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川原田町粟野街道の分岐に建つ常夜燈について [石碑]

栃木市街地から北に伸びる県道37号(栃木粟野線)を北に向かって走ると、ヤオハン川原田店の先で信号の有る交差点が現れます。交差する道路は市道114号(吹上合戦場線)に成ります。川原田町のこの周辺一帯はその昔「しめじが原」と呼ばれた所で、湧水が多く見られました。
交差点の北東部には、巴波川の源流の一つと成る、白地沼や二股沼が有り、西方向には大淵沼や笹淵そして天神淵などの湧水が分布しています。
交差点を通過して更に500メートル程進んだ所で、道路はY字路に成ります。分岐の左方向が県道37号線、右方向は細い脇道で、通行するほとんどの車は左方向に進みます。右の細い道は普通車が1台やっと通れる幅しか有りません。以前、私も間違って進入してヒヤヒヤした事が有ります。
この細い右の道路も、れっきとした県道に成ります。県道177号(上久我都賀栃木線)です。
この分岐点の中央に1基の石の常夜燈が建てられています。
粟野街道分岐1.jpg
(川原田町の分岐、左は鹿沼市旧粟野町へ、右は鹿沼市上久我へ)
この様に街道の分岐に建てられた常夜燈は道標の役目をすることが多いです。群馬県高崎市倉賀野の旧中山道と旧日光例幣使街道との分岐点にも同じような常夜燈がたっています。長野方面から碓氷峠を越えて倉賀野宿でこの常夜燈前まで来ると、台石の上「竿石」の正面に「左 日光道」、右側面に「右 中山道」、左側面には「常夜燈」と刻されて、旅人に道を教えています。
倉賀野常夜燈1.jpg倉賀野常夜燈2.jpg
(旧倉賀野宿の旧中山道よ旧日光例幣使街道の分岐に建つ常夜燈)

一方、ここ川原田町の分岐に建つ常夜燈を観察すると、風化が激しく刻されている文字がハッキリと判別できません。
常夜燈1.jpg常夜燈2.jpg
(川原田町の粟野街道よ上久我街道の分岐に建つ常夜燈)

まず正面を見ると、台石には大きく「中子氏」(もちろん古いものですから横書きは右から左に読みます)、その上側「竿石」には上から下に文字が刻されていますが、判読出来ません。
台石正面.jpg
(常夜燈正面台石に刻された文字は「氏子中」)

台石の左側面には「左 尾鑿山道」と読めました。
台石左側面.jpg
(台石左側面の文字、「左 尾鑿山道」と有る)

台石の右側面に刻されている文字は縦書きに「齊藤内」その左隣りに「手代」その左隣りは「〇達」、その下に「中」(〇の部分は削られていて、文字が欠落して不明です)
左半分の部分にはこれも削れてはっきりしませんが、恐らく「赤」その下に「津」そしてその左隣りに「坪中」と刻されています。こちらは、「赤津坪中」と読むのでしょう。
台石右側面.jpg
(台石の右側面、齊藤の名前などが刻まれている)

台石背面にも文字が刻されていますが、残念ながら判読困難です。この常夜燈を建てた年代や寄付した人達の名前が刻されていたのか、名前と思われる字が僅かに読む事が出来ます。
台石背面.jpg
(常夜燈背面の台石の文字は判読が難しい)

この常夜燈でハッキリと示しているのは、「尾鑿山道」は左の道ですよ、と教えている事です。
私は「尾鑿山」については何も知らなかったので、さっそく調べてみると、鹿沼市の西方山岳部に、「石裂山(おざくさん)」と言う標高879.5メートルの山が有ります。国土地理院発行の2万5千分の1地形図「古峰原」を確認すると「石裂山」(※”おざく”とルビが付いています。)の隣りに(尾鑿山)と記されています。そしてこの「石裂山」の南麓に「尾鑿」と言う字名が有ります。また近くに「賀蘇山神社」の名前が記されています。
この「賀蘇山神社」(がそやまじんじゃ)こそ、川原田町に建つ常夜燈が案内する所だったのです。

確かに川原田町分岐の常夜燈の所から、左の道は「粟野街道」と呼ばれて、鹿沼市の旧粟野町につながっていますが、更に目的の「賀蘇山神社」には、その粟野の町の口粟野交差点から更に北に向かう県道246号(草久粟野線)を14km程進むことになります。そのルートを通る事でやがて、道路の右側に「下野國尾鑿山」と刻した石柱が建つ場所に到着するのです。
賀蘇神社1.jpg
(下野國尾鑿山の石柱が建つ、賀蘇山神社入口)
栃木市川原田町の常夜燈の所から測ると、30kmも離れたこの二つの地点には、どのような関係が有ったのか、興味が湧いて来ましたので、「栃木市史」の中に関連する記事が有るか確認すると、民族編に「尾鑿山講」という信仰の記事が見つかりました。
≪江戸時代から作神として、尾鑿山信仰が盛んであり、各村々に講が有り、尾鑿山からの配札が行われていた。講中が太太神楽を奉納する日は9月11日以降それぞれ日割りが定められていたが、一番初めに奉納するのが、上川原田村(川原田町)の講中の人々であり、上川原田村講中は特別待遇で、「川原田座敷」という上段の間で接待された。(後略)≫
なぜこのような特別な関係と成ったかは、更に時間を遡る事に成ります。
「栃木県神社誌」の「賀蘇山神社(がそやまじんじゃ)」の項に、≪正応2年(1289)4月1日、朝臣小野道綱が都賀郡上河原田村(栃木市)に落居し、当社を参詣して奥社および参道を改修した。以来毎年旧暦4月1日に、小野氏子孫が参詣登山をする習わしが有る。≫と、記されています。こうして、尾鑿山と上川原田村との特別な関係が築かれて来た事が、この常夜燈建立にも繋がったものと考えられます。
常夜燈の年代は安政4年(1857)、台石に刻された「齊藤家中」とは、尾鑿山神社の齊藤壱岐守の家中のことと市史に記されていました。

先日、初めてこの賀蘇山神社(尾鑿山)へ出向いて参拝をして来ました。鹿沼市の西の山懐は丁度紅葉が色鮮やかに出迎えてくれました。途中道路際に「熊注意」の警告板が多く見られ、山に入るのは躊躇されます。賀蘇山神社への県道246号は、粟野川に沿って伸びています。神社の駐車場が道路の右側に開けその北側は「石裂山(尾鑿山)」が立ちふさがります。道路の左手は粟野川が音を発てて流れています。
石段を登り境内に入り参拝を済ませます。
賀蘇神社2.jpg
(賀蘇山神社境内、背後の山が「石裂山(尾鑿山)」と思われます。)
賀蘇神社3.jpg賀蘇神社4.jpg
(賀蘇山神社の神額、見事な彫刻が施されています)(境内の紅葉が綺麗でした)
今は道路も整備され、車で簡単に来ることが出来ますが、500年以上前は一日掛かりいやもっと大変な行程であったと想像されます。

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