SSブログ

栃木市周辺に残るホタルの話 [橋梁]

インターネットを見ていたら「ほたる出現予想2022」(ウェザーニュース)が目にとまりました。
<今年は、3月以降に平年より暖かい日が多く、西日本の太平洋側を中心にほたるが出現し始めています。
今後は、西日本や東日本では5月下旬までに飛び始め、5月中旬~6月中旬に出現のピークを迎える予想です。>そして、宮崎県西都市 2022年5月7日撮影のほたるの光が写った写真が掲載されていました。

私の子供の頃の記憶では、ホタルは夏の夜、部屋に吊った虫よけの蚊帳の中で、捕まえてきたホタルを放し、部屋を暗くして蚊帳の中を動くホタルの光を追って過ごした、7月末から8月の出来事だったように思い出されます。
家の脇を流れる清水川も、今ではコンクリート製の水路に変わってしまい。ホタルの生息環境では無くなっています。
1980年中の橋(清水川).jpg2017年中の橋(清水川).jpg
(1980年頃の中の橋下流部の清水川と2017年撮影の清水川)

巴波川のホタルの話になると、巴波川をズット下って行くと、小山市上泉に「蛍橋」という橋が架かっていますが、ここはその昔、ホタルの名所でした。栃木県文化協会が発行した「栃木の水路」と言う本の、4章に”母なるうづま”が記されていますが、その中に「うずまぼたる」と題する記事が載っています。冒頭部分を抜粋してみると、<うずま川に発生するほたるは大型の源氏ぼたると呼ばれるものである。その飛びかうさまは、まさにうずま川ならではの夏の夜の景観であった。時に、直径三~五尺、高さ一~二丈におよぶほたるばしら(螢柱)がたつ。ほたるが密集して飛びかい、闇に舞いあがるのである。渦を巻きながらつくるこのほたるばしらは、見事というより表現の法を知らない。(後略)>
尺貫法の単位をメートル法に置き換えると、直径0.9m~1.5m、高さ3m~6mとなります。こんなサイズのホタルの柱を見たら驚くしかないでしょう。
蛍橋(小山市上泉).jpg
(現在の蛍橋、昭和9年(1934)に架けられたものです。)

稲葉誠太郎さんが著わした「巴波川物語」第一巻の10に「蛍の川」と題する一文が記されています。
こちらも冒頭部分を紹介させて貰います。
<江戸時代後期の文献に巴波川の蛍について「蛍御用」という一文が残っている。その全文はこう記している。
巴波の蛍と云へば栃木名物の一つに数えらるる程ありて、その大いさの熒々たる火は他に類稀にして一歩市街を出てて川沿を下れば耿々たる万点の蛍はげに丸天の衆星の一時に流れ出したらむかと疑う計りなり、されば此事古くより領主の上聞に達しけむ、毎年五月節句のころ十日間に蛍御用と称し御役所より各町へ御切手にて御渡あるを例とす、依って各町内にては十五人乃至二十人の人夫を出し、各町三百疋位宛の見積にて可成一夜に狩り集め、是を町役人の手を経て御役所へ納めたりと云ふ。名におふ名物の蛍の事とて御用の外に町民各自の娯楽に供せられしなればその当時箒団扇を振翳し我一の功名せむと宙に舞ふ光につれて己も躍り狂ひつ追い廻る数多の蛍狩の模様こそ今に想ひやらるなれ。
このような有様であったから明治になっても巴波川べりの人たちは夏の宵に相さそって蛍火を楽しんでいたのである。(後略)>
文中に”毎年五月節句のころ”と有りますが、これは旧暦ですので新暦の端午の節句(5月5日)とは違い、新暦では6月頃に成りますから、時期的には蛍の出る季節と言う事です。

更に蛍の話題を記した書籍を探してみると、坂本冨士朗さんが著わした「うづま記」の”栃木市の今昔と未来物語”の中に見つけました。
<(前略) ところで、栃木景観の王者は、何んといっても巴波川の河畔であった。当時は、倭町の材木商である塚田屋敷を南端として、素朴な黒塀が北に向かって、どこまでもどこまでも果てしないように続き、それは泉町の天海橋のあたりで終わっていたが、その間千二、三百メートルはあったろうか。(中略) またこれは、万町白沢屋敷裏、巴波川岸のことであるが、六月下旬から七月の上旬にかけての夜更けになると、それまで草むらの中で時たま光っていたほたるの群の動きが活発になって、一匹また一匹と中天に舞い上り、やがて無数の星となって燦くのだった。今でも伝説的な話として念頭に残っているが、ほたる柱が中空に登る見事な光景を明治八年生まれの父親の口から耳にしたことがあったが、それは幕末のことらしい。(後略)>

