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旧奥州街道白澤宿を歩く [歩く]

白澤宿は江戸時代の五街道のひとつ、奥州街道18番目の宿場町で、ひとつ前の宇都宮宿で日光街道と別れた後で、鬼怒川を渡る手前に有る宿場町です。起点となる江戸日本橋より三十里(約120km)です。

栃木文化協会が発行した「栃木の街道」の七章奥州街道で、「白沢宿」は次のように紹介されています。
<白沢宿の起源については、具体的に明らかでない。享保年間に書かれた『奥州街道白沢宿駄賃定覚書』によれば、白沢宿の町割りは慶長14年(1609)にさかのぼる。ただ年代的には、なお問題を残しているように思える。白沢宿の動きは、初めは主に馬次宿で、上阿久津河岸が開かれておらず、街道も明らかでなかった。(中略) 寛文三年(1663)の白沢宿の家数は98軒、馬軒は66疋となっていた。この頃が「殊の外にぎわい申候」と言った時期でもあった。(後略)>と。

現在も宿場の中央を走る街道の両側には水路が有り、綺麗な水が流れています。街道筋の家々には、「辰巳屋」とか「高砂屋」「猪瀬屋」「住吉屋」という、かつての「屋号」が表示され、又水路には水車が何カ所か設置され、通過する人の目を楽しませています。
私もこれまで、何度もこの通りを車で通過していますが、今回はじっくりと宿場の隅から隅まで歩いて見て回りたいと思います。
宇都宮から白澤街道(旧奥州街道)を北上すると白沢の手前に、私が若かった頃アヤメと流しそうめんで有名な奈坪苑という所が有りました。今、グーグルマップで検索しても見つける事は出来ません。街道から右手に折れ雑木林の中を進んだ先に有った記憶が残っています。50年も前のことに成ります。
そんな記憶をたどっているうちに、白澤宿の入口に差し掛かって来ました、
地蔵堂.jpg

道路の右手に地蔵堂が現れました。境内に「白沢地蔵堂の伝説」の説明板が有り。お堂裏手には、「南無阿弥陀佛」と刻した石碑や宝篋印塔、五輪塔その他馬頭観世音の石塔などが建てられています。
地蔵堂裏手.jpg

地蔵堂の先から道路は大きく右にカーブをしながら下って行きます。
薬師堂の先は右にカーブしながら下っている.jpg

道路の左手に登って行く階段が有ります、「やげん坂」の説明板が建てられています。読んでみます、
<この坂は、漢方の薬種をくだく舟形の器具(薬研)に坂の形が大変似ているところから、「やげん坂」と呼ばれるようになったと言い伝えられています。また慶長十四年(1609年)白沢宿として町割ができる以前からここには、街道の道しるべとして夫婦の大きな榎があった由緒あるところです。>
やげん坂.jpg

その説明板に有った榎か分かりませんが、その先を少し行った右手に「白澤宿」と記した案内板が榎の大木の前に建てられています。そしてその右横に「江戸時代の公衆便所」だとする小屋が有ります。
白沢宿の榎.jpg江戸時代の公衆便所跡.jpg

旅する人にとっては、こうした公衆便所があったなら、大助かりだったと思います。今こうしてウォーキングを楽しんでいると、そうした思いを何度もしています。
道路左手に「水戸屋」さんとう<鬼怒のたまり漬>の店舗が有ります。道路はその先もまだ右にカーブをしながら下って行きます。
水戸屋の前から更に街道は下る.jpg

道路は信号機の有る丁字路に突き当たりました。右に曲がれば岡本街道で、奥州街道はここを左に曲がります。道路は広く両側に水路が有り現在車道と歩道の境界にもなっています。
白沢宿メイン道路(両側に水路).jpg

そして、今来た道を振り返ると坂道をずっと下りてきたことが分かります。
白沢宿南端の丁字路から今下ってきた道を振りかる.jpg

この辺が白澤宿メイン道路の南の端に当たります。ここから街道に沿って北方向に歩いて行きます。
本通りを進むと直ぐ左側に、大谷石を組んでその合せ部を漆喰で固めたような、石蔵造りの重厚な家が目に入りました。
石蔵造りの家.jpg
「堺屋」という屋号表示が付いています。元はどのような商いをしていた家だったのだろうか。

