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親鸞上人大蛇済度の地に咲く桜 [自然の恵み]

今年も桜の開花が始まりました。
早速、栃木市内の桜の様子を見て来ました。
場所は、栃木市域の東の端に当たります。小金井街道を東進、思川に架かる大光寺橋はその東側で大きく左にカーブ、渡った先で道路は下って行きますが、下野市との境界を過ぎると今度は、右に大きくカーブし、再び道路は登って行きます。すると道路左側に「蓮華寺」と言う寺院が現れます。今回目的の桜はこの寺院の丁度裏手に有ります。
山門横に有るスペースに車を止め、先ず本堂に参拝し、そこから歩いて本堂裏手に回り込みます。
本堂の裏手は4メートル程低くなっていて、前方にピンクの花を咲かせた桜の木が一本見えます。
手前に農業用水路が有りますが、水路の手前が下野市国分寺町で、水路を渡った先が栃木市大光寺町に成ります。
大光寺町の桜3.jpg

石段を下り水路に架かった橋を渡って、桜木の傍へ行きます。
桜は丁度見頃を迎えて、青空にピンク色の花が映えます。相当な老木の様で幹の部分はおおきく北側に傾いていて、倒れない様に後ろ側から補強棒で支えられています。
大光寺町の桜.jpg

樹齢はどれくらいになるものでしょうか、幹の部分は大きな室が出来ています。周囲には立派な玉垣が作られ、南側正面左脇に「親鸞上人大蛇済度御旧蹟」と刻した石碑が建てられています。
大光寺町の桜2.jpg
 
桜の木の根元近くにも古い石碑が建てられていますが、表面が剥がれていて、僅かに上部に「親鸞」の文字が確認出来るだけです。
辺りを見渡すと蓮華寺本堂の裏手墓地の北側が低くなっています。そこにも石碑が建てられています。近づいてみると、「親鸞上人大蛇齊度之池」と記されています。確かに石碑の建つ北側辺り一帯が、一段と低くなっていますが水は確認出来ませんでした。以前はここに池が存在していたものと思われます。

親鸞上人大蛇御済度之池.jpg

「親鸞上人大蛇済度」とは、ここ花見ヶ岡の蓮華寺に伝わるお話の様です。
その由来などを記した石碑が、先に車を止めた場所の東隅に建てられています。
花見岡碑.jpg花見岡碑(碑文).jpg
(石碑正面写真と碑文の書き写し)

碑文冒頭に一回り大きなサイズの文字で「花見岡碑」、石碑上部の篆額には、篆書体で「大典記念」と有ります。揮毫した人物は、下野壬生藩第八代(最後)の藩主(知藩事)の長男です。幕末の頃この辺り(国分村や大光寺村)は、壬生藩領でした。
石碑に刻まれた碑文を書き写してみましたが、旧字体や不明な字が多く、その内容を正しく読み解く力が私には有りませんので、山門近くに環境省と栃木県が立てた「蓮花寺」の案内文の写真を一部抜粋して掲載させて頂きました。

蓮華寺案内板.jpg

私が記憶する伝説によると、妻が病気と成り、心配した夫が、近くの室の八島神社に毎夜お参りに行っていたが、その行動に不信を抱いた妻が、病の体を押してある夜夫の後を追っていく。しかし途中の川面に映った自身の顔が嫉妬心で恐ろしい大蛇の姿に成っているのを憂い川に身を投げると言うストーリーだったような。
伝説ですから色々変化した話が有るのでしょうが、どちらも大蛇と化した妻が、親鸞聖人によって救われると言うところは共通しています。

今、そんな言い伝えの残る地に、春の鮮やかな桜の花が見頃を迎えていました。
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春をさがして [草花]

ここ数日、20度を超える陽気が続いています。天気予報では昨日栃木県南部は25度を超える夏日だったと伝えています。
新型コロナの影響で、無用な外出は控えていますが、これだけ良い天気が続くと、チョッと外出もしたくなります。
そんな感じで今日は、少し街を歩いて来ました。
すると、新栃木駅前通りの「巴波桜」がピンク色の花を付けていました。五分咲きぐらいでしょうか。
新栃木駅前通りの巴波桜1.jpg

この桜の街路樹は数年前に、新栃木駅前通りの新しい目玉として、地元自治会関係者や法人・個人などが寄附をした「巴波桜」という地元栃木の「巴波川」にちなんで命名された品種の桜です。