ここで出てきた”万町白沢屋敷裏、巴波川岸”とはどの辺りに成るのか。明治後期市街地の商店の位置が分かる「栃木縣營業便覧」(明治40年10月1日、全国營業便覧発行)にて、栃木町の萬町を確認すると、”質屋白澤利平”の名前が載っていました。その場所は丁度現在の栃木市役所の場所で、その当時は大通りの西裏を平行に走る”蚤の市通り”は無く、それらの屋敷は大通りから裏手は巴波川岸まで有りました。
営業便覧抜粋.jpg

その条件から白沢屋敷の裏手は現在の市役所駐車場ビル辺りに比定されます。
坂本冨士朗さんが「うづま記」を発表した昭和51年頃の巴波川は生活排水等が流入し、相当汚染されていました。その頃の開運橋周辺の様子を写した写真が有ります。
1980年頃開運橋.jpg
(開運橋上流右岸より1980年撮影、その頃は駐車ビルでは無く、「うずまコーポ」と言う9階建ての高層アパートが建っていました。写真左手大きな屋根の建物は「栃木セントラル劇場(映画館)です。)

1978年4月開運橋.jpg
(開運橋下流左岸より1978年4月撮影、この頃の巴波川はゴミも多く流れていました。)

その後は、下水道の整備や、地元自治会等の年2回の一斉川掃除の活動等によって、現在巴波川は綺麗な川に戻っています。
2015年頃開運橋.jpg
(開運橋上流右岸より2018年6月撮影、開運橋は2000年に現在の橋に架け替えられています。うずまコーポも映画館も無くなり大きな駐車ビルの建物に変わっています。)

2014年9月開運橋.jpg
(開運橋下流左岸より、2014年9月撮影、巴波川はすっかり綺麗に復活しました。)

更に探していくと、お隣「壬生町」にも江戸時代に蛍の名所が有った事を記す資料が有りました。
壬生町が発行した、壬生町史 史料編 近世 付録の、「壬生領史略」の中に、「古川の螢」という記録が残されていました。
この「壬生領史略」は、嘉永三年(1850)に碧山季美なる人物によって編纂された壬生領の地誌書です。
「古川の螢」(抜粋)
<古川橋 表町地内 栃木道柳原渡船場へ通する処の橋をいふ
 螢は梅雨前より出 梅雨い三日目を出盛と云 橋の上流尤多 螢狩又は眺め等に出頗る愉快を尽したり・・・(後略)>

この「古川橋」はどこか、そして古川とは。
この古川橋を私はたまたま撮影をしていました。栃木から思川(小倉川)にかかる保橋を渡った先、栃木市から壬生町に入った所に小さな橋が、架けられていました。高欄親柱に「古川」の銘板が付いています。
古川橋右岸より.jpg古川橋左岸より.jpg

私は通勤時に毎日この橋を渡っていたのですが、バイパス道路が開通した後はすっかりご無沙汰でした。
現在の「古川橋」は、コンクリートブロックに白色のガードレールが設置されただけで、渡ってもそこに橋が有る事も気が付かない状態です。
現在の古川橋.jpg古川橋上流方向.jpg
(現在の古川橋と、橋から眺めた上流側の様子)

私が昨年の11月に撮影に行った時「古川」には水は無く、ただ草原が上流まで伸びていました。
ここが、かつて沢山の蛍が飛び交い、それを多くの壬生の街の人達が見物に来て、夏の宵を楽しんでいたなどとは、現在では想像も出来ません。

ここ数年、新型コロナの影響で多くのイベントが開催され無い状態が続いていました。現在はわずかづつ収束して行くような期待を持っています。
今年は以前の様に各地から、ホタル祭のニュースが届いてくるのか。
近い所で、栃木市都賀町大柿の逆川流域や、都賀町原宿の荒川流域は。
蛍が飛び交う時期は、もう目の前まで来ています。

今回参考にした資料:
・「栃木の水路」 栃木県文化協会発行
・「巴波川物語」 稲葉誠太郎著
・「うづま記」 坂本冨士朗著
・「栃木縣營業便覧」 全国營業便覧発行所
・「壬生領史略」 壬生町発行



nice!(0)  コメント(0) 

石橋を巡る旅。鹿児島市 [橋梁]

