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止水栓のカエル

この時期になると、毎年我家のあちらこちらに、アマガエルが姿を見せます。
玄関門扉や塀の隙間にじっと身を潜める者、玄関の壁をよじ登る者。
門扉の隙間に隠れるカエル.jpg門扉のカエル.jpg
玄関の壁を登るカエル.jpg
庭に止めて置く車のいたるところに、カエルが身を潜めている。そんな車で外出すると、突然フロントガラスの向こうにカエルが現れ、飛ばされまえと必死でガラスにしがみついている。仕方がないので道路脇に車を止めて逃がしてあげる。
こんなことも有る。夜、寝床に入ろうとすると布団の上にゴミかと、拾おうとすると突然飛び跳ねて逃げる。カエルと分かり、追いかけて捕まえ、窓から外に逃がしてやることも。

昨年は、赤ん坊カエルが、ぴょんぴょん沢山跳ね回っていたのだが、今年は少ない気がする。
それでも今月の初めごろからか、家の脇に有る止水栓辺りに一匹のカエルが住み着いた。
止水栓1.jpg止水栓とカエル1.jpg
私が毎朝、濡縁や物干し竿を掃除するため、止水栓の上に置いておく雑巾を取ると、突然カエルが跳び降りて行く。時には逃げ遅れて、雑巾共々私の手の中へ、こちらがビックリしてしまう。
雑巾を取られると、止水栓によじ登ったり、家の壁に飛び移ったり。
止水栓とカエル2.jpg止水栓とカエル3.jpg
止水栓とカエル4.jpg

今朝はさらにビックリ。雑巾を取ると、カエルが二匹飛び出してきたからです。
ここで二匹居るのを見るのは初めて、止水栓の周りで二匹のカエルが遊んでいるのを、眺めているとついつい見入ってしまいます。
カエルが2匹.jpgカエルが2匹2.jpg
カエルのジャンプ力の凄い事。垂直の壁を苦も無く登って行く其の足の吸盤の凄い事。自分の体の20倍以上も有る様な高い場所から飛び降りても、平然としている。人間にはとても真似が出来ない。カエルって凄いやつなんだと、改めて思い知らされる。

暫らく後で、カエルが何処へ行ったか気になって、そっと止水栓の上に置いてある雑巾の下を覗いてみると、雑巾に隠れるように一匹のカエルの姿を確認出来ました。
雑巾に隠れるカエル.jpg
こんな風にして、私が知らない所で、多くのカエルが家の周りに潜んでいるのかもしれない。
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琵琶塚古墳が造られた当時の姿を見せる。

今年の3月の末に、小山市にある琵琶塚古墳を訪れました。そして驚きました。
古墳の景色が以前の雰囲気から、全く変わっていたからです。
先ずその時の写真を紹介いたします。
2022年3月23日琵琶塚古墳.jpg
撮影日は、2022年3月23日です。
何をそのように驚くことが有るのか、当然この写真だけでは分かりませんので、3年前に訪れた時に、撮影した写真を紹介します。
2019年5月16日琵琶塚古墳.jpg
撮影日は、2019年5月16日です。
古墳の上や周辺に高く伸びた木立が、全て伐採撤去されて、残されたものは後円墳部の頂上に祀られている石の祠だけ、ポツンと建っている風景です。

琵琶塚古墳は、栃木県南部、小山市飯塚地区に6世紀前葉に築かれた、栃木県最大級の前方後円墳です。思川と姿川との合流点に臨む飯塚地区には、飯塚古墳群として100基以上の古墳が、南北1.5km、東西0.4kmの範囲に分布している地域が有りますが、その東側に摩利支天塚古墳と共に、ふたつ大きな前方後円墳の姿を見せています。
琵琶塚古墳案内板.jpg
上の写真は、琵琶塚古墳の南西部に建つ古墳の説明板です。
それによると、この琵琶塚古墳は大正15年2月24日に国史跡に指定されています。
  墳 形 前方後円墳  全長約123m
  前方部 幅約70m  高さ約9m
  後円部 直径約75m 高さ約11m  
墳丘は、自然地形の地ぶくれを利用して基壇を設け、さらに2段の土盛をすることによって構築されています。また、墳丘のまわりには幅およそ20mの壮大な周湟が存在しており、調査の結果、東側と南側では二重にめぐらされていることがわかりました。

平成25年から29年にかけて史跡整備のための発掘調査が実施されました。
2016年2月18日琵琶塚古墳.jpg
発掘作業風景1.jpg発掘作業風景2.jpg
2016年2月18日撮影 発掘作業時の様子。