新栃木駅前通りの巴波桜.jpg新栃木駅前通りの巴波桜(箱一).jpg

この木には、「箱森町一丁目自治会」のプレートが付いています。
私が所属する自治会ですが、始めの頃は他の木と比較して、育ちが悪く花の付きも少し物足りなく、このままでは枯れてしまうのではと心配をするような状態でしたが、今日見てみるとしっかりと花を付けていて、見ていて嬉しくなりました。

もう一ヶ所気になる桜は、家から一番近い「小平橋の桜」です。近くで直ぐに見に行けるから私の一番お気に入りのスポットです。
小平橋の桜.jpg
ここもウォーキングの定番ルートですが、さすがにこちらは開花はまだまだ先の様です。
小平橋の桜の蕾.jpg
小平橋の桜の蕾2.jpg

それでも近くに寄ってよく見ると、蕾が結構大きくなって来ています。
「暑さ寒さも彼岸まで」 もうすぐ桜の季節の到来です。
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岩舟町小野寺で、石碑見て回り [石碑]

栃木市の西の端、岩舟町小野寺で、石碑を巡ります。と言っても、小野寺地区に建てられた石碑を全てとはいきません。もちろん全てを把握している訳でも有りませんので。
今回巡る石碑の所在を、最初に概略図に描きました。図中に6ヶ所記念碑地図記号を載せました。記号に付された番号は、石碑が建てられた順番を表しています。
小野寺地区の石碑所在概略図.jpg
(岩舟町小野寺地区、石碑所在地概略図)

この概略図は昭和33年に撮影された空中写真を基に作成していますが、現在地との関連が分かる様に、県道栃木佐野線の新道部分を黒の破線で、又、東北自動車道のルートをピンクの2点鎖線で追記しています。
石碑の古い順に確認して行きます。
①は概略図左上隅。謡坂(旧道)脇に建つ「坂路改修紀念碑」です。昭和4年頃の建立と思われます。
謡坂に建つ石碑.jpg
(坂道を登った先が佐野市側に成ります)

②は概略図右隅。藤坂の佐野市との境界道路脇に建つ「隧道竣工記念碑」です。昭和10年頃の建立と思われます。現在は隧道は有りません、昭和46年2月に取り壊し工事が行われました。
藤坂に建つ石碑.jpg
(石碑を右手に見て、坂道を下って行くと佐野市葛生町方面に向かいます。)

③は概略図中央付近上側、住林寺の右側道路脇に建つ「溜池工事記念」の碑です。昭和27年頃の建立と思われます。
西根の大芝原溜脇に建つ石碑.jpg
(石碑の後ろ側が溜池に成っています。)

④は概略図右下、三杉川と高速道路が交差している辺りに建つ「水神堰改修紀念碑」です。昭和31年頃の建立と思われます。
三杉川水神堰の脇に建つ石碑.jpg
(三杉川左岸、堰の直ぐ脇に建てられています。石碑手前に取水用の水門が見えています。)

⑤は概略図の③の石碑の下側、旧県道の小さな交差点の角に建つ「野尻金一郎翁の顕彰碑」です。昭和33年頃の建立と思われます。
旧県道脇に建つ石碑.jpg
(西根の旧県道の小さな交差点の北西側角に建てられています。奥に向かう細い道路を進むと、③の石碑の前に行きます。)

最後⑥の石碑は概略図中程、⑤の下方向、石橋と小名路の間の三杉川左岸に建つ「小野寺橋竣工記念碑」です。昭和34年3月に建てられています。
三杉川小野寺橋の橋詰に建つ石碑.jpg
(石碑の横を流れるのが三杉川。この川の流れの先に小野寺橋が架かっています。かつての県道岩舟中線に当たります。写真に写っている橋は2012年3月竣功の「三杉川小野寺橋側道橋」です。)

それでは順番にもう少しジックリ石碑を眺めて行きます。
①の謡坂に建つ「坂路改修紀念碑」について。この石碑については昨年の10月9日に「謡坂(栃木市)に建つ石碑」と題して公開していますが、今回はチョッと別な角度から。
坂路改修紀念碑.jpg坂路改修紀念碑(碑陰).jpg
(石碑正面からの写真と碑陰に記された「改修貢献者芳名」や「寄附者芳名」並びに「工事関係者氏名」の書き写し文)

