定できません。
そもそも壬生町の大字に「今井」とか「下山」は無く、恐らく小字名の間違えと思われます。
国土地理院発行の2万5千分1地形図「壬生」を確認すると、「今井」と言う地名が記載されていますが、この「今井」の地名は壬生町壬生乙」の地域に含まれます。「下山」と言う地名は地形図上に記載されていません。
早速場所の分かる壬生小学校に向かいます。
有りました。校庭の東側、東門の南側に建てられています。
壬生小学校構内に建つ石碑.jpg
右側に建つ標柱正面には「明治天皇壬生行在所」と大書され、その左下側に「樞密顧問官陸軍大将男爵奈良武次謹書」と有ります。右側面には「史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ史蹟トシテ昭和十二年七月文部大臣指定」、左側面に「昭和十五年十一月建設」と、刻されています。
左側の石碑正面には「天皇御注蹕所」と篆書体文字で大書されています。揮毫した人物は石碑正面左脇に「陸軍大将正三位男爵鮫嶋重雄 謹書」と刻されています。
碑陰を確認すると、「明治三十二年十一月十七日」と「明治四十年十一月十五日」そして「大正七年九月建之」の三つの日付けが並んで刻されています。
最初の日付けは、近衛師団機動演習の時、次の日付けは茨城県結城小学校に大本営を設け挙行された、陸軍大演習の時に当たります。
ここ、壬生小学校には二度、お昼食の為に明治天皇が来られていることを、この石碑が物語っているのです。そして思川河川敷では、近衛師団機動演習と陸軍大演習の二度、明治天皇御行幸を以て挙行されたのです。
次に②と③の石碑を探します。
しかし、その所在とされる「今井」と「下山」の場所の特定にも結構手こずりました。
これまで発行された「壬生」の地形図を調べてみると、大正6年9月30日と昭和7年1月30日発行の地図の「今井」の文字の下側に、石碑の地図記号を確認しました。その後発行された地図からは石碑の記号は無くなっています。状況的にはこの石碑記号が探している明治天皇に関連した石碑であることは間違いないと思われました。
とりあえずその情報を基に、現地確認を行いました。が、石碑の地図記号が記された周辺に、石碑は確認出来ませんでした。でも現地に立ってみると、その場所は西側に古川更にその先に思川が南流している場所で、しかも丁度この場所は5メートル程の段差の有る高台の縁に当たっています。
現在は西側の一段低くなっている所も住宅や工場が有り、見通しが悪くなっていますが、明治の頃はこの場所に立って西方を望むと、北の端から南の端まで思川(かつては小倉川と称していた)の河川敷が広がっていたと想像できます。
壬生町今井の石碑が建っていた周辺.jpg
(壬生町今井の石碑は、写真中央奥の二階家の手前付近に建てられていたと思われます。写真左側、工場の建っている場所は一段低くなっているのが確認出来ます。明治32年11月17日午前、明治天皇はこの高台に御立ちに成って、西方の思川河川敷で行われた演習をご覧に成られたのです。)

その時丁度近くに住まわれている御婦人の姿が見えたので、早速石碑の件をお尋ねしたところ、「石碑は現在、東雲公園の方に移設されている。」と、その経緯も含めて教えて頂くことが出来ました。

壬生町を貫流する三筋の川(東側から、姿川・黒川・思川)で、街の中央を流れる黒川、その川に架けられた国道352号が通る「東雲橋」。黒川の両岸沿いに整備された東雲公園の北東部、東雲橋の東橋詰、国道の北側児童公園の一角に2番目の石碑を確認しました。
壬生町金井に建っていた石碑.jpg
(壬生町東雲児童公園の一角に建つ、かつて今井の里に建てられていた②の石碑)

碑の正面に「天皇觀兵之所」の文字、揮毫した人物は、その近衛師団機動演習の総司令官、近衛師団長男爵長谷川好道です。碑陰には「明治三十二年十一月十七日為紀念建之」、石工は「栃木泉町 彫刻師 清水政」と刻されています。
そしてその石碑の傍らに小さな石碑が建っています。そこには今井の里でご婦人が話して下さった、石碑を現在地に移設した経緯が刻されています。日付けは「昭和五十四年八月」となっていました。

次に、三番目の壬生町下山に建てられた石碑を探します。
壬生町下山の地名が何所なのか分かりません。そこで壬生町立歴史民俗資料館で尋ねる事に、そしてそこで思いもよらない1冊の小冊子を見せて頂くことが出来ました。
冊子の表紙には「明治天皇行幸記念誌」と有ります。著者は元壬生尋常高等小学校訓導の山田徳静氏、発行されたのは昭和9年4月壹日で、関係者だけに配布された非売品。この冊子は現在壬生小学校にも無く、恐らくこの1冊のみ資料館で保管されてるものだそうです。
その巻頭写真には今回私が探し巡っている3基の石碑の写真の外、栃木市柳原町に建つ石碑の写真も掲載されていました。