その結果、前方部が2段・後円部が3段に築造され、少なくとも墳丘上に二重の埴輪列を有すると共に、周堤上にも埴輪列が設けられていたことが分かりました。特に、前方部側の周堤跡付近から多くの形象埴輪が出土しており、周堤上に形象埴輪群が設けられていた可能性も指摘されています。

現在、この琵琶塚古墳の東側に立派な「古墳資料館」が建っています。
古墳資料館外観.jpg
2019年5月16日琵琶塚古墳の上より、「国史跡 摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館」を写す。
古墳資料館展示室.jpg
「国史跡 摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館」内、展示室の様子。

この琵琶塚古墳と古墳資料館の間を通過する、小山市道221号線は春には見事な桜並木となり、古墳の周りは菜の花の黄色い絨毯が広がります。
2019年4月2日琵琶塚古墳と枝垂れ桜.jpg
2019年4月2日撮影 この時はまだ杉木立は残っていました。
今年は桜のシーズンを逃してしまったので、来年は是非又来てみたいです。

今回参考にした資料:
・「国史跡 摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館」入場時頂いたパンフレット。
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巴波川に架かる「吾妻橋」が新しく変わっていました。 [栃木市の河川と橋]

今年の4月、久しぶりに、大平町横堀の春日神社に出かけました。ここの参道の桜並木が綺麗なので見に行ったのです。その時神社の東側を流れる巴波川に架かる「吾妻橋」が、新しい橋に架け替えられているのに、驚きました。
吾妻橋遠望.jpg
上の写真は、巴波川に架かる「寿橋」から上流側を写したもので、写真奥に小さく写る、白い橋が「吾妻橋」。その右側に写る集落は、大平町北武井になります。(2022年4月9日撮影)
吾妻橋の銘板.jpg吾妻橋東橋詰より1.jpg
橋桁に設置された銘板には、「2021年3月」の日付が見えます。新しい橋は昨年完成していたようです。新しい橋には親柱は有りません。橋名や河川名のプレートは、スッキリとした高欄の四隅に設置されています。
吾妻橋東橋詰より.jpg
橋の向こう側に見える森が、春日神社の鎮守の森、そこから左方向に桜の並木が続いています。
ここからは、架け替え前の、旧吾妻橋の写真を紹介します。
吾妻橋東橋詰より2.jpg
橋の東詰から撮影。親柱の橋名プレートに「吾妻橋」の文字が読み取れます。奥に春日神社の参道の桜と鎮守の森が見えます。(2016年4月10日撮影)

吾妻橋西橋詰より.jpg
上の旧吾妻橋の写真は、橋西詰から撮影したもの、対岸は大平町北武井です。
橋の長さは38.6m、幅員は3.8mと狭かったです。竣工したのは昭和14年(1939)1月でした。その前はおそらく木の橋が架けられていたのでしょう。
この場所(横堀と北武井とを渡すルート)に橋が架けられたのは、巴波川の橋では比較的早くから架橋されています。明治19年発行の迅速測圖にも、ここに橋記号が描かれています。
この場所より上流側には、旧古河道に架かる「開明橋」まで、橋記号は確認できません。
吾妻橋東橋詰より3.jpg
上の旧吾妻橋の写真は、東橋詰から撮影したもので、背景に太平の山並みが見えます。手前、春日神社の赤い鳥居の前に、祭礼の幟旗が見えています。

旧吾妻橋遠望.jpg
上の写真は旧吾妻橋を上流側から遠望したものです。昔の橋は径間を長く取れなかったため、橋脚が沢山必要になりました。それに対し新しく架けられた「吾妻橋」は、橋脚は川の中ほどに一ヶ所だけです。写真左手後方に写る、茶褐色の桁を持つ橋は「寿橋」です。寿橋は昭和48年(1973)3月に架橋されています。

最後に、その時一緒に撮影した春日神社参道の桜並木の写真を紹介します。
(2016年4月6日撮影)
春日神社参道入口.jpg
春日神社桜の参道.jpg

今回参考にした資料:
明治前期測量2万分1フランス式色彩地図、(財)日本地図センター発行
「栃木町」「榎本村」「中里村・伯仲村」
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栃木市内で見つけた橋供養塔 [石碑]

栃木市内に架かる橋を見て回ると、よく橋の近くに石碑が建てられているのを見ます。
その多くは、橋を架けた記念としての「竣工記念碑」ですが、変わった所で橋を供養する碑が確認出来ます。
私がこれまで確認した「橋供養塔」は、栃木市内では3基、小山市中里の巴波川の堤に1基です。