石碑の題字を「謡坂改修記念碑」では無く「坂路改修紀念碑」とした理由が、碑陰の記載内容から納得できます。この石碑は小野寺地区で大正11年から昭和4年までの間に行われた、謡坂だけでなく、長尾坂・中妻坂・中坂改修や縣道西耕地地内改修等、複数の改修工事をまとめて紀念する為に建てられた石碑だからです。
「記念」と「紀念」の違いは、広辞苑に依ると、「記念」の項に<(「紀念」とも書いた)後々の思い出に残しておくこと。また、そのもの。後略>と、同様に使われても良いようですが、「記」と「紀」のニュアンスの違いは無いのか漢字源を開いてみた。「記」の項には<「字音」は、キ/しる・・す 「意読」は、しる・・す/おぼえる/き  「意味」は幾通りか有りますが、{名}書きとめたもの。記録や文書。>一方「紀」の項には、<「字音」は、キ 「意読」は、おさめる/のり/いとぐち/しるす/き 「意味」はこちらも幾通りも有りますが、{名}順序よく、または年を追って書きしるした書。>と言う少し違った記載も。

石碑の題字を揮毫した「栃木縣會議長 松永和一郎」と言う人物は明治6年(1873)6月古江村(明治22年の町村制施行に際して古江・新里・三谷・上岡・下岡・小野寺の六ヵ村が合併して小野寺村大字古江となる)に生まれています。大正4年(1915)9月、推されて下都賀郡会議員、同5年(1916)4月より第八代小野寺村村長、同8年(1919)栃木県会議員に当選、昭和2年(1927)1月、宇都宮市長に当選するなど、広範囲に活躍をされた人物です。

②の藤坂峠の佐野市との境界手前で、雑木に隠れる様に建つ「隧道竣工記念碑」を見てみます。この石碑に関しては少し前の2019年3月17日付「栃木市岩舟町小野寺の藤坂峠に建つ石碑」で公開をしました。その際は碑陰部分は雑木に覆われて十分に確認出来なかった為、今回改めて石碑の裏側の確認を行いました。
隧道竣功記念碑.jpg隧道竣工記念碑(碑陰).jpg
(石碑正面写真と碑陰に記された内容を書き写した文)

そこで気に成った部分は、碑陰の工事施行関係者の中に、「小野寺村長 野尻金一郎」と有ります。ただ石碑表の「隧道竣工記念碑」の題字を揮毫した人物は「栃木県会議員 野尻金一郎書」と刻されている点です。
碑陰冒頭に隧道工事の起工日と竣工日が記されておりますが、石碑のひび割れとその補修の為か、
   起工昭和■年十二月二十五日
   竣工昭和十年■月三十日
とハッキリと確定できなかったのです。
揮毫者の野尻金一郎は、明治21年(1888)8月14日下都賀郡小野寺村に生まれた人物で、昭和9年(1934)の県会議員補選に当選しました。翌年の県議会選挙には立候補をせずに昭和10年(1935)12月より第12代小野寺村長として村発展の為に、村政に尽くしてます。
石碑は丁度その頃に建てられた為、違う役職名で名を連ねる状況となったと考えられます。
ちなみに上記①の石碑の中にも、功労者の一人に「栃木県農会議員 野尻金一郎」として名前を連ねています。

③の「溜池工事記念」の碑は、県道から西に入った、住林寺の北西裏手の道路脇に建てられています。道路は狭く車1台がやっと通れる程度で、その先に建つ人家で行き止まりの様です。
「溜池工事記念」の碑.jpg「溜池工事記念」の碑文.jpg
(石碑正面写真とそこに刻された内容を書き写した文)

石碑の丁度後ろ側が溜池に成っています。確認をした時は2月だったので、水は無く枯れた葦原がひろがっていました。
この石碑にも貢献者に「元県会議員 野尻金一郎」の名前を確認しました。

④の「水神堰改修記念碑」は三杉川左岸の堰の直ぐ上に川側に正面を向けて建てられている為、石碑正面は対岸からの確認で、夏場は周辺が蔦に覆われて、石碑が隠れてしまうほどで、やはり石碑の調査は冬場が適していることを実感させられた石碑です。
水神堰改修記念碑.jpg水神堰改修記念碑(碑陰).jpg
(石碑正面写真と碑陰に刻された内容を書き写した文)
冬の水神堰.jpg夏の水神堰.jpg
(冬の水神堰と夏の水神堰、夏はどこに石碑が建っているのか分からない)