道路右側に四階建てのビルを構えた家が有ります。屋号の表示は「高砂屋」となっています。失礼して門扉越しに御庭を拝見させて頂きました。
高砂屋の表示板.jpg高砂屋の邸内.jpg
石灯籠の外に一基の石碑が目に留まりました。遠目ですが「明治天皇御休之所」と読む事が出来ます。

明治天皇御休之所.jpg

田代善吉著「栃木縣史」にて、明治天皇が白澤を訪れた記録は、「河内郡古里村大字白澤福田源太郎宅 明治九年六月十一日東北御巡幸の御時御小休所に充てさせらる、今其建物はなし、碑もなし、明治十四年八月奥羽御巡幸の際は、大田東一郎宅を御小休所に充てらる、其当時の建物存す、建碑なし」と、2回訪れている様で、こちら「高砂屋」さんがそのどちらかに当たるのか確認出来ませんでした。

先へ進みます。今度は道路左手に石造りの鳥居が見えてきました。
白沢宿本通り(左手に鳥居).jpg

鳥居の前まで来ました。鳥居脇に建つ標柱には「村社白髭神社」と刻されています。「村社」の文字はコンクリを埋め込んで有りますが、シッカリ確認出来ます。鳥居の先に参道が真っ直ぐ伸びて居ます。突き当たりに石段が見えます。
白髭神社参道入口.jpg
鳥居の左横の家の連子格子が昔の佇まいを見せています。屋号は「住吉屋」と掲示されています。
鳥居前の水車.jpg
手前の水路に設置された水車がゆっくりと回っています。

白髭神社に参拝をして行きたいと思います。神社境内まで結構な高さが有ります。
白髭神社参道階段.jpg白髭神社社殿.jpg

白沢宿付近の地形図を見ると、南から北に向かう街道筋に並行するように街並みの西側に南北に崖の地図記号が伸びています。白澤宿に来るとき坂を下って来ましたが、宿場の西側は台地に成っていて、神社の社殿はその台地の上に位置しているのでした。
地形図に記された標高の数値を探すと、白澤宿の信号機の有った丁字路の場所が、標高143メートル、台地の上に有る三角点の標高は159.1メートルと有り、其の標高差は16メートル程にもなっています。
その石段を登って、神社の境内へ。
社殿の前に来ると、予想外に広々としています。台地の縁に建てられていので、晴れれば東の白澤宿側は眼下に開け、遠く鬼怒川を望めそうです。
白髭神社境内からの展望.jpg

街道に戻り、先に進みます。参道入口から少し歩くと「宇都宮東警察署白沢警察官駐在所」、そして水路際に赤い郵便ポストが建っています。
駐在所の北隣りに立派な門柱の建つ家が有ります。家屋は庭の奥、庭の木に隠れて良く見えませんが、大きな屋根を持った建物が見えます。門柱の横に「本陣」と言う掲示や、ここ白澤宿から奥州街道の各宿場までの距離を表示した案内板が塀際に建てられています。
白沢宿本陣跡.jpg
ちなみに<江戸江 参拾里 四町 弐拾間(118.4km)>そして<白河宿江 拾八里 参拾四町 拾九間半(69.6km)>だそうです。

先に進みます。目の前に「関東八十八カ所霊場 第二十五番札所 真言宗智山派 明星院」と記した案内板が現れました。街道から左に折れます。その道路の奥突き当たりに寺院の建屋が見えます。
境内に入り、先ず参拝を済ませます。
明星院.jpg
本堂建屋の左側に御堂があります。御堂前方の枝垂桜は、だいぶ葉の緑が目立った来ています。

街道に戻ります。もう目の前には、宿場本通りの北の端です。通りの突き当たりは「井上清吉商店」で、清酒「澤姫」の醸造元と言う看板を掲げています。
白沢宿北の端、井上清吉商店.jpg