最初に見つけたのは、永野川に架かる橋を見て回った時に、大平町西水代と榎本とを渡す旧「千部橋」の右岸橋詰に建つ「橋供養塔」です。
2013年5月25日千部橋(旧).jpg
(前方に架かる橋が、永野川の「千部橋」、その手前道路左手に笠石を載せた石塔が建っています。)

千部橋供養塔.jpg
(供養塔の隣に小さな石の祠も祀られています。後方に写る橋は上流側に架かる新しい「千部橋」で、かつてはこの道路は国道50号線でしたが、南側に新たに50号バイパスが開通した現在は、主要地方道岩舟小山線となっています)

供養塔を少し詳しく見ていきます。
1993年8月旧千部橋西橋詰供養塔.jpg供養塔西側側面拡大.jpg
(供養塔の道路側に面した部分には「千部橋供養」と刻され、向かって左面中央部分には「前方橋・・・」の文字が読みとれ、その右横に「享保十・・・・」、左側には「・十一月三・」と何とか読みとれますが、その下側は風化されてハッキリ読めません。

供養塔北側裏面.jpg供養塔北側裏面部分拡大.jpg
(石塔背面にも一面に、文字が刻まれています。周辺の村々の名がビッシリ並んでいます。
並木村・中村・真弓村・小林村・初田村・上泉村・下泉村・小袋村・押切村・新井村・古橋村・駒場村・曲嶋村等が確認出来ました。)

以上の断片情報から、この供養塔が建てられたのは「享保十年」ですから、西暦1725年と言う事で約300年前に建立されたもので、恐らくその時に旧「千部橋」も竣工したものと思われます。

次に見つけた「供養塔」は、巴波川の下流、小山市中里に架かる「雷電橋」の左岸下流側堤に建つ「土橋供養塔」に成ります。
土橋供養塔(小山市中里).jpg
土橋供養塔正面(小山市中里).jpg土橋供養塔碑文(小山市中里).jpg
この石碑は風化も無く文字もハッキリと読み取ることが出来ましたので、その内容を書き写しました。

建立年は「萬延元庚申年」と有りますから、西暦1860年となります。前の「千部橋供養」の塔から135年後となります。
下部に有る「椙木寄進連名」の「椙」は「スギ」の木の国字。又、寄進された金額、「一分」とか「二分」とかが幕末の価値でどの程度なのか、興味が有りますが算出が難しそうです。単純には4分が一両ですが、時代によって物価が変わりますから、価値がどの程度かは簡単では有りません。

その隣に建つ小さ目の石塔もチョッチ気に成ります。石碑中央に刻まれた文字は「奉□□庚申供養塔」。日付けは「元文五庚申□ 八月吉日」と有り、西暦1740年です。こちらの石塔は「中里村」と刻されています。この二つの供養塔、共に庚申年に建てられています。こちらも橋の架橋に関連が有るのか疑問が残ります。「庚申」の上部の二文字がハッキリしないからです。

橋供養塔のあとの二つは、藤岡町史を見ていて、その存在を知ったものです。掲載部分を抜粋紹介します。
<笹良橋供養碑、三鴨地区の幡張に、願成寺という真言宗の寺がある。ただし、現在は墓所のみが残されていて、寺務は大字甲の浄光院で行っている。(中略) 墓所の入口近くに「永代橋供養」と刻まれた石塔がある。碑面に、「寛政七乙卯年四月朔日 願主贈法印権大僧都廻□(文字欠け)橋免畑三反歩 幡張村 大谷田村」とある。寛政七年(1775)四月一日に、法印廻□が中心となって橋が造られ、維持管理は幡張・大谷田両村の畑、三反歩(30a)の収益金で賄われたことを示している。碑の両側面には、三五の町村と、村役人と思われる人たちの名が刻まれている。(後略)