三杉川を挟んでの確認の為、石碑の題字「水神堰改修記念碑」は何んとか読み取れたのですが、題字を揮毫した人物及び石工の確認は出来ませんでした。
碑陰冒頭に記された通り、この水神堰の改修は、「災害復旧工事」として、国庫補助金と村補助金にて行われています。竣工したのが昭和31年3月と記されていますから、むらの補助金とは「小野寺村」と言う事に成ります。その年、昭和31年9月30日に、小野寺村・岩舟村・静和村の三村が合併して新生岩舟村が誕生しています。
この石碑は、小野寺村時代の最後に成ります。

⑤の石碑は、これまでも何度もその名前が出て来ている、野尻金一郎翁の「顕彰碑」です。今回巡っている6基の石碑の内5基は道路改修や堰や橋梁改修等、土木事業の竣工を記念して建てられた石碑ですが、この石碑は地元の出身で、小野寺村の発展に尽力した人物を、その功績などを世間に知らせる事を目的に建てられた「顕彰碑」に成ります。
野尻金一郎彰徳碑.jpg野尻金一郎彰徳碑(碑文).jpg
(石碑正面写真と正面下側に刻されている碑文の書き写しです)

石碑正面最上部の篆額「彰徳碑」を揮毫した人物は、当時農林大臣だった赤城宗徳氏です。篆額の下にネクタイを締めスーツ姿の野尻金一郎翁の顔が線刻されています。その左に「昭和三十三年一月建之」と有ります。その下に刻された碑文の中に、<・・・東奔西走席温まる日なく一意専心郷土住民の福祉増進に没頭せらるこの間における翁の功績はわが郷土史上特筆大書せらるべきもの多し・・・>等々讃辞の言葉で埋め尽くされています。
これまで見て来た石碑の多くにも、野尻金一郎翁の関係が覗われます。

碑陰に回って見てみます。
野尻金一郎彰徳碑(碑陰).jpg
(碑陰の記載内容を書き写しました。)

この顕彰碑を建てる為に、協力して寄附をしてくれた個人・団体・法人含めて368の名前が刻されています。
上記の書き写し文を良く見ると不思議な点に気付きますか。名前は13段になっていますが、下段2段は建設委員関係者ですが、上から11段は協力者芳名に成ります。
各段の並んだ名前の数が違っています。上から1段目25名、2段目28名、3段目から5段目が30名、6段目35名、7段目から11段目が37名となっています。
ところが、実際の石碑を眺めているとその違和感が無いのです。
野尻金一郎彰徳碑(碑陰写真).jpg
(碑陰の写真)
石碑の幅一杯に名前が並んでいます。
これは石工さんが、上の方の名前が小さく、見にくくなってしまう事を配慮、字のサイズを変えて大きくしている為と分かりました。さすがです、佐野市相生町の石工、小田鉄碩さん。

最後⑥の「小野寺橋 竣工記念碑」を見ていきます。
小野寺橋竣功記念碑.jpg小野寺橋竣功記念碑(碑陰文).jpg
(石碑正面写真と碑陰の書き写し文)

この石碑の題字を揮毫したのも、ここまで何度も出てきた、野尻金一郎氏です。
橋が竣工したのは、昭和三十四年二月と碑陰にあり、この時の野尻金一郎の関係は、碑陰工事委員の冒頭に連ねる、「相談役小野寺顧問 江田浅次郎・阿部善三郎の二人と共に刻されています。
野尻金一郎氏の揮毫した字を見ると達筆な人物だと、改めて感心させられます。

この橋が完成した時期は既に小野寺は合併した後で、岩舟村大字小野寺となっていますから、上段には、栃木県知事や県会議員、栃木土木事務所長などの関係者の列には、岩舟村長 相良行一、助役 寺内正、収入役 大竹菊次郎の三役の名前等が大きく刻されています。

現在は橋ひとつ新しく架けられても、こうした記念碑を建てる事は少なくなりました。土木技術が発達して架橋工事の難易度が下がった為でしょうか。確かに今でも大型プロジェクトで大規模工事で架橋された橋であれば、その経緯を刻した記念碑が建てられるのでしょうが。

岩舟町小野寺地区に建てられた6基の石碑を見て来ましたが、小野寺には他にも石碑は建てられています。機会が有ったらそちらも見て回りたいと思います。
小町の碑.jpg小野寺城址の碑.jpg
(小町の碑と小野寺城跡の碑)

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