街道はこの突き当りから右に折れて行きます。左手の奥にお堂が見えます。薬師堂です。
薬師堂.jpg

薬師堂の右側に本陣だった「宇加地家」の立派な墓所が有ります。

「井上清吉商店」から右に折れる南東角に、小さな神社が祀られています。「經力稲荷大明神」の扁額は掲げられています。その左側の先に橋の欄干が見えます。
稲荷神社.jpg

橋を渡りましょう。この橋の名前は「九郷半橋」、そして下を流れる小川は「九郷半川」です。現在の橋は1883年に架け替えられています。
「九郷半川」は、白沢町の北隣「下ヶ橋町」にて「西鬼怒川」から取水した灌漑用水で、灌漑がおよぶところが、「下ヶ橋村」「上岡本村」「中岡本村」「下岡本村」「白沢村」「上平出村」「中平出村」「下平出村」「芦沼村」と、「石井村」の半郷を加えて、九ヵ村と半郷になるので九郷半川と称した。

橋の上から下流側を望むと、左岸の先に鳥居が見えます。チョッと寄って見たいと思います。
北野神社.jpg

その前に橋を渡った左橋詰に小さな道標らしき石柱が建てられています。
橋の袂に建つ馬頭観世音の石碑.jpg
道路側の面には<昭和二十九年二月初午 白沢甲部>と彫られています。その右側面にハッキリとは確認できませんが<馬頭観世音>らしき文字。

橋を渡った先で道路は三つの方向へ。メインの道路は左の方向へカーブしています。が、旧奥州街道は中央の真っ直ぐに北東方向に伸びる道路です。そしてもう一本は右に折れて川の左岸沿いに神社へと行く道です。今は右に折れる神社への道を選びます。
北野神社鳥居前.jpg

道路は神社の鳥居の前までです。鳥居を潜って境内の中へ神社の標柱が有りました。
「北野神社」と「須賀神社」の名前が彫られています。境内には「白沢彫刻屋台収納庫」と書かれた高さ4メートル程全面3枚のシャッターで閉じられて中は確認出来ませんが、来る途中に説明板が建てられていました。それによると、<白沢甲部彫刻屋台 明治初期に鹿沼から購入したと伝わる黒漆塗彩色彫刻屋台で、形式は宇都宮形のものです。(中略) 製作年代:天保4年(1833) 作者:彫師-富田宿 三代目磯部義兵衛(敬信)他 (後略)>と記されています。
前に、鹿沼市の彫刻屋台を見る機会が有りましたが見事な彫刻を施した屋台でした。この収納庫の中の屋台もその系統と言う事に成ります。
参考に鹿沼市彫刻屋台展示館に収納展示されてる久保町の彫刻屋台の写真を掲示します。
鹿沼久保町の屋台.jpg

機会が有れば白沢宿の、彫刻屋台も一度見てみたいと思いました。

脇を流れる九郷半川に沿って木道が設置されています。
白沢宿は西側は、高さ10メートル以上の崖で阻まれ、東側はこの川で阻まれる形になっています。
せっかくですから、川に沿って歩いて見たいと思います。
神社の先川の東側は「白沢公園」として整備がされていて、旧九郷半川と新たに整備された一直線に流れる九郷半川との間に花壇や芝生広場・雑木林・菖蒲園・水遊び場等を備えています。
天神橋.jpg

旧九郷半川沿いに設置された木道を進むと、季節柄岸辺には菜の花が群生 雑木林の木々は新緑が芽吹いています。
白沢公園.jpg
 
水車小屋も有りました。「グラウンドワーク活動センター」と言う管理棟で、トイレを拝借しました。
白沢公園水車小屋.jpg

更に旧九郷半川沿いの木道を歩いて行くと、「万年橋」と名付けられて橋の袂まで行く事と成りました。この「万年橋」の道路は、白沢宿の南側の端から南に向かう岡本街道から別れた道で、結果的に白沢宿の北の端から南の端まで戻った形となりました。
万年橋.jpg