この資料を基に現地を訪れ、所在を確認しました。
5万分の1地形図「古河」平成11年2月1日発行を見ると、東北自動車道の佐野藤岡ICの南側に「西幡張」の地名が出ている。そしてその西側には佐野市の「越名町」があるが、そこに向かって東から西に向かって天狗の鼻の様な舌状台地が出ていますが、この舌状台地までが栃木市藤岡町で、かつてはこの舌状台地の北西部に「越名沼」と言う大きな沼が有りました。そして沼から流れ出た水の流れは、この舌状台地の西から南に回り込んだ後は、ふたたび南流して、その南方で西から流れてきた渡良瀬川の左岸に落ちています。
この越名沼と渡良瀬川との間に、佐野と古河とを結ぶ街道が通っていますが、その街道筋に架けられたのが「笹良橋」に成ります。
現在、越名沼は水田地帯に変わりましたが、そこを北から南に流れる川が現在の「三杉川」に成り、かつての「笹良橋」辺りに現在の「笹良橋」が架かっています。
そして、現在西幡張の舌状台地の西側を流れる三杉川に架かる橋の名称は、かつて台地の上に有った寺の名前を採って、「願成寺橋」と名付けられました。
三杉川と願成寺橋.jpg
上の写真は、三杉川で前方に架かる橋が「願成寺橋」、その左側の小丘が西幡張の願成寺跡に成ります。かつて手前には「越名沼」が広がっていて、舌状台地は元は、中世の城郭「小南城」があったと、藤岡町史に載っております。
願成寺橋.jpg
上の写真は「願成寺橋」の南東側から撮影しました。左側に三杉川、右側の小丘上に墓所が見えます。ここに目的の「永久橋供養」の石塔が建っています。
永代橋供養塔(藤岡町).jpg
小丘の上に登ってくると、墓所の入口に六地蔵、その右手桜の老木でしょうか、その手前に建てられているのが「永代橋供養」の石塔です。
近くで観察します。正面の程度は良く、刻まれた碑文もハッキリと確認出来ますので、その内容を書き写しました。

永代橋供養塔正面(藤岡町).jpg永代橋供養塔碑文(藤岡町).jpg
内容は前記の藤岡町史に記載された通りなので、省略いたします。

最後の供養塔も、藤岡町史にその所在が出てきます。
<なお、大字赤麻の中妻に、もう一基「橋供養塔」が建立されている。安永九年(1780)に、天下泰平・国土安穏を願って石川弥吉が建てている。ただし、対象とした「石橋三箇処」の詳細は不明である。>と。

この情報を基に供養塔に建つ場所を見つけるのに、難渋しました。
2万5千分の1の地形図「下野藤岡」平成27年5月1日発行を見ると、藤岡町赤麻の周辺を探すと、「中妻」と言う地名が有るので、その「中妻」と記された区画の南側に神社の地図記号「鳥居」が有るので、先ずそこを見に行きました。「赤麻八幡宮」です。石碑は神社仏閣・公民館等に建てられるケースが多いからですが、残念ながら空振り。次に「中妻」と思しきエリアーの道路を歩いて探しましたが、見つかりません。だいたい「中妻」の範囲がハッキリ分かっていないのです。
歩いていても、人影が有りません。やっと見つけた老人に尋ねても、「知らない・分からない」と言う返事です。
「中妻」と思しき場所をくまなく歩いて道路脇等を探しましたが結局見つかりません。
歩いていても「中妻」周辺には川も水路らしき場所も無いのです。
そこで、藤岡町歴史民俗資料館へ。職員の方に尋ねると、資料の中に所在地の住所が判明、ゼンリン住宅地図から、私が歩いて探した場所より更に東側、地形図に有る「東の向」に向かう道路脇に、石仏と見間違いそうな供養塔を見付ける事が出来ました。
石橋三箇處供養塔.jpg
この前の道路を、車で通過していましたが、石塀の陰に入ってしまい、見過ごしていたようです。
石橋三箇處供養塔2.jpg石橋三箇處供養塔3.jpg
供養塔自体が、上部に石仏が乗った形の為、歩いて近くに寄って、台座部分に刻まれた文字を読んで初めて、目的の供養塔で有ることが、確認出来ました。
石橋三箇處供養塔(碑文).jpg
上は石塔に刻まれた、正面・側面の文字の内容です。書き写しました。

内容は「藤岡町史」に書かれていたものですから省略します。が、まだなぞは多く残されたままです。石橋とはどのようなもので、それも三箇処も、何所に架けられていたのか、地元の歴史研究者が「詳細不明」と言われているので、よそ者の私に分かる筈が有りません。今回の調査はここまでです。

今回参考にした資料:
・「藤岡町史 資料編 古代・中世」 藤岡町発行
・「藤岡町史 資料編 近現代」 藤岡町発行
・地形図5万分の1「古河」明治42年12月28日 大日本帝國陸地測量部発行
・地形図5万分の1「古河」昭和34年6月30日 地理調査所発行
・地形図5万分の1「古河」平成11年2月1日 国土地理院発行
・地形図2万5千分の1「下野藤岡」平成27年5月1日 国土地理院発行
・明治前期測量 2万分1 フランス式彩色地図 「栃木縣下野國下都賀郡赤麻及び下生井村」


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