この冊子の著者、山田徳静氏はその人生において、明治天皇の壬生行幸に深く関わっています。
氏が栃木中学校4年生の時、学んでいた栃木中学校が行在所と成り、壬生小学校職員として勤務していた時に、小学校が天皇御休憩御昼食の所と成って、近くでその時を過ごしていたと言います。
そんな著者ならばこその手によるその冊子は、実に細やかに二度にわたる明治天皇の行幸の様子を記しています。その文章を読んでいると、その当時にタイムスリップしたような、目の前にその時の情景が表れてくるように感じてきます。
明治40年11月15日壬生町下山、御野立ちの部分を抜粋掲載させて頂きます。
<11月15日、大帝は早暁結城の大本営出門、結城駅より列車に召され石橋駅に御下車遊ばされ御馬車にて壬生街道に向かわせらる。  中略  奉迎者の群れは恰も水を打ちたるが如く御馬車の軋りは粛々と表町を経て栃木街道の方へと聞え今井にて止まる。大帝は畏くも御徒歩にて砲兵陣地にすすませらる。此處は8年前近衛師団の演習を御統監遊ばされし折の御注蹕の地にして日露戦役後今日再び大帝の御偉容を拝し加うるに御軍装は陸軍大元帥の改正式を御着用遊ばされあるを仰ぎ誰れか無量の感慨に勝へざるものあらんや。 中略 再び御馬車に召され小山街道より壬生の町外れを経て小倉川黒川の合流点の北にある下山の御野立所に成らせらる。  中略   下山御野立所附近より西方には近く遠つ祖宗を祀れる国府村大神神社の森欝蒼と茂り南方を眺むれば小倉川の水は涸れ思川の河原は広々と帯を曳き丸山の断崖は褐色を帯びて水に映り黒川の橋梁は杉並木に連なり晩秋の霜葉錦繍の如し。北方を望めば今井の砲兵陣地仄かに見え、南方遠くかすかに豊田村八幡宮の森は見ゆ。田園人家参差點綴して紫色に烟る。大帝は戦況を幕僚より御聴取あらせられ還幸仰せ出さる。 後略 >
(原文カタカナ送り文のところ、ひらがなにしました。又、一部旧漢字も書きかえています。)

以上の引用文より、壬生町下山の場所を「思川と黒川の合流点の北」と表記有り、周辺を歩いて探索して遂に3番目の石碑を発見しました。
壬生町下山に建つ石碑.jpg
(県道宇都宮栃木線惣社今井バイパスの新保橋の北東側、畑地の畔に建つ「天皇御野立之所」の石碑)

前記の冊子「明治天皇行幸記念誌」の巻頭に掲載されている写真には、石碑の回りは玉垣で囲まれていますが、現在は石碑だけがポツンと建っているのみです。
標柱の大きさは、正面幅30cm、側面幅28cm、高さは約165cm(台座部含まず)、碑陰に「明治四十年十一月十五日と大きく刻されています。

現在石碑の建つ場所より南方を眺めても、思川の流れは見る事は出来ません。
壬生町下山より南方を望む.jpg
(石碑が建つ場所から南の方角を望む。右側から思川、左側から黒川が流れ来て、はるか前方にて合流していますが、現在その河道を見る事は出来ません。)

明治40年頃には思川には現在の様な土手は築かれておらず、黒川の合流点からずっとその先まで視野が開けていたのでしょう。<南方遠くかすかに豊田村八幡宮の森は見ゆ。>という神社の森は、小山市小宅の八幡神社と考えられます。距離的には約4km南に成ります。この神社には社殿の横に天然記念物に指定された御神木のカヤの大木が有ります。樹齢5百年余と推定されるこのカヤは、樹高が約28メートル、枝張りは東西14メートル、南北14メートルと立派な大木です。この大木が遠く離れたにもかかわらず見えたのかもしれません。
小宅八幡神社.jpg
(小山市小宅の八幡神社、社殿右側に御神木というカヤの大木が見えます。)
小山市小宅八幡宮.jpg

今回壬生町に建つ、明治天皇関連の石碑を巡りましたが、思う様に石碑の位置を説明できない感が有りましたので、明治前期に発行された迅速測図を参考に、壬生町南西部から栃木市柳原町付近の概略図を作成しました。
明治前期の思川保橋周辺概略図.jpg
(明治前期頃の壬生町南西部、思川保橋周辺の概略図)

小さくて見にくいですが、明治前期測量2万分1フランス式彩色地図を参考に作成、石碑の地図記号に番号を付けて本文の①②③の石碑に対応しています。但し②の場所は当初に石碑が建てられた今井の場所です。④の石碑は今年1月に公開した栃木市柳原町に建つ石碑に成ります。
場所を確認し易いように、当時には無い「東武宇都宮線」と「県道宇都宮栃木線惣社今井バイパス」を破線にて追加表記しました。

今回の参考資料:
・栃木縣史 第16巻 皇族・系図編 田代善吉著
・壬生町史 通史編Ⅱ 壬生町編集発行
・明治前期測量2万分1フランス式彩色地図栃南2 日本地図センター発行
・明治天皇行幸記念誌 山田徳静著


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