これまで、長崎や熊本の石橋を見て来ましたが、今回は鹿児島県の「石橋記念公園」を訪れました。
日本国内での石造りアーチ橋の歴史は浅く、江戸時代以降に成ります。その石橋の多くが九州7県に分布しています。その分布の状態を、手元に有る工学博士太田静六氏が著わした「眼鏡橋」という著書から引用させて貰いますと、<江戸期から明治末までに限定すると、一番多いのは熊本県で150橋前後、次は鹿児島県だが、その数は半分以下に減って70橋位。3番目は大分県の約50橋、4番目は長崎県の約35橋、次いで福岡県は25橋位、宮崎県は約6橋と愈々少なく、最低は佐賀県の約5橋である。>と、記されています。そして又、大正期以降を見ると、<大正から昭和にかけての橋が大変多いのが大分県である。大分県には大正から昭和にかけての橋が200橋近くも有るらしい。>と、こんな分布状況になっています。

それでは今回見る鹿児島県の石造りアーチ橋は、「甲突川五石橋」と称された石橋五つの内の三つです。
甲突川は薩摩藩の城下町・鹿児島市内を北から南へ縦断して錦江湾に流入する周辺第一の大河で、江戸時代の末期、弘化2年(1845)から嘉永2年(1849)に、「新上橋」(弘化2年)・「西田橋」(弘化3年)・「高麗橋」(弘化4年)・「武之橋」(嘉永元年)・「玉江橋」(嘉永2年)と、毎年架けられています。

しかし、平成5年(1993)8月6日、集中豪雨による洪水で五石橋の内「武之橋」と「新上橋」が流失。鹿児島市街地約1万2千戸が浸水する大災害が発生してしまいました。
かつて長崎の大洪水で多くの石橋を失ったのと同様です。
歴史的に貴重な石橋を保存しようと、流失を免れた3橋を移転保存する為、翌年の平成6年から同11年にかけて、石橋の調査解体、復元と慎重に進め、石橋3橋が一体となった公園として平成12年「石橋記念公園」として、稲荷川の河口近くに開園したものです。

最初は「西田橋」です。
西田橋(右岸下流側より).jpg
先の著書「眼鏡橋」には、
<甲突五橋のうち最も重要な橋で、出水の関所を通って城内に入る表玄関に当たる。参勤交替を始めとして、島津公が渡る橋も常に西田橋である。それ故、五橋のうち西田橋だけは堂々とした勾欄の親柱の全部に青銅の擬宝珠を付けて格式と威厳を誇る。>と、説明されています。
架橋された年は、弘化3年(1846)で公園に移築された三橋では一番古い橋です。
橋長は49.5m、幅員6.2m、4連アーチ橋で、建設費も「甲突川五石橋」で一番高く7,127両と言われています。
西田橋(右岸橋詰より).jpg
橋面敷石は上の写真に見える通り、「斜め敷き」で、整然と敷かれています。橋を渡った先、左岸橋詰近くに立派な御門が建っています。「西田橋御門」です。
西田橋左岸に建つ御門.jpg
現地に建てられた説明文には、<城下の武士や町人、領内を通過する旅人は、御門脇の番所で改めを受けて通行していました。御門は、明治5年(1872)の天皇行幸際に撮られた写真に写っていますが、その後西南戦争で焼失したと思われます。> 現在の門は、発掘調査で確認された橋との位置関係を保って、写真や遺構、市内の仙巌園門などを参考に復元的に整備したものだそうです。

二つ目の橋は、「高麗橋」です。高麗橋(右岸上流側より).jpg
下流から二番目の橋なので、橋長も一番下流側に架けられた「武之橋」(橋長:71.0m・流失)に次ぐ長さで、54.9m有ります。幅員は5.4mで「西田橋」同様、4連アーチ橋に成ります。
高麗橋は、弘化4年(1847)の創建以来、その時々の実情に合わせて、橋面勾配の改修や水道管の添架、昭和20年から30年頃は戦災や通行する自動車による破損に対する改修が行われていました。
移設後の現在の形状は、明治末から大正末期の姿に復元されました。
高麗橋(右岸橋詰より).jpg

最後、三つ目は「玉江橋」です。
玉江橋(右岸上流側より).jpg

甲突五石橋で最後に架けられた橋で、甲突川の一番上流に有りました。石橋の形状は前記の2橋と同じで四連アーチ橋ですが、城下町郊外で通行量も少ない為か、橋長は50.7mですが幅員は4.0mと狭く、建設費も他の橋と比較しても格段に安く、1,560両でした。
玉江橋(左岸橋詰より).jpg
橋面敷石の形状は「乱張り」と、造りもやや粗末に見えます。

公園内の三つの石橋を見た後、公園の北側に有る多賀山公園に登り、東の海上に聳える桜島を眺めましたが、その時は山頂部に雲がかかって良く見えませんでした。
桜島(多賀山公園より).jpg

高麗橋近くに「岩永三五郎之像」と表示された石造が建てられており、その脇に「岩永三五郎顕彰の由来」を刻した石碑が有りました。
松永三五郎像.jpg松永三五郎顕彰の由来.jpg

岩永三五郎は、前著「眼鏡橋」によると、
<岩永三五郎は肥後の石工だが、島津藩に招かれて城下町・鹿児島市内を貫流する甲突川に、いわゆる甲突五橋を架けたことから、熊本より寧ろ鹿児島で有名になった。この点、同じ城下町でも熊本では、鹿児島と違い江戸時代を通じて市街を流れる白川を始めとする主な河川には一つの石橋も架けられなかったので、名工・三五郎も反って地元の熊本市内で腕を振るうことが出来なかったのは面白い>と、記しています。

鹿児島市の公園に移設保存された石橋、四連アーチ橋の立派な石橋でした。

今回参考にした資料は
・「眼鏡橋 日本と西洋の古橋」 工学博士太田静六著 理工図書株式会社発行
・石橋公園内説明案内板等
nice!(0)  コメント(0) 

山形県鶴岡市で擬洋風建築など見て回る [建物]

先のゴールデンウィークに、久しぶりに遠出をして、山形県の鶴岡市まで出掛けました。
目的は、明治大正に建築された建物が多く残されていて、以前から行ってみたかったからです。
朝6時に家を出て、鶴岡市に到着した時は、昼まじかになっていました。
東北自動車道をひたすら北上し、福島県を縦断、宮城県の村田ジャンクションにて、山形自動車道に入り蔵王の北側を西に走る。蔵王山の北面は残雪が多く見られた。月山や湯殿山を通過して庄内平野に。
鶴岡駅前の観光案内所によって、鶴岡市内の観光マップや観光資料を貰って、早速かつて鶴ケ岡城の有った「鶴岡公園」近くの駐車場へ。
案内所で渡された「山形県鶴岡市観光パンフレット」を開くと、
<江戸時代から続く 城下町 今も殿が暮らすまち・・・酒井家庄内入部400年
江戸時代に酒井忠勝公が藩主として庄内に入部し、今も旧藩主家が住み続けている、国内でも珍しい地域です。令和4年は酒井家庄内入部400年の年となります。歴史情緒が今も残る城下町鶴岡を散歩してみましょう。>  と、街の紹介が出ています。

実は私が今回この町を訪れたかった、もうひとつの理由は、栃木県の第三代県令となった三島通庸(みちつね)への興味からになります。三島通庸が明治7年(1875)12月3日に初めて酒田県令となり、この山形の地に来ていますが、その翌年明治8年8月31日に県庁を酒田から鶴岡に移し、酒田県から鶴岡県に名称変更を行っています。
 
三島通庸が栃木県令として明治16年(1883)10月30日任命(この時は福島県令との兼務)された時にも、翌年明治17年2月23日には栃木県庁を、栃木町から宇都宮へ移転、名称も宇都宮県に変更しています。
県庁を栃木町から宇都宮に移転させる話は、明治6年(1873)に当時の宇都宮県を栃木県に合併した当時から出ていました。それからずっと移転賛成と反対とが中央政府に対して請願活動を繰り広げていたもので、三島通庸が県令に着任した事で、一気に宇都宮移転が決まりました。そして同時に名称も「宇都宮県」と改称されました。明治17年1月24日付で「宇都宮県令三島通庸代理 宇都宮県大書記官片山重範」の名前で布達を発しましたが、その5日後それを取り消して、もとの栃木県に戻されています。(栃木市史より)

さて、鶴岡市に話を戻します。地形図を見ると鶴岡公園の西側に酒井氏庭園の文字が確認出来ます。ここは旧庄内藩主酒井家より伝来の文化財および土地・建物等が寄付され、昭和25年(1950)に創立した、「致道博物館」があり、目的の擬洋風建築2棟がここに移築されています。

先ず最初の建物は、「旧鶴岡警察署庁舎」です。
旧鶴岡警察署庁舎.jpg

この建物は明治政府の威信を示す為建設したとされ、建てられたのは明治17年と有ります。
明治9年8月22日、それまでの鶴岡県・旧山形県・置賜県の三県を統一した新生山形県の初代県令となった、三島通庸が命じて、市内馬場町に建てられたものを、昭和32年ここに移築保存しています。

写真右側の茶褐色の門は「旧酒井家江戸屋敷 赤門」で、<田安徳川家の姫君が酒井家へ輿入れした際に建てられた門で、江戸中屋敷から移築し、御隠殿の門にしたと伝わる>と説明がされていました。

二つ目の擬洋風建築は、上記の警察署庁舎と同様、三島県令の命により建てられた「旧西田川郡役所」に成ります。
旧西田川郡役所.jpg

創建は明治14年(1881)、棟梁は鶴岡出身で西洋建築を学んだ高橋兼吉と石井竹次郎に成ります。
<バルコニーと塔屋・時計台が特徴で、玄関ポーチの柱脚台や吊階段など、要所にルネッサンス様式の模倣がみられます。>(説明板より抜粋)

この致道博物館の敷地内には以上の擬洋風建築の外、幕末に江戸中屋敷を一部移築したと伝わる藩主の隠居所「旧庄内藩主御隠殿」や、出羽三山の山麓・田麦俣の民家「旧渋谷家住宅(多層民家)」や、「美術天覧会場」・「重要有形民俗文化財収蔵庫」・「民具の蔵」等の建物と、酒井氏庭園を観覧する事が出来ます。
旧渋谷家住宅.jpg
(多層民家旧渋谷家住宅:山形県内でも有数の豪雪地帯で、庄内と内陸を結ぶ六十里越街道の要所・田麦俣(旧朝日村)から移築した民家)

ゆっくりとこれらの展示物を見ていきたいところですが、日帰りの旅。又、5時間以上掛けて栃木まで戻らければならないため、他に移動します。

次の建物は、「鶴岡公園」内、荘内神社の南東側に建つ「大寳館」を見学します。
大宝館.jpg

大宝館は、大正4年(1915)に大正天皇の即位を記念して創建されたもので、現在館内には鶴岡ゆかりの人物資料展示施設として、一般公開されています。

次は荘内神社の正面鳥居の前の道を、東の方向に少し歩いた道路左手に現れる「鶴岡カトリック教会の天主堂に向かいます。
鶴岡カトリック教会天主堂.jpg

道路際に立つ案内板によると、<この天主堂はフランス人パピノ神父の設計といわれ、明治36年鶴岡市三日町に在住した大工相馬富太郎が棟梁となって完成した建物でヨーロッパ中世紀頃に建築されたロマネスク様式をもつ教会…(後略)>と記されています。
天主堂の中に入ると、荘厳な雰囲気に包まれます、礼拝集会に参加する人達が座るために現在折り畳みのパイプ椅子が並んでいますが、床には畳が敷かれています。かつては正座をして礼拝をしたと思われます。

国内にはこうした明治時代に建てられたかつての郡役所の建物が多く残されています。私もこれまでこの山形県や福島県にて何カ所か見て来ていますので、参考に写真を掲載します。
旧南会津郡役所.jpg旧伊達郡役所.jpg
(旧南会津郡役所:明治18年8月落成)   (旧伊達郡役所:明治16年桑折町)
旧西村山郡役所.jpg旧西村山郡会議事堂.jpg
(旧西村山郡役所:明治11年12月竣工) (旧西村山郡会議事堂:明治19年8月竣工)

私の住む栃木市にも、明治初期に栃木県庁が置かれた事で、「栃木県庁」明治9年12月上棟。「栃木区裁判所」明治5年設置。「時計台があった栃木師範学校」や「栃木模範女学校」。「栃木県医学校」明治15年焼失廃校。「下都賀郡役所」明治16年設置。等々多くの建物が建設されたが、残念ながら全て現存していません。ただ栃木県最初の写真館「片岡写真館」の創業者片岡如松(じょしょう)さんが、その当時の栃木の街の様子を撮影してくれていたので、現在私達も写真でその当時の様子を窺い知ることが出来るのは、大変有り難い事です。
現在も営業を続けている片岡写真館の新スタジオビルは、明治9年に建てられた初代の栃木警察署をモチーフに、建てられたと聞いています。先ほどの明治初期からの多くの栃木町の写真を収録した写真集「片岡寫眞館」の中にも、その初代警察署の写真も掲載されていますので、参考に抜粋し載せさせて頂きます。
片岡写真館(栃木市).jpg栃木警察署.jpg

山形県内には、まだ多くの魅力的な建築物が残されています。又、機会が有ったら実際にこの目で見てみたいです。

今回参考にした資料:
・「栃木市史 史料編近現代Ⅰ」 栃木市発行
・「土木県令 三島通庸」 丸山光太郎著 栃木県出版文化協会発行
・「写真集 片岡寫眞館 明治・大正・昭和140年の記憶」 片岡惟光編 新樹社発行

nice!(0)  コメント(0)