川の右岸に須賀神社は祀られています。
須賀神社.jpg
そしてこちらの神社の前にも「白沢南彫刻屋台」と記された収納庫が有り。その前にも説明板が建っていました。<白沢南彫刻屋台 明治6年(1873)に鹿沼新町(現:麻芋町)から購入した黒漆塗彩色彫刻屋台で大型の鹿沼屋台の特徴を持っています。(後略)>
こうして観ると、白沢宿は北と南と二つの地域に分かれている様子が覗われます。
それを確認する資料を見つけました。
「栃木県の地名」(平凡社)の中に、「白沢宿」の解説が記されていて、抜粋させて貰うと<宿は南北に道路が走り、その両側に旅籠屋・茶店・商家が軒を並べ、宿の長さは南北四町半、道路中央に用水路が流れ、旅人はここで洗足して宿屋に入る。宿の中ほどの西方高台に鎮守白髭明神が祀られ、同社を境に北方が白沢村、南方が上岡本村である。>

寄り道してしまいましたが、街道歩きに戻ります。
宿場の北の端の分かれ道を真ん中の道路を進むことに、450メートル程来た所で、川を渡ります。橋の親柱に川の名称「西鬼怒川」と橋梁名「西鬼怒川橋」そして架橋年「昭和38年3月竣功」の表示を確認しました。
「西鬼怒川」についても、「栃木県の地名」では、<逆木用水ともいう。上河内村宮山田の高間木で鬼怒川から南に分流し、上小倉・今里・上田・芦沼を経て河内町に入り、下ヶ橋を南流し、東岡本で再び鬼怒川に合流する。延長約18.2キロ。鬼怒川の西部を流れるので、西鬼怒川の名が有る。西川ともいわれ、ここから元和六年(1620)御用川・九郷半川などが派生している。(後略)>

西鬼怒川橋から白沢宿方向を振返る.jpg
上の写真は橋を渡った所で、白沢宿方向を振り返って撮影したものです。写真奥の小高い台地の手前に白沢宿はひらけました。

西鬼怒川橋を渡って150メートル程進むと道路左側に広場が有り、「白沢河原」のバス停留所の看板が建ち、その奥に、「開田之碑」と大書された石碑に「白澤の一里塚址」と刻した石碑が建っています。
白沢河原の一里塚.jpg
この広場は関東自動車のバスの旋回所の様で、ここの「白沢河原」の停留所でバスは折り返して行く様です。ここから宇都宮駅西口までは、30分程です。

この辺りの事を「栃木の街道」には、<白沢宿の終わった所を右折する。今の道は小川(※九郷半川)を渡ってすぐ左折していくが(※河内郵便局前の交差点)、昔の奥州街道はまっすぐ田園の中を東へと進む。西鬼怒川を渡り曲がりくねる道を行くと、松の茂った堤防が南北に尾をひく。そこは鬼怒川の堤防である。白沢宿を出て27町余(※約2,946m)で、鬼怒川の川幅は30間(※約55m)、出水の時には8町程にもなり、「川留め」もしばしば見られ、道も流れによって変わったらしい。(後略)>と、記しています。
(※印部分は筆者が参考に追記したもの)

最後に、今回白沢宿を歩いて巡ると同時に、「奥州街道白澤宿七福神めぐり」も楽しみました。その七福神の像を写真に収めましたので紹介します。
七福神めぐり案内図.jpg寿老神像.jpg
(最初の地蔵堂の境内で見つけた案内図と寿老神像)
大黒天像.jpg布袋像.jpg
(白髭神社境内に立つ大黒天像)     (明星院境内に立つ布袋像)
毘沙門天像.jpg恵比須像.jpg
(薬師堂境内に立つ毘沙門天像)     (北野神社境内に立つ恵比寿像)
弁財天像.jpg福禄寿像.jpg
(須賀神社境内に立つ弁財天像)      (白沢一里塚址に立つ福禄寿像)


今回参考にした資料:
・「栃木の街道」栃木県文化協会発行
・「栃木県の地名」平凡社発行
・「栃木縣史 第十六巻 皇族編系図編」田代善吉著
・「白澤宿ウォーキングマップ」奥州街道白澤宿の会発行
旧奥羽街道白沢宿ウォーキングマップ.jpg



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橋巡り「聖人見返り橋」 [橋梁]

今回巡る橋は、「聖人見返り橋」です。
この橋が有るのは、お隣の茨城県に成ります。栃木市から車で行けば1時間程、茨城県笠間市稲田の田圃の中にその橋は有りました。
聖人見返り橋1.jpg
(茨城県笠間市稲田の田圃の水路に架かる、「聖人見返り橋」)

ここで言われる「聖人」とは、親鸞聖人の事で、橋の脇に2基の石碑が建てられています。
聖人見返り橋3.jpg聖人見返り橋2.jpg
(「聖人見返り橋」の脇に建つ、二基の石碑)

右側(橋の近く)に建つ、小さめの石碑は正面に「聖人みかえりはし」とだけ刻されています。
言うなれば、橋の案内碑、極端に言えば橋の親柱代わり的な役目を果たしている様、これが無ければ水路に架かる湾曲して太鼓橋状に削り出された一枚の石の橋桁の仔細が分からない。

左側の石碑は、何やら和歌の様なものが、刻まれています。
石碑中央には、少し大きな文字で「親鸞聖人みかえりはし」 
右側には「和かれしを さのみなげくな 法のとも」 と上の句が、
左側には下の句の 「またあう國の ありと思えは

そして、橋の袂から北東の方を望むと、深い杉木立の山裾に沿って瓦屋根を載せた、上半分が白壁で下側が黒色の板張りの塀が連なっています。浄土真宗別格本山の西念寺です。木立の合間に本堂の大屋根が見え隠れしています。
西念寺1.jpg

この「聖人見返り橋」は、数多い親鸞聖人の伝承のひとつでしょう。現在のこの橋もその伝承のひとつのモニュメントと言えます。実際に伝承の元となる橋が有ったとしても、恐らく場所も橋そのものの形も違っているでしょう。現在の場所を見ると周りの状態は土地改良が行われ、畦道も水路も直線的で、在りし日の姿を留めてはいません。でも今この場所に立って、田園風景の真ん中から西念寺の杉木立を望むと、文暦2年(1235)春、20年近くを過ごした草庵を後に、京に戻る親鸞の姿と、見送る人達の情景が浮かんでくるような思いが過ぎって来るものです。橋の袂に建てられた石碑の、親鸞聖人の作と伝える和歌の内容を、もう一度かみしめます。
<念仏の友よ 別れをそのように嘆く事は無いですよ  また何時の日か阿弥陀様の元で 会う事が出来るのだから>
その年の9月元号は嘉禎に改められた。
 
ここで西念寺にお参りして行きます。
西念寺の正面参道の入り口は、上の写真の右方向、国道50号線の直ぐ脇に成ります。
聖橋1.jpg
(西念寺参道入口に架けられた「聖橋」。写真後方に国道50号線に架かる歩道橋)

聖橋を渡ると、民家の間に参道が真っ直ぐ伸びています。奥の木立の中が西念寺です。)
聖橋2.jpg
(国道50号線側から、聖橋とその奥に伸びる参道を望む)

真っ直ぐと天の突くように伸びた、何本もの杉の大木の間に伸びる参道を進むと、趣のある茅葺屋根を備えた山門の前に出ます。
西念寺山門.jpg
(茅葺き屋根の山門が、落ち着いた雰囲気を醸し出しています。)

上層の軒下に山号の「稲田山」の扁額が掲げられています。左脇の石柱に「親鸞聖人教行信證御製作地」「浄土真宗別格本山」と大きく刻されています。
山門を潜ると、正面奥に大きな伽藍が迎えてきます。御本堂です。
西念寺本堂.jpg
(御本堂)

本堂内で参拝を済ませ、本堂右手の坂道を登り、親鸞聖人御頂骨堂や太子堂・鐘楼を巡り、戻っては山門入った時左手に見えた太鼓楼や県指定文化財の「お葉つきイチョウ」の大木などを見て回りました。
今度はこのイチョウの紅葉の時季に、また来ようと思いました。

鐘楼.jpg御頂骨堂.jpg
(鐘楼)(親鸞聖人御頂骨堂)
太子堂.jpg太鼓楼.jpg
(太子堂)(太鼓楼)
ハツキ銀杏.jpg
(お葉つきイチョウの大木)


今回参考にした資料:
・丹羽文雄著「親鸞」
・「日本の名著6 親鸞」 中央公論社発行

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岩舟町小野寺につたわる小野小町伝説 [石碑]

<はなのいろは うつりにけりな いたずらに わがみよにふる ながめせしまに>
小倉百人一首にもある、有名な小野小町の和歌ですね。平安時代の女流歌人で六歌仙のひとり。絶世の美人と言われ、美人の代名詞にもなっている。しかしこの小野小町は出生や没年など不明な所が多く、その為か全国各地に小野小町に関する伝説が有るのだそうです。「群書類従正編」には小野小町は小野篁の孫、出羽国司だった小野良実の娘と言われていますが、父とする良実についても、不明な点が多いと言われています。

そして、我が栃木市にも「小町の墓」などと言うものが有ります。そこは栃木市の西の端、岩舟町小野寺の里です。
小野小町の時代は、丁度慈覚大師円仁が活躍した時代に重なります。その円仁が少年時代修行をした、小野寺山大慈寺の境内、薬師堂の近くに現在、小野小町の碑が建てられています。
私が向かった日は、春の日差しも暖かく、境内には桜を始め、春の花が咲き誇っていました。
大慈寺薬師堂.jpg
(天平九年開山別格大慈寺。正面奥が薬師堂)
大慈寺境内.jpg
(春の花が咲く境内、六地蔵と鐘楼)
小町の碑.jpg
(薬師堂脇に建てられた「小町の碑」)

この「小町の碑」に関して、「小野の小町と大慈寺の薬師如来」を記した、佐野市在住の田口巳喜男さんの著書「東山道を往く」(昭和62年5月3日発行)を見つけましたので、一部抜粋させて頂きます。
<前略・・・小野小町は晩年一人旅立ち、この地で病にかかったため、大慈寺の薬師堂にこもって祈願を続けたところ、病気は全快した。その時、薬師如来の慈悲深い顔が悲しくなり、如来と同じ蓮の上へ身を投げたと云う。 小町の死を哀れんだ村人がその地にお墓を建て、供養したと云われている。今は同町の小野寺から葛生町へ通ずる道路の「西の沢の岩山」を中心に「身投げ堂」という地名が残っている。・・・後略>

この薬師堂が向く東方向150メートル先に、「小町墓」と刻した自然石が有ります。前記の「東山道を往く」に掲載されている写真を見ると、「小町の墓」と言われる石は、田圃の畔の草むらに埋もれるように転がっている唯の大きな石ころにしか見えません。
現在は写真の様に雨風をしのぐ為、東屋の中に祀られています。
小町の墓(全体).jpg
(綺麗に整備された「小町の墓」)

「小町墓」と刻された石の背後を良く見ると、何やら文字が刻まれている様に見えますが、不鮮明で判読する事は出来ません。
小町墓.jpg
(風雨から守るために、東屋状の建屋に収められた「小町の墓」)

昨年、京都市山科区小野の「随心院」を訪れました。京都市の地下鉄東西線は、その名の通り西の「太秦天神駅から、東の南禅寺近くの「蹴上駅」まで京都の街を東西に横断していますが、蹴上駅から東側終点「六地蔵駅へは方向を大きく南に変えていきます。山科・東野・椥辻と過ぎるとその名も「小野駅」とする、小野の里が有ります。小野駅を出れば随心院まで350メートル程で、歩いても5分程度で行くことが出来ます。
ここは小野小町が、仕えていた仁明天皇が嘉祥三年(西暦850年)に崩御された後、宮仕えを辞め暮らしたところと言われ、小町の屋敷跡には、「化粧の井戸(けわいのいど)」と言われる井戸が残っています。小町が朝夕この水で化粧をこらしたと伝えられています。又、随心院の裏手竹藪の中には、当時の貴公子たちから小野小町に寄せられた恋文を埋めたところと伝えられる「小町文塚」が有ります。
化粧の井戸.jpg小町文塚.jpg
(小野小町屋敷後に残る「化粧の井戸」と「小町文塚」)

尚、随心院の入口の前には、冒頭に記した小野小町の歌碑が建てられていました。
小野小町歌碑(随身院).jpg

今回参考にした資料は
・「東山道を往く」田口巳喜